信仰心
そこにないものを書くことはできない。
あるものを書くだけ。
この物質的世界とは別に、おそらく何か独立した存在の世界がある。
独立というのは、干渉を受けないという意味ではなく、従属していないという意味である。
もし僕らの精神が、この脳や心臓など、肉体に宿っているのならば、僕らの精神的世界はすべてこの物質的世界に依存しており、この物質的世界の条件を満たしていなければ維持することすらできないを意味する。反対に、その精神的世界が壊れても、物質的世界は何も変わらずそこに在り続ける。そういう関係に成り立っている場合、物質的世界ではない側は、独立した世界とはいえない。
独立しているというのは、関係していないということではない。関係を持っており、互いに影響を与え合っている。片方が壊れた時、もう片方も壊れるというのが、互いに成り立っている場合、それは独立しているかどうかは難しいが、少なくとも対等な関係であると言える。
そういう世界を想定することは、ふつう二元論と呼ばれる。
物質的世界のほかに、それと対等かそれ以上に重要な領域が存在しているはずなのだ。
もしそれがなければ、この世界はあまりに悲しい。悲しいという意味すら無意味になってしまう。
人間というちっぽけな生き物の中にしか意味というものが存在しないのならば。
僕はもはや真理に至ることに興味を持たない。それを知ることは、僕の役割ではないから。
何が正しいとか、何が在るのかとか、存在の領域すら、僕の興味の外側だ。それらは僕らに確定させられるものではなく、ただ考えて、信じるか否かを決定するだけのことだから。
蓋然性の世界だけで生きることはできなかった。だから信じることにした。
僕は、この世界に、人間の手を、物質の手を超えた何かがあることを信じることにした。それが何であるかは重要でない。どのような性質を持つかも重要ではない。何かしらが絶対にあるということを、僕は信じることにした。まったくなにもない、ということはありえない、と信じることにした。
生きるには希望が必要で。この現実社会だけに希望を抱くのはあまりに難しくて、あまりに悲しいことだから。自分ではなく、他者の幸福を望むとしても、そのために自分ができることはあまりに少なく、不安定で、裏目になってしまうことが多いから。
僕はこの現実社会に何も求めていないから。してほしくないことだけはたくさんあって、そこから免れることだけが、僕の望みだから。
でもその望みだけでは、生きることは難しいから。
この世界の外側に、希望を見出さないといけない。何か、価値のあるもの、美しいもの、意味のあるものが、この物質的世界の利己性を超えたところにあるはずだと、僕は信じることにしたのだ。
根拠なんてない。根拠なんて、ない方がいい。根拠があれば、その根拠が否定されたとき、その信念が揺らぐから。根拠なく、信じると決めたのならば、それはもともと不安定かもしれないけれど、それ以上に不安定になることもないだろうから。
神も仏も信じていないけれど、それと並ぶくらいのものが、この世界にはあるはずなのだ。そしてそれは、きっと僕ら人間と何かしら関係を持っている。
そうでなければ、この世界はあまりに悲しい。意味に乏しい。