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やる気

 やる気が出ないなら無理に出さなくてよい。

 頭がよくて優しい人がそう言った。

 そのうち元気が出るから、ゆっくり休めばいい。

 何も考えていない優しい人がそう言った。

 なんでもいいから働いた方がいい。

 厳しくも優しい人がそう言った。

 お前みたいなやつは死んだほうがましだ。

 そう言った人はいなかったけれど、僕は僕にそう言いたくなった。


 優しさに縊り殺されかけているけれど、優しくないものが僕を生かすわけではないことを知っている。

 生きることはよいことだとみな前提にしている。

 賢いことはよいことであるということも。


 生きるということはどういうことか考えているせいで何も動けない状態は、死んだように生きているということに含まれるのだろうか。

 生きているように生きられないから、仕方なく生きることについて考え続けている人間は、死んだように生きているということに含まれるのだろうか。

 生きるとか死ぬとか、ろくに考えていないのに安易に口に出すような人間が、死んだように生きていると言われるような人間でないことだけは知っている。

 彼らこそが、ただ思いついただけの強そうな言葉を大声でいうような人間こそが、まさにその人の人生を生きている人間なのだろうと思う。

 彼らにはエネルギーがあり、思いついたらそれを実行し、良い結果であろうとも悪い結果であろうとも自分自身を肯定する。あるいは思い切って否定してみる。肯定か否定か悩み、いったん保留するということは決してしない。しかし、どちらに決めても、次の日にはもう忘れている。そういう人間こそが、この社会においては「生きている」人間なのだろう。


 僕は死んだように生きる人間に属しているように思う。

 現代において、考えることは行動することに含まれていない。

 書くことも、言うことも。それ自体が金を生み出さないから。生活の糧にならないから。誰の役にも立たないから。

 意味がない、価値がないと人は言う。でも僕は、自分の生に何かきっと意味があるはずだ、価値があるはずだと思っている。

 その生で何をするか、ということに価値が宿っているのではなく、この生そのものに価値が宿っているはずだ、と信じている。そうでなくては、現世で価値があるとされる一切の移り行くものが、この世界の価値のすべてになってしまうし、もしそうであるならば、僕らの努力は、僕らの快楽に変換されるしかなくなってしまう。そんな悲しい世界を、どうやって肯定できるだろうか?

 僕らはこの世界を肯定的に捉えるためには、ある種の根拠のない希望を抱く必要がある。それは、信仰心とも呼ばれている。

 きっと、この世界に含まれる以上の価値がこの世界にあるはずだ。僕らはその価値のために生きており、それは、僕らの生命の根幹に結びついている。僕らはその価値を、よりよいものにしなくてはならない。そうするだけの権利と義務を僕らは有している。

 そのように考えて生きられたら、どれだけ気持ちがよいか。僕はそう信じたいと思っている。


 僕は僕がそうしたいと思うことをして生きていたい。楽しいこと、嬉しいこと、面白いことを追い求めて生きていたい。

 苦しいこと、悲しいこと、どうしようもないことも、忘れないで、知ったまま、生きていたい。

 自分の欲望を優先して、決めなくていいことを決めて、何か重要なものを損なってしまうようなことを、しないで生きていたい。

 定められた正しさの枠を超えて、自分の心を自由にしたまま生きていたい。

 何が正しいのか、考え続けて生きていたい。その結果として、何もできなかったとしても、その何もできなかったということを、自分自身の誇りにして生きていたい。

 決めないこと。何もしないこと。役に立たないこと。そういうことを、ひとつの価値だと思って生きていたい。それこそが自分自身だと思って生きていたい。


 正しいこと。行動すること。何かの役に立つこと。皆が好きなそういうこととは距離を置いて生きていたい。そういうことができない人間だとしても、不安を感じずに生きていたい。

 他の人の邪魔をせずに生きていたい。あまりものだけをもらって生きていたい。死ぬしかない状況になれば、素直に死ねる人間でありたい。泣きわめいたり、誰かのせいにしたり、誰かを身代わりにするようなことはせずに、静かに、幸せなまま、死や痛みや理不尽を受け入れられる人間でありたい。


 右の頬を打たれたときに、道徳など意識する必要もなく、ごくごく自然に、当然のこととして、もう片方の頬を差し出す人間でありたい。

 何かを強引に奪われたとしても、それをプレゼントしたかのように思える人間でありたい。

 自分のものとされるすべてのものを、自分のものではなく、この世界から借りているだけのもののように思える人間でありたい。自分の才能や功績、人間関係でさえも、そのように思って、手放すべき時にすぐに手放せる人間でありたい。


 そういう人間であることに、喜べる人間でありたい。そういう人間であることに、一切の対価を必要とせず、それどころか、そういう人間でいられることに対する感謝として、自らが対価を支払えるような人間でありたい。


 正しくも、間違ってもいない人間でありたい。ただ自分が、人間であるということだけで満足できる人間でありたい。

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