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狂気

 一切の「行為」を憎んでいる哲学者がいた。私はそいつが書いた本を読んで「本を書く」ということは、その「行為」に含まれているのではないかと疑問に思った。

 おそらくその哲学者は、人間がどうあがいても行為というものから逃れられないという事実にうんざりしていたのだろう。考えることさえ、行為である。

 だが行為には程度がある。行為とは、主体的な活動のことで、すなわち、閉ざされた自己が、開かれた「世界」に対して何か影響を与えることである。その哲学者はおそらく、その世界を、穏やかに見ていたかったのだろう。できるかぎり現状変更を行わないこと。ものを書くという行為も、行為の中では小さなものなのかもしれない。


 下品であるということがどういうことなのかわからない人間が多い時代だと思う。貞潔ということの意味すら、まともに理解されない。

 人を意味もなく不快にしたり、刺激しないこと。人の営みとして当たり前のことであっても、できるかぎりそれを隠すこと。また、実際に縁遠くあるように試みること。

 知らないふりをすること。わからないことにしてしまうこと。

 手出ししないこと。関わり合わないこと。


 気持ちが悪い。


 関係のない話を持ち出さないでほしい。

 それとこれとは断絶されていてほしい。

 忘れていたい。踊っているときに、その体のことを思い出させないでほしい。


 自らのことを風だと思い込むことを許さない時代。人間がその存在を超越して飛翔することを拒絶し、否定し、あらゆるものに値段をつける時代。比較する時代。

 多様性という言葉の中に、よいものもわるいものもどうでもいいものもすべて放り投げて、一緒くたにする時代。


 よき趣味の失われた時代。


 僕の悲しみが決して溶けない吹雪となり、この世界を凍り付かせてしまえばいい。


 死ぬことによってこの世界から逃げ出すくらいなら、この世界を憎んで、いつか壊れることを願いながら唾を吐いて生きるほうがいいのだろうか。

 善人として自殺するのと、悪人として、もっと多くの人間を死なせながら生きるのと、どちらの方が人間として正しいのだろうか。もし後者の方が正しいのなら、そんな世界で生きることに、いったいどれだけの意味と価値があるのだろうか。


 悪とは何か。自らの自然性に屈することである。自らの楽しさや利益を、他者のそれより常に優先することである。一切の配慮に欠けていることであり、理性を持たないことである。

 純粋で、美しい、善意を含んだ悪でありたかった。僕の悪は衰えて、死にかけている。もう二度と、少年時代のような、快活さや、残酷さ、軽薄さは取り戻せないだろう。


 そういう生き方をしている人を羨ましく思うと同時に、軽蔑し、かわいそうだとも思う。そうであるがゆえに、必ず苦しみ、年齢と共にその悪も衰える。何を言っても、過去の自分の行動が自分を縛り付け、定義する。悪としてふるまう力を失っても、犯してきた自らの罪と責任に向き合うことを強要される。

 年老いて、弱る前に死ぬことが、悪人にとってもっとも幸福なことだろうと思う。だから、悪人は皆早死にするのがいい。誰も損はしない。いや、正義感という名の復讐心が強い人間は、悪人が早死にすると気分が悪くなるかもしれない。彼らはいつも、悪い人間がもっと苦しめばいいと思っているから。悪人が苦しまずに、笑ったまま死ぬことを、彼らは決して受け入れないであろうから。


 生きることの意味は、見出すものでも、考えるものでもない。創造されるものである。だが、人間に創造されたものは、本質的にすべて無価値であり、言い換えれば、くだらなくて、犬も食わないようなものである。たとえば「ゲルマン民族がもっとも優秀な民族であることを証明すること」なんて、あまりにもばかばかしくて、笑うことさえできない。別にオリンピックでメダルをとることも、芸能人として成功することも、そういった馬鹿げた「意味」とそう大して違いはない。もちろん「誰かを助けること」も「世界に美しいものを残すこと」も。全部全部、その人間の個性という名の、神がふざけているときにふと思いついたことのような、偶然の産物なのだ。


 欲望のままに生きるほうが、生き物としてよっぽど理にかなっている。人間という生き物に限ったとしても、そうでないものの方が少数だ。

 それでも、私はどうしても、生きることに意味を必要とする。何らかの創造なしに、この生に満足も納得もできない。いや、そもそも生そのものに、本来は満足も納得も必要なものでなく、どうでもいいことなのだが、そのどうでもいいことが、自らの命や生活よりも重いものに思えてならないのだ。

 そういう狂気に陥っている、と言ってもいい。もしあなたが私と同じなら、私たち、と言うことを許してほしい。私たちは、生物として、かなり狂っているのだ。狂い続けているのだ。

 生きることそれ自体よりも、生きることの目的や内容、生み出す価値の方が重要だと思ってしまう。

 利益だとか、体験だとか、そんなことよりももっと大切なことがこの世界にはあると思い込んでいる。そういった、根拠のない思い付きが頭から離れず、強迫観念のようにいつも私たちの頭を支配している。

 何度も言うが、私たちは狂っているのだ。

 そう。理性というのは、狂気の一形式に過ぎないのだ。

 動物たちは、どこからどうみても、正気のように見える。生物として、あるべき姿、精神性を保っているように思える。精神を病んでいない犯罪者たちも同様である。彼らは動物である。

 また、何も考えておらず、すぐ迷信を信じ込み、周りに流される善良な一般市民も、同様である。彼らは狂っていない。

 そう。狂っていて、間違っているのは私たちである。いつも現実を見つめていて、何かを予測したり分析したりすれば、だいたい正しい結論を置くことのできる私たちは、その能力ゆえに、生物として狂っているのである。

 合理的に考えられるということは、生物として奇妙なことである。それは生存に不利であるがゆえに、ほぼすべての生物は合理的に考える能力を有していないのだ。人間も同様で、この種のほとんどは非合理的にものを考える。

 私たちは合理的に考えて、私たちが合理的であることの合理的理由は、おそらく、そうであることが、非合理的な彼らを生かすことにあると考える。

 たとえばアリが、オスとメスで役割が異なるように、私たちは、合理的に考えられる種類と、そうでない種類とが生まれるように作られており、合理的に考えられるものは、見せかけの支配体制を敷いたり、局所的に人々を導いたりするが、ほぼ必ず最終的には破滅し、幸せになどなれない。そうでない大多数の人々は、必死になってその日その日を生きる。楽しく、ときに苦しく。幸せになれる場合もあれば、どうしようもなく破滅することもある。

 人間というのはおそらく、そういう種族なのだ。


 だから私たちが合理的に考えて、もっとも納得しやすい「生きる意味」というのは、「自分以外の誰かのために生きる」ということになる。

 自分以外の他者は、基本的にみな、私たちよりものを考えられないが、その分生存できる見込みの高い者たちであるから。私たちはもともと犠牲になることを前提として作られている、使い捨ての働きバチのようなものなのだから。


 誰かの役に立ったと感じた時、私たちは、他では得られないような、奇妙な快感を覚える。そのために生きているかのような感覚に襲われるのだ。

 この快楽の程度が、もしかすると、役割の程度なのかもしれない。

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