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究極的な目的

 人はいつでも「一番」を求めようとする。何もかもに究極的な属性を与えて、それを信じようとする。

 永遠の愛とか。不朽の名作とか。

 そういうのは単によくあるとってつけた褒め言葉というわけではなくて、そうであってほしいという願望がいつも含まれている。


 神や仏を信じたがるのだってそうだ。学術に神秘的な価値を見出すのもそうだ。

 同時に、虚無主義的に生きるのだって、そうなのだ。正しさを愛するのも、誤りや迷妄を憎むのも、結局はそれに究極的な価値を与えているがゆえなのだ。


 目の前にある、一番ではない微妙なもののために生きることが、僕たちの「リアル」であり、実のところそれ以外の人生はない。全ての人間は中間物として生きる。中間物に囲まれて、中間物を愛し、中間物を憎みながら。そのくせ、考えるときはいつも、究極的で抽象的なものを探す。

 誰からも愛されていないと感じる人は、自分にとってこの世でもっとも心地よい相手を夢想する。その人間にとって、愛してもらえるかもしれない相手は、それよりもっと不完全で微妙な、現実に存在する人間だというのに。

 自分が何者でもないと感じる人間は、自分にとってもっとも価値があると思われる仕事を求める。実際は、下から数えた方が早いような仕事にしかつけないというのに。

 幸運が味方して、理想に比較的近い具体的な対象を見つけたとしても、近いというのはそれはそれで不幸をもたらす。微妙な違いに、いちいち不快感を覚えるからだ。もし理想なんてもたなければ、対象のちょっとした欠点なんてものはどうでもいいこととしてすぐに忘れられるだろうに。


 最善策とか、最適解とか、現実的に生きているつもりの人間ほど、そういう非現実に惹かれている。いつも僕らは次善策や妥協案とともに生きているし、それで十分なはずなのに。


 最善と平均の中間で生きるのが、人間にとって一番精神的に安定し、満足や納得とともに生きられる。だから本来、利己的に生きるなら、自分が平均を下回っているのなら、そこだけを目指すべきなのだ。そしてそこに辿り着いたなら、そこに安住する覚悟を決めればいいはずなのだ。


 それなのに人はなぜ「もっと」と意欲を燃やしてしまうのだろうか。僕らは、そこで、自分がそれ以上向上することが難しいことを悟ると、絶望に近いような感情を抱いてしまうのだろうか。

 自分の人生がこの先下り坂にあるという事実を受け入れるのが難しいのはなぜなのだろうか。人はなぜ、どこまでも分の悪い賭けに魅力を感じてしまうのだろうか。


 我々は習慣の生き物で、悪い行いを繰り返せば破滅するが、悪い行いは自覚するだけで直るものではない。だからそういう人がいることには疑問を持つ必要はない。

 しかし、なぜそれまでずっと善い行いをしていた人間が、一念発起してリスクのあることをしようとするのかというのはなかなか難しい問いだ。習慣という他の何よりももっとも強い本能に抗ってでも、人は究極的なものを得ようとする。

 決して思い通りに手に入ることはないというのに。


 なぜ人はものを過剰に手放そうとするのか。結局はその究極的なものに惹かれて、それ以外の中間物を軽蔑し、邪魔ものとして扱うからなのではないか。


 僕らはただ、その場その場だけで生きていていい。刹那主義という言葉は奇妙なもので、刹那主義というのはそれ自体が究極的な属性から離れたものであるのにも関わらず、その言葉が発せられたとき、人が思い浮かべるのは「究極的な刹那主義」なのだ。快楽主義で、後先を考えず、薬や性、酒におぼれる生き方を、人は刹那主義だと考える。

 定義的に考えれば、宿題が出ているので、仕方なく宿題をやることこそが刹那主義なのだ。宿題をやらなかったらどうなるかとか、宿題をやったら何が得られるかとか、そんなことを考えるのは、宿題をやるうえで何の意味もない。やらないといけないと決まっているのだから、やる。それが、大多数の人間にとっての刹那主義であり、人は多くの時間において、刹那的に生きているのだし、それは健康的なことなのだ。

 言い換えれば刹那主義とは、余計なことを考えず習慣的な行動を行う、ということをさす。家事をすることも、仕事をすることも、基本は刹那的であるし、刹那的である方がいい。将来や過去について考え、何をするにしても正当な理由がないと動き出せないような状態で、仕事や家事をするのは、非合理的であり、病的なのだ。


 人生のベースに刹那主義を置く。「この時間を大切にする」などといった、自己啓発じみた標語も必要ない。ただ自然体に、いつもやっていることを、少しでも楽しくできるように工夫する。目標はいつも、できるかぎり小さく。目的はいつも、ちょっとだけいいなと思うものを。

 ちょっと拾ってちょっと捨てる。

 「全部」とか「何も」とか、そんなのはばかばかしい。中庸とかいう、最適な中間もいらない。

 ごく自然に偏る。僕らは偏った生き物なのだから、そのままでもいいし、反対側に行ってもいい。


 すべてを求めることや、何も求めないことは、人には難しいのに、そうしようとする人は多い。

 僕らは必要な分量もわからないのに、必要な分だけ求めることが正しいのだと思い込んでいる。

 少しだけ求め続ける。そういう生き方の方が自然で合理的だというのに、なぜそれに、いいようもない嫌悪を覚えてしまうのだろうか。


 生きることを苦しくさせている要因はたくさんあるが、気づけば究極的なものを求めてしまうというのも、そのひとつであろう。

 自然体で生きていたとしても、僕らはごくごく自然に、究極的なものに惹かれてしまうのだから、どうしようもない。諦めて、苦しみや痛み、矛盾を受け入れてしまう方が楽なように思う。

 どうせうまくいかない。でも別に、うまくいかなくたって構わないさ。

 僕の人生は、平均と最悪の中間に漂う。運が良ければ平均と最高の間で昼寝でもしよう。じつのところ、そのふたつの差はあまり大きくない。ただそれを大きいものとして考えてしまうところに、人間という生き物の欠陥があるのかもしれない。


 穏やかに生きられたらいいけれど、穏やかに生きられなくてもそれはそれでいいんだ。

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