八瀬童子の優雅な一日
前世名、八瀬童子。現世名アルフォンス・リヒターの朝は早い。まだ濃紺の空に星が見える頃に寝台の中で腕をうんと伸ばし、大きな欠伸を1つ落としてから目を開ける。
むくりと体を起こすと部屋の空気の冷たさにぶるりと震えてから、前世とは違う亜麻色の髪を掻き上げる。長い睫毛の奥に煌めくような金色と緑色の混じったような色合いの瞳が見える。部屋の空気はピンと張りつめていて、吐き出す息は白い。
「なぁ~ご」
暖かいベッドの中に入ってきた冷たい空気に抗議の声を上げてアルフォンスの足元の方へと潜って行くのは大柄な猫だ。
「おはよう星熊。」
猫に構わずベッドから足を出す。床へと下ろされた素足は白く若い男特有の筋肉質なものであったが、何処か艶かしい。薄手の絹で出来た寝衣は肌に馴染む。もう一度、体がぶるりと震えたのは分厚いカーテンの向こうに銀世界が広がっているからだろうか。少しワクワクする気持ちを押さえながら部屋の片隅にある洗面器の冷水で顔を洗う。主である鬼姫の住まうロイヒシュタイン公爵家の屋敷は冬の間は屋敷全体が暖かくなるような魔術を施しているらしいが、アルフォンスは冬の空気感を好んでおりこの魔術を切っている。
寒い部屋の中、薄着で暖かい寝具に包まれて寝るのが好きなのだ。先程抗議の声を上げた猫、星熊もアルフォンスとその辺の好みが合い、冬の間は、いつも一緒に寝ていた。
彼が先ず向かうのは調理場である。さすがにまだ誰も起きていない。勝手口に近い厨房の釜に火を点す。魔石と言う便利な石は薪よりも火力を一定に保ってくれる。
「さて。」
アルフォンスが指を鳴らすと仕事着の上に暖かい、前世ではお馴染みのどてらを纏い、首もとにマフラー、手にはモコモコの少しばかり邪魔な手袋が装着された。
もう一度、指を鳴らすと彼の体が掻き消えた。
すとんと、足を付けた大地は思った通り三センチほどの雪で覆われていた。
小さく雪音をさせて公爵家の裏手にある森の中を進む。
この世界に飛ばされた際にゴブリンの巣を転移させて以降人間は近付かない場所となった。人間の憩いのために整備された森もよいが公爵家裏の森はそうではない。それが良いとばかりにアルフォンスは進む。目的の場所まで転移すればいいのに、この行為が姫のためなら、少しばかり苦労をしたいのだ。
以前、一時期ロイエンタール辺境伯領でダンジョン探検をしたときは鬼の血が騒いだが、自分はエミリアやクロノスと違い、脳筋ではないので荒事は“たま”にで良いと考えている。
森の奥に真冬でも凍らない小さな泉がある。透明度が高く、この世界で言う所の精霊が宿っているらしい。彼らは最初、異質な気を纏った鬼姫達を警戒したが、ゴブリンによって汚された大地と空気、そして木々を浄化してくれた。鬼で有りながら、神仏に近い力を持っている姫の御業にはいつも見とれてしまうなぁと、仲間の眷族達と頷きあった。姫曰く、『この森をゴブリンで汚したのは、私達だから、お詫びの印よ。』とのことだった。
大地と泉の境に僅かな氷がはっているが、暗闇の中でもキラキラとした光が満ちているようだとアルフォンスはおもった。清浄な気配を纏う湧き水を水差しに汲む。
この湧き水で姫のために朝の紅茶を入れるのがアルフォンスの楽しみなのだ。
日によって少しばかり味の変わる湧き水に合う茶葉を選ぶのも楽しみの1つだ。
きっと我が主は、美味しいと言ってくれるに違いない。そう思いながら泉を後にした。