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二人だけの静かな夜

「これは圧巻ですね」


 アンリ様は部屋に入ると、壁一面の書棚と整然と並ぶ恋愛小説に驚き目を見張っている。

 自分の部屋は自由に改築していいとお義父様がおっしゃってくれたため、ドレイク家の自室と同じ様にしてしまったが、呆れてしまっただろうか? カーティスお兄様にも嫁入り道具として持っていく時は、ほどほどにしなさいとたしなめられていたからな。厳選に厳選して減らしたが結局、部屋の片側一面が書棚になってしまった。

 ドレイク家に残してきた本は、カーティスお兄様に大切に管理するよう無理矢理約束させた。


「すみません。勝手に本ばかりこんなに持ち込んでしまって……」

「リネット嬢っ!」


 アンリ様の大きな声に思わずのけ反ってしまう。

 振り返ったアンリ様の大きな瞳はいつも以上に潤んで輝いていた。心なしか興奮からか、肩が小刻みに震えていた。

 えっ? 泣いてないよね?


「み、見させていただいてもいいですか!?」

「え、ええ……」


 私が了承の返事をするやいなや、一目散に書棚へと手をのばし、嬉々として小説を読み始めた。懐かしい、これは読んだことがないなどブツブツと呟きながら次々と本を手に取っていく。


 呆気にとられているとマーサにソファへ座るように促される。テーブルには紅茶やパウンドケーキが並べられていた。


「驚きましたでしょう?」


 ティーカップに紅茶を注ぎ、困った子供を見るようにアンリ様を見つめている。


「ええ、恋愛小説がお好きなようね」

「あれで本人は隠しているようなんですけどね。子供の頃にからかわれてから、ずっと我慢しているんです。恋愛小説を読むことを」

「そうだったの」

「リネット様が沢山の恋愛小説を持ってこられた時は嬉しかったんですよ。お坊っちゃまと趣味が合う方が嫁いできてくださって。お互いに知っていただきたくて、強引にお部屋に案内してしまいました。ご無礼お許しください」


 マーサが深く頭を下げてくれる。


「いいのよ。少しアンリ様のことが知れてよかったわ」


 マーサと夢中になって本を読んでいるアンリ様を見て、微笑み合う。


「お坊っちゃまは、ああなってしまうと我を忘れてしまうので、リネット様はお茶とケーキを楽しんでください」

「ええ、そうさせてもらうわ」


 マーサが部屋を辞したのも気づかないまま、アンリ様は恋愛小説に夢中で没頭していた。

 そんな彼をかわいいと思ってしまったのは誰にも内緒だ。


 窓から差し込む午後の光がいくらか薄れ、夕暮れの気配が混じり始めた頃、肩を優しく揺らされる。ぼんやり瞼を持ち上げると、申し訳なさそうに眉を下げるアンリ様がいた。

 どうやら、眠ってしまっていたようだ。


「ハッ! やだ、申し訳ありません」

「いや、俺も小説に夢中になってしまっていたから……、座っても?」

「ど、どうぞ」


 アンリ様は数冊の小説を持ち、私の前のソファに腰を下ろす。

 部屋に沈黙が落ち、妙に気まずくなり覚めた紅茶を一口飲んだ。

 二人で過ごすのは、あの夜以来で緊張してしまう。いつもマーサが間を持たせてくれていたのだ。

 そう! マーサだ!


「あっ、マーサに言って、お茶を煎れ直してもらいましょうか?」 

「いや、いいよ」


 立ち上がろうとする私を気をつかってなのか、アンリ様に断られ退路を断たれてしまう。そして沈黙…

 こ、これは苦しすぎる。

 なにか話題をと必死に探していると、アンリ様の持つ本が目に入る。


「き……気に入った本はありましたか?」


 アンリ様は恥ずかしそうに、視線を反らして頬を染める。


「……恥ずかしいな。夢中になってしまって…、この三冊を借りてもいいですか?」

「どうぞ、私は何度も読んでますから、あっ、」


 そういえばとカーティスお兄様が持ってきてくれた『騎士物語』をアンリ様の前に差し出す。


「良かったら、これもどうぞ」

「えっ、いいのですか?」

「ええ、私はいつでも読めるので」


 『騎士物語』を見てあんなに少年のように目を輝かせていたのだ。嬉しそうに恋愛小説を夢中で読んでいるアンリ様を見て、だいぶ絆されてしまっていた。


 アンリ様は大事そうに、本を手に取り、パラリと頁をめくり目を通すと、みるみる表情が曇っていく。


「どうしました?」


 私が表情を伺っていると困ったように眉が下がる。


「この小説のアールステット国の言語が難しくて、読むのは辞書がいりそうです。日常会話程度なら大丈夫なのですが、勉強が足りませんね。翻訳されるまで待つことにします」


 アンリ様は苦笑いして残念そうに本を閉じる。確かに『騎士物語』は文学的な表現も多い小説のため、日常会話程度では物語を理解するのは難しいかもしれない。

 そしてアールステット国と我が国は友好的とは言いがたいため、一般に翻訳されて出回るのはいつになるのかわからない。この本を手に入れることができたのは元商人のドレイク家の伝手を使ってできたことだった。

 それをアンリ様もわかっているのだろう。犬の耳と尻尾がショボンと垂れる幻覚が見えてしまうほど悲しそうにしており、私は咄嗟に自分でも予想していなかった言葉を発してしまう。

 魔性とはこの子のことを言うのだろう。この人になにかしてあげたいと思ってしまった。


「……、私が翻訳しましょうか?」

「えっ!」


 本へと恨めしそうなじっとりした目線を送っていたアンリ様の顔が持ち上がり、自分へ期待に満ちた眼差しが向けられる。


「あ、その、書き出すのは無理なので朗読とかでどうでしょうか? そうですね、週に数日、1時間程度でいいのなら大丈夫です。私も勉強になりますから……」

「あ、あ、ありがとうございます。充分です。よろしくお願いします」


 嬉しさに揺れるような満面の笑みに自分も自然と笑顔になるのがわかった。


「じゃあ、早速……」


 朗読会を開始しようとしたところで、部屋をノックされる。


「リネット様。そろそろ夕食の時間になりますのでご準備を」


 もう、そんな時間だったのか。

 マーサが部屋に入ってくるとアンリ様がいることに驚いている。


「お坊っちゃま! まだいらしたんですか!?」

「別にマーサがいうところの夫婦なんだからいいだろう。しかし、もうそんな時間か。少し夢中になってしまったな」 

「まあまあ、そうですね。夫婦ですからね」

「ふんっ!」


 アンリ様からの夫婦という言葉に嬉しそうに微笑むマーサに見つめられ恥ずかしくなる。売り言葉に買い言葉なのだろうと思うが、なんともいたたまれなかった。

 マーサの前で朗読会の日程を決めるのもはばかられ、曖昧なままその場はお開きとなった。



「ふう……、」


 アンリ様の泥酔事件以降、一人で使わせてもらっている夫婦の寝室にため息が響く。

 今日は色々あり、少し疲れていた。でも嫌な疲れではない、むしろ結婚して初めて充実した一日だった。

 アンリ様の意外な趣味を知ることもできたし、マーサの目も誤魔化すことができただろう。しかし、どうしても夫婦で寝室が別なのは明らかであるし、契約結婚なのだからと割りきって話し合うべきだとわかっているのだが、どうきりだすべきかと悩んでいると控えめにノックの音が響く。

 それはアンリ様の自室からのノックだった。


「は、はい! どうぞ!」


 慌ててガウンを羽織りベッドから出て、立ち上がると静かに扉が開かれる。少し間を置いて、アンリ様が気恥ずかしそうに顔を出す。


「すみません。夜分遅く寝ていましたか?」

「い、いえ、大丈夫です。なにかありましたか?」

「あ、その朗読の件を決めようと思いまして。待ちきれなくて……」


 彼は決まり悪そうな顔をする。そんなに楽しみにしていたのかと驚くと同時に可笑しくなり吹き出してしまう。本人は不満げに口を尖らせていたが、その表情も子供のようにあどけなくて、肩の力が抜け変な緊張感もなくなっていた。


「…、今からどうですか?」

「えっ? ええ!」


 アンリ様のうろたえぶりに恥ずかしくなり、慌てて訂正する。


「いえ、その違うんです。いや、違わないんですけど。そのマーサが心配しているようなんです。寝所が別々なことを」

「ああ……」


 思い当たる節があるのか、妙に府に落ちた表情をアンリ様が見せる。


「俺も父さんにうまくいっているのかと聞かれました」


 やはり家族に心配されているようだった。これでは家族どころか、屋敷で働く者達にすら、契約結婚がばれてしまうかもしれない。下働き達の噂の伝搬能力は馬鹿にできない。家が大きくなればなるほど外部の出入りも多いものだ。それが貴族のなかで噂にでもなったら面倒なのが正直なところだ。アンリ様も今、社交界で面白おかしく噂されるのは、困るだろう。


「そこで提案なんですが、週に何日かここで夜を過ごしてもらえないでしょうか?」

「えっ?」


 アンリ様の瞳が驚きで大きく見開かれる。


「あの! 振りでいいんです! その時に『騎士物語』を朗読するのはどうかと思って」

「あ、ああ、そういうことですか」

「どうでしょうか?」


 妙な空気が漂うなか、断られたら恥ずかしいなと思いながら恐る恐るアンリ様を伺う。アンリ様は空気を変えるように、照れながら咳払いをする。


「いえ、むしろこちらからお願いしたことです。変な気を使わせてしまってすみません。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそよろしくお願いします」


 二人で改まって深々と頭を下げる。

 成人した男女が、いったいなにをしているのかと思わなくもないが、アンリ様もそう感じたのか困ったように頭を掻いて笑っていた。


 それからベッドをどう使うかひと悶着あったが、私がベッドでアンリ様が窓際のソファで過ごすことで落ち着いた。


 『騎士物語』を寝室へ持ち込み、読み始めようとするとアンリ様がこちらを物言いたげにじっと見つめている。


「どうしました?」

「リネット嬢は俺のことを男の癖にと笑わないんですね」


 ああ、そういえばマーサが子供の頃にからかわれたと言っていたな。子供は素直な分、時に無邪気で残酷だ。


「好きなものに男女の性差は関係ないと思います。勝手にひとくくりにして私は、そういう考え方嫌いです。それに恋愛は男女がいなくては成り立たないのに、いえ、男女と区切るのもそもそもおかしいのです。それなのに男性が恋愛ものの書物を嗜むのを笑うなんて……」

「ははっ!」


 アンリ様が耐えようにも耐え切れず、声を出して笑い出す。


「もう、真剣に答えているんですよ」

「ははっ、すみません。リネット嬢と話していると自分の悩みがちっぽけなものに感じました。そうですね、好きなものを恥ずかしがるなんて自分に対しても失礼ですね」

「そうですよ。作者にも失礼ですし、これは文学です。男の癖になんて、そんなくだらないことを論じる場ではないのです」


 私が本を掲げると、アンリ様が今度はお腹を抱えて笑い出す。こんな笑い方もできるのだなと、素の一面が見れて少し嬉しく感じた。


「コホン、そろそろ朗読会を始めても?」

「はは、あー、はい、よろしくお願いします」


 しんと静まり返る室内に、物語を紡ぐ私の声が響く。

 真剣な表情でアンリ様が聞き入っている。

 二人で同じものを共有する時間に心地好さすら感じる。

 この日、二人だけの朗読会は深夜まで続いた。たまに休憩をいれて雑談をしたり、お気に入りのハーブティーを飲んだり穏やかに時間が過ぎていった。


 アンリ様は意外にも協力的なのか真面目なのか、夫婦の寝室にまめにやってくるようになった。目的は『騎士物語』なのだが。次第にそれは週に三日と自然に決まっていった。

 


 カーティスお兄様、私達は案外うまくやれそうです。




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