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私達流の契約結婚

 その後、私の悲鳴を聞きつけたマーサが夫婦の寝室に駆け込んできてくれて、諸々の後始末は行ってくれた。今、アンリ様は自分の寝室で寝かされ、青白い顔で唸りながら眠っている。アンリ様は案の定、アルコール多飲による体調不調で倒れただけであった。

 まあ、大きな病気でないのは良かったけれど…

 あの初夜への緊張や不安はなんだったのか、今は疲労と脱力感が強く、寝室のソファで座らせてもらっている。

 ことりと目の前にマーサが労うようにハーブティーを置いてくれる。


「まったくお坊っちゃまったら! 緊張してあんなにお酒を飲まれるなんて!」

 

 マーサは大きな体を揺らしてプリプリと怒り、眠っているアンリ様の鼻をぎゅっとつまむ。

 アンリ様の鼻からフガっと、間抜けな音が響きマーサと二人で呆れると堪えきれず笑ってしまう。乳母だったからだろう、マーサはアンリ様と気安い関係のようだ。


「リネット様、申し訳ありませんでした。お坊っちゃまに言われるまま、お酒を準備したのは私なんです。飲み過ぎないように釘は指しておいたのですが、こんなことなってしまって」


 マーサは本当に申し訳なさそうに萎縮しながら頭を下げてくれる。


「マーサ、いいの。気にしないで」

「リネット様、客室を準備しましたので、今晩はそちらでお休みください」

「そうね…」


 腰を上げようとしたところで、アンリ様が寝苦しそうに息をつく。未だ顔色は青白い。時折、表情が苦痛に歪み、小さな呻き声が上がる。

 なんだか自分だけ休むのは後ろめたい気持ちになり、立ち上がりかけた腰をソファへと戻す。

 一応、世間的には夫婦になったのだし…


「リネット様?」

「……、看病してはだめかしら。顔色も悪いし目が覚めるまで見ているわ」

「まあまあ…、まあ!」


 マーサは口元に両手を当てて、満面の笑みを浮かべる。


「もちろん、よろしいですよ。ただいま準備を整えますわ」


 なんの準備がいるのかと思ったが、マーサは嬉々としてソファをベッドに近づけたり膝掛けを用意したり、ハーブティーをポットで煎れ直してくれたり、看病のため準備万端に環境を整えてくれた。呼べばすぐに来ると言い置いて、部屋を辞していった。


 私は結婚初日に酔っぱらいの夫を付きっきりで看病することとなった。

 汗をかいたら汗を拭き取り、少し目を覚ますと定期的に水分を口に含ませる。その目は朦朧としており、私が看病しているとは気づいてないようだ。

 数時間経つと少しずつ顔色も戻って寝息も穏やかなものに変わっていく。

 ふとアンリ様の右手がなにかを掴むように空中をさ迷う。具合いが悪いのかと思い、とっさに手を取ると消え入りそうな声が微かに聞こえる。


「アンリ様! 体調が悪いのです… か……」


「ク…、クラウディオ……、」


 苦しそうに絞り出す声は乳母のマーサでも、ましては新婚の妻でもなく、アンリ様がこの世で一番愛しているであろう方の名前だった。


 咄嗟に手を離してしまうと、アンリ様の手は宙を掻きシーツに落ちる。苦しそうだった声は、やがて穏やかな寝息へと変わっていく。


 なんと気まずいことだろう。政略結婚とはいえ、夫から他の愛する人の名前を聞くということは。無意識だから余計にたちが悪い。

 初夜に倒れるほどお酒を飲むなんて、アンリ様にとってそれほどこの結婚は辛いものだったのだろか? 愛しい人の名前を呼ぶほどに?

 貴族の結婚に期待などしてないと言っていても、心の奥底ではカーティスお兄様のいう愛をどのような形でもいいから期待していたのだろう。なんてバカなのだろうか。この婚姻話が持ち上がったときからわかっていたじゃないか。浅はかすぎる。

 ツキリと痛む胸を無視して、私はこの結婚に際して、本当に覚悟を決めなければならいことを実感したのだった。


 


 ――さらりと髪を撫でられている気配がする。カーティスお兄様かな? リネットの髪は美しいねと小さい頃、よく撫でてくれた。そして辛いことがあって一人で泣いている時も、どこからか必ず現れて頭を撫でて慰めてくれるのだ。


 ゆっくりと目を開けるとそこに見えたのは、寝起きでも完璧な、透けるような白い肌と大きく潤んだ青灰色の瞳、少女のように可愛らしい私の夫…、となった人だった。カーテンからは朝の光が差しておりベッドで上半身を起こした彼を神々しく照らしている。

 私ったら看病しながらベッドにうつ伏せで寝てしまっていたんだ。

 彼は私が起きたことに気づき、慌てて頭を撫でていた手を引っ込めた。気まずさに咳払いをして声をかける。


「……おはよう、ございます。体調は大丈夫ですか?」


 アンリ様は昨夜のことを思い出したのか、顔を真っ赤にしてこくこくと頷いている。私がホッと安心すると我に返った彼は驚きの早さで、頭をベッドのシーツに擦り付けんばかりに下げた。土下座というやつだ。


「本当に、ほんっっとうに申し訳ありませんでした!!」


 私にこんな見目麗しい方が土下座する日がくるなんて夢じゃないだろうか。昨日起こった出来事が全て夢だったらどれほど良かったか、けれど目の前で起こっていることはドレイク家ではなくフロックハート家のアンリ様の寝室で起こっているのだ。まごうことなき、これが現実なのだ。


「本当に、ごめんなさい!!」


 謝罪の嵐に拍子抜けし苦笑いしか浮かべることができなかった。


「あの… もう、よろしいですから、頭をあげてください」


 けれど彼は土下座したまま、頭をあげてくれなかった。


「…本当に怒ってませんから」


 アンリ様は私の言葉にそろりと顔を上げてくれる。相変わらず、がっくりと項垂れてはいるが。


「夫婦になって初めて交わした挨拶が謝罪なんて、悲しくありません? 着替えて少し話でもしませんか?」

「……えっと、そうですね」


 アンリ様もこの状況が異常だと気づき恥ずかしくなったのか、素直に土下座をやめてベッドから降りてくれる。私達は場を改めて話をすることとなった。


 お互い着替えをして、アンリ様の自室で向かい合ってソファに座る。朝が早いためマーサを起こすことができなかったのか、いや怒られると考えたのだろう。机の上に用意されたコップにはただの水が注がれていた。

 アンリ様は二日酔いのせいもあるのか一気にコップの水を飲み干し、のどを潤すと再度勢いよく頭を下げる。

 正直、もう謝罪はいらないのだが彼が頭を下げることで気がすむのなら何度でも受け入れようじゃないか。


「あの、昨日はどうしてあんな事態になったのですか? …その、泥酔するほど私との結婚が嫌だったのでしょうか?」


 これから結婚生活を送るにあたって、彼の本音が知りたいと思った。婚姻は覆せないし、家族の手前、すぐに離婚とはいかないだろう。彼の考えを聞いた上で、ここでのリネットの立ち位置や行動を考え直したいと思ったのだ。昨夜の恋人の名を呼ぶアンリ様を見て、だいぶ冷静になれたと思う。


「そんな、リネット嬢との結婚が嫌だったのではないです。俺は相手に文句を言われても、言える立場にないのはわかっています。むしろ……、自分に対する自棄です」

「自棄?」

「誤解させるほど、ずっとリネット嬢に対して俺の態度は悪かったですよね」

「そんなことは…」


 苦笑いで誤魔化すが、私の思いは通じたようで申し訳なさそうにアンリ様が肩をすくめる。


「俺が身勝手な行動をとったせいで沢山の人が不幸になりました。まして関係のないリネット嬢まで巻き込んで、どう償ったらいいのか、どう謝罪したらいいのかわからずここまできてしまいました。俺にはあなたに与えられるものがないのです。昨夜はあなたに謝ろうと思ったのですが、素面では勇気が出ずワインを飲むうちに自分が情けなくなり、あんなことになってしまってしまいました。本当に申し訳ありませんでした。罵ってもらってもかまわないです。それだけのことをしたし、離縁を望むなら今すぐにでも父と話をつけて……」

「離縁は困るんです」

「そうですよね。困る……、って、え?」


 アンリ様は私の言葉に驚いて、困惑気味に顔を上げる。


「アンリ様も王家の手前、すぐに離縁では困るのではないですか?」


 アンリ様はぐっと唇を噛みしめ眉間に皺を寄せる。


「私の事情は聞いていると思うのですが、私も今、離縁されると次に嫁がされるのは色々と問題のある方になってしまうのです。三年でいいのです。お互いの利害が一致しているなら婚姻を継続していただけませんか?」

「三年…、ですか?」

「三年間、契約を結びませんか?」

「契約とは?」

「契約結婚です。契約なので形だけの夫婦になるんです」


 私の提案にアンリ様はだいぶ困惑しているようだ。


「三年経てば、国王陛下も許されると思うのです。王女殿下の婚姻も落ち着いてますでしょうし、世間の噂も興味も他へと移っていることでしょう。女性からは離縁を申し出ることはできないので、三年経ったら子供ができないことを理由に教会に離縁を申し出てください」

「し、しかし、それでは、リネット嬢になにも利益がないではないですか」

「いいえ。私は望まない結婚をしなくて済みますし、貴族の体裁も保てます。離縁時には生活に困らない程度の慰謝料は請求させていただくつもりです。三年後は私も結婚適齢期は過ぎていますので、一人気ままに生活できればいいのです」

「し、しかし、それでは……、お金だけなんて」


「契約結婚なら、アンリ様も与えることのできないものを望まれる苦しさや悩みから解放されるのではないのでしょうか」


 アンリ様は心を見透かされたように目を見開く。話をしてわかった。この人は結婚しても妻が求めるものを与えられないと悩んでいるのだ。この人は優しい人だ。恋人と別れさせられて不満を口にするのではなく、好きでもない女と結婚させられて不幸だと嘆くこともなく、妻となる人を尊重しようとして自分は何も与えられないと苦しんでいるのだ。

 私を妻として尊重してくれる言葉で十分だった。

 これが私の出したお互いに傷つけ合わない夫婦関係で答えだった。


「リネット嬢は、俺が気持ち悪くないんですか? 世間ではいい笑い者です。今なら俺だけが悪者で離縁できるのに」


 アンリ様は自嘲気味に視線を下げる。きっとクラウディオ様との噂のことだろう。

 世間的にはアンリ様が、婚約者のいる人を唆した悪者になっているという。


「正直、よくわかりません」

「えっ?」

「私は恋をしたことがないので、アンリ様のした事が悪いのかもよくわかりません。それに私は当事者ではないので事実は知りませんし、非難する権利もありません。そもそも恋が罪だというなら尊いものとして物語に書かれることもないでしょうし、男色など昔から普通に高貴な嗜みとしてありますし、要は人の価値観の違いだと思うのです。まあそれが国王陛下の価値観に反していたというだけのことでしょう」

「はあ……」

「それにアンリ様みたいに恋をしている方は、私のことをおかしな人と思うのでしょう? 兄も私のことをよくからかっていたので、お互い様じゃないでしょうか?」

「お互い様というのは使い方を間違ってると思います」

「そうでしょうか?」

「……あなたは、不思議な人だ。お義兄様達が大事にされているのがよくわかる」

「……不思議。よく似たようなことを言われます。バカにされているのでしょうか?」

「箱入り娘だってことです」


 私が首を傾げると、アンリ様は眩しいものを見るように目を細める。

 アンリ様はソファーから立ち上がると、執務机から紙とペンを持って戻ってくる。


「これは?」

「契約書を作ろうと思いまして」


 アンリ様は、あっという間に契約書を作成してしまう。

 それはお互いの希望を出し合い作成されていった。


「ふふ」

「どうしました?」

「初めての共同作業が契約書になるんだなと思いまして」

「ふっ、そうですね。俺達らしいですね」


 二人で契約書を挟み、初めて微笑み合う。


「では、ここにサインをしてください」


 差し出された契約書に私は、リネット・フロックハートとサインした。

 それは全てを受け入れて三年間、アンリ・フロックハートの妻となる決意をした瞬間だった。



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