第三十一話:マザー・ラピス
毒霧の中に、甲高い金管楽器の様な音が木霊する。
その眼下では、異様に小さな飛沫の音が連続して響いていた。
「……無駄に高度な」
ほとんど足音ならぬ水音を立てずに走っているツムギを見ながら、ルセリは小さく呟く。
おそらく、そこにはちゃんとした理由があるのだろう、と彼女は見て取った。
この先にいる何か、もしくは誰かに、なるべく自身の存在を隠そうとしているのだと思われる。
そういう意味では、自然音とは言い難いルセリの飛翔音の方が、よほど目立っている。
一応、光学迷彩は施している為、視覚によって発見される恐れは限りなく低いが、それ以外の探知方法を持つ生物にはあまり効果はないだろう。
とはいえ、無いものねだりだ。
ルセリが用意してきた装備には、迷彩系統の用意が薄かった。
今現在で、これ以上の隠密性を得る事は難しい。
「……大分、霧が濃くなってきたな」
眼下から、ツムギの呟きが届いた。
彼の言葉の通り、毒霧がより濃密になってきている。
この死毒の沼を生み出した何者かに、近付いてきているのだろう。
ルセリは探査用センサーを起動しつつ、下に向けて声を放つ。
「この先に、お母さんがいるのよね?」
「ああ、間違いなく、な。匂いがする」
鼻を鳴らしながら、ツムギは肯定の返事を投げ返した。
ならば良い、とルセリは毒霧へと突入する。
まさに五里霧中。
あまりの濃度の高さに、碌に視界が効かない。
まともな人間ならば、更に毒によって方向感覚も派手に狂わされ、生きて出る事は出来ないだろう死の迷路と化している。
しかし、彼女はセンサー情報を基に、迷いなく飛翔する。
毒は宇宙装備のおかげで問題なく遮断できているし、宇宙空間では有視界で行動する方が珍しかった。
レーダー・センサーの情報だけを信じて舵取りをする事が当たり前であり、有視界距離なんて近距離戦自体をしない。
彼女にとっては、大変に手慣れた物である。
「……これじゃあ、光学迷彩の意味がないわね」
纏わりつく霧によって、形がくっきりと浮き上がっている。
見通しが悪い為に結果として視覚はあまり役に立たないが、無駄なエネルギーを使う余裕はない、と彼女は迷彩を解除する。
ただでさえ、現世に降りてからそれなりにエネルギーを消費している。
光学剣を何回も振り回しているし、超重力手榴弾《奈落》や核融合手榴弾《陽炎》の点火も行っているのだ。
《ストリーム・フィン》の効率の悪さを差し引いても、あまり余裕はない。
(……甘く見ていたわね)
仕方ないじゃないか、と内心で誰に言う訳でもない言い訳を綴る。
今の世界が、こんな猛獣なのかモンスターなのか、よく分からない生き物が大量に跋扈している状況だとは思っていなかったし、にもかかわらず過去の遺産がそれなりに形を保ったまま残っているとも思っていなかったのだ。
ここまで不可思議な状態では、想定外の出費があるものである。
そうと、彼女は自分を納得させる。
「そろそろ近いぞ」
「うん。生命反応、こっちでもキャッチしてる。
でも……何よ、これ……」
ルセリは、向かう先にある生命反応を見て、やや戦慄する。
あるのは、二つ。
一つは、人間サイズ。
これがラピスの物だと思われるが、あまりにも内包しているエネルギー量が莫大だ。
とても真っ当な人間だとは思えない。
少なくとも、完全機械化して、更に内部を空間拡張しなければ、人間サイズでこれ程のエネルギー量を持たせる手段を、ルセリは知らない。
そして、もう一つは、その下に広がる巨大な反応。
エネルギー量もさる事ながら、何よりも範囲が大きい。
明らかに人間の物ではない。
(……これが、毒の発生源かしら?
お母さんは、何でここにいるの?)
発生源をどうにかしようとしに来た、のならば別に構わないだろう。
だが、発生源を造ったのがラピスならば、と考えてしまう。
これまでにツムギから聞いていた話を考慮すれば、有り得ないとは言い切れない。
その時は、どうすべきなのだろうか。
娘には隠していた本性なのか、それとも3000年という月日がもたらした変貌なのか、それは分からないが、そんなトチ狂った事をしている母を、何とかすべきなのだろうか。
ルセリは此処では異物だ。
ラピスは曲がりなりにも3000年を生きてきて、この星に適合してきた。
ルセリは違う。
そうした歴史を飛び越えてきた自分が、目的を果たせば消えてしまう自分が、勝手な正義感を振りかざして、勝手に否定すべきなのか。
そんな迷いがルセリの中で生まれた。
少しばかり、思考の海に沈み込んでしまっていたルセリ。
意識が逸れていた彼女に、ツムギの鋭い声が飛ぶ。
「ッ、ルセリ! 躱せ!」
「え? きゃっ!?」
直後。
複数の極太の高圧水流が空中を薙ぎ払った。
その内の一つがルセリへと向かっていた。
ツムギの警告が速かったおかげで、回避行動への移行が間に合った。
それでも、翼の端に掠ってしまい、ルセリは僅かにバランスを崩す。
「何なのよ、今の!?」
体勢を立て直した彼女は、霧の向こうを睨みながら悪態を吐き出した。
「毒がすげぇ勢いで飛んできたな。
大体、想像は付くんだが、まぁ見た方が速いか」
何が起こったのか、経験的に把握しているツムギだが、その答え合わせをする為に腕を振り被る。
剛腕一閃。
怪力を宿した腕の一振りは、突風を巻き起こし、視界を遮っていた毒の暗幕を取り払ってしまう。
すっきりとした視界の中。
波打つ沼地の中で、ぽつん、と、一人の女性が不自然に立っていた。
彼女は、豪風によって霧が晴れた事で異変に気付いたのだろう。
ふと、風上を振り返り、そこにいたツムギを瞳に移した。
「おヤ~?
そこニいるノは、被検体であるデスネ~。
オ久しブリであるデスネ~」
ラピス・アルトンは、ふざけた調子で、そう言った。




