第十七話:《修羅》の拳
彼が、その身に内包する気迫を曝け出した瞬間、森が大きくざわめいた。
起きていた者も、眠っていた者も、誰一人として関係なく、全ての生物が圧倒的な脅威を感じ取り、即座に故郷を捨てる決断を下したのだ。
バサバサ、と。
ガサガサ、と。
一秒でも早く、一歩でも遠くへと逃げようと、彼らは我武者羅に逃亡を図った。
「っ……!」
レインが、その場に留まった事は、決してツムギに勝てると踏んだからではない。
矜持。
神の正義を為す己が、神に仇為す存在に背を向ける訳にはいかない、という思考が故である。
「カカカッ、逃げなかった事は褒めてやるぜ」
獰猛な笑みを浮かべて、挑発的な事を言うツムギ。
人間如きが、ともレインは思うが、そんな思いを彼の威圧が塗り潰してしまう。
「神の御意志を理解せぬ罪人がッ!
我が槍で成敗してくれる!」
「意見の押しつけは止めて貰おうか。
そんな理不尽な奴には、鉄拳をくれてやる」
ツムギが拳を固く握る。
それを体の後ろに隠すように構えた。
まるで、その姿は引き絞られた弓矢のようだと、レインは感じた。
ぞくり、と悪寒が背筋を駆け抜ける。
彼女は自らの直感が鳴らした警報を信じて、後先考えない回避運動を取った。
それが、彼女の命を救った。
「うらぁっ!」
放たれる、ただのパンチ。
だが、超人の筋力で放たれたそれは、大気を爆散させ、衝撃波となって上空を蹂躙した。
「ぐっ、うおぉああああぁぁぁぁぁ……!?」
暴風の如く叩き付けられる余波に巻かれて、レインは飛んでいる事も出来ずに大地へと叩き付けられてしまう。
他の面々も、似たようなものだ。
大多数は、発生した衝撃波に耐え切れずに引き裂かれて、肉片となってそこらに散らばっている。
運の良かった少数だけが、レインと同じように地面に叩き付けられるだけで済み、なんとか命を拾っていた。
だが、生き残った全員が翼を折られ、手足も不自然に曲がっており、とても戦いを継続できる状態ではない。
たったの一撃。
しかも、直撃した訳でもなく、その余波をぶつけられただけだ。
だというのに、最強と謳われた集団の一部隊が、跡形もなく壊滅させられていた。
「化け物めッ! どっちが理不尽だ!」
「カミ様ほどじゃあねぇだろ」
本物の神霊の力は、こんな物ではない。
それを知っているツムギは、軽く言い返しながら、一歩を踏み出す。
「くっ……!」
命の危険を感じたレインは、合わせて一歩を後退った。
その様子を見て、若干、ツムギは意欲を削がれる。
「ったく、喧嘩売ってきといて、情けなさ過ぎだろ、そいつは。
これじゃあ、弱い者虐めしてるみたいじゃねぇか」
気が乗らん、とそっぽを向いて頭を掻くツムギ。
明らかな油断、明らかな隙。
怯えた自分に叱咤を入れたレインは、その瞬間に飛び出す。
黒槍を握りしめ、最速で化け物に向けて突き出した。
それは、極限状態が生み出した、生涯最高の一撃だった。
だというのに、
「案外と元気だな。まだやる気があったのか」
ツムギは、見もせずに、欠伸を噛み殺しながら、指先だけで挟み止めていた。
「そん、な……」
あまりの結果に、レインは愕然とする。
征罰衆統括官以外では、下界に存在する神の手勢の誰であっても勝てない、相手にすらならない。
そうと言われて、処分を諦められて、放置されている大罪人。
レインは、大げさだと思っていた。
そして、怠慢だとも思っていた。
神の正義を為さない上官たちを、背教者だと断じていた。
だが、思い知ってしまった。
この世には、理不尽と不条理を押し固めた怪物がいるのだと、身をもって理解してしまった。
ツムギの指先に、力が籠められる。
それだけで、自慢の槍の穂先が砕け散ってしまう。
「さて、どうしようか?」
振り向いたツムギの顔に、戦意の色はない。
だが、だからこそ、レインは死を想起した。
道端の蟻を潰すように、自分も殺されるのだと。
そんな時だった。
近くの茂みが揺れて、ひょっこりと天使が顔を出したのは。




