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男は山よりも高い巨人の肩で大弓を構えていた。
眼下にはひび割れた大地とそれをまばらに覆う雲。
地平の彼方には沈む太陽が緋く燃えて、それに照らされた空が夕焼けを描画しようと。
だが偽りの空を裂いた傷は黒い線となって走り、彼方には空を突き抜けた世界樹によって空そのものがすっぽりと抜け落ちている。
今にも全て崩れて落ちてしまいそうな黄昏。
男が俯瞰するそれは世界の終わりを感じるには十分なほどの。
1人の魔術師が生んだ、あまりにも脆く儚い匣庭の成れの果て。
魔宮の巨人は斜陽を背に夜へと歩む。
紺碧色の空を越え。
宵の先に連なる夜闇の頂。
そこに昇る黒い月を目指して。
男は小さく息をついた。
かれこれ数時間以上、得物を構えて索敵を続けていた男。
彼は気を引き締めると、なおも視線を走らせて向かってくるものがないか目を光らせる。
「姿が見えないと思ったらこんなところに」
常に行動を共にしていた──しているべき腹心の冒険者を見つけて。
その身から不気味な魔物の影をたなびかせながら歩み寄るのは白い宝珠剣を杖のように逆手に握り、金の片眼鏡をした深緑色の髪の青年。
「ギルベルト様、お戻りください」
男は青年に──自身の主たる冒険者の筆頭【緑の勇者】ギルベルトにすかさず言った。
次いで小さく咳き込む。
「ええ、戻りましょう、貴方も一緒に。索敵なら他の冒険者や魔人の方々もいますし、それ以上の無理は身体に障る」
ギルベルトは恰幅のいいその男に言った。
見るとそのせり出したふくよかな腹は血にまみれていて。
今も男は咳き込んだと同時に吐血し、口の端から血が滴っている。
「貴方がその病に冒されたのはもう10年、いや20年は前でしたか。私と出会った時点ですでに余命いくばくもないその身体は私の展開する『青き月』の世界の上書きの効果中でしか状態を保てないというのに」
「……ギルベルト様には感謝しています。貴方のおかげで私はこうして生き永らえて娘の成長を見守り、最期にあの子に平和な世界を残すことが。その一助となることができる」
「だからこそ。貴方は早く娘さんのそばへ戻るべきです。私の生む世界は完全な個の世界。共に過ごせる時間はもう限られています」
「あの子が望んでくれればあの子の世界に私はいます。ずっと一緒です」
「それは……その通りですが」
言い淀むギルベルト。
自身の計画が人類に今できる最善だという彼の確信は揺らがない。
だが最善であっても完璧では、ない。
展開される個人の魔宮が生み出すものが本物か、それとも────と、問われれば。
恰幅のいい冒険者は視線を切ると大弓をおろした。
ギルベルトに向き直る。
「私が死ねば目も見えず、他に身寄りもないあの子は路頭に迷う。この奪い奪われの世界では私が冒険者として財を築いて遺しても安心なんてできるはずもない。万人の幸福。あの子の幸せを保証できるのはギルベルト様の願う救済だけです」
まっすぐにギルベルトの目を見つめて恰幅のいい冒険者が言った。
「……ですがその前に貴方が死んでしまってどうするのです。貴方も幸せになるべき1人なのですよ。それにあの子はいつだって貴方を想っています。そして貴方の声を。貴方のぬくもりを必要としていますよ。盲目に生きる彼女にとって貴方だけが唯一の光だ」
」
「私は何よりもあの子の幸せを願っています。その達成のためなら本来はとうに燃え尽きた命、惜しくはありません。この臓腑を蝕む痛みさえ、娘のためと思えば苦にならない。たとえ共に過ごせる最後の時だとしても。私は計画の成就を優先します」
「…………貴方は誰よりも彼女の幸せを願っている。なのに。いやだからこそ。人の願う幸せはこうしてすれ違ってしまう」
ギルベルトは肩を落とし、小さく頭を振った。
第6世代に与えられた業。
第1世代がその力に溺れて滅びたように、と。
次いで金の片眼鏡越しに覗く異形の影法師である『彼女』を見て。
第3世代がその知恵に傲って滅びたように。
人はそれに突き動かされて星のリソースを喰らい、かつてない早さで滅びの直前にまで至ってしまった、とギルベルトは思う。
誰もが私利私欲だったわけではなかったはずなのに。
ただほんの少し、愛する人が今よりも幸せであれと願ったゆえに。
ギルベルトは恰幅のいい冒険者にこれ以上何を言っても無駄だと悟って。
「分かりました。引き続き索敵をお願いします。もうすぐ黒い月を直上に捉える。そうしたらこの魔毒の巨兵を再構成して接続し、世界の設計図を書き換えます。人類の救済は目前です」
ギルベルトの言葉に恰幅のいい冒険者は力強くうなずくと、大弓を構えて再び索敵を始める。
ギルベルトは彼のそばに残りたかったが、魔宮の統治者による巨人の制御はその中枢からでないと十全に機能しない。
次の段階に移行する準備のためにもギルベルトは戻らなければならなかった。
このまま何事もなく計画が進んでくれれば、とギルベルトは思う。
そうすれば彼の命が尽きる前に全人類の魔人堕としと魔宮の展開が間に合うかもしれない。
そうでなくとも世界の崩壊と新生が間近に迫り。
そして今この瞬間も崩落に巻き込まれて多くの命が失われていく。
急がなくては。
少しでも早く。
1つでも多くの命を、救うために。
だがギルベルトは大気を震わせる轟音を、聞いた。
「……っ!」
次いで思わず舌打ちが漏れる。
魔宮の巨人は体勢を崩した。
崩落する大地に足を取られてその天を衝く巨躯が傾いていく。
崩壊が進んでいるとは言え折り重なった分厚い原初の魔宮が巨人を支えきれずに崩れたわけではない。
それだけの堅牢な大地を、巨人の足を止めるほどの広範囲で破壊する力が放たれたのだ。
ギルベルトは魔宮の統治者による操作で巨人の姿勢を立て直そうとするが、その制御が間に合わない。
雲の尾を引いて。
再びの轟音と共に巨人は膝を着き、倒れる上体を支えるために両手も大地に着いた。
同時に衝撃波が拡がり、それを追うように瓦礫と粉塵が舞い上がる。
「中枢を離れのが仇になりましたか。なんともタイミングの悪い。でなければここまで体勢を崩されることは」
ギルベルトは忌々しげに呟いた。
「一体どこから……!」
恰幅のいい冒険者は大弓を構え、強襲してきた敵の姿を探す。
「相手は索敵の目を掻い潜ってきました。地下世界から接近して大地を破壊し、私達の足を止めたんです」
ギルベルトが言った。
空の上と地下からの接近もギルベルトは視野に入れていて。
そしてその迎撃は十分に間に合うと仮定していた。
だが想定外だったのはその威力と規模。
地下から直接、巨人の足を止めるほどの干渉ができるとは思わない。
先に恰幅のいい冒険者が。
それに続いてギルベルトもその姿を捉えた。
気付かないわけがなかった。
その羽ばたき1つで迎撃に向かう高ランクの魔人の放つ魔物達を容易く屠る黒い影。
次々と宵の空に舞う赤い飛沫の帯を目で辿れば、その先に凄まじいプレッシャーを放つ黒竜がいる。
「赤い月の王、『原初の終焉、淘汰の果てよ』。その完全な姿」
ギルベルトは黒竜からその尾に掴まる人影に視線を移した。
その男の赤い瞳と視線が交わる。
「白の勇者、やはり貴方か」




