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エミリアを中心に周囲の景色が歪んだ。
魔人の女の展開している魔宮を、その魔宮で塗り潰す。
エミリアの足元に拡がったのは黒い岩肌。
その四方に立つ禍々しい燭台には紫の炎が灯って。
そしてその魔宮は展開を終えると落下した。
大きな水飛沫をあげ、上下に激しく揺れる。
「シャル」
エミリアが呼び掛けるのと同時。
エミリアの影が肥大化して質量を持ち、現れた魔宮のボスが彼女に覆い被さるように身を乗り出した。
エミリアがシャルと呼ぶ異形のミノタウロス。
その肩口から伸びる乙女の、閉じられた両目から血涙が流れ落ちて。
瞬く間に魔宮を赤黒く染め上げる。
そしてエミリアの魔宮からこぼれ落ちた赤黒い血。
それが魔人の女の魔宮を満たす水に触れるとその水を汚染した。
水中のクラゲ型の魔物が苦しげに悶える。
「昏月ちゃん!」
魔人の女は自身の魔物へと声をかけた。
だがクラゲ型の魔物は魔人の女に応えない。
その動きが徐々に緩慢になっていく。
「エミリア、いいよ」
クレトがエミリアに言った。
エミリアはクレトが集落の人々を全員引き上げたのを確認する。
「待って」
冷たい眼差しのエミリアと異形のミノタウロスを見て魔人の女が言う。
「私はただ」
だがエミリアは魔人の女の言葉に耳を傾けずに。
「『緋色の咆哮』」
エミリアの声と共にシャルが咆哮を上げた。
「私はただ……生きたかっただけなのに────」
魔人の女が呟いた。
その声を飲み込み。
その肢体を引き裂き。
水面を穿ち、巻き上げて。
反響する咆哮が内部からドーム状の魔宮を吹き飛ばす。
気付けば魔人の女の魔宮は跡形もなく消え去り、そこには複数の窪地だけが残されていた。
エミリアもシャルと魔宮を消し、クレトと集落の人々のもとへ。
「毒は消えるのに2、3日はかかりそうだけど残るの?」
少年の形へと戻ったクレトがエミリアに訊いた。
「うん、もちろん。このまま放ってはおけないよ」
エミリアはクレトに答えると人々に視線を移して。
そして顔と首を大きく腫らした4人を見る。
「…………クレト」
「怒んないでよ。ダメージは最小にしたよ」
エミリアの呼び掛けにクレトは肩をすくめた。
自身が取りついてスペルアーツを発声させた4人を見る。
「スライムの組織は一欠片も残してないから中毒も起こさないし、よほど運が悪くなきゃ死ぬことはないよ」
「それでもこの人達をクレトが傷つけたことには変わりない」
「同時にボクらがこいつらを助けてあげたことにも変わりはないんじゃない? ホントなら全員喰われて死んでたんだ。感謝こそされても恨まれる覚えはないよ」
「…………」
無言でクレトを睨むエミリア。
「イヒヒ、その目やめてよね。ボクを処分するかしないか迷ってる目だ。ボクはエミリアの言い付け通り……とはいかなくても善処はしてると思うんだけど。それにボクを処分したらお前は本当に独りだよ。白の勇者を永久魔宮から取り戻す術も失う」
クレトはそう言うと踵を返して。
「ほら、エミリアは魔力の回復でもしてなよ。ボクに見られるの嫌だろ。ボクはあの大剣を持ってくるからさ」
そう言い残すとクレトはこの場を立ち去った。
残されたのはエミリアと身動きの取れない人々だけ。
「…………」
エミリアはしばらく無言で佇んでいたが、きゅっと下唇を噛むと魔力の回復を始める。
順々に魔力の回復をしていたエミリアだが、その足が止まって。
「アーくんと同い年くらいかな」
エミリアは集落の少年を見ると言った。
次いでディアスやアーシュ、アムドゥスと過ごした時間を思い出して。
寂しさで思わず泣きそうになる。
少年はかろうじて目だけを動かした。
自分の目の前で佇むエミリアを恐怖に染まった瞳で見る。
エミリアはその視線に気付いた。
その胸中が孤独から、少年への申し訳なさに変わる。
エミリアは思わずためらって。
だが微々たる量の魔力しか回復できていない身体はさらなる魔力を欲していた。
飢餓が強まれば理性の抑えが効かなくなる。
永久魔宮化もそうだが、それ以上に自分が人間を傷つける事を恐れるエミリア。
いつかアーシュにその牙を突き立て時の事を思い出し、自身で恐怖する。
「ごめんね。すぐ終わるから」
エミリアは怯える少年の頭を撫でると、魔力の回復を再開する。
それからしばらく経った頃。
エミリアは大きく息をついた。
「…………イヒヒ、やっと終わったんだ」
エミリアは背後からした声に慌てて振り向いた。
「その様子だとやっぱり気付いてなかったんだ。にしてもホントに非効率なやり方だね。適当に命に別状のないところだけでも喰って、あとは血を啜ればそれなりにはなるだろうにねぇ」
エミリアの振り向いた先には真白ノ刃匣に腰かけるクレトの姿。
クレトはエミリアを見て意地悪く笑っている。
エミリアは口許を拭うと無言で立ち上がった。
クレトのもとにつかつかと歩いていく。
「クレト……ベッド」
エミリアはそう言うとクレトにもたれかかった。
「ちょっと重いんだけど」
クレトは舌打ちを漏らして。
だがエミリアは体重をクレトに預けたまま。
クレトは大きなため息を漏らすと少年の姿からスライムへと戻り、エミリアを受け止めた。
スライムのひんやりとした身体がエミリアの火照った身体を包む。
「やれやれ。まぁでも良かったんじゃない。ボクの生成するエーテルはスライムの組成が混じってる。その中毒の緩和にも時間が要るし、何よりお前は疲れてる。望まぬ戦いと望まぬ魔力の摂取に孤独。人助けなんてしてないで事態が好転するまで大人しくしてればいいのに」
「けけ、それはダメだよ。あたしは人を助けなくちゃいけない。そうじゃなきゃあたしが生きる事は許されないもん」
エミリアは突っ伏した姿勢から顔を上げると言った。
「イヒヒ、おかしな事を言うねぇ。生きるのに許しなんている? いらないよ。別に死を望むのはそいつの勝手だけど、逆に生きたいと願うのもそいつの自由だ」
「前にアムドゥスにも同じような事を言われた。でもあたしはやっぱり、自分が生きる意義を果たさないと自分で自分が生きてる事を許せないの」
「子供のくせに──いや、子供だからこそか。理想や理念なんかでこの世界は回ってなんかないのにねぇ。お前は魔人堕ちとして生きてくのには良い子過ぎた。お前もこの世界に絶望して見限る事になる」
「お前も……?」
エミリアは疑問を口にした。
だがクレトはそれ以降、口をつぐむ。




