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────ふと、意識が覚醒した。
焦点の定まらなかった瞳が天井を見据え、不鮮明だった空気の振動をはっきりと音として捉える。
ぱちぱちと数回まばたきし、視線を左右に走らせた。
白い壁。
開け放たれた窓にかかるレースのカーテンが風に揺れていて。
外からは子供の笑い声が聞こえてくる。
「どこだろ、ここ」
小さく呟いて。
「そうだ、ディアス兄ちゃんやエミリアは……!」
次いでアーシュは慌ててベッドから起き上がろうと。
だが上体を起こした体が、体勢を維持できずに傾いて。
「あれ」
その体がベッドの外へと投げ出される。
脚だけがベッドに乗っていて。
アーシュは大きく腰をよじった状態で顔から床に突っ伏した。
両手を床について立ち上がろうとするが、まるで力が入らない。
アーシュが必死に悶えていると、物音を聞き付けて廊下から人が駆けつける。
L字のドアノブを引いてドアを開けると、おかしな姿勢のアーシュと駆けつけた女の子の目が合った。
「お兄ちゃん起きたんだ。……で、何してるの?」
女の子がきょとんとした顔でアーシュに訊いた。
「うまく力が入らないんだ」
アーシュが答えると、女の子はアーシュのもとへ。
女の子の助けを借りて、アーシュはひとまずベッドにもたれる形で床に座る。
「待っててね。院長先生、呼んでくる」
女の子はそう言うと駆け足で廊下へと消えた。
アーシュは息をついた。
目にかかる長い前髪を横に流して。
見るとディアス達と出会った頃には肩ぐらいまでだった黒髪が、気づけば肩甲骨にかかるくらいにまで伸びている。
元々華奢な体躯だったアーシュだが、その腕は異様に細く、両手で寝間着の裾をまくると浮き出た肋と骨盤が目についた。
「おれ、どれくらい寝てたんだろ」
「少なくとも2ヶ月は寝てたよ」
廊下からの声にアーシュは振り返って。
そこにはアーシュと同じか少し幼いくらいの少年。
さらに続々と子供が集まってきていて。
「お前、やっと起きたのか」
「君、名前なんて言うの?」
「大丈夫? 具合悪くない?」
「私達が交代であなたのお世話をしてたんだよ!」
「おきたの? あそぼー」
「ほらほら、びっくりしちゃうからみんな静かに」
「遊ぼ」
「あそぼー」
「だから静かにしろって言われてんだろ」
「いくよー」
周りの制止を聞かず、小さな女の子が木剣をアーシュに向かって放つ。
「ま────」
小さい子供を除いて、周りの少年少女の顔に焦りが浮かんだ。
アーシュは飛んでくる木剣を見た。
捉えた。
その紫の瞳がそれを凝視。
その切っ先から剣身、柄へと意識でなぞって。
そして木剣がぴたりと空中で静止する。
驚愕の面持ちを浮かべる少年少女と、不満そうに頬を膨らませる小さな女の子。
「お兄ちゃん! ダメだよ! 剣止めちゃ」
「え、あ、そうなの?」
「そうだよ!」
「ご、ごめん」
「もうー」
小さな女の子に怒られて、アーシュは首をすくめて縮こまる。
「今、あいつ剣の共有してなかったよな」
「投げられた剣をその場で捉えて操作したの?」
「嘘だー、それって上のお兄ちゃん達しかできないやつだろ」
少年少女がひそひそと話し合う。
「ほらほら。みんな、道を開けてもらえるかな」
その時、廊下の陰からしわがれた声が聞こえてきた。
「あ、いんちょせんせー」
「院長先生」
「ほら、お前ら道開けろ」
「えー、もっとあそぶのー」
「駄目だってば」
「ほら、私達と遊びましょ」
子供達が道を開けると、院長先生と呼ばれる老人が部屋へと入ってきた。
その人物は長身でその肉体はがっしりとしていて。
短く切り揃えた白髪と、深いしわの刻まれた厳格な顔つき。
その紫色の瞳がぎろりとアーシュを見下ろす。
「…………」
その老人はアーシュの顔をじっと見つめていた。
その瞳が揺れて。
次いで腕を組んで仁王立ちになるとニカッと笑う。
「私の名はラーヴァガルド。この孤児院の院長をしとる」
「おれはアーシュガルド。ラーヴァガルドさん、ここどこですか? 孤児院? おれ、仲間のところに行かなきゃいけないんですけど」
「ディアスのところへか」
ラーヴァガルドの問いにアーシュはこくりとうなずいた。
「……あれ、ディアス兄ちゃんのこと知ってるの?」
次いでアーシュは呟くと、エミリアの村で空中に浮かぶ建物と共に現れた男の事を思い出す。
「そっか、あのときの」
「直接の師事はしていないが、一応あいつは私の門下だ。あいつを勇者に推薦したのも私だよ」
「ラーヴァガルドさん、ディアス兄ちゃんが今どこにいるか知ってます? おれ、早く合流しないと」
「名前が長いから私のことはラーヴァでいい。おじいちゃん、でもいいぞ?」
「それでラーヴァさん、ディアス兄ちゃん達は」
なおも言及するアーシュにラーヴァガルドは小さくため息を漏らした。
所々地肌の透けた短髪をボリボリと掻く。
「あいつは永久魔宮化したよ。人を求めて移動する刃の永久魔宮だ」
「嘘だ」
ラーヴァの言葉に、アーシュはすかさず否定の言葉を口にした。
だがラーヴァは続ける。
「ギルド本部のあった地点を中心に一定範囲のところに壁を設けて、今はそこと外とを隔絶している」
「嘘だよ。ディアス兄ちゃんは人を喰わなくても魔力の回復ができるようになった。永久魔宮になんてなるはずない」
「おそらく書庫の魔人──クレトと戦ったのだろう。あいつは強力なスペルアーツを独占している強大な魔人だった。奴のスペルアーツは一瞬で数多の命を奪い去った。私と私の仲間も奴の攻撃の際に咄嗟に鼓膜を破らなければ塵になっていたはずだ」
アーシュは頭を振った。
「ディアス兄ちゃんは永久魔宮になんてなってない。だって…………」
次いでその目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちて。
「永久魔宮になったら、もう……会えないって事だもん」
父と共に森の魔宮に飲まれて消えた母。
その最後の姿と過去の思い出。
それに重なるようにディアスの姿が脳裏を過る。
夢を捨てかけた自分に再び夢を見る事を思い出させてくれた【白の勇者】。
いつも無表情。
それで時折、言動とは裏腹に露骨に顔を歪めて嫌がったり。
遠隔斬擊の扱いが自信よりも才能があると知ると嫉妬の眼差しを向けてきたりもした。
それでもその身を案じてくれて。
誰よりも、落ちこぼれだったアーシュに理解を示してくれて。
ディアスはアーシュのイメージしていた完璧な勇者とは違った。
でもだからこそ。
常に努力し、優しくて不器用で、魔人に堕ちてなお人のために戦い続けるディアスをアーシュは好きだった。
「もう、会えないなんて……嘘だよ…………」
アーシュは嗚咽交じりに呟いた。
肩を震わせて泣いているアーシュの姿を前に、集まっていた子供達はいたたまれなくなって無言になる。




