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「────ええ、そういうことよ」
冷たい声音でアムドゥスに答えて。
同時に大きく踏み込んだ左足が魔宮の床を掴んだ。
はち切れんばかりに強張る筋肉。
よじった体を捻りながら、キャサリンは振りかぶった右腕を渾身の力で繰り出す。
「な……!?」
キャサリンに気付いた魔人の少年から思わず声が漏れた。
その鉄拳が捉えたのは魔人の少年の左腕。
振り抜いたキャサリンの拳がぴたりと静止するのと同時に赤い飛沫が散って。
華奢な子供の腕が肩からちぎれて宙を舞い、その手に握られていた本が床に転がる。
キャサリンは殴打の感触を確かめると恍惚とした笑みを浮かべた。
その右手を握って開いてを繰り返す。
「バカな」
魔人の少年は苦悶の表情で呟いた。
左肩を手で押さえるが、その小さな手の隙間からは止めどなく鮮血が溢れ落ちている。
「ボクの『隷属魔象』を……解除した? いつの間に?!」
狼狽える魔人の少年の姿を見てキャサリンは身震いした。
頬が紅潮し、思わず口角が釣り上げる。
「いいわ! その顔が見たかったの!」
満面の笑みでキャサリンが言った。
「よくもこの私を今までさんざんこき使ってくれたわねぇ。私は人に使われるのは大大大大、大……っ嫌いなのよ」
次いで腕を組み、魔人の少年を見下ろすキャサリン。
魔人の少年は歯軋りすると再度訊ねる。
「いつボクの『隷属魔象』を解除した? 解除はボク以外にできないはずだ!」
「ええ。解除はしてないわ」
「してない?」
「ええ。してないわよ」
「嘘だ。スペルアーツの効力が生きているならボクに攻撃するなんてことはできない」
「でも私はしたわよ?」
「だからあり得ないんだ……!」
魔人の少年が声を荒らげた。
キャサリンは指を左右に振りながらチッチッチと舌を鳴らして。
「200年も生きれば頭も固くなっちゃうものかしらね。いいわ、回りくどいのはもうなし。私の質問に1つ答えてもらえるかしら。それであなたも分かるでしょう」
キャサリンはそう言って床に転がった本へと手を伸ばす。
「質問?」
「簡単な質問よ。今あなたの目の前に立つ可愛い可愛い私の名前はなんでしょーう?」
「それを答えてなんになる」
「あなたの疑問が晴れるわ。それとも私の名前なんてもう忘れちゃったかしら?」
「ふざけるな。お前の名前は■ャ■リン。それが────」
魔人の少年は異変に気付き、大きく目を見開いた。
どうやったかは分からないが、目の前にいる人物がスペルアーツの効力から逃れた理由を察する。
キャサリンは魔人の少年の様子を見ると満足げにうなずいて。
「スペルアーツは正しい音節と意味が伴って発動するもの。それは対象に巣食わせる『隷属魔象』も同じ。一度かけられたら解除できないのなら、名前の音節とそこに宿る個人を変えるまでよ」
キャサリンは肩をすくめると、手に取った本のページをビリビリと破り始める。
「苦労したのよ? 私の本来の名前と私の存在を紐付けている人間を皆殺しにして。それだけだと心許ないからわざわざこんな女装までして愛嬌振り撒いて。私は可愛い可愛い『キャサリン』だって音節と個人の上書きをして広めるの」
キャサリンは全てのページを破り捨てると、皮張りの表紙も力ずくで引きちぎって。
「それにしても面白い現象よね、これ。その名前単体を口にしても何も起こらないのに、私と紐付けてその名前を口にすると音が消えるの。意味と音節の結びつきに強く依存するスペルアーツの影響かしらね」
キャサリンはちぎった背表紙も床に捨てると、破ったページごと踏みつけた。
次いで指先を向ける。
「スペルアーツ『光弾魔象』」
指先から放たれた閃光が破ったページを穿った。
「『光弾魔象』、『光弾魔象』、『光弾魔象』、『光弾魔象』、『光弾魔象』!」
キャサリンは破り捨てた『隷属魔象』の本の残骸を執拗に撃ち抜く。
「…………アムドゥスに私が名前の上書きをしていることを見抜かれた時は焦ったわ。でもアムドゥスはそれを口外しないでくれた。あとはあなたが『隷属魔象』の本を手に取る瞬間を待つ必要があった。これだけの本の中からその本をあなたに気付かれずに見つけるのは不可能ですものね」
キャサリンは指先からたなびく細い煙を吐息で吹き飛ばした。
次いで自身の中から忌まわしい隷属のスペルアーツが消えたのを感じる。
ディアスとエミリアもその体に自由が戻った。
「お前にそれだけの知恵があるとは思えない」
魔人の少年が言った。
「やーねぇ。失礼しちゃうわ。…………まぁ実際これは私じゃなくてボスのアイデアよ。私の行動はあなたの命令に従ってるように見せて、本当は別の指示で動いていたの。あなたに定期連絡をするときも、その前にまずボスに報告してあなたに伝える内容、伝えない内容を選んでたのよ」
キャサリンは肩越しに振り返ると声をかける。
「ねぇ? ボス」
ディアスとエミリアも反射的にキャサリンの視線を目で追った。
その先にはいつから居たのか、複数の人影。
居並ぶその姿に視線を走らせると、幾人もの赤く発光する瞳とも目が合う。
そしてその一団の先頭に立つのは深緑色の髪と琥珀色の瞳の男。
金縁の片眼鏡と深緑色のマントを身につけ、その手には杖のような抜き身の白い長剣が握られていた。
その姿はディアスとエミリア、アムドゥスも覚えがある。
その男は冒険者の筆頭の1人。
【緑の勇者】の称号を与えられた4人目の勇者、ギルベルトだった。
「ギルベルトォオ……!」
その姿を見て魔人の少年が怨嗟の声を上げた。
すかさず必殺のスペルアーツを唱えようと。
「『死滅────」
だがその発動を物理的に阻まれる。
キャサリンの太い指が2本、魔人の少年の口の中へとねじ込まれて。
その指が少年の下顎を掴むと、キャサリンは思いきりその手に力を込めた。
魔人の少年はそれを失うと共に声を失った。
ゴボゴボという血の泡が弾ける音と、そこに時折小さな低い唸りが混じるだけ。
キャサリンは手に持ったそれを一瞥すると、それを投げ捨てる。
「最期に言葉を交わしておきたかったのですが、それももうできそうにありませんね」
顔の下半分を片手で押さえている魔人の少年の姿を見て、ギルベルトが困ったように言った。




