8-1
「…………うん」
アーシュは短く返事を返した。
だが視線は窓の外に向けたまま。
壁にもたれたまま身動ぎ1つしない。
「アーくん、ちゃんとご飯食べないと駄目だよ」
エミリアは片手に粥の入ったお椀を持ち、もう一方の手にスプーンを持って。
膝をついた姿勢でアーシュの口許へとスプーンを近づける。
「うん」
アーシュはまた短く返事を返すが、やはり何度言っても食事を摂ろうとはしなかった。
鮮やかな紫色の瞳も今は暗い陰りを孕み、艶やかだった黒髪は寝癖でボサボサになっていて。
元々アーシュは華奢な体つきだったが、複合魔宮の攻略以降まともに食事を食べていないためにさらに痩せこけてしまっている。
「アーくん」
「うん」
「アーくん?」
「うん」
何度呼び掛けてもアーシュは短い返事を繰り返すだけ。
エミリアはアーシュの視線を追って窓越しに空を見上げた。
そこには夜空の闇よりなお暗い、真っ黒な月が浮かんでいて。
空にぽっかりと空いた深い穴のようなその月の周囲で、無数の小さな星々が瞬いている。
エミリアは夜空からアーシュへと視線を戻した。
変わらずぼんやりと空を見ているアーシュ。
エミリアその姿をじっと見つめると肩を落として。
次いで粥の入ったお椀を下げに部屋をあとにする。
「アーシュガルドちゃんは相変わらずかしら」
エミリアは部屋を出ると声をかけられた。
エミリアは頭巾の陰から声の方へと視線を向けて。
見ると廊下の先から向かってくるキャサリンの姿。
キャサリンはトレードマークの三つ編みを解き、1本に弛く束ねていた。
太い首の横からがっしりとした肩、ムキムキのバスト、バッキバキの腹筋の上に束ねた髪を垂らしている。
エミリアはキャサリンの問いに小さくうなずいて。
「だから予定していた永久魔宮を通るのはやめて、山道の方に迂回した方がいいと思う」
エミリアが言うとキャサリンは頬に手を添えた。
悩むように小さく唸る。
「……私としては先を急ぎたいのよねぇ。永久魔宮の難易度もD相当って話だし、ディアスちゃんとエミリーに私のバフを加えればアーシュガルドちゃん1人を守りながら進むのは難しくないと思うわ」
「魔宮そのものの難易度はそうだけど、でもここ最近、魔人からの襲撃を受けている。またそうなったときに低難度の魔宮は逆に危険だと思うの」
エミリアはキャサリンを見上げると続けて。
「魔宮でこっちの身動きが制限される。侵食耐性の高い魔宮ならディアスとあたしが有利だけど、でも低難度だから侵食耐性はきっと高くない。だから相手は魔宮の上塗りを簡単にできちゃう」
キャサリンは困ったように眉根を寄せた。
ためらいがちに言う。
「それでもディアスちゃんとエミリー、私なら問題ないわ。…………ねぇこの際、1度アーシュガルドちゃんを施設や医者に預けるのも考えた方がいいんじゃないかしら」
キャサリンが言うとエミリアはすぐに頭を振った。
肩越しにアーシュのいる部屋の方を振り返って。
「アーくんはおいていけない」
「でも彼はとても旅を一緒にできる状態じゃないわ。今のアーシュガルドちゃんに必要なのは休息よ。魔宮や魔物なんかから離れて穏やかに過ごす時間が必要なはず」
「アーくんには身寄りがない。あたし達しかいないの。あたしはアーくんを1人残していくなんてできない」
「ならアーシュガルドちゃんが回復するまで休むのだって私はありだと思うけど? ディアスちゃんはひとまず魔力の問題は解決したみたいだし、それまでの残された時間を気にして旅を急ぐような必要ももうないでしょう」
キャサリンはそう言うと付け加えて。
「それでも早くに私の師匠のもとには向かうべきだとは思うけど。その身体の自食がかなり進行してるのには変わりないもの」
「────それもあるが、旅自体を休む暇はそもそもない」
キャサリンの背後から声がして。
2人が振り向いた先にはフードを目深に被ったディアスがいた。
ディアスのフードに潜んでいたアムドゥスも顔を覗かせる。
「ケケ、当然だぁ。いつ回復するとも知れねぇクソガキの回復を待ってなんかられねぇ。ブラザーもここで歩みを止めるつもりはねぇしなぁ」
アムドゥスが言った。
「青い結晶の魔物や人間がその力を使ったこと。魔人の動きの活発化。それらの異変と、そして俺は他の勇者に追われる立場だ。アムドゥスの言うようにアーシュの回復を待っている時間はない」
ディアスはそう言うとアーシュのいる部屋の方を見て。
「だがアーシュをおいては行かない」
次いでディアスはキャサリンに視線を移した。
「急いでいるところ悪いが、永久魔宮のルートはやめて山道の方から向かおうと思う」
ディアスが言うとキャサリンはやれやれと頭を振る。
「わかったわ。3対1で多数決は私の負け。そうしましょう」
「おい、俺様は別に永久魔宮の迂回に賛成してるなんて一言も言ってないぜぇ?」
アムドゥスが不服そうにフードの中で羽をバサバサと振った。
「もー、反対だとも永久魔宮を通るべきだとも言わないくせに」
「あん? 俺様は当然、永久魔宮を抜ける方がいいと思ってるぜぇ? だがブラザーと嬢ちゃんは俺様に言われて意見を変えたりはしねぇから仕方なくだなぁ」
「けけけ、アムドゥスもアーくんのこと心配してるくせに」
エミリアが言った。
「なんで俺様が人間の心配なんかしなくちゃならねぇんだ。俺様はクソガキがどうなろうと関係ねぇが、何かあったらブラザーと嬢ちゃんが気にしちまうだろうから」
「ふーん、あたしとディアスのことを心配してくれてるのは隠さないんだね」
「んなっ?! いいか! 俺様はあくまでネバロんとこに帰るのにお前らの力を利用してるだけだぁ。別に心配なんざこれっぽっちもしちゃいねぇぜ、ケケケケ!」
アムドゥスは意地悪く笑うと続けて。
「俺様は魔王の使い魔」
「けけけ」
「人を喰らう魔人の頂点の1人の相棒だ」
「けけけ」
「誰が相手だろうが」
「けけけ」
「ネバロにさえ」
「けけけ」
「情は」
「けけけ」
「────なぁ、嬢ちゃん。俺様の話聞いてんのか?」
「ううん、聞いてないよ。けけけけけ」
エミリアはアムドゥスに笑いながら答えた。
「それがアムドゥスの本心じゃないのはあたしもディアスも分かってるもん」
エミリアの言葉にアムドゥスは肩をすくめる。
「なぁ、ブラザーからも言ってやれよ。俺様が情なんか持ち合わせちゃいねぇってなぁ」
「ああ、非常食に情を持たれても困るからな」
キャサリンは3人のやり取りを微笑みながら聞いていて。
だが突然。
その顔色が、変わった。




