過去を解く鍵
前回までのあらすじ
普通の人生を送ってきた青年、十時華一は、ある夜、吸血鬼の少女、赤神緋音と出会い、彼も同じく吸血鬼の身に成り果てる。
その後緋音と行動を共にする人を殺さない暗殺者、黒木香織に説得され、夜にはびこる魑魅魍魎、“怪魔”を討伐する仕事に引き抜かれる。
怪魔討伐が板に付いてきた中、灰崎という男の手によって、九百年前に封印された悪鬼羅刹、四鬼士が復活。日本は混沌に見舞われ、華一もまたその一角、ヴェルダンディーの血を多く取り込み過ぎてしまい、自分を制御しきれず暴走する。
そんな中、明らかになり始める香織の本当の目的。華一を吸血鬼の王として擁立させ、世界の均衡を保つ以外の野望とは。
一方四鬼に囚われていた緋音は命からがら逃げ出した矢先、灰崎に手を組む提案を出される。
動き出す戦況。華一と緋音の運命が大きく動き出そうとしている。
両親が出稼ぎに家を後にしてから、今日で丁度百日が経った頃だ。親の帰りを期待する少年は、街の大人達の仕事を手伝いながら、両親の身体を案じていた。
自分よりも要領がよく、周りからも頼りにされる二人であったが、どんなに出来た人間でも、“病”の前には無力であったのがこの時代だった。
人々の体が突如黒く変色し、瞬く間に朽ち果てる流行病。
後に、「ペスト」とよばれる病の前身がこの病魔であった。
医療などまともに発達しているわけでもなく、どうしようもならない流行病には根も葉もないオカルトや迷信でいたずらな荒療治がまかり通る程、人々は為す術もなく病床に伏していった。
百日という期間は、少年の心に穴を開けるばかりか、街の大人達の不安を煽るにも十分な日数だった。そもそも、両親がどこに稼ぎに出かけたのかも知る者はおらず、一部では病に侵されている街を捨て、遠く離れた地に隠居しているのでは無いかという噂をする者もいたが、結局それは、「あの人達に限って」という信頼の句で締められた。
少年は結局、この日も帰ってくることのなかった親の身を憂慮しながら、仕事を終え眠りについた。もう十五にもなる少年は未だ、両親の温もりが残る毛布に身をくるんで明朝の仕事に備えた。
───────決して帰ってこない、二人の帰りを信じながら。
✕
ほんの数時間前のことであった。囚われの緋音の鎖を断ち切ったのは、その身を鎖でまきつけた他の誰でもない張本人、四鬼士のアスタリスクだった。静寂と、飢えと、恐怖で満ちた時間を破壊したのはまさに、その時間の支配者である男だったのだ。
男と交わした言葉は数える程しかない。男の目的はおろか、素性など結局知る由もなかったが、気が変わらないうちに逃げ出さなければならないと、緋音の本能が何度も訴えかけた。
命からがら……まさにこの状況こそそれに相応しい。あの超人にもはや感情の起伏があるのかすら不明だが、十時に、ましてや十時という姓そのものに何かただならぬ執着を持っているのは見て取れた。出来ればそれについてなにか探りを入れたかったが、あの状況下でそんな小賢しい真似が出来るはずもなく、ただ静かに剣を下ろす鉄人を前に、尻尾をまいて逃げるしか道はなかった。
───────しかしどうやら、緋音に運は着いて回らなかったようである。
満身創痍、必死にもがく道中で出くわしたのは、几帳面な黒いコートに身を包んだ、今回の騒動の元凶であろう男だった。
最悪の怪魔擬き、灰崎は、この期に及んでまだ息を続けているらしい。
「緋音君……私と、手を組まないか?」
奥歯を食いしばり、不快感を露わにするも、灰崎は全く動じず、自分の目的を身勝手に申告する。
「君にはもう、いい加減“役目”を終えて欲しいんだ──────────なにせ、もう何百年、この時を待っていたからね。」
✕
ずっとおなじような景色の繰り返しだ。明晰夢、というのは、人間だった頃にも数える程しか目にかかったことがない。少し客観的な言い方なのは、実の所、もう人だった頃の記憶が薄れ始めているからだ。これに気づいた時、心が空になっていくのを感じたが、今はもうなんとも思わない。
腹が減った、ということ以外には。
景色は移り変わるが、この移ろいにもパターンがある。俺はもうすっかりそれを暗記してしまった。
一面の麦畑が、風に揺れたり、陽を受けたり、そして踏みにじられ、燃やされたり。
村の人々が、誰かと話をしたり、誰かの誕生を祝ったり、誰かの死を悼んだり、そして全員死んだり。
至極つまらない。だってこの先に待ち受けるのは、どうせ空虚だ。地獄の後の無惨な無。全てがかき消され、ありったけ荒らされた後の、これっぽっちの希望も残らない無意味さ。
口からなにかが漏れる。
情緒豊かな頃は、この地獄をみたあとに口から溢れ出るものは、血反吐か、あるいは喉を焼き切らすような苦痛の叫びだったかもしれない。また、地べたにへばりつく血肉を目の当たりにして見るに耐えなくなった末の嘔吐……そんな反応さえも、俺からは色あせ、消えていた。
あくびだ。あくびがでた。
俺はこの地獄を、「退屈」だと感じているらしい。
ここでまだ、自分を取り戻して己自身を叱責するならば救いようはいくらでもあっただろう。
しかしもう、俺には人間らしい同情や憐れみの感性が存在しないらしい。絶望に慣れた人間は、堕ちるというよりも“薄れる”。
何千回と繰り返される景色の奥から、一人の少女が歩みよる。
四鬼士、飢餓の契を王と交わした鮮血のヴェルダンディー。
ならばこれは彼女の夢。どうやら俺の夢ではないらしく、意識ももうじき、彼女に支配されることを察すると、身体が一度悪寒に震え上がる。
「最悪の気分だ。」
「────────十時華一君。」
名前を呼ばれてもう一度身体が震え、頭が軋む。
「名前を呼ぶな」不快感からそう声を荒らげる前に、俺は気づいてしまう。
「たすけて……」
彼女は、泣いていた。
今も囚われ、狂王の復活のために利用されている緋音の姿と、面影が重なった気がした────────
✕
身体中の血が一気に躍動を始める。心臓の鼓動が大きく跳ね上がった後、それに釣られるように上体を飛び起こし、華一は当たりを見回した。人が出入りできる最小限の空間。四鬼が活動を初めてから一時的な拠点として置いたいくつかの仮設テントの中で、あるのは全体を灯すランプと、さっきまで朽ちていた吸血鬼の少年、そしてそれを包む一枚の毛布のみだった。
状況は、記憶が混濁していてよく思い出せない。身体中から力がみなぎる。おそらくは“彼女”の血と自分の血が徐々に適合し始めているからだと考察する。
すぐにでも動ける状態ではあったが、四鬼の内二騎と交戦して華一は十分すぎるほど理解していた。
今の自分達で四鬼に適う者が一人として居ないことをだ。
四鬼は全員、自分達とは遥かに遠い次元にいる事が、華一にはこれ以上ない程に分かっていた。片桐はまだしも、香織は直接四鬼と戦闘したことはない。つまり、「1対1で戦力を分散されば、勝機はある」という結論に落ち着きかねない。
片桐はヴェルダンディーと一度戦っているが、華一が考えるに、片桐と彼女の能力の相性は悪い。全てを喰らう片桐に対して、飢餓や無痛で血が止まらなくなる外傷、そして恐らく回避不可であるあの蜃気楼のような攻撃──────────
片桐がもし、彼女ではなく、他の四鬼の誰かであれば自分の能力で立ち回りができると考えているならば、もうすでに自分を抜いてでも行動していて不思議ではない。
華一はすぐに全体を起こして、三人が共有する少し広めのテントに入る。やはりそこには、誰の姿も見えなかった。
「まずい……!」
✕
外の光景は、まさに異様だった。
SNSで仕入れる情報にも限界が見え始め、ついに国家的に何かが圧倒的に機能していないことを危惧した片桐と香織は、直接外に出向いて、都心部の辺りまで車を出した。
道中、交通機関は機能していないことは充分みてとれた。高速道路にも、行き交う車の姿はなく、これはいよいよ機関というよりも、そもそも人々の状況が危うまれた。
東京、池袋。確かにかつて、ここには埼玉と東京の際に位置する都市が広がっていたはずだが……はっきりいって、見るも無惨な瓦礫の山であった。
「やられているな……」
「いや、何かおかしくないか。」
疑問を呈したのは片桐だった。
「四鬼は、東京、埼玉、神奈川、千葉に分散したはず。ここは埼玉に近い位置ではあるが、首都東京の圏内だ。そして東京を管理しているのはあの鉄血。アスタリスク。あいつは……王の復活のために緋音を捕え監視していたはずだろう。つまり、ここまで派手には動けない。」
「ではこれは一体誰が……」
片桐の背から、一尾の黒蛇が伸びて、瓦礫を“喰らう”。
しかし、手応えはまるでなく、幻のように、瓦礫は消えていった。
「これは……まさかここにあるもの全てそうなのか?」
「─────────どうやらそのようだぜ。」
背筋をつたう悪寒を連れて、北風が強く吹いた。そこに影のように佇む気配が一つ。黒い傷んだ装束に身を包む蒼白の肌の男であった。
「お前は……」
「四鬼士……冷血。病の契。カルマ……お前らをここで殺す鬼の名だ。」
男の素足が砂利を踏みしめながらジリジリと距離を詰めてくる。四鬼の内の一騎、カルマという男はこの時点で初見だった。目も当てられないほど痩せた体は、ボロ雑巾のように使い古された黒い装束を羽織っている状態でもよく分かる。
「待て。おまえはこの惨状を知らないのか?」
片桐の質問に、カルマはその歩みを止め、訝しげな表情を浮かべて舌を打つ。
「お前なあ……“これ”が俺たちにとってなんのメリットになると思う?俺達は血が欲しい。こんなガラクタをぶっ壊すことじゃねえ……」
まだ真相の程は分からないが、少なくともこの物言いからカルマは関与していないことだけは明らかになった。不機嫌そうな顔でカルマは続ける。
「ココ最近……人間の血の気を全く感じなくなっちまった。数だけ増やしたゴミ共の匂いは、復活してから鼻が曲がるほど入ってきたってのによォ……アスタに話を聞こうとわざわざ出向いてやったらこのザマだァ……血どころか人一人の死体もいやがらねェ……四鬼も知らねえ人為的な何かが起こってる……それだけでなァ、腹が立ってしょうがねェんだよォ!!」
「崩壊した都市……それが誰かの見せる幻だとでも言うのか?四鬼でも無いとしたら一体……」
推測する香織は一つ間を置いて、その目を見開いた。思い当たる節がある顔だ。片桐がそれを確認するよりもはやく───────黒い霧が一瞬で当たりを濡らす。
それは身体の隅から入り込むように全身を蝕む、砂のような質感をした異質な匂いの霧だった。カルマ。病の契……
だとしたらこれは、人の体に直接影響を及ぼす有害なガスとでもいうところだろうか。
「片桐!吸うな!」
「分かっている!己が食う!」
片桐の外套の背後から無数の蛇の形をした影がのび、息を吸い込むようにして霧を飲み込んでいく。片桐自身にも害はなく、黒い蛇、“饕餮”と名高い中国の怪魔にもなんら支障はない。
つまり、片桐のあらゆる物質、概念を喰らい尽くす能力は、“病魔”という概念を人為的に引き起こすカルマに対してすこぶる相性がいいという計算になる。
(灰崎……これを読んでいたのか?)
香織の推察は恐らく的中している。
四鬼が復活してから、灰崎の姿をめっきり見なくなったことに香織は違和感を感じていた。残虐で、冷徹で、それでいて掴みどころのない飄々とした一面を時折のぞかせる紳士の皮を被った獣のような男。それが灰崎である。
香織は灰崎の部下であった片桐よりも、その男を熟知している。
故に、姿を見なくなった、話を聞かなくなったということは、男の死を意味するものではなく……男がなにか別の暗躍を始めたことを示唆するというのは彼女にとって容易に想像できた。
綿貫や片桐、灰崎が年端のいかない少年少女達に“怪魔”を植え込む一種の実験を行っていたのは、何かの布石だったのかもしれない。そこまで行き着いても、その先の答えは、今の香織には導き出せなかった。
「気に入らねェなァ……“四鬼”に対して“四凶”をぶつけようなんざ考える奴がァ……」
饕餮。中国の四つの災厄、“四凶”と括られる内の一角であり、あらゆるもの、とくに財産を貪り尽くすと伝えられる位の高い“怪魔”……
青白い顔を歪ませながら、カルマは聞こえる程の音で歯ぎしりをする。
分が悪い、と感じるのは当然だった。恐らくカルマとて、本気を出せば目の前の二人の人間など造作もない。
しかしその“本気”はそれ相応のリスクを伴う。それがカルマにとってもっとも憂慮すべき点だった。
「ここで解放すんのはまずい……」
うわ言のように呟いたそれを、“小さな星”は聞き届け、否定する。
「────────その必要は無い。」
曇天を割り真昼に流れる流星。それが地に降り立つ時、片桐も香織も、カルマさえも驚愕の表情を隠せず身を震わせた。
「なんで……」
「状況が変わった。カルマ、ここは引く。他の鬼もだ。“鍵”は赤神には無かった。我々の負けだ。」
負け。あの無敵の鉄人がそんなことを口にする。冗談とも思えるほどの台詞だが、冷徹をそのまま被ったような鉄仮面の如く冷たい顔は心做しか口元が震えていた。
「お、おいアスタ!お前の話じゃ“鍵”は赤神の末裔が持ってるってはずだろォ!?あれは血の中でないと形を保てねえ代物だ!あの女以外にだれがそれを保持できる!?」
「だから言ったはずだぞ。状況が変わった、と。“鍵”はこの世に二本存在する。太陽と“月”……!あの女はそのどちらも持っていなかった。これで振り出しというわけだ……!」
極めて冷静ではあるが、その声色はやはりどこか怒りに近しいものを含んでいる。カルマにはその声は怒号の如く突き刺さったらしく、枯れ枝のような肌に冷や汗を湿らせて、瞬く間に二人の鬼は視界から……消えた。
「何だったんだ……」
鉄人アスタリスクの放つ内臓ごと握りつぶされるような圧から解放されて、ため息混じりにでた安堵の声がそれだった。
太陽と月、そして鍵。謎は増えるばかり……に思われた。
「そうか。あれはやはりバレなかったようだな。」
香織が体制を整えて、そんなことを口にした。
「どういうことだ……?」
「───────よし。この辺りが潮時か……片桐。アスタリスクはここに現れた。彼の焦り具合、発言の内容からして、緋音はもう奴らの手中から脱している……いや、逃がされたと言うべきだ。もう奴らはあの子に用はない。これは私の……“私達”の計算通りだ。」
随分回りくどい事をしたが、と一つ間を置いてから、香織は表情を変えずに口にする。
「私と灰崎は────────二百年前からこの時のために動いていた。」
✕
勢いよく外に飛び出して、香織さんと片桐の匂いを感じ取ろうとしたものの、どうやらかなり遠くにいるらしく、その足取りは全くと言っていいほど掴めなかった。
嗅覚を限界まで研ぎ澄ます。雨に濡れて湿った土、腐った樹木、そこから外れたところには段々と町の匂いに移って行く。年季の入った家屋の匂いから、耕された畑の土の匂い。これは森のような手付かずの腐葉土あたりの香りとは少し異なる。
徐々に様々な匂いが入り交じる……田舎から都会へと俺の感覚が行き及ぶ。正直ここまで感じ取れることに驚いてはいるが、ここまできてもまだ二人の匂いを察知することはない。
もっと、もっと奥……そうして感覚を行き巡らせて、気付く。唐突に行き止まりに突き当たったことに。
これはあまりにも不自然な現象であった。ヴェルダンディーの血を取り込んでから、爆発的に進化した吸血鬼性でも、これ以上は及ばないと断言せざるを得ない状況だ。
範囲を超えたというよりも、意図的に遮断された、という方が適当だった。
悪寒が全身を襲う。すぐに背筋を弛緩させて、息を吐き出すようにして巨大な翼を広げて飛び立った。前は出来なかったことが当たり前にできることは、もうこの際驚くことではなかった。こうも無感情なのも恐らくはあの女のせい……自分がだれかに侵される感覚を気味悪がりながらも、空中を風に乗って急ぐ。
上空から俯瞰した風景は、なるほど、どおりで“人の匂い”がしなかった訳だ、と気づかせる。家屋の様子や、町に駐車されたままの車体などをみるに、人の群れとしての生活感は色濃く残っているのに、全く人影が見当たらない。
まるで人という人がごっそり“神隠し”にでもあったように。
ならば、あの二人も例外ではない。はやる気持ちが俺を急がせた。
✕
男は淡々と語った。九百年前の狂王が引き起こした厄災、四鬼の詳細や、自分“達”の計画。二本の“鍵”を使い、狂王を復活させ、ある人物にその血ごと存在を取り込ませる……
「それが、私……?」
「そうだとも、君はその為に用意された。我々は、この機を伺っていたのさ。」
「────────二百年も?」
自分の質問がまったく現実味のないことは、その本人が一番理解していた。わかった上で、聞いている。男の言うことは全て出鱈目のようにめちゃくちゃで、全く信用しがたい。
香織と、灰崎という男。
この二人は二百年も前から、狂王の復活を目論んでいた。
私や華一を騙して、ある一つの目的のために。あれほど手の込んだ芝居を打って、華一の同級生までも見殺しにして、それ以外にも何人もの人を犠牲にして、四鬼なんていう厄災そのものを解き放って、それらを全て明かした上で尚、この男は私に「協力しろ」というのだ。
「二百年。二百年だ。まあ、もう今更“永かった”なんて文句は口にしないよ。しかし、楽な道ではなかった。私の想定通り、アスタリスクは君を逃がしたことだし……君達ももう拠点を変えるといい。これからは長くなる。」
「ちょっと待ってよ……!じゃあアンタらは、ずっと私達を……!」
「“騙していたのか”とでも言いたいのかね?」
否定はしないよ。灰崎はおもむろに取り出した煙草に火をつけて言う。その仕草は幾度となく見てきた、香織の一服のそれに酷似していた。細部ではあるが、ライターもよく見れば同じであることに気づき、気味が悪くなる。
「いや、君達がみた我々の全てが虚構だった訳ではないよ。事実香織君とは先日かなり久しぶりに会ったし、香織君は一時期“この計画”から身を引いていたから“四鬼”の存在もよく知らなかった。綿貫君の件であそこまで本気になったのも偽りは無いだろう。
しかし、ね。私と香織君はやり方が違うだけなんだよ。目的は同じだったが、互いの価値観の相違がここまで計画を長引かせた。」
言い訳じみた弁明を長々と語るが、男の目はもはや過去、そして今にすら向けられていない。ただあるかも分からない未来を、その一点だけを光無き目で見据えている。
「私が“怪魔”という魑魅魍魎に目をつけ、香織君と出会ってから今に至るまで、この機を待ちわびていた。さあ、着いてきたまえ。詳しい話はそこでしよう。」
灰崎が吐き出した煙は、たちのぼり、雲と同化する。
✕
幻。それが何処から始まっていたのか、王の血を分けた四騎の精鋭ですら全く感じ取れなかった。街の瓦礫、つまり、破壊工作がされたように見せかけた幻は事実、巨大な計画の一端に過ぎない。
例えば……カルマが堕とした国の脳、国会議事堂での襲撃、あれはこの国を支配下に置く大きな決定打となったはずであったが、あれすらもただ幻影の中で踊らされていただけというこれ以上ない屈辱に、鉄血は気づいてしまった。
彼が気づきさえしなければ、この幻からは永遠に逃れることは出来なかっただろうと、一堂に会した四鬼の全員が口をつぐみながらも思案した。
「ええーと、つまり、私達はめられたってことですかね?」
「……こんな芸当、怪魔だとしても度が過ぎてんぞォ……」
「あーあ……折角これから楽しくなる所だったのによぉ、いけ好かない奴も居るもんだな。」
「……各位、血は集まったか。」
四鬼が狂王を復活させる大前提としてまず不可欠だったのが、大量の生き血であった。当初の動きでは、四鬼は四県に分散し、それぞれの血統、契を駆使しながらも、人間から血を集めるのがその流れだった。
それが無ければ、王を復活させる土台すらも満足に作れていない事になる。それを口にするのはやはりはばかられた。何処の馬の骨ともわからない者に一杯食わされたのは、四鬼にとって“二度目”であったからだ。
「……仕方ない。ならばまずは鍵を集める。太陽と月、鍵は棺の解放にいる。奴らの手に渡ることだけは避けたい。」
「んー、でもそれって、どこにあるか私達でもわからないんですよね〜?お嬢さんの血からもそれらしいものは見つからなかったようですし……詰んでません?」
「お前が見逃したんじゃねえの……アスタ、月はまだしも、太陽を取られたなんてことがあったら俺らは終わるぞ。アレだけは二度とごめんだ。」
「俺に任せろォ……」
黒い外套を纏う男、カルマ。
「奴らは全員、俺が殺す。」
額に刻まれた十字架は、黒い輝きをいっそう強める。
✕
───────その昔。この島国にある一族が渡来した。どこから来たのかも分からないが、話す言葉は島国に住むもの達と同じだった。その渡来人達は島国の人間に、ある教えを伝えた。
この世界には全ての不幸から人を守り、あらゆる幸せに人を導く神がいた、と。
我々人間にはかつて神に施された種として、今は遠くに消えてしまったその神を呼び戻す使命があると。
その教えは徐々に広まり、渡来人達は島国の人々に教えを説く立場として、高い地位を得た。信心深い渡来人は、開拓されていない山奥に住まうようになり、ときたま降りてきては悩める人々を導いた。
ある日のことである。
町で悉く不幸が連続した。流行病や、それがもたらす死、目に見えぬ不可思議な事象もまた立て続けに起こった。
そして、月が赤く染る夜。
“百鬼夜行”は起こった。
現世は地獄と見紛うほどに荒れ果て、焼き尽くされていった。
この世の裏側に住み着き、表のこの現世に良からぬ影響を及ぼす妖。それら魑魅魍魎の類は、あくまで言い伝えとしてでしか人々には認識されていなかったが、ある時を境に、少しずつ姿を顕にし始めた。
それらがこの夜。まるで軍勢のように群れを生して、集落を荒らし尽くしていた。
異形の姿、摩訶不思議な力、彼等はこれらを“怪魔”と呼び改めた。
その怪魔による進軍、“百鬼夜行”を止める術は終に誰も持ちえなかったが、ただその様子を見て山奥から降りてきた渡来人達は、怪魔共を聖なる清い力で封印した。
✕
「いや、君が存外素直で助かるよ。真実を知りたいと願うその一心だけで、私に着いてきた。さて、そうなったのならばもちろん対価は用意してあるとも。君が大人しくここまで来てくれた礼として、大方のことは話すつもりだ。今話したのは……九百年前に起きた事の発端だね。」
今の灰崎には、初めて相見えた時のような総毛立つような殺気はない。
紳士らしい落ち着いた雰囲気で、いくつかの本のページを捲りながら話を進めていくその様は、まるで学校の先生のようにどこか聡明な大人の空気があった。
「聞きたいことが多すぎる。アンタらは一体、何を目指してるの?」
「待て待て、焦るのは良くない。焦れば折角蓄えた知恵も理性も踏み倒されてしまう。事は順番に話すのが一番わかりやすい。」
いつか華一や香織と共に訪れた灰崎のアジト。そのさらに奥にある広大な地下の書斎には、九百年前の出来事や、怪魔、吸血鬼に関連するような本が几帳面に陳列している。
黒い革の手袋で一冊ずつなぞるように確かめて、あったあった、とあたかも“普通の大人”のように資料を漁る。
「百鬼夜行という事件はね、さっきも言った通り簡単に言えば怪魔が徒党をくんで進行してきた暴走なんだよ。これまで目に見えていなかった伝承のような存在が、目に見えて敵意を持ち襲ってきたというのは、当時の人間にとっても大変な恐怖だったろうね。
だがなにより注目すべきは……渡来人の存在だ。どこからともなく現れ怪魔を封印した彼等は、それだけ特別な力を有していた。」
「怪魔を封印するような力なんてあんの?私は今まで、全部“月写し”で殺したけど。」
身体中の血脈が熱くなる。月写しは、香織と出会ってすぐ、アイツがわたしのために打った怪魔殺しの刀。人には一切傷をつけられない代わりに、怪魔であれば確実にその刀身が体躯を切り裂く一点物だけど、四鬼に通用するかどうかと言われれば、多分……無理だ。
「あー、その話も後でしよう。ともかく今はその“渡来人”だ。私もこればっかりは何度調べても釈然としないのだがね、一つだけハッキリしたことがある。彼等はこの地で脈々と繁栄しているんだよ。性を……“十時”としてね。」
鼓動が跳ね上がる。その一言を聞いただけで、頭の中で連鎖的に事象が繋がっていく。
華一……アイツと初めて出会った時、そして名前を初めて聞いた時の曖昧な不快感、私の血があまりにも早く馴染む身体、そしてなにより、あの時は適当に聴き逃していた香織のセリフ……
「十時……そうか、とんでもない人材を引き抜いてしまったようだ。」
あれは、あの時点で香織は、“十時”について何か知っていたのか。不安に似た何かが心の中を錯綜する。
こうなってくると、華一があの夜、仕事終わりの私を追いかけてきたのも、私がわざわざアイツを眷属にしたのも、ただの偶然だとは……
「君は分かりやすいね、考えることが手に取るように分かる。華一君は、確かに十時の名を、そして血を引いているだろうけどね、彼に怪魔を封印するなんて力はないよ。そんな力を持っていたのはむしろ、渡来人として現れた十時の一族の中でも“二人”しかいない。」
「……それって。」
「十時の首魁的立ち位置であった男と、その息子だ。名前までは分からないけど、この二人は別格だったようだね、百鬼夜行を食い止めたのも、後の“狂王封印”も、ほとんどこの二人の功績だと見ているよ。」
そう言って灰崎はまた本棚に向き合い、今度は赤い分厚い本を抱えて戻ってきた。
机にただ置いただけで、その重みと振動が伝わる鈍い音がする。九百年前の歴史の重みがそのままのしかかるように、本は他のものとは違い悠々しく鎮座している。
「とはいっても……実はね、狂王の封印に関する資料はどれも曖昧で、いくらかき集め仮説を立てても薄っぺらい話になってしまう。それが歴史の流れだと言われれば確かにしょうがないのかもしれないが、どうも腑に落ちない。この分厚いのには、四鬼とおぼしき王を守る騎士の存在、そして狂王の伝説、後、君に少し話した“鍵”の存在について書かれている。聞くかい?」
返事の代わりに沈黙で返す。灰崎はそういう対応にはもう慣れているように、特にラグもなく私の心中を察して本を開き、話を進めた。
「王は……昔はこの星のどこかでひっそりと夜を見守る影のような存在だったと書かれている。“狂王”と呼ばれるようになったのは、ちょうど四鬼を匂わせる存在が本に書かれる少し前だ。
驚くべきなのは……十時の一族と狂王が日本の地に踏み入れたのが、ほぼ同時期ということ。それまでに王の身に何があったか、そもそも王はなぜ王として君臨していたか。両者ともに日本を目指した理由は何か……知りたくはないかい。」
「そしてこれはかなり根本的な話なんだが……この“本”自体は、一体誰が書いたのか。疑問は尽きない。」
灰崎は少し熱くなる。少年が夢について語る時のような無邪気さの裏に、知識に対してどこまでも貪欲な欲望を孕んでいるのが見えた気がした。時折この男が覗かせる純朴な一面と、その裏にへばりつくような狂気。
その二つが表裏一体となった存在こそ、この灰崎という男なのだと思う。彼を見て、そういう表現をしたくなる。
「その本を書いたのが誰かなんて……私はどうでもいい。そんなことより私が知りたいのは……」
「ああ、分かっているとも。香織君と私の関係だろう?私はつい話の骨に肉を付けすぎてしまうから、どうしても長くなってしまうかもだけれどもまあ……ゆっくりと聞いてくれたまえ、今からするのはただの過ぎた話、昔話だよ。」
✕
「───────とまぁ、そんな所だ。」
「貴様……」
灰崎という男の下で育ち、暗殺や諜報など、血塗られた道を歩いてきた片桐でさえも、香織の言っていることは“異常”の一言に尽きた。
彼女が話したその全ては、あまりにも常軌を逸している。ただの人であったものが、自らの体に呪いをかけながら生きながらえて尚、その計画を完遂させようとする確固たる意思は、誰の目にも醜悪に、意地汚く映るだろう。
「私達はこの機会を待ちわびていた。やり方は違えど、チャンスは今しかない。二人の吸血鬼は……破滅から全てを救う。」
「……十時には伝えるのか?」
「いずれ、な。あいつには当分このまま動いてもらう。今更意志が揺らいでしまっても困るし、はやいとこ緋音と合流して拠点を写しながら“鍵”を探そう。あの場所を知り得るの者はこの世に存在しない。」
淡々とした口調で話す暗殺者。彼女の奥底に眠る煮えたぎる執念を感じ取ったもう一方の暗殺者は同業者を酷く忌避した。
……彼女には、悪気とか、悪意なんてものはない。
気の迷いなんてものもあるはずが無く、ただ目の前に定めた道を何があろうと突き進んでいるだけだ。それ故に、邪魔なものは即刻切り捨て、利用できるものは使い尽くす。
彼女に“思いやり”なんて生易しいものがあるかどうかは分からないが、これでは華一や緋音が騙されてる、と言われてもなんらおかしくは無い。しかし再三言うことになるが、彼女にそんなつもりは毛頭ないのだ。
それだけは分かってしまう。彼女の腸まで分からなくとも、そういうやり方は、片桐が付き従っていたあの男そのものだ。
「とは……いえ。」
「片桐、何かを救う、というのは、とても難しい。お前はきっとあの男の下で、ただ壊すために、殺すために生きてきたのだろう?見てればわかる。私もかつてはそうだった。」
「だからあえて今この場で言うよ。お前は、正しく生きろ。
そうすれば自然と、守るべきものも、成し遂げるべきことも見つかる。」
「貴様は……何を言って……」
黒木香織が、灰崎と目的は同じでも、やり方が違った理由を垣間見る。彼女の顔は見えないが、タバコの煙は力なくたちのぼっていた。
「──────────いた!」
瞬間、強風が背後から吹き付けたかと思えば、巨大な翼を畳んで地を抉りながら降り立つ者が一人。
二人の姿を確認して、安堵の表情から息を切らし、膝に手をついた。
十時華一である。
「大丈夫でしたか……!?目が覚めたら二人とも居なくて、なんかあったんじゃないかって……」
「いや、四鬼の内一体と交錯したが、激しい交戦とまでは行かなかった。端的に話せば状況が変わってな。四鬼も私達も、もうこの辺りに用はなくなった。“捜し物”を探しにいくぞ。」
「──────────は?」
✕
辺りは夜の帳が降りて、すっかり暗くなる。肌寒くなってくるこの時期は、日が暮れるのも急に早くなる。
季節は秋……華一には少し、思い出深い季節でもあった。
中秋の見事な満月を見上げて、感傷に浸りながらも、華一は準備に急かされていた。拠点を移す準備である。一度実家に帰って、必要なものは大方香織の車に詰めておいた。
実家に戻る道すがら、香織からは事の顛末を聞かされた。
都市が大規模な被害を受けたかのように演出し、四鬼をも騙して見せた何者かの存在、そして、四鬼が順序を飛ばしてでも血眼になって探し出さなければならなくなった、“鍵”の存在。
香織によれば、この鍵というのを、どうやら四鬼よりも速く見つけ出し、こちらの手中に収める必要があるらしい。
作業がおわって、車に乗り込みエンジンをかけてから、香織は一言華一に呈する。
「すまない。十時。」
それは、実に香織らしくない言葉であった。華一は完全に面食らったという顔で、ミラーにうつる香織の顔を覗き込む。
「いや、調子狂うな、やめてくださいよいきなり。」
はっと意識を取り直して、しばらく処方していなかった吸血鬼の力の暴走を抑える錠剤を飲み込む。懐かしい独特な苦味が喉を通り抜け、少し前の雰囲気を思い出す。あの時は、緋音がいた。
「十時、ここからは長旅だ。我々は……しらみつぶしに“鍵”の在り処とおぼしき場所を当たらなければならない。そこに鍵がなくとも、怪魔が跋扈しているようであれば、当然それにも対処にあたる。必要な過程だ。」
「ええ。緋音が居ないのは少し不安ですけど……もうあいつは大丈夫なんでしょ……?」
拳を握る。不安から来る挙動だ。なぜなら、緋音は四鬼の支配を脱しても、また厄介な人物に邂逅してしまった。
……灰崎。恐らく緋音は奴と居るだろう。と香織は推測したが、それは華一にとって気が気ではない。
あの孤独な少女は、四鬼の下で相当神経をすり減らしたはずである。それがまたもあの狂気の塊のような男の手に落ちたとなれば、大丈夫、なんて口が裂けても言いきれない。
「恐らく……な。それも含めてだ。元はと言えばお前は……育ての親を亡くしたばかりで傷心だったところを我々が無理矢理引き入れ、こんな事に巻き込んでしまった。」
声の調子はいつもと変わらないが、どこか力の抜けている香織を持ち直すように、華一は首を振る。気にしないでください。とまでは言えない。
実際に華一も、とっくに脳の容量を超えている。精神的にもだ。祖父だけではなく、旧友の死。自分がならなければならないらしい“王”という存在と、その役割。そして誰よりも孤独な自分を変えた吸血鬼の少女。
華一にとって、不安や恐怖は今までまともに味わってこなかったものだった。それ故に、余計にその重圧がのしかかる。
だが、それでも。
「俺、もっと頑張ろうって思えたんです。」
「───────?」
「正直、まだ香織さんの言ってる事の全部が分かってるわけじゃない。だけど……緋音に寄り添ってやれるのは多分俺ぐらいだし、四鬼だって……何かもっと複雑な事情があるんだと思うんです。ヴェルダンディーの血を取り込んでから、アイツがよくチラつくんですけど……俺は、アイツらだって、何とかできるものならしてみたいってそう思うんです。」
自分でもよく分からないけど、華一は少し困ったように笑うと、香織はそれをみて安心したのか、口元を緩めた。
「お前がそういう“人間”でよかったよ。」
そう言われて、華一ははにかみながら、車窓の外の枯れ始めた並木を眺めた。
その横顔もまた、片桐がだまって見つめる。
香織の発言の意図を勘ぐってしまう片桐は、葛藤を抱えていた。
「────────“鍵”は、この国のどこかに眠る狂王の棺を解く二本の“刀”のことだ。同時に九百年前、狂王を封印した刀とも言える。」
「刀……」
「現世を司り、陽の性質を持つ“天照”もう一方は、この世の裏側を司り、陰の性質を持つ“月詠”。これは……緋音の持つ“月写し”のオリジナルだ。」
「……!月写しの……!」
最も─────香織はそう付け足してから続ける。
「月写しは錬金術をフルで活用して私が打った最高傑作だけどね。」
香織の錬金術の腕は、華一も一度目の当たりにしている。現に首から下げている祖父の形見のペンダントは、香織の手によって華一の力を限界まで引き出す礼装と化した。
しかし、話の違和感に華一は気がつく。
「ん?でもそれだと辻褄が……」
「そうだ。月写しと“月詠”は同じ一本の刀。ではなぜ私が打ったのか、という表現になるかについては……すこし複雑でね。
月詠は実ははるか昔、それこそあの灰崎が探し当てている。」
「……!ボスが……」
「しかし何に使ったのか、破損が酷くてな……まあそもそも最低でも九百年前に打たれたものだから、万全の状態であることは難しいのかもしれないけど、さすがに狂王ほどの存在を封印した刀なのだから、そう簡単に壊れるものではないと思ったんだがね……
とりあえず、“打ち直す”ことにした。万が一のために、その力をほとんど抑制してね。」
「それが“月写し”……てか、よく修理なんて出来ましたね。」
香織は特別苦労を語るわけでもなく、なんとなく上手くいったんだよ、という風に飄々と話す。
しかしそうなった場合、月写し、つまり陰の性質を持つ“月詠”という刀は既に緋音が所持していることになる。
これは大きなアドバンテージになるのでは、と華一は推測した。
「まあ、ご察しの通り残るは“天照”だけなんだよ。四鬼は“月詠”もまだどこかに眠っていると思い込んでる。私の渾身のフェイクが効いたよ。」
「でも、月写しにも問題があるんじゃ……?力を抑制した状態じゃ、四鬼と渡り合うことは到底できないでしょ。」
月写しとは、いわば月詠の仮の姿であり、未完成の欠陥品とも言える。意図的なものがあるとはいえ、あのバケモノ四騎に対して打点がなければ意味が無いと華一は言う。
「そこは難しいな……月写しという未完成の状態で我々が保持して手元に置くことで、相手側に月詠を実質的に収めていることを悟られずに狂王の解放を止めることができる。」
「……なるほど、じゃあ俺たちはこれから、そのもう一方の“天照”を捜すんですか?」
「ああ。だが肝心の天照は……何処に眠っているか、皆目見当がつかん。だがそれは四鬼も同じだ。
“天照”という刀は、人やその他の生物、自然等現世の生命を司る刀───────つまり、現世の命の循環から既に外れている“怪魔”には到底感知できない代物なんだよ。
文字通り、住む世界が違う。」
車が高速道路に入ったところで、香織はまだ状況がうまく飲み込めていない二人の顔をミラーで伺うと、もう少し噛み砕いて説明を始めた。
「十時、君はもう“怪魔”の身だが、片桐はまだ“人”の比率が多い。私に至っては完全に人間だ。何処に眠るかは分からないが、天照は純粋な魂に惹かれるという伝承がある。まあ〜正直信憑性で言えば不安が残るが、人間の私が居るのは天照捜索にあたって大きなアドバンテージだ。」
「待て……天照は狂王復活の鍵である前に、絶大な力を秘めた刀……いくら物が強くても、扱う者がただの人間では非力なのではないか?」
香織はため息をついてから、気だるそうにハンドルを握ったままで期限の悪そうな声色で言う。
「お前さあ、いつ私が“天照”は私のものだって言ったんだ。これから敵も本気を出してくるだろうに、私なんかがそれを持ってちゃ宝の持ち腐れってやつだぞ。まあ、まだ見つけられるかどうかも確かな話では無いが……月写しが緋音なら、私個人としては、天照は十時に使ってもらうつもりだよ。」
「俺が……?」
✕
そろそろ、戦局が動き出す頃だ。
ここまでは計算通り、刀を奪い合い、勝ち取った陣営に軍杯が上がる仕組みを作ることが出来た。
幻にもうまく引っかかってくれたようだし、これからはステージ2、日本全土を戦いに巻き込む事になるやもしれん。
刀の在処は生憎分からない……だが“天照”は確かに存在する。“月詠”が存在している時点で既にそれは確定した事象だ。
希望的観測は抱かない。少しでも期待してしまえば万が一の事態が起こった時全てが狂う。
ここまで時間はかかったが、今に至るまで費やしてきたその全て、等しく規模も重みも関係ない。ただこの時の為に生きてきた身としては、この瞬間こそ自分自身の全てをすり減らすに相応しい時なのだ。
……刀を見つけ出すのは困難を極める。黒木香織率いる「新王擁立派」と、灰崎や四鬼の掲げる「旧王復活論」。
どちらにも善悪は存在しない。今のところは……最終的に勝ったものが正義であるのだから。
灰崎と四鬼が手を組む可能性はほぼないと見て間違いはなさそうだし、緋音も直に黒木の元に戻るだろう。
両目が激しく痙攣する。ただでさえ暗い地下で、蝋燭の灯り一つも靄がかったように曖昧になってきている。時間がない。
天照が眠る地の目星はいくつか着いている。全体を誘導させる手筈になっていたが、それも上手くいったようだ。順調すぎて怖いくらいだが、このまま全陣営を“北”へ流れさせる。
北の地には他の地と比べ物にならないほど蠱惑的な伝承が幾つも残る……古来より日本に住まう“上級怪魔”相手に諸君らがどう戦うか、しばらく見物させてもらう……
✕
不思議な空間だ。
ここが自分の夢の中であるということだけ、何故かはっきりと分かったのが余計に不思議だった。
漣のような音が反響し、果てしなく続く青空は頭上にも足元にも広がっていた。
目の前に、一人の少女が立っている。
その少女の存在に気付いた時、心臓が一瞬締め付けられるような気持ちになった。彼女がとても綺麗に見えたからかもしれないし、彼女の過去を一度見てしまったからかもしれない。
光を柔らかく溶かした白い肌と、どこか遠い地に広がる麦畑を思わせるような懐かしい匂いの金髪。額のおぞましい十字架は消えていて、夜の闇を射抜く深紅の瞳も、彼女本来の眼の色に戻っていた。
何を問いかけるわけでもなく、彼女はそこに静かに存在している。
自然と足は進み、彼女の近くへ歩み寄る。心地いい漣の音以外、二人の間を遮る音は無いのに、どうやら俺はもっと近くに行かなければ俺の声が聞こえないと思ってしまったらしい。
彼女が近づくにつれ、一度でも彼女と刃を交え本気の殺意をもって戦闘したことが嘘のように思えてくる。
最もあれはかなり一方的なものだったが、目の前の華奢な少女に戦いを強いるような“何か”があるのが、無性に許せなくて、その“何か”に対してとてつもなく腹が立った。
「ヴェルダンディー……」
彼女は首を横に振った。その意図が分からずに俺は困惑したが、彼女の慈しむような視線を見て何となく悟った。しかし彼女はそれを言葉にしてくれた。純白な一人の“人間の少女”としての彼女の唇が動く。
「違うのです。それは、私の本当の名ではありません。」
言われてハッとしたが、彼女との初対面を思い返すに、彼女は随分とそれらしい名前を述べていたのを記憶していた。確か……アールグレーン という名がついてような気もするが。
「じゃあ、本当の名前は……?」
「ミシェル。ミシェル・セベール。それが私の本当の名です。フランスの小さな村の田舎娘でした。」
「他の四鬼も、皆元はただの人間でした。たしかにこの身はもう鬼へと堕ちましたが……あなたが想像するようなものではありませんよ。私達は皆、望んでこうなったのです。」
何も無かった空間に風が起こる。次第にどこか懐かしい匂いが広がり、どこまでも続いていた青空は夕暮れに染っていった。よく耕されている畑が目の前に広がっているのに気付くと、少女は立ち尽くす俺を手招いた。
ついて行けば、長閑や平和をそのまま形にしたような豊かな村の風景が続く。俺の無意識に近い夢から、彼女の昔の記憶が眠る夢に移ったのだと何となく察したが、余計な詮索は辞めることにした。この景色を見ていると、憎しみも争いも馬鹿馬鹿しく感じる。
「私はこの村で生まれ育ちましたが、昔から人と馬が合わず、よく取り残されていました。どこで笑ったらいいとか、泣いたらいいとか、全然わかんないんです、私。だから何となく周りに合わせていたら、かえってそれが気持ち悪かったみたいで余計に蚊帳の外に追いやられることになりましたけど。」
あはは。
彼女は空っぽの笑い声を付け足した。
取ってつけたような全く中身のないそれに、嫌悪感を覚える。
それは決して彼女自身に対してではない。
「両親は農業で生活をやりくりしてましたね。まあこの村の住民なんて殆どどこもそうでしたけど。十時君、いや、華一君。貴方のご両親は何をなさってたんです?」
十時、という苗字を口にしてから眉間にシワをよせ、一瞬目を逸らして呼び名を変えた。
「俺の親は、俺が物心つく前に他界したよ。おれは祖父に育てられて、その祖父も最近亡くなった。」
彼女は目を大きくして“一応”驚いてみせる。
「ああ、こういう時は泣けばいいですか?」
「いや、君がやりたいようにすればいい。」
半ば投げやりになって吐いた言葉に、彼女はいたく感銘を受けた風だった。おお、とため息混じりにこぼしてからこう続ける。
「そう言ってくれたのは貴方が初めてですよ。私今、初めて嬉しいって感じたかも。」
「ならよかったよ。そんなことより、今は君の話の続きだ。」
そうですか。あはは。適当に言葉を紡いで、前置きを作り直して一呼吸置く。景色はいつの間にか変わっていて、新緑は褐色に枯れる。
最初は、秋が訪れたのかと思った。木の葉は地に落ちて積もる。地面を覆い隠すそれが、どこか乾いた冷たい風に吹かれ、彼方へ舞って飛んで行った時、それは露になる。
干ばつした、土地。
「え……」
思わずそんな間抜けな声が漏れる。さっきまであれほど自然豊かで、豊穣な土地がその跡形も無くなってしまった。作物は愚か、植物という植物が皆死んでいる。
「私達の土地は、近隣諸国の戦争や度重なる災害によって荒れ果ててしまいました。その直後私たちを襲ったのが、飢饉です。
皆一人残らず飢えました。大人も子どもも枯れ枝のようになった手足で、水を求めて彷徨い、倒れていきました。
……私の両親も同じようにして、村の皆は呆気なく死に絶えましたよ。」
「君は……どうしたの。」
「私はただ途方に暮れていました。何も無くなったこの土地で死ぬのが私の“運命”。神が定めた結末がそれならば、私は抗おうとしなかった。敬虔な両親に育てられて、私は変に冷静だったのかも知れません。
しかし……そんな私にも、手を差し伸べる者がいました。
それが、彼の狂王です。」
彼女の眼が紅く染まる。額に禍々しい漆黒の十字架が浮かび上がり、耳は尖って、歯も鋭利に光る。
「華一君、手を出して。」
動揺と豹変した彼女に対する恐怖を隠せぬまま、言われて手のひらを差し出す。震えていた手を優しく握ると、彼女は笑って見せた。彼女の笑顔。間違いなく、彼女自身の感情が起こした表情だった。
「貴方は優しい人です。私の過去を知り、驚きを隠せなくても、その奥でちゃんと自分を持っている。私には出来なかった生き方です。だから……」
「今度はちゃんと言える。私を、私達四鬼を血の呪縛から救ってください。私達は九百年、貴方のような人を待っていました。どうか、お願いです。」
握られていた手を、握り返す。
彼女の紅い目を見て、俺は言う。
「必ず、助けに行く。」
そんな言葉が脳で考えるよりも口に出た。だがその発言に対して、全く後悔も偽りもない。俺の奥底に眠る俺自身が、確かにそう思ったのだと感じる。
✕
目を覚ます。
依然として香織さんの運転する車の中だが、胸の底が暖かい感じで安らぎを得る。さっきまで僅かに抱えていた不安や焦りは消えた。
「十時……お前、なんの夢を見た。」
声色が鋭い。香織さんの顔はミラー越しに見えたが、困惑と怒りに似た何か、それらが混じりあって混沌とした表情であった。
とにかく、おれはこの短い間に、随分と変わってしまったらしいことは悟った。
「そんなに違いますか……」
「あぁ、吸血鬼の匂いが段違いだ。緋音の比じゃない。」
俺は黙ってしまう。車窓に写る自分の顔を見て、初めて吸血鬼に成り果てた自分を見た日を思い出す。なんの苦境も、刺激も、娯楽もない人生が、変わり果てた瞬間。
当たり前や平凡という退屈は、あれはあれで愛おしいものだった。だからこそ、変わってしまった自分をすぐには受け入れられなかった。
ただ今は……一概に変わってしまったこと自体を悪いこととして捉えられない。緋音ともなんだかもう随分会ってない気がするし、ヴェルダンディーら四鬼のこともひっかかる。
今の俺に何ができるか……そういうことばかり最近は考えていたが、ヴェルダンディーに手を握られた時、なんとなく答えが見つかった気がする。
「そう言えば、これからどこに行くんですか。」
今更すぎる質問ではあるが、目的地は知らないままだった。
「……北だ。北海道まで行く。フェリーを経由するぞ。」
話題をすり替えた理由をなんとなく察したかのような間があった後、香織さんはなかなかの長旅であることを伝えた。
「長いな……」
つい口に出る。安堵の息とともに。
香織もそんな俺を見て、これ以上は何も言わなかった。
隣で片桐も寝ていることに気づく。獰猛な野生動物のような殺気も寝る間はさすがに和らぐらしい。腕を組んで、眉間に皺を寄せてはいるが、ちょっとやそっとのことでは起きないぐらいには熟睡しているのが見て取れる。
「片桐の寝顔はレアだぞ。今のうちに焼き付けておいたら。」
なんて冗談を香織さんがいうから、ついまじまじと見てしまった。確かこいつも、それなりに色々抱えていたのを思い出す。
「やっぱ人って、何かしら辛い過去を持ってるものですね。」
「何を言い出すかと思えば……」
車内はなんとなく、気まずい空気に変わった。香織さんはいつも超然としているから、音楽なんて嗜んでいるところは見たことがない。車内はただ車が道路を行く音に支配される。
深夜の高速道路には、どこか感傷的な雰囲気も漂っている。
「長旅になる。寝れるうちに寝とけ。」
「すみません……なんか全然眠くなくて。」
ため息が聞こえて、俺の体がおかしくなっていることを思い知る。香織さん自身もなにか思うところがあったのか、沈黙を見送ってから口を開く。
「昔話でもするか?」
✕
「よし……我々も準備をしよう。北は北海道に向かわなければ。」
黒い厚手のコートを羽織って、襟を正したら灰崎は軽く出かけるかのような口調でそんなことを言う。
「あんたと旅行なんてするつもりは無い。」
「おや。それもいいかもしれないが、あいにく今回は刀を探すだけの地味な作業でね〜。ついでにそこでもう君はあっちに戻ってしまった方がいい。利害の一致しない我々が行動を共にする意味は無いからね。」
飄々とした態度でとっとと支度をする。リボンまで真っ黒のハットを被って、まふでマフィアのボスのような出で立ちで灰崎は自分の車を停めているガレージまで私を案内する。
「悪くないだろう。」
車はあまり詳しくないから分からないが、見るからに高級感溢れるスポーツカーだ。証明をエレガントに跳ね返す漆黒のボディが、灰崎の趣味を露呈させる。
「これ、香織は……」
「もちろん、何度も乗せたよ。どれもいい時間だった。」
こいつが話した全てが信じられるかどうかと言われれば、私自身よく分からない。香織との関係はこいつの話を聞く限りでは、私の想像の斜め上を行くものだった。
「ああ、一番大事なことを伝え忘れていた。」
「……なによ。」
「今香織君の側に、私の唯一の部下である片桐が同行しているがね。」
ああ、一度華一がさらわれた時にいた荒んだ雰囲気の男……
「あれはね、隙があれば殺しておいて欲しい。」
「───────あんた。」
「腹を割って話した君にしか出来ない頼みだ。頼まれてくれないか。」
自分にとって唯一の部下であるあの男を殺せと、たしかに灰崎は言った。表情一つ変えずに、会話の中で当たり前のように言うから、灰崎の異常性を改めて理解するのに少し時間がかかった。
「なんでよ……」
「すまないね。それはあまり言いたくない。なんせ確証がないんだ。でももしこれが本当ならば、あれが生きていていいことは無い。この星で生きる全ての命にとって。」
「あれは死ななければならない。胸騒ぎがするんだよ。」
「─────なら、あんたがやれば。」
灰崎は言われて一瞬黙る。何を考えているのかは皆目検討もつかない。自分の部下を、自分にとって邪魔な存在を容赦なく息をするように殺す男だ。殺せという男だ。こんな男の考えることが、普通であるはずが無い。理解出来るはずがない。
この男は異常以外の何物でもないのだから。
「それは無理だ。」
言う。
「私には。」
拳をふるわせて。
「私にとってあいつは。」
奥歯を噛み締めて。
「───────家族みたいなもの、だからね。」
目に涙を浮かべて、異常を形にしたような男は震える声で言った。
「すまない」何に向けて謝ったのかはわからないが、らしくない言葉を羅列させて、そそくさと車に乗り込んだ。その背中からは、さっきまでのような禍々しさや異常性は感じない。
そこに居たのは、一人の孤独な男だった。
マジで遅れましたごめんなさい。