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血を欲するということ

前回までのあらすじ

育ての親である祖父を無くし途方に暮れていた青年、十時華一は、不気味な事件が相次ぐ夜、吸血鬼の少女、赤神緋音と出会い、自らも吸血鬼と化してしまう。

夜に蔓延る魑魅魍魎、“怪魔”を掃討すべく、緋音と怪魔専門の暗殺者、黒木香織と行動を共にする華一であったが、怪魔を裏で手引きしていた黒幕、灰崎によって、九百年前に世界を血に染め尽くした吸血鬼の精鋭、四鬼士の封印を解かれてしまい、彼らの王を復活させるべく、その血を引く緋音を攫われてしまう。

緋音を取り返すべく、灰崎の部下であり宿敵、片桐雅依と共闘する華一達であったが……

喉に生ぬるい液体が流し込まれて、私の意識は徐々に明るさを取り戻す。

あぁ、またこの感覚。飢えに飢えて骨身が焼き切れそうなほど渇望していたものが、すんでのところで与えられる。まるで餌のように、その持ち主の許しを得たかのように、抗うことも無く口からそれは入り込む。甘く耽美的な香りが鼻をつきぬけ、全身を撫でるような快楽が通った後に、すぐさま激しい飢餓が腹を殴りつける。


渇いた身体は一気に熱を帯びて目覚め、同時に根底に眠る衝動が弾け飛ぶように呼び起こされて、務めて保っていた理性を押し殺してしまう。

血が、血が、血が、私の中に───────!


「ア……アアアアアア!!……ァ……!!」


もっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しいもっと欲しい!!!

もう止められない駄目その味は最高に私を駆り立てる私はその味が一番好きなの仄かな鉄の匂い喉に絡みつく感触熱い疼くお願いもっとちょうだいもう何日もこんな状態私死ぬ死ぬより辛いお願いしますだから血が必要なの血が私の希望血だけが私に必要血が血が血がァ──────!!!


「殺して…………」


捻り出すようにして漏れた懇願も。


「断る。」


彼には届かない。


彼はその一言のみ発して私を切り捨てる。私が今まで余計に着飾ってきた理性やプライド、その全てを投げ打って絞り出した言葉ですらも、彼の耳に届くことなどありはしない。

鉄血が形になったような男。狂王が亡き今、この男が間違いなく地球上の生物の力関係の頂点にたっている。それほど彼から放たれる雰囲気、威圧感、何もかもが異常だ。こんなものが存在していること自体が信じられないほど、見ているだけで息苦しくなる。


まだ舌に残る味覚に縋りながら、鋭利に尖った爪を地面に立て、今にも自分の舌を髪切ろうとする八重歯を下唇に噛ませ、飢えを押し殺すことに全神経を捧げる。

これ程私が生まれながらにもった本能を抑えようとしても、直ぐに私はまたおかしくなる。


恐らく、私が飲まされているのは、“四鬼士”の血。


吸血鬼化も最早歯止めは効かず、爪も歯も耳も羽も、立派に化け物らしく仕上がってしまっている。四鬼の一人から受けた攻撃で、脳天から足の指の先まで凍てつくような悪寒に晒され、少し風が吹いただけでも身が芯から軋む。

こうなったのも全て、私が吸血鬼だから?王の血を引いて生まれたから?

──────どうして。どうして私は……普通に生まれて来れなかったのだろう。

怖い、怖いよ……華一。



親の顔はもう思い出せない。私は六つの時に親族全員から気味悪がられて捨てられた。

その事実に最早、悲しいとか寂しいとか当たり前の感情さえ抱くこともなく、ただ降りしきる雨に濡れた夜のアスファルトの上で寝そべって、ぼんやりと灯る街灯を眺め、人として終わっていた。


月が見えない夜は、私は比較的“人”を保っていることが出来た。歯や爪が突然尖ることもないし、制御の効かない馬鹿力が暴れ出すことも無い……なにより、人の血を見て腹が減ることも無いのだ。

だから私は、この雨が降っている間は“親に捨てられたかわいそうな子”として存在することが出来た。これは私にとって唯一縋ることのできる事象だった。

もう誰からの愛も受けることが出来ない身体を、すっかり水浸しになって冷えきった地面に乗せるだけで、私はかわいそうな人間であることが出来るのだ。


ふと、街灯の明かりが闇に遮られて、雨もふっと止んでしまった。その時の恐怖は身を崩していくように焦燥に満ちたものだった。私が被害者でいられる唯一の理由が、希望が、呆気なく絶たれてしまったからだ。

幼い私は思わず声を上げた。甲高い、子供の声。


「いやぁぁぁぁ!!!!!」


「───────かわいそうに。そこまで追い込まれていたか。」


雨水のように冷えきった言葉で冷静になった私は、その闇に注目すると、それはただの黒い傘だったことが分かる。私に傘を差し伸べた冷徹な声の主は、もうかじかんで動かなくなった私の小さな手を取って立ち上がらせると、

突然、私の開いたままの口に何かを流し込んだ。やけに温もりを帯びた液体は、“血”であると直ぐに理解出来る。


冷えきった身体は瞬時に感覚を取り戻したが……それから先のことはよく覚えていない。


─────意識を取り戻すと、私は車の後部座席に寝かされていた。ものすごく怖い人に捕まったのだと、その時はそう考えたが。

私を攫ったのは、ただの人でなしの人殺しだった。


「どこ……いくの……」


「決まっている。君をこんなにした悪い奴らをやっつけに行くんだ。」


ハンドルを握って、前を見据えたまま殺し屋は答えた。私をこんなにした人、すぐに私の両親のことだと思ったけど、車が行く道は全然知らない道ばかりで、遂にたどり着いたのは、物悲しげなトタン屋根の倉庫だった。


「貧相だが、今日からここが私たちの家だ。どうだ。最悪だろう。」


「さい、あく……」


「私は黒木香織。君の名前は──────?」


黒い殺し屋は、微笑みながら私の頭を撫でた。



金髪の少女は口元だけを緩めて笑っている。

全くと言っていいほど気付かなかったが、この少女……只者では無い。彼女の発言は紛れもない真実だろう。四鬼の一人が、こんな幼気な少女だったなんて夢想だにしなかった。


「十時……残念。本当に残念です。友達になれたかもしれませんのに───────あは。」


鋭い八重歯を覗かせて笑う彼女は、血も見劣りするほど深い赤のドレス、腕と脚は白銀の鎧に包まれ、貴女と兵士を同時に連想させるような見た目をしている。

額に刻まれた痣のような漆黒の十字架は、よく見ると闇のように蠢いていて、あまり気を取られていると引き込まれそうなほど蠱惑的な何かがあった。


「四鬼士……君は本当に四鬼の一人なのか?」


「ええ。本来であればもう少し後に種明かしと行きたかったところですが、“十時”であれば仕方ありません。死んでください。あはは。」


彼女は笑っている。純粋な笑顔ではない。作り笑いでもない。声だけが取り繕われていて、表情はまるで役割を果たしていない。

まるで笑い方というものを知らないとでもいうかのように、機械的で無機質な表情のまま、人の真似をしているような笑い声でゆっくりと地に伏している俺に詰め寄ってくる。


「───────えい。」


彼女がそう発言したのと同時に、足にふんわりと風が当たるのを感じだ。だが妙なのは……風を受けた箇所が通常ならありえない部位だと言うこと。

悪寒がして、視線を下げる。

果たして、俺の悪い勘は的中した。


「なんだ……これ……!」


俺の脚は、太ももから下が一思いに断ち切られていた。それも、全くの痛みを伴わず、そして、吸血鬼の身体でありながら、全く再生しようともせず、ただその部位が削ぎ落とされ、そこで呆気なく終わっていた。それ以上でも、それ以下でもなく、血も肉も切り落とされたことに気付いていないかのように出血もなく、俺の足は欠けている。


彼女がいつの間にか手にしていた柄から穂先まで全てが赤く染った槍。それは瞬く間に、次は俺の両腕にかかり、そよ風の気配と共にまた同様に俺の身体はその一部を失う。


「あぁ……あ?」


訳が分からない。なぜなら痛みが全く感じられないからだ。故に、今自分が傷ついているという自覚がほとんど持てない。目が見えて居なければ、俺は脚と両腕が失われていることに気づきもしなかっただろう。それほど、この傷は異常であった。


しかし、痛みがないからといっていつまでも疑問に耽ることは許されない。既に片脚、そしてついでと言わんばかりに両腕を奪われている。前述の通り、彼女は何やら俺に対して並々ならぬ感情を持ち合わせているらしい。あの恐ろしく強い鬼同様、俺の“十時”という苗字に対して異常なまでの反応を顕にした彼らは、確実に俺を殺すべき相手として認識している。


その証拠に、ただでさえ力量では遠く及ばない俺をここまで周到に無力化している。

俺と彼らにどれほど実力差があろうと、手を抜くことなどありえない。


つまり次は──────首をいかれてもおかしくない。


再生しないのであれば、次の一撃で俺は死ぬ。死ぬ……死だ。全く実感がわかない。動かなければ、呆気なく殺される。分かっていても、受けたダメージが回復していないから動くことが出来ない。奪われる時は一瞬でやって来る。


考えろ……!捻りだせ……!


「さようなら。」


出し惜しむ余裕はない。これを二回続けに使うだけでも、俺の体は痛みに悶え、崩れ落ちる。

それでも……香織さんや、期待はあまりできないが片桐が緋音を救い出す可能性……“次”に繋げるためには、やるしか──────!


「くっ───────復讐する血流(リベンジ・ブラッド)!!」



薄暗い灯りが、薄汚れた布一枚のテントの中を照らし出す。狭い空間の中で、二人の殺し屋の対“四鬼士”という利害が一致した。


「時間が無い……十時は相当なダメージを抱えているはずだ。あの状態で他の四鬼の手に堕ちたなど……考えたくもない。」


香織は動揺を隠せず、乱れた髪を掻きむしり、落胆の表情を覗かせる。常に冷静である彼女ですら、この事態を受け止めるにはあまりにも状況が悪かった。二人の仲間を失ったことで生じた戦力不足、そして“計画”のズレ。

四鬼は彼女を構成していた感情を根底から崩してしまった。


「───────いや、そういえば、灰崎はどうなったんだ……?」


切羽詰まった状況に失念しかけていたが、彼女はあの不吉な男の末路を知らなかった。四鬼の鎖を解いたのは彼であることに違いはないが、その彼の姿を全く見かけていない。

殺された、とは考えにくかった。彼の特性上、ここで死ぬ可能性は薄い。


「ボス……灰崎はまだ死んではいないだろう。あの人にはまだ役目が残っている。」


「役目……?何か知っているのか?」


「それは───────お前が一番よく知っているはずだ。」


香織はその一言で一周回って冷静さを取り戻す。思い出したくもないことを思い出してしまったが、今は目先のことだけでも手一杯であった。よってこの押しつぶされそうになる吐き気も、悪寒も、今は殺す。


「……それよりも、見ろ。世間も動き始めている。」


片桐が差し出した携帯の画面には、リアルタイムで更新されるSNSでの人々の呟きが流れていた。

瞬く間に塗り替えられていく一言一言。あの“声”は、やはりありふれた日常の中で息をしていた一般人にも届いたらしく、されど香織達ほど影響は受けなかったようで、懐疑的なコメントが多く見受けられる。


『いま、変な声しなかった!?』


『世界を支配するとか聞こえたんだが……俺もついに何かに目覚めたのか……!?』


「この辺りは地方の被害が少ない人間達だろうな。報道機関はまるで機能していないから情報が行き届いていないだけで、都市部の損害は計り知れない……これか。」


『すごい音したと思って外見て見たら……なにあれ!?』


『やばい!渋谷で爆発!ビル倒れてる!』


『ほんの一瞬、すっげぇ風来たと思ったら、山無くなってんだけど!?なんだよこれ!!すげえ!!!』


何枚かの写真が添付されているそれには、もう何万もの反応が寄せられている。普段なら決して有り得ない景色が捉えられているこのSNSだけが、唯一の情報網となったらしい。


「なぜ、報道は機能していないんだ?」


「さあな、報道どころか、政府すらもまともに動けていない……恐らくこの国は、もう“堕ちた”のだ。四鬼がその気になれば、あらゆる機関も機能を失う。圧倒的力の前には為す術もない。」


無茶苦茶な話だ、と香織は考えたが、ありえない話ではない。むしろ、そう考えた方が自然であったとさえ思えてくる。間近でみた香織自信が痛感しているように、あの力は桁外れだ。あれに比べれば今まで殺した怪魔も、事の発端の灰崎でさえも、塵とまで比喩するのも物足りないほど無力だ。


「十時……やはり今すぐ行かなくては……!片桐!!」


「……十時の匂いは己の中の怪魔で辿れる。しかし、十時が、ましてや己達が生きて帰れる保証など存在しない。奴と相対している鬼が一騎でも、十時を回収次第直ぐに退避するぞ。それも出来なければ、この先の何もかもを諦めろ……!」


「分かっている……いいから行くぞ!」



──国会議事堂──


国が動かないのは、既に必然であった。

国の運営を担う国会の議員は既に皆、その机上に伏して国民を導く思考も呆気なく放棄してしまった。何もかも、遅かったのだ。


「楽勝だなァ……」


乾いた声が広い室内にこだまする。呻き声のような息を漏らしながら、やぶれかぶれになった黒の外套を纏う男は、枝のように細い指先で議員の白髪頭を撫でる。

途端、さっきまで日本の経済等について隙間もないほど思案が敷き詰められていた頑固な頭は、男の外套と同じく、漆黒に染まり切り、朽ち果てる。


「─────────✕✕✕。」


男が言い放ったその名前は、いたって単純で、高名なものだった。だがそれは決して、これまでの歴史において快い存在ではない。むしろ、人類史に置ける厄災とまで呼べるものである。

それほどまでに、かつてあらゆる生命を絶望の暗澹に突き落としたその“病”が今も尚根強い恐怖の爪痕を残したことが伺える。


現に……もはや個人の識別など付けようもなく、ただ闇に堕ちて黒く染った命だったものは、恐怖を感じるまでもなく漠然とした死を迎えた。四鬼が暗躍していた九百年前、それ以前から、この病が存在していたかは不明だが──────


これは後の大災害の前身となる、より古い脅威なのかもしれない。


「人間は変わってねぇなァ……」


それが何を意味するのかなど、誰も分からぬまま、日本という国の頭は完全に陥落した。

四鬼士、病の契を交わした者は、蒼白の顔をしわくちゃに歪めながら、ゆっくりと笑みを作った。



自分の過去に最早未練も執着もない。己はただ、あの日の己の血と泥に塗れた手を、なんの躊躇いも忌避もなくとった男を信じたいと思っていただけだ。

己は今でもボスには感謝している。大量の部下を失ったばかりの男は、己という一人の屑に意味を与えてくれた。雨で霞む視界に映る長身の冴えない男の笑みが、紛れもない本物であったことは、誰よりもこの己自信が心得ている。


だから、四鬼を復活させた彼を責める資格は己にはない。

単なる望みと方向性の違い、というやつだ。

ボスは明確に、ある一人の人物との未来を思い描いている。()()()も前から、それは微塵も変わっていない。

件の復活だって、ボスの描く理想の末端に過ぎない……利用されているのは四鬼の方だ。彼の計画に狂いなどない。


対する己には今、“望み”というものが決定的に足りていない。ただ漠然と四鬼を退治する事しか頭になく、そこに彼のような具体的な戦略や思案も存在しない。

ただ、あるとすれば、己という存在自体が、四鬼の一人とかなり相性がいいことぐらいだ。“アレ”と単騎で対峙する場合に限り、己にはその圧倒的な力量差を埋められる確証があった。


四鬼が今後どういう動きを見せるのか、ましてやこの蹂躙になんの意味があるのかも分からないが、“王”の復活だけは果たしてはならない。それを食い止めることで、己の恩人がどれだけ絶望に打ちひしがれようと、己は紛れもない己自信の意志によって、四鬼をここで殺す。

───────その為には、あの女も十時も必要だ。


「しかし……してやられたな。」


最早道であったのかも分からないような平地を行く車に揺られ、運転しながら辺りを見渡す女はそう言う。均等に切り落とされたビルの群れは、かつて栄えた都市部の刹那の崩壊を物語る。

これら全てが、一太刀で終わったと考えただけで身が震え上がる。


「匂いが近づいてきている。……血なまぐさい。危険だぞ……!」


距離を縮めるごとに、血の匂いが鼻腔にこびり付く。妙なのは、その匂いの“質”だ。

こればかりは怪魔の感覚に頼っていることなので、なんとも筆舌には尽くしがたいが、とにかく、十時が重症を負ったとして、その傷から時間が経過した血の匂いというものが全くない。常に新しい傷を負わされ続けていないと、ここまで新鮮な鮮血の匂いはしない……これは異常だ。


無論、隙もなく大量の傷を与え続けられていようものならば、いくら吸血鬼の身であろうとも、相手が四鬼である限り死は必須である。だがそれが、いつまでたっても死んだ血の匂いというものにならず、新しい傷からの出血の匂いのままなのだ。


───────ボスが言っていたが。

四鬼士には、それぞれ“血統”と、“契”というものが備わっているらしい。確か……“血統”はその鬼を象徴する肩書きのようなもので、それぞれの名に見合った呪いのような能力が、自らの意志に関係なく発動する、といったものだったはずだ。

冷血、鮮血、熱血、そしてあの圧倒的な力を持つ鬼が保有する、鉄血。

この四つの血統に今の不可解な匂いを当てはめるとするならば、恐らく“鮮血”が適当だ。この呪いが起因して、十時の血の匂いの質が妙なのだと考えられる。


しかし、四鬼の本懐は“契”にある、とボスはよく口にしていた。

四鬼が成立した時、狂王が直接与えた自らの血と、それに宿った力。それを解除する術はその鬼を倒すか、自らが死ぬかしかないという強力な力が、病、飢餓、戦、支配に分かれて存在しているらしい。

どれがどの鬼に宿っているか、そもそも己は未だ四鬼の全貌すら目にしたことは無いが……悪寒がする。

十時の匂いの質が、また変化したからだ。


「黒木、ひとつ聞く。」


「なんだ!四鬼については君らのほうが詳しいはずだろう……!」


漆黒のオープンカーのハンドルを切り、強風を一身に受けながら、女は不快に顔を歪める。


「吸血鬼は、“飢える”とどうなる……?」


「飢え……緋音が以前、といってももう十年も前の話だが、一度それに陥った事がある……!」


「あれは……正真正銘、地獄だ……!!」


二の句を言いかけたところで、奥に人影が映る。

離れていても分かるほどに、赤く彩られたドレスを纏う女が、刺々しい穂先の槍を神速とも形容すべき速さで捌きながら、地に伏したままの男の返り血を浴びている。


「十時……!!」



どういうわけか、俺はまだ息を続けている。一心不乱に俺の体を切り刻む少女の顔を静かに見上げながら、逆光ではっきりとしない表情を想像して、痛みのない傷を感じることも無く、寝そべっていた。

彼女が俺を殺さない理由は分からない。

俺の渾身の一撃も……遂になんの意味も成さなかった。


途端、心臓が跳ね上がり、脈が足を速める。


「ぁ……あ、あ、ああアァアぁあ!ぁ!?ぁあ─────!」


腹、減った────────


腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が腹が────────!!!!


脳が揺れる、意識が薄れる。死ぬのか?いや、死なない、死なないが、死ぬほど辛い、喉が渇く、目が渇く、口が渇く、肉が、骨が、なにもかもが干からびる、ダメだ、ダメダメダメ……しぬ!!


「ひっ……ひぬぅ……!ひぃ……!!!!」


「あ、そうです。それです。それが“飢え”です。分かります?死にたいですよね?でも死なせません。そんな簡単に死なせたら、十時に殺された方々に申し訳が立ちませんから……あは。」


十時……?殺された……?なんだ、何を言ってるんだ!いい、どうでもいいそんなこと、だから早く食いもんをくれ、飲みもんを飲ませろ、血を、血をくれよ、じゃないと頭おかしくなりそうだ……!


「これが私が交わした“契”、《飢餓》です。痛みを感じないのは《鮮血》のせいですね。どちらも、世界のどこをさがしても私しか持ちえない力ですよ。すごいでしょう?あはは。何とか言ってくださいよ。独り言みたいじゃないですか。あはははは。

……と、誰か来たみたいです。お友達ですか?」


華一にはもうとっくに彼女の声は届いていない。だから、誰かが駆けつけたのも見えていない。今の彼にあるのは塞がることの無い大量の傷と、堪えようのない凄惨な飢えのみ。

これまでずっと続いていた槍の猛攻が止まる。しかしそれは、どの道痛みを感じないので華一にとっては大差の無いことだった。だが、今はこの空腹が、とてつもない勢いで彼の首を締めている。


「初めまして。ごきげんよう。私、四鬼士、《飢餓》の契、“鮮血”のヴェルダンディーと申します。お見知り置きを〜あはは。」


ドレスの丈をつまみ上げて、深々とお辞儀をするその所作は、貴族のような気品すらも感じさせるが、どことなくぎごちない。彼女の丁寧なようで砕けた口調がそう思わせるのか、相対する片桐と香織は調子を狂わされる。


「飢餓…十時は……無事だな。」


「アレを見て無事だと……!?やはり君はどうかしている……!」


意見は食い違えど、意識は完全に目の前の強敵に向いていた。

光がそのまま滑り落ちるような鮮やかな金髪に相反して、額の十字架は漆黒に染まり、瞳は血よりも深い赤を宿す。だというのにあどけない表情と、同時に気高い品性を感じさせる雰囲気は見事に両立していて、彼女もまた、美人と呼ぶに相応しい整った出で立ちである。

説明のつかないほど異質な殺気と、吸血鬼である点を除けば、人受けのいいお嬢さん、といった印象すら受ける。


「あ〜、そこの黒いお兄さん、とてもヘンな匂いがしますよ?怪魔……?いえ、ただの怪魔じゃないですねえ〜。」


女が発言したのとほぼ同時に、華奢な体躯の背から、無数の赤い矢が放物線を描きながら一斉に飛びかかってきた。

矢は収束して行くように片桐に照準を定めながら、人間の動体視力では捉えることは到底できない速さで向かってくる────────が。

それらは途端に、音を立てながらまばらに崩れ落ちる。結局、片桐にその矢が届くことは無く、片桐自身もその場から動かずに難を逃れた。


「挨拶代わりのつもりでしたけど、私そこまで嫌われちゃいました?あは。避けるとか迎え撃つ訳でもなく……有り得ます?“喰う”なんて。あはははは。おもしろ。」


薄ら笑いを浮かべる女、ヴェルダンディーの言う通り、彼女の放った矢は全て、刹那の間に片桐が喰らい尽くした。正確には、片桐の中に飼われている“怪魔”が、だ。


「己の怪魔は全てを喰らう。目に見えるもの、見えぬもの、森羅万象は餌に過ぎぬ……名は、饕餮───」


饕餮(とうてつ)……中国の四凶か……!」


「──────────然り。」


瞬間、片桐の背から、その“獣”が姿を見せる。怪魔よりも恐ろしい化け物の全容は、九つの頭に分かれ、実態の曖昧な闇のような禍々しい空気を放ちながら、唸り、うねり、蛇の如く餌を待ち構えている。


「うぇー。きも。殺していいですか?それ。」


「死ぬのは貴様だ。」


片桐の布告を受け、彼女が表面だけの笑みを見せると、気配、威圧的な存在感が全てその場から消え失せ、風と共に片桐の眼前に一瞬で距離を詰め、一突き。

轟音を伴いながら周囲の空気全てが壊れるほどの重い一撃がその細腕から放たれた。


辛うじてその一撃を避けはしたものの、直後に耳を劈く鋭利な音がした時にはもう手遅れで、片岡の怪魔の発動も間に合わずに、両腕を切り落とされてしまう。


「なんだ……これは……」


生々しい音を立てて、さっきまで自分を構成していた腕が二つ、地に赤い飛沫を散らしながら落ちるのに、まるで痛みを感じない。


「そういうものなのか……!“黒蛇猛牙(こくじゃもうが)”!!」


片桐が叫ぶ声と同時に、背の黒蛇は歪な牙を露呈させて、全く予測できない方向からそれぞれその猛威を振るう。一度噛みつかれると、いくら最上位の吸血鬼であろうと、吸血鬼を吸血鬼たらしめるその“血”さえも喰われて、極度に弱体化する。

それに反して、片桐の力は飛躍的に増大する。“吸血(ドレイン)”とは少し違う。

相手の存在そのものを喰らうことで、能力者の力にするこれは、吸血よりも範囲が広く、相手との間に圧倒的力量差があろうと、瞬時に同じ土俵に立てるのだ。

切り落とされた腕も、断面から導かれるように繋がれて、修復される。


「うぉ、おぉ、おっとっと。」


牙は少女の滑らかな肌を食い破り、その鮮血を血肉ごと食い散らかす。彼女は直ぐに離脱したが、今ので力のおおよそ三割は片桐に持っていかれただろう。思わず、立ちくらむ。

彼女はダメージを受けたものの、瞬時にその場から離れることが出来たが、通常であれば、この怪魔は対象を喰らい尽くすまで止まらない。それを振り切ってまで体制を立て直すのは、さすがは四鬼士と言ったところである。


「えーん。痛いですねこれ、なかなか手応えがあるようで安心です。でも私、別に快楽主義ってわけでもないので、出来るもんなら貴方達にも早めにご退場願いたいんですよねぇ。あはは。」


「ならば……貴様を今地獄に送ってやろう……!」


「こっわ、貴方にそこまで恨まれる覚えないんですけど……困りましたね。ですから、とても残念です。」


彼女は、笑う。


「……っ!?」


片桐を襲う感覚。ヴェルダンディーから力を吸収したさっきまでとは打って変わって、立っていることすらままならないほどの脱力感、倦怠感、そして猛烈な───────空腹。


「そうか……!“飢餓”の発動条件はこれかッ……!!」


「ご明察〜。ここの死にかけの十時君よりかは辛くないでしょうけど、きますよ〜なかなか。私を地獄に送ってくれると聞いた時は心が踊りましたけども……所詮はその程度です。

それとも、また私から力を奪いますか?あはははは。」


「片桐……!」


「来るッ……な!お前……は、十時、を……!」


息が続かない。鼓動は狂い、急ぎ、意識は蒙昧としていく。

今の彼にできるのは、目の前の少女を睨みつけることのみで、それ以外のことは頭が回らない。怪魔の能力も解除され、膝をついて、何度か吐血を繰り返した。

四鬼の力を取り込んだことによる、異常な負荷である。


「くっ……そ……!」


「可哀想に……可哀想だから、ここで殺します。」


「────────“鮮血の色香”。」


少女の艶やかな指先が、蹲る片桐の鼻先に触れる時─────片桐の全身から、目も当てられない量の血飛沫が唐突に吹き出る。

片桐の体に隙間を許さないほど鮮やかな赤が彩られ、一種の芸術のように蠱惑的な色に染まってしまう。


「いい色ですね。貴方の血。」


「ガッ……ア……」


女はその血をおもむろに指先でかすめ取り、恍惚とした表情で眺めたあと、滴る鮮血を舌先でゆっくりと味わい飲み下した。


「久しぶりです……血を頂くのは……」


──────この時、いくら圧倒的な強さを誇る四鬼でも、実に九百年ぶりの血の味わいの感傷からは逃れられず、ほんの僅かな“隙”が生まれていた。

最もそれに気づいていたのは、まともに動ける香織だけ。しかし、香織がここで足掻いたところで、戦況は変わらず、むしろこの余韻を妨げることで、二人を連れ帰ることすら困難になりかねない。

依然として状況は絶望的である……はずだった。


鮮血の血統を冠する鬼、ヴェルダンディーは知らない。ここで彼が今まさに目を覚まし、その首にかかる深紅の十字架を握りしめたことを。飢えと傷が身体を縛り付け、他の感覚はほとんど死んでいたとしても、彼は静かに立ち上がり、逆転の一手を既に構えていたことを。

彼女は、知らない。


香織は言葉を詰まらせる。いや、咄嗟に封じ込めたと言った方が適切だろう。まさかここまで叩きのめされて、この瞬間に、十時華一という未熟者が立ち上がることは夢想だにしなかったからだ。

何が彼を奮い立たせたのかは分からない。だが、確かに香織の双眸には、殆ど本能のみで立ち上がった男の、暴力的なまでの執念を纏った勇姿が鮮明に写っていた。


「────────吸血(ドレイン)……!」


掠れた、今にも消えかかりそうな貧弱な声を振り絞り、立ち上がった直後、震える膝を崩して倒れた勢いのまま、彼女のドレスから露呈した艶やかな肩に飛びつき、その肌を鋭利な八重歯で突き破る。

鼓膜の奥で生々しい肉の繊維が切れる音がして、直後、乾ききった口に救済の赤色がじんわりとにじんでいく。


「……あ。やば。」


途端、彼女が今まで放っていた殺気、圧、全てが血と共に流れ出て、華一の喉に潤いをもたらしながら、チカラの持ち主を変える。

一瞬の隙をついた策ではあったが、それも結局、四鬼にとって、初手の衝撃が過ぎれば対処可能であり、本来であれば華一の首はここで無惨に撥ねられていてもおかしくは無かった。

だが────────


「……おいしいですか?」


彼女は一切抵抗の余地を見せず、自らの血をその牙に捧げた。

場を支配していた契の効果も薄れ、今まで死んでいた痛みという機能がその息を徐々に吹き返す。

全身が、軋む。華一も片桐も、受けた傷は元の身体の肌を残さないほど痛烈な数であり、それほどの痛みが同時に蘇るということは、十分死に値する苦しみである。

しかし華一はそれを血を吸い続けることで治癒能力を発動させて緩和し、片桐はその痛みさえも、喰らった。


「いいんですよ。強くなるということは、そういうことです。んっ……もっと、たくさん飲みなさい……っ。」


失いかけていた理性は、かえってその姿をにごしていく。血を奪われる脱力感と、ゆるやかに与え続けられる痛みに、彼女は上辺だけの笑顔を忘れ、絶対的強者が味わうことは滅多にない感覚に、色の濃い喘ぎ声を上げながら、未だ血を啜る華一の頭を撫で回す。


彼女の約半分、華奢な身体を巡っていた膨大な量の鮮血は、華一の身体へと移り変わった。


「─────あはは。よく馴染むのですね。私達、存外に相性が良いのかもしれません。」


「そうか……それは最悪だ。」


口元の血を拭って、華一は彼女の目を射抜く勢いで睨みつける。既に華一から、頭の割れるような殺気と憎悪が滲み出て、対象を絡めとって離さない。


「残念です……あのお嬢さんのことがそんなに心配ですか?」


「緋音に手を出したら……お前ら全員、俺が殺す。殺した上で、何度も、その額の十字架を切り裂いてやる。」


華一の言葉は一つ一つ、凶器のごとく鋭さを覗かせて、彼女の身体を震わせる。四鬼相手でさえも、今の華一は決して無視できない力を手に入れたのだから。

しかし、それは戦慄による震えではない。彼女は、いたく感銘を受けてしまった。


「素晴らしい────────素晴らしいですよ、十時華一君。貴方が、十時である貴方が、“もう一度”私達を殺すのですね……!ええ。ええ!応援していますとも!がんばれ!がんばれ華一君……!あは、あははははははははは!!!」


彼女の今度の笑いは、腹から込み上げる本当の笑いだった。その証拠に彼女は頬を赤らめながら涙すら流している。よほど気に入ったのか、武器すら放棄して、鎧に包まれた手を叩いて金属音を打ち鳴らしながら、苦しそうに息を継ぐ。


「もう一度……だと?」


「ええ!そうですよ?我々が十時を憎む理由は正しく、九百年前のあの日、十時一族のその力によって永遠の闇へと封印されたためなのですから───────!」


「……っ!十時、やはり四鬼の封印に関わっていたか……!」


深紅のドレスの彼女と、漆黒の暗殺者の彼女は、各々表情は違えど、その名について拭いされない執着があった。

華一の表情は……依然として、緋音を捕らえられたことに対する怒りと、守れなかった自責による執念にその瞳を燃やしていた。


「ヴェルダンディー。」


「はぁ〜……なんです?私、笑いすぎでした?」


「“血流・付呪(エンチャントブラッド)───────!!”」


華一はその右腕を強く振りかざした。首から下げられた赤い十字架が華一の声に呼応するように目を焼くほど強く輝き、その直後、周辺は爆炎に包まれ、少し遅れて鼓膜を突き破る勢いの音が風を殺す。


赤く、赤く、何よりも赤く。血の炎は燃え盛り、森羅万象の面影を、輪郭を一つとして残さず燃やし尽くす。

華一はその背に巨大な闇の翼を広げ、香織と片桐を抱え、瞬時に離脱した。


「あははははははは、あはははははははは!!!十時華一君、私、貴方のことが好きになりました!!また会いましょう?そして私を、私から奪った力で、あの日のように殺してくださいな!あはははははははははは!!!!」


轟々と燃え盛る炎の中で、女の笑い声だけがこだまする。

華一はその気になればすぐにでも炎から脱却し、自分たちを殺せたであろう彼女の狂ったような笑い声を軽蔑しながら、更地となった都市を抜け出した。



紛れもない敗走であった。香織の案内の元、無事に臨時キャンプに辿り着いた。

日の当たらない湿気た地面に瀕死の片桐を寝かせて、華一は自らの腕を鋭利な爪で傷つけ、その血を片桐の口に流し込む。

途端、片桐の身体は跳ね上がり、傷口は糸で縫われるように、身体中の繊維が慌てて修復を始めていく。


「してやられたな。十時……体に異常はないか。」


「今のところは……でも、取り込んだ血の量が多すぎた気がします。少し、横になっても良いですか……?」


「ああ、御苦労だった。君ばかりに闘わせて……すまない。」


───────雨が降り出した。驟雨の勢いは地面を叩きつけながら、より水の量を多く含ませて、まだらな池を作り出す。

今の俺には、雨粒一つ一つが放つ匂い、描く軌道、落ちる音、その全てが明瞭に繊細に感覚を刺激して伝わってくる。

もっと注意深く神経を集中させると、片桐や香織さんの鼓動、呼吸までもが手に取るように分かり、自然やそれに与する命の流れが、目に見えて存在するもののように明らかになる。


同時に自覚する。四鬼が見ていたものと、俺が見ていたものは根底から別次元だったことを、改めて思い知る。

そんな化け物達の手中に、いつまでも緋音を置いておく訳には行かない……!


「と……と、き」


「……片桐!」


未だに血みどろのままの片桐が、掠れた声で訴えかける。何かを伝えようとしていることが分かるが、その意図までは読めない。こうしている間にも片桐の傷は急ピッチで修復されていくが、それでも状況は予断を許さない。かといって、これ以上何か出来るわけでも……


「四鬼を殺す必要は……な、い……ただ……お前が……新たな王の威厳を示せば……!奴らはそれにしたが、う……ガハッ……!」


片桐の目的は、未だによく掴めない部分もあった。主とも呼べる灰崎と袂を分かち、敵対していた俺達にここまで情報を提供することも、この有様になるまで戦ったことも、俺には、やはりよく分からない。

ここまで来てしまえば、いくら今まで怪魔を利用して人々を脅かしてきた存在といえ、手を取り合って戦わざるをえない。俺個人の感情は、俺自身の視野から外さなければ、この圧倒的脅威には立ち向かえないだろう。


「───────分かった。」


「俺が、王になる。あいつらを止めて、緋音も取り戻す。」


片桐が俺の言葉を聞いて口を開くが、もはや発音する力も残っておらず、そのまま気を失った。雨は勢いをまして、ぬかるんだ地面を叩きつける。

かくいう俺も……限界がきた。



神奈川 横浜


東京を中心に起こった混沌の余波は、この地にも僅かに届き始めていた。街も海も、さほど変わりはないが、人々はあまりにも機能しない国の動きに、不信感を抱きながら、各々声に出すにも出せないやるせない感情を燻らせて、日常を取り繕う。


会社も学校も、通常どおり行われる中、誰もがあの“声”を聞いたか、という話題を振るのを躊躇った。それほどまで、あの現象は不思議で非日常的なものだからだ。

本来であれば、噂好きなこの世の中において、スマートフォンなどを媒介に、それが口々に広まるのは自然であるが、今回に限っては、口に漏らすのを押さえ込もうとしなければならないという自制心が無意識に働くほど、この地の人々にとってはある種ショックであったために、その話が持ち上がることはなかった。


しかしそうしている間にも、着々と血の鬼の魔の手は国家どころか世界を掌握しようとしている。尋常ならざるものの気配を感じながらも、それに目を逸らしながら、また一日は何となく過ぎようとしていた、そんな日の暮れのことである。


────────彼らの眼前に、絶望はやってきた。


その風貌を目にしただけで、人々は彼を瞬時にこの不安の元凶だと察する。彼は潜むことなく、殆どの人の目にかかるような場所にわざと降り立ち、自らの体内から引き抜いた異形の大剣を掲げる。

その異常な一部始終に人々は怖気付き、膝をつくことしか出来なかったが、地にのめり込みそうなほど重厚な空気の中で、ふと、誰かが立ち上がった。


立って、息をしているだけでも勇敢極まりない行動だ。この状況で立っていられること自体、既に称えられるべき強靭な精神を持ち合わせている人間だと、誰もがそういう期待した眼差しを立ち上がった男に浴びせる。


そう、この瞬間こそ、地獄の始まりであった。


立ち上がった男は、大声を上げながら、剣を掲げる大男に向かって突進……とはいかず、むしろあろうことか、傍に居合わせた無力な女性の胸ぐらを掴み上げ、その顔を腰を入れた拳で勢いよく殴りつけたのだ。

生々しい音が静寂を濡らす。何が起こったか、この男が何をしているのか、いくら考えようと、理解出来るものなどいない。思考を奪われ、無数の期待は、青白い愕然とした表情に変わる。


何度も、何度も暴力は繰り返される。女の顔はほとんど原型を留めておらず、男の拳も目も当てられないほど血にまみれている。それでも構わず、暴力は続行される。この状況下で、動き出せる勇気を持つものなど居るはずもなく、異常という言葉すらもはや生ぬるい惨状を前にして、身体を震わせることしか出来ない。ここに居る全員が、説明のつかない恐怖に支配されているのだから。


そして限界を超えた恐怖は──────狂気に変わる。


一人、そしてまた一人、おもむろに立ち上がり、手当り次第、そばに居あわせた適当な人物を、蹴る、殴る、掴む、絞める、引っ掻く……伝染病のように、狂気は蔓延して、一つだった生々しい音が反響し、鼓膜を殺すような無惨な音響になる。


「そう……もっと争え。」


大剣を掲げる白髪の大男は不敵な笑みを浮かべて、その地獄を俯瞰する。

その契、“戦”。

平穏だった街は、狂気によって戦場へと成り果てた。



脳に、鋭利な針が落ちるような感覚───────

瞼の裏を駆け巡る狂気の一部始終。

地獄を見せつけられて、俺はもがくように意識の森を抜け、飛び起きる。


「十時……!起きたか……」


視界がハッキリとするまで、少し時間がかかったが、香織さんも、片桐も、無事なようだった。

片桐の傷は見る影もなく修復しきっている。目を逸らしながらも、小声で感謝をつぶやく言葉が聞こえて、俺は安堵の息を漏らした。


「手に入れた力の反動はやはり大きかったな……しかし脅威の適合率だ。緋音とヴェルダンディー。二人の鬼の血が混ざった状態で、気を失う程度で済むとは……普通ならば即死だぞ。」


「“普通”なら……香織さん、“十時”について、何か知ってますか?あの女は、四鬼と狂王を封印したのは十時だと言っていた。灰崎も確かそんなようなことを……緋音を拘束してる四鬼の首魁だってそうだ、十時っていう姓に、異常な執着を持ってる。十時って、何なんですか……?」


香織さんは少しの沈黙の後、一息おいてから、私もよく知らないが、という言葉を先に付けて、口を開く。


「“十時家”は、大昔から栄えていた祓魔師の一族だ。分かるか?エクソシスト、と言う方が馴染みがあるかもしれない。詳細は不明だが、一族は生まれながらに特殊な力を有していて、その聖なる力で、邪悪なる者、ひいては“怪魔”をも沈めてきたと言われている。」


反応に困る俺を見て、何を思ったのか、香織さんは深くため息をつくと、こんなことも言い始める。


「十時、お前はよくやっている。旧友の死から間もなく未曾有の驚異に直面しながらも、緋音を取り戻さんと奮闘している。お前は強くなった。それは私が保証しよう……だから、きっと今から言うことだって……お前なら受け止められるはずだ。いいね?」


雨が勢いを増した。音と空気が一変し、さっきよりもより強く当たりを濡らしていくのに、なぜか静寂に包まれているような気さえした。

脈は落ち着いている。けれど、やけにその音だけが目立って聞こえる。俺はきっと怖いんだろうけど、香織さんの言葉を蔑ろにしたくなくて、恐怖をなんとか押し殺して、耳を傾けた。


「十時……お前は、多分、十時の人間ではないよ。もっと“別の何か”だ。」


呆気なく耳に入ってきた言葉は、なんとなく予想していたような気もするけれど、それでも意表をつかれてしまった。

単純に……意味がわからないから。

俺は紛れもなく十時華一で、親もちゃんと十時の苗字を持っていて、早くに亡くなった親の代わりに俺を育ててくれた祖父も、間違いなく十時だった。

俺は養子でもなんでもない、純粋に、その名前に生まれたのに……


「“十時”の力が今も残っているのかは分からない。だが、お前は初めから、十字架のネックレスを下げていただろう。アレは私が少し手を加えただけで、お前の力を底上げするような切り札に変わり果てた。つまりそのネックレスは、最初からある程度……いや、かなりの量の魔力量を含んでいたはずだ。

祖父の形見だと言っていたが、それはつまり最低でも、お前の祖父は“十時の力”について何か知っていたということになる。

問題はここからだ……あの日、私は大して気にとめなかったが、やはり、十時が“聖なる力”を宿す者なら、対極をなす“怪魔”である吸血鬼の力が容易く浸透するのはおかしいんだよ。

それも、緋音とヴェルダンディー。どちらも最高濃度の血だ。ただの人間だとしても、ましてや聖なる力を有するものならば余計に、その強大な力を受け止めることは出来ない。

それどころか君は……強化されているというより、“取り戻している”ようにさえ見える。お前は……一体何者なんだろうな。」


「────────すまない。こんな時に、君を混乱させたい訳では無い。ただこの先、君は君自身の力で答えを出さなければならない。これだけは覚えておいてくれ、誰がなんと言おうと、緋音を救うのは君で、君があの四鬼さえ従わせる王の座につくんだ。」


香織さんは気を遣いながらも、彼女なりの言葉で俺を奮い立たせ、嘘偽りのない感情で俺の名の意味を教えてくれた。

俺が怪魔も四鬼も屈服させる王になって、緋音を救い出して……

それでいい、それでいいのに、俺は取り乱すわけでも着いていけずに放心するわけでもなく、ただ一抹の疑問を胸中に燻らせていた。

果たしてその先になにがある、と。



夜の帳が降りて、月光が神秘的に降り注ぐ紺青の薄暗がりの中で、俺の本能は燃え上がるように中身を露呈させていく。

身体が足の先からむず痒くなるのをじわじわと感じながら、筋肉もはち切れそうな程に熱を帯びて膨れ上がり、爪も大木をも割けるほどに鋭さを増して、そこら中の異常と痒みと痛みに耐えきれず声を上げるのと同時に目も牙もおかしくなる。

月光に当てられているだけで、自分が取り返しのつかない化け物であるということが今更ながらに暴かれる。


「十時!」


香織さんが呼び止める声は聴こえている。しかし、この体の急激な吸血鬼化を食い止めることができずに、ただ闇に向かって叫び散らすしかなかった。

額が熱い。高熱を出した時のような妙な倦怠感さえある。反面、感覚は敏感すぎるほどに研ぎ澄まされているのが一層気色悪い。


「────────額に、十字……!」


驚愕と共に発せられた香織さんの発言にゾッとする。やはり、俺も同じになってしまったのか。あの化け物達と……

脳裏に金髪の少女の笑みが浮かぶ。


『あはははははははははははははははははははははははは。』


「黙れっ……!」


『あははははははははははははははははははははははははははははははははははは。』


「だまっ……れぇえ!!」


『あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!』


「ァ、ァア、あはははははははははははははははははははははははは!!!!!!!」


俺は、壊れる。血を欲した罰。咎人の証の黒い十字架が、満月と対面して、その闇を深めていく。


「十時……!」


音はしなかった。笑い声が邪魔だったのか、そもそも初めから本当に無音だったのか、きっと後者だろう。壊れていた頭の中に、重く鋭い一撃が捻らせながら脳内を抉り穿たれ、その思考ごと殺してくれた。香織さんの銃。

───────人を殺すことはなく、怪魔のみを殺す銃弾だ。


尚、俺の身体は、血は、脳を打たれても再生しようとして、鼓膜の奥で何度も囁かれる。

生きろ、生きろ、生きろと、狂おしいほど、声は徐々に黒さをまして、頭がおかしくなる頃には、周りの音も空気も風も、何も分からないほど騒々しいがなり声になっていた。


……遂に。

「少し休め───────十時。」


ああ、俺はついこの間まで、ただのどこにでも居る冴えない人間だった。何かを失ったばかりの、抜け殻だったのに。

もう怪魔も緋音も“王”もどうでもいいよ。俺は何も知らなかった頃に戻りたい。夜が怖い……でも、そう思ってしまうのはもっとこわい。

こわい……おじいちゃん……たすけて────────



『華一、人を助けられる人になるんだ。』



「全く、末恐ろしい奴だ。」

そう呟いて、黒い外套に身を包み華一と歳も変わらない男は、内ポケットに忍ばせていたタバコを一本取りだし、古びたライターで火をつけた。

香織はその挙動を見て、少し顔をしかめながら、倒れ込んでいる華一に視線を戻す。

「あぁ……こいつの中にはあの女が染み付いている。能力は飛躍的に向上したが……これではまたいつ暴走するかも分からない。」


「違う。」

片桐は否定する。煙立ちのぼるタバコをくわえながら、剣呑な空気を夜の静寂に滲ませる。

香織は表情を変えることなく、片桐と同じように、しかし幾分か慣れた手つきでタバコに火をつけた。重い銘柄の、年季の入ったものだ。


「お前の目的は、ボスとは違うものだと思い込んでいたが……根底の理念は同じだ。お前達は……」


「待て、言わなくていい。ああ、そうだとも。私は望んでいるよ……私を育てたあの男と同じように、絶対的な“支配”を。片桐、君には分からないかもしれないが、この世界には支配者が必要なんだ。知恵ではなく、ただ一人圧倒的な力による圧政が。」


「稚拙だな……そのような世界になれば、地を無数の死骸が埋め尽くすぞ。何も生み出されることはなく、全てが止まり、やがて失われる。」


月明かりだけが、この夜において唯一鮮明に映る。片桐から見て、香織の顔は逆光でよく見えず、彼女の表情が今どうなっているかは察することすら出来なかった。

漆黒の暗殺者、謎多き彼女ではあるが、華一も緋音も知らない香織の素性を、同じく闇に生きる片桐は知っている。

……彼女も、闇から生まれた者だから。


「稚拙……結局、人は何年何百年生きようが変わらないよ。大人なんていうのは、図体がでかくなっただけで中身はガキのままだ。“人殺しは人でなし”。私が何年もかけてようやくたどり着いた常識であり、私の一生のセオリーだが……」


「吐き気がするな。お前、十時に同じようなことを説いたのか?十時が人でないのは重々理解しているはずだ。“人でないものが人殺しをしても、人でなしにはならない。”当然だ。お前は自分の手を血に染めることなく、お前の理想を手に入れるのか……」


依然として、暗殺者の顔は見えないままだったが、冷徹とした表面よりも、執念に煮えたぎる悪魔のような内面が今はよく映ってるように思われる。


「余計な詮索はするな。今は、四鬼に十時の力を認めさせる事だけを考えればいい。殲滅は無理だからな。四鬼を上手く従わせることが出来れば、新たな王政が夜の闇に敷かれる。これは、全人類にとっての希望なんだよ。」


「緋音の救出が急がれるな。」


タバコの煙は、月光に溶ける。



四鬼が復活を遂げてから、何度目かの朝。

首都東京はその魔の手により完全に陥落し、続けて千葉、神奈川、埼玉の三県が行政機関を初めとする全ての機能を失った。

香織達がそれを把握したのは、それぞれの土地からとめどなく流れ出る強大無比な魔力を感知してからだった。


香織と片桐は現在の状況から、一つの仮説を立て、それに基づいた作戦を立案した。

四鬼はメディアなどの報道機関を止めることは出来ても、情報が真偽関係なく飛び交うネットまでは管理する術を持たなかった。そこに目を付けた香織はこれによって四鬼の手に堕ちたと思しき四県の具体的な現状の情報を収集し、考察した結果、四鬼がそれぞれどこに配置されているのかを算出した。


埼玉、謎の疫病流行により、人々が黒い変死体となり地に転がる惨状。片桐がアジトから盗んだ資料と照らし合わせた結果、序列四の鬼、“病の契”を持つ鬼が根を張っていると推測。


千葉、食糧難による飢饉かと思われるが、詳しい状況は不明。人々は餓死し、手付かずの状態。資料と照らし合わせた結果、序列三の鬼、“飢餓の契”……前に交戦したヴェルダンディーによる混乱と推測。


そして神奈川……現状一切不明ではあるが、横浜の方角から異常な量の魔力を感知したため、四鬼の存在はまず間違いないと断定される。緋音が序列一位の最強の鬼、“支配の契”アスタリスクの支配下に置かれているため、消去法で序列二位、“戦の契”を交わした、エルドラドという名の鬼が関係していると推測。


「四鬼の目的が狂王の復活だとして……人の血でも必要なのかもしれんな。」


「つまらん推察だが、吸血鬼ということを鑑みても間違いはないだろうな。現に四鬼復活も、ボスが仕組んだあの事件で大量に仕入れた血を用いたはずだ。だが……やはり何より重要なのは、王の血を受け継いでいる緋音の血だろう。四鬼はやはり簡単には渡さないだろうな。」


「序列一位、アスタリスク……奴が緋音の監視役なら、奴は自ら動けないのでは?奴と初めて交戦したのは東京。緋音も恐らくまだそこに居る。しかし、ここをいきなり叩くのは……」


「言うまでもなく無理だな、全員死ぬ。」


片桐は間髪を入れずに香織に警告する。あの桁違いに強力な鬼を打破できる戦力を持ち合わせていない以上、緋音を直接最短距離で救出することは不可能に近い。


「恐らく行動できないアスタリスクを除けば三鬼……己、お前、十時がそれぞれの対処に同時に当たれば……」


「たしかに考えうる限りその策が有効ではあるが、対処しきれるか?それに、十時の力を四鬼に認めさせることが出来なければ意味が無い。」


「それは貴様の都合だろう……現状最優先されるべき目的は赤神緋音を救出し、古の狂王の脅威を食い止めることだ。」


しかし香織は譲らない。ただ漠然と人類にとっての脅威を防ぐために動く片桐と違い、香織には明確な思惑がある。香織が最も憂慮しているのは、人類の行く末ではなく、その玉座にだれがつくのかという点のみ。

となれば当然、相互の意見に齟齬が生じるのも致し方ないというものだった。


「───────まぁいい。わかった。奴らとてただの獣ではない。可能性は限りなく低いが、王について交渉すれば通じる話の一つもあるかもしれない。私が欲しいのは彼らの新たな王に対する忠誠とその血だ。殲滅など元より出来るとは考えていないし、私は十時を相手側に売り込む。この路線で行く。」


つまり、アピールをするというわけだ。

香織は半ば言い訳がましく付け加えた。苦渋の選択ではあったが、互いの目的を出来る限り尊重した妥協策であった。

片桐は沈黙という同意をみせ、四鬼が別行動していると思われる今、あとは華一の回復が待たれた。

肉体ではなく、精神の回復だ。華一は今、鮮血の鬼、ヴェルダンディーに心を侵食されてかけている。


「十時……お前ならその程度、容易く乗り越えられる。」


うわ言のように呟いて、首から下がる十字架の輝きにめを逸らす。

それぞれの命運をかけた対四鬼士戦の幕は、人知れず、夜闇のように静かに開かれた。



なんで。なんで、私は今……“逃げているの?”


分からない。分からないけれど、今はただひたすらに、宛がなくても走らなければならない。逃げて……逃げて、もう何から逃げているのか、何に怯えたらいいのかも分からないけど、今はあの男の気が変わらない内にどこかへ消えるしかない。

確実に怪魔を殺す“月写し”も奴らには通用しない。だってあれは、まだ未完成だ。


香織があの刀を打った日、痩せた体にいくつもの傷をつけて私にその刀を託したあの日、確かにそう言ってた。


ならこの刀をどうにか完成させて、あの鬼を殺す。私は怪魔を全部殺して……殺して。どうすればいいんだっけ──────


「……お困りかね、赤神の末裔。」


黒い男。影のように現れて、私の行く手を阻むと、面影ごと打ちのめされているほどに廃れた姿で、不気味に笑った。


「手を、組まないかね?」


灰崎……この男の考えることは、私にはまるで分からない。

遅れてすみません。

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