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四鬼、始動

前回までのあらすじ

幼い頃から自分を育ててくれた祖父を亡くし、途方に暮れていた青年、十時華一は、偶然遭遇した吸血鬼、赤神緋音の血を貰い受け、吸血鬼として生まれ変わる。

緋音と行動を共にしていた暗殺者であり錬金術師、黒木香織の下に就き、夜に蔓延る悪鬼羅刹、“怪魔”を討伐すべく、その力を振るう中で、同級生の綿貫眞白が怪魔を操り人々を襲っていたことを知ると、眞白を嗾けた黒幕、灰崎氶と言葉を交わすが、彼の目的の為に、眞白は利用され殺されてしまう。全ては、古の吸血鬼、“四鬼士”復活のために。

王は自らの血の半分を、鉄血、熱血、鮮血、冷血の四つに分け、四人の鬼を創り出し、それぞれに“(ちぎり)”を交わした。


一の鬼は、勇猛と鋼の信念を併せ持つ鉄血。支配の契。

二の鬼は、激情のままに剣を振るう熱血。戦の契。

三の鬼は、静と動を司る麗しき鮮血。飢餓の契。

四の鬼は、生命を枯らす厄災の冷血。病の契。


四人の鬼、即ち、四鬼士なり。

屍山血河を築いた蹂躙の後、“十”の封印を受け、棺の中に眠りにつく。静寂と混沌の宵闇の中にて、王の復活を待つ。

血を与えてはならぬ。屍を捧げてはならぬ。生贄は要らぬ。

その闇から目を背けよ。闇と目を合わせた時、地上は再び血に染る。



綿貫眞白…やはり彼女は最期にいい仕事をした。暴走した彼女による大量の虐殺がなければ、今頃ここには至らなかった。

気味の悪い場所だ。立って息をするだけでも、精神も体力も摩耗していく。肌身を突き刺すような憎悪が、九百年たった今でも痛烈に辺りを巡っている。

闇に包まれた道は、吸血鬼ではない私には少々視界が効かない。静寂を通り越した静けさは、寧ろ私の耳腔に直接圧をかけていくようである。


もうどれぐらい歩いたかは分からない。これ程までの量の血肉を抱えながら、冷たい壁を伝って歩いていくのは、久しぶりの重労働だった。だが……全ては百五十年余りの悲願のため。

私は彼等の力で、世界に新たな概念を造り上げる……


「これは……!」

感嘆は思わず口から漏れる。暗闇を抜け、薄明かりが灯る広間に出ると、四つの棺が、壁に張り付くように広間を囲んでいた。

生気は感じない。石の棺からは、ただ尋常ならざる瘴気が溢れている。直視するだけでも眼が枯れそうになる。

これは……明らかに度を超えている。


広間の中心に重荷を降ろし、その中身をばら撒く。腐った血肉の腐敗臭が空気を淀ませる。生々しく形の残っているそれらは、青銅の床を赤黒く染めていく。

──────途端、さっきまで全身を圧迫していた感覚が一層強みを増す。その息苦しさに、喘ぐことすらも叶わない。

目眩、頭痛、感覚という感覚が削ぎ落とされていき、結果総毛立つ恐怖のみがまともに機能する。

未知の感覚に震えが止まらない。


「聞け……!封じられた四の血、鉄血、熱血、鮮血、冷血よ……!

我は常闇に屍をくべる者。我は闇に畏怖する敬虔な鍵の担い手なり! 永き眠りに囚われし鬼の騎士!我が声に応えよ!我が血に応えよ! 汝らを今、永続の宵闇から解き放つ!」

これだ……この感覚……!九百年の時を経て、今こそ彼の者達は蘇る! 再び地上を血で染め上げるために、その棺をこじ開ける!


「───────目覚めろ!血塗られた“四”!“四鬼士”!!」



綿貫さんの葬儀が終わった夜、家に着いた俺と香織さんは、二人で書斎に入って遅くまで話し込んだ。他愛のない話もあったが、話の大部分は……“王”の話だった。


「……私達は長い間、“怪魔”を狩ってきた。だが、それだけではダメだ。数を減らしたところで、また新たな怪魔が生まれる……灰崎の手によって。」

「だから……“狩る”のではなく、“支配”するということですか?」


その通り、言った後に、コーヒーを口に運ぶ。時刻はもう三時を回っていた。

俺が意外にもすぐ理解出来たのは、これまでの話の流れで大体分かっていたからだ。まだ実感も追いついていないけれど、俺は心の中で少しだけ、高揚感を覚えていた。

王になるという事実だけ汲み取れば、いい具合に現実味のない夢のある話だからだ。

まぁ、それだけ済む話ならば、ここにいる誰もが苦労はしていない。香織さんは書斎の本を横目に流しながら続ける。


「その為には、君が王に相応しい者であると示す必要がある……このままの流れなら、九百年前、人類を恐怖のどん底に突き落とした吸血鬼の精鋭部隊、“四鬼士”が復活する。これはもう避けようがない。灰崎は今回、綿貫を上手く使ったんだ。」


使った……という言葉に、また憤りを覚えるが。もう過ぎてしまったことではある。過去を悔やんでいても、どれだけ恨もうとも、綿貫さんが帰ってくる訳では無い。なら、いつまでも怒りを引きずるほど生産性のない話はない。俺はもう、前に進む覚悟を決め無くてはならないのだ。


「強いですか……?四鬼士は……」

ダメ元で聞くと、彼女はため息をついてから天井を見上げる。


「また誰か……死ぬかもな」


言葉が詰まった。その返答は何となく、心のどこかで予想していたからだ。もう誰かが死ぬのは見たくない。綿貫さんの遺影が、頭にこびりついて離れない。

皆の嗚咽も、もう微塵の生気もない、死体となった彼女も、ずっと頭から離れない。


「私たちは……分からないことだらけだな。九百年前のことは愚か、四騎士の情報も殆ど無し。これでは手の打ちようがない。」

「確かに……灰崎なら、何か知っているんでしょうか。」

その質問には答えなかった。香織さんはきっと、あの男を人一倍憎んでいる。俺があの男を最大の敵であると認識するよりずっと前に。底知れぬ因縁を、二人の間に感じざるを得ない。

「四騎士は必ず復活する。今までの怪魔出現はそのための前座だ。……限りなく、望みは低いが。我々も新たな戦力を仕入れる時だろう。」

言って、引き出しから取り出した資料を開いて見せた。情報の羅列ではなく、その分厚い冊子は、一枚の写真から始まっていた。


「これは……」

古い写真だが、とびきり昔であるという訳でもない。色もついているし、なにより縁に記された年と日付がそれを物語る。

幼い少年が、無愛想な表情でこちらを見ている。彼からにじみ出る殺気は子供のものとは思えないほど獰猛で猛々しい。

……分かる。これは、“アイツ”だ。


数十年前


その港町は、少し前まで漁業で栄えた活気のある集落だった。一人一人が、自分達の明日のために知恵と力を振り絞り、今日できる最大の努力をして、明日に繋げていた。

町で生まれ育った女と、他所からきた男の間に、その少年は産まれた。高齢化が進む町にとって、待望の新生児だ。少年は物心ついた時には既に、漁業のいろはを教わっていた。

少年を産んだ時、母親は死んだ。そのショックで、父親は行方をくらました。少年は生まれながらに孤独だった。故に、いち早く独りで生きる術を身につけなければならなかった……


頭では分かっていても、温厚な漁師達は快く思わなかった。幼い少年に、まだこの仕事はあまりにも早すぎる。かといって自分達が現役である間に、知識を叩き込まなければ、少年を自立させる者はいなくなる。

少年は幼いながらも成長していく。親の愛を知らずに育った少年は、感情の起伏も、表情の緩急も薄れたまま、ただ明日を生き抜くためだけに生きていた。町の大人達は、生きる術は教えることが出来たものの、人としての価値観までは教えてやることが出来なかった。

彼の心は、かけたままだった。


やがて冬が来た。その年は一層冷え込んだ。流行病も次々感染した。医者が少ない町にとって、かなりの痛手となった。

漁師だけでなく、住人の殆どが病に倒れ亡くなった。

少年はまだ孤独になった。いくら知識があっても、子供に船は動かせない。少年は生きる術知りながら、それを封じられた。

もはや息絶えるのを待つのみ。病は少年にも伝染した。

少年は死ぬはずだった。

黒い男が現れるまでは。



片桐雅依の過去は夢想だにしないほど凄惨なものだった。やれやれ、と資料を閉じて。香織さんはおもむろに携帯を取り出すと、画面を見るなりまた一つため息をついた。

「……明朝、その街に出るぞ。緋音は何やら面倒な用事があるらしいのでな、私とお前で行動する。準備しておけ。今日はもう寝ろ。」

返答する余裕もなく、さっさとつまみ出される。急に言われても……と困惑したものだが、それはすぐに激しい動揺に変わる。

「まさか───────」


翌日


目が覚めると、香織も華一も出かけていた。携帯にも適当な伝言が入っているだけで、あとは自分でどうにかしろと。放任主義なのはありがたいが、今日ほどそれが祟った日もない。仕事に行くなら私もついでにどこへでも連れ回してくれればよかった。私が余計なことを言ったばかりに、香織の子供心にヘンな火が着いた。特に着飾ることはしない。いつもの白いワンピースに、今日は冷えるので華一のジャケットを拝借した。

鏡に顔を合わせて気づいたが、やる気のなさと憂鬱が面に出過ぎている。全く災難な日だ。溜息と同時に、私は家を出た。


駅前はやけに賑わっていた。もう学生は冬休みに入る。クリスマスも近づいて、カップルの姿もよく見受けられる。待ち合わせの場所に着いても、私を呼び出した男はいなかった。

ベンチに腰を下ろして適当に暇を潰していると、間もなく彼はやってきた。待ち合わせの時間きっかりに、流行りの服を纏って。

流行り、というよりも……どこにでも居そうな風貌で。

「ごめん、待った?」

彼はそんなつまらないセリフを言うと、私のラフな格好に驚きつつも瞳孔を開いて頬をあからめる。気味が悪いほど在り来りな反応に私も呆れる。

「かわいい……赤神さん……」

その一言を出会いがしらに言うのもどうかと思うが、少しくすぐったかった。


彼は香織の有り金で仕方なく通っていた高校の同級生で、名前を篠田という。シノダ、それ以外には全くと言っていいほどしらない。どういう訳か私の連絡先を知っていて、数日ほど前にこうして外出に誘われた。大方取り敢えず連絡先を交換した女子から私に内緒で貰ったのだろう。別にそれ自体はなんとも思ってない。

これだって、世間の目から見れば“デート”と呼べるのかもしれない。

彼は人を先導していくタイプの人間で、話に妙な沈黙が訪れることも無く、会話は続いていたけれど、そのプランは信じられないほどに退屈だった。


「赤神さんはタピオカ飲んだことある?奢るから買ってこうよ。」

彼が指さす先には、テレビでもよくやっている店が構えていて、その前には待つのも馬鹿馬鹿しいほどの長蛇の列が出来上がっている。有象無象に注目すると、男も女も見た目の違いに大差ない。けして揶揄している訳では無い。ただ根本的に、彼のようなやつと私のようなやつでは住む世界が違う。カテゴリーが大きく異なるのだ。


「篠田は、ああいうの好きなの。」

私が問いかけると、多少困惑しながら目線をそらす。

「い、いや、君が喜ぶかと思って。」

私は意図せずまたも溜息が漏れる。どうしてよりにもよって、私なんかに興味を持つのだろう。こんな真っ直ぐな好意を向けられたのは、初めてと言っていい。

「じゃあいいよ。あんなの。他のとこいこ。」

「……え、あ!おう!」

あー、もうどうにでもなれ。こうなったら、とことん付き合ってあげる。



その街に着いたのは昼過ぎだった。早朝から家を出たことを考えれば、それなりに距離はあったと思う。香織さんは「人を待たせてる」とは言うものの、誰かは明言しなかった。

もっともそれが誰かなんていうのは分かりきっている。香織さんがどうしてわざわざ黙っているのかも疑問だが、人影のない荒廃した街の中で独り、目も潰れそうな漆黒の外套に身を包む男を見れば、怒りでそんな些細な疑問は排斥された。


男は─────片桐雅依はこちらに気づいても、表情を変えなかった。香織さん曰く話はすでについているらしく、おそらく新しい戦力というのもこの男の事だろう。

納得なんて出来るはずがない。あの日からこの男のことは対立する存在とだけ認識していたが、もうそんな曖昧な敵愾心も意味をなさない。彼女が亡くなった今、それを手引きしていた一人である男と手を組むなんて、到底考えられる話ではない。

それは香織さんもよく分かっていると思ったのに。この人は最初から、“最善策”しか考えていない。


香織さんの頭にある最善策は常に徹底されている。理由は明確である。彼女がいくら人を殺さないといえども、暗殺者である人間はまず仕事に私情を挟まない。勿論、相手の意思も汲み取ることは無い。過程を無視して、結果だけを見ている。

綿貫さんが暴走した時も、彼女には微塵も救いの手を差し伸べようとする思考もなかっただろう。どう殺せば死ぬのか。それだけを考えていた。

“殺す”という名目がまず前提にある限り、そこに和解も救いもない……基本的には。


こちら側に多大な利益がある場合、話は変わる。今回は、灰崎を最も近くで見ていた男が、その利益に当たる。四鬼士について、少しでも有力な情報が欲しいから。そしてそれを迎え撃つに当たって、少しでも上等な戦力が欲しいから。故に彼女は過去など簡単に水に流す。

それは、片桐もどうやら同じようだ。俺を拉致した時のような、見ているだけで目が焼き焦げそうな殺意はもう無い。純粋な交渉相手として、玲瓏な目でこちらを一瞥する。


「やあ、片桐雅依。不躾ではあるが君の経歴は覗かせて貰った。君の身体の怪魔についても、把握済みだ。」

片桐に接触した直後、彼女らしいフランクな挨拶から、抜かりない前調べまで先に残して、片桐の出方を伺うような切り出しになった。

片桐は静かに眼を据えている。自分の過去を閲覧されても、彼に取っては瑣末なことらしい。

「雑談はいい。女、これより必要なことのみを話す。それ以外は余計だ。そこな猟犬の眼差しを向ける男の私情も今は不要である。」

奥歯を噛み締める。歯が軋めば軋むほど、殺意も敵意も上乗せされていく。それら全てを押し殺そうとしても、結局は蝕まれる。俺は、あいつが憎い。


「己は、四鬼士撲滅の為ならば貴様らと結託することは一向に構わない。四鬼士は最早人類という種そのものにとっての脅威……私情を挟めば死ぬ。よってこちらが保有する情報は全て提供する。」

話はつけてあると言ったが、片桐は存外あっさりしていた。

「おや、出血大サービスじゃないか。私らは特に差し出せるものは無いが?」

「いや、こちらは既に利益を得ている。」

片桐は不思議なことを言った。香織さんも理解が今ひとつ及んでいない。こちらは言うまでもなくまだ何も差し出してはいないし、差し出せるものもきっと無い。それでも彼は利益は得たと確かにそう言ってみせた。


「赤神、あの女の存在は大きい。死守せよ。それが己の利益だ。」

「……ほう?イマイチよく分からないが。」

片桐はそれ以上、その件については口にしなかった。片桐の言葉が鍵を握るのなら、緋音が今居ないのは……少し、引っかかる。

緋音に限って何かあることは無いだろうけど……胸騒ぎがしだしたのを必死に忘れようとする。


それと、片桐は改まって視線を合わせる。

「これよりは四鬼士の件だが、まず理っておくならば、奴らは既に……()()()()()()。」


「──────なに?」

香織さんはらしくない声を上げる。計算が狂った。というより、予定が大幅にずれたような。言われて、気づく。

綿貫さんが、何故暴走()()()()()()()に。


「己は一度しか言わん。理解出来ぬならそれまで。よって貴様らが今日、赤神を連れてこなかった時点で、我々は敗北に大きく近づいてしまった。奴らの目的は赤神だ。」

「まて、緋音が狙われるのは百歩譲って理解できるが、貴様はなぜ四鬼士の復活を知っていて事前に連絡しなかった。」

「勘だ。ボス……灰崎なら、もう復活させていておかしくないと、可能性の話をした。だが十中八九当たっているだろうな。あの男は全てにおいて抜かりない。それは貴様がよく知っているはずだが。」

両者の間に緊迫感が増す。同時に、俺の胸騒ぎも加速していく。緋音が危ないというのは、この中の誰もが口にせずとも一瞬で理解した。


「質問の答えになっていないな。何故そこまで考えていて緋音の安全面を配慮出来なかったかと聞いていたつもりだったんだが。」

「先刻、己は赤神を死守せよ、と言ったが、あれは結果の話だ。最終的に生きていれば良い。つまり、四鬼士は復活すればすぐさま赤神を狙うが、例えそれで赤神が敵の手に落ちても、奴らには確保しておくのが関の山。王の復活まで、奴らは人間を殲滅する以外の行動は基本的に出来ない。」

「育ちが悪いのか言いたいことがデタラメだな?つまり、緋音を撒き餌に使うと……そう言いたいのか?」

「そう言っているだろう。」


頭の奥の線が切れる音がした。気付いた時には、片桐の胸ぐらを締め上げて、今にも彼を殺そうとする俺がいた。

「緋音をどうするつもりだ……!」

「何度も言わせるな。奴が囮になれば、四鬼士の戦力は必然的に分離する。奴を守る者と、それ以外の遊撃手。つまり、残り三人になったとすれば、我ら三人で対処ができるというわけだ。」

違う。そうじゃない。もっと本質的な話だ。こいつは緋音を“駒”としか認識していない。言葉から、表情から、勝利以外目に見えていないことがはっきりと分かる。


「そもそもな……お前らが今までどれほどの人を苦しめたと思ってる。怪魔なんてもののせいで、人がどんだけ死んだと思ってんだよ……!」

「───────知らん。」

「お前な……!!」

片桐は全く動じない。力む腕が今まさにその首を捻り潰そうとしても、俺には出来ないことが分かっているように、ただ静かに佇んでいる。

「どの道、必要な犠牲だ。“神”を降臨させるには。」

「……は?」

王ではなく、神。香織さんには聞こえない程の声で呟いた片桐は、直後軽く俺の腕をひねり、混乱によって俺に冷静を与えた。

黒い外套は、冷たい風に靡く。


「己からはもう無い。一先ずはもう帰れ。ここは空気が悪いし、気分も悪くなる。赤神を囮に使うのをそこまで拒否するならば、早く行けばいい。」

この男はいつも不機嫌そうに話す。何かにずっと怒りを顕にしながら、言葉の一つ一つが鋭い狂気のように突き刺さるのに、瞳の奥は燃え上がるような何かが揺らいでいる。

俺はこんな殺意の化身のようなやつとは、上手く戦える気はしない。


「交渉“決裂”だな。君の力には価値があるが、価値観は全く合致しない。君とやっていくのは難しい。そう判断させてもらう。」

香織さんもきっぱりと断った。利益よりも、緋音の安全を優先させたのは、非情な暗殺者である彼女にしては珍しく思えたが、二人が今まで過ごしてきた時間は決して短くはない。

ほとんど親子のような関係といってもいい。

「いくぞ、十時。」

「……はい。」


取引失敗に終わった──────直後。

「………………っ!!!??」

頭が、堪えきれない程の重圧で割れそうになる。俺だけじゃない。三人共、未知の感覚に膝をつく。

心臓が揺れる。目眩も吐き気も、限界を超えて一気に襲いかかる。身体は震えて、気を強く持っていないと今にも崩れそうなほど、先ず力が全く入らない。

……怖い。怖い怖い怖い怖い!!!

そう、恐怖があった。紛れもなく何かに怯えていた。

しかし今までの人生で味わってきた恐怖とは何もかも、次元が全く異なる。この感覚だけで何回も死にそうになるほど、どうしようも無く抗うすべがない。


「きたか…………!」

「……十時!一刻も早く戻る!急げ!」

この瞬間、圧倒的に均衡が崩れた。空には、漆黒の巨大な十字架が、この世の全てを見下すように浮かんでいた。



────────やったか?不気味な静寂は、少しずつ解けていく。私は何故か、地に伏しながら空になった棺を凝視していた。

何故私が倒れているのか。その疑問は、刹那のうちに答えを得る。

考えられないほどの絶大な何かが、全身を襲う。この感覚は見覚えがあるが、それにしては今まで味わってきたものに比べて桁違いに凄惨な勢いである。これは恐怖。そう理解するのに、いくらか時間を要した。

それを理解して私は尚震えた。暫く私はこの感覚と無縁であったが、身をもって思い知る。私は地に伏していたというより、自然と平伏していたのだ。


あらゆる器官が機能を回復する。誰かの話し声が、する。

何を喋っているのか、私にはまるで分からない。単に日本語じゃない。と言ってしまえばそれまでだが、おそらくどの国の言語でもないだろう。私の知見では、このような発音は、そもそも人間には不可能であると思う。

低い声と、掠れた声。高い声はよく喋る。そして時折、どこかで聞いたような声も混ざるが、先刻の通り、何を発言しているのかは全くもって理解不能である。

その声の方に顔を向けようと思えば、いくらでもそう出来る。しかし、体がそれを断固として拒絶する。“お前はこのまま死人のように倒れておけ”と本能が告げる。


しかし、死んだフリというのは基本あてにならない。私の取り繕った死は直ぐに見破られる。全くもって情けないことに、見破られたというより、やっと私という存在がいることに気づいた、という風だ。言語は理解しかねるが、何となくわかる。

「……おい。」

掠れた声。その声の主が、私の頭を掴みあげ、顔を近づける。

私は声を殺された。その男の顔が、まさに死人そのものであったからだ。画用紙のように無機質で白い肌に、爛れたようなクマが縁取られていて、顔も、私の頭を掴む腕も痩せこけているのに、信じ難いほどの力がある。酷く傷んだ黒い外套に、フードを目深に被っているためにその全貌まではよく分からないが、闇から覗かせる眼は確実に、“見れば死ぬ”と思わせる。


「お前か、俺たちを放ったのは……?」

声は変わらず掠れているが、何を言っているのか理解ができる。私は直感する。これだ。これが“四鬼士”。四騎の悪鬼。

「……そうだ。」

力をふりしぼり、ようやく私はそう発言した。

男は笑う。病人のようなか細い声で枯れた笑いをあげて、満足したような表情を覗かせる。


「どうしました?」

歩み寄る影は、華奢なシルエットをしている。声でわかる。高い声は女のものだ。それも大人びてはいない、あどけなさの残る声。目を向けると、真紅のドレスに腕と足を鎧で包んだ金髪の少女が佇んでいた。やはりそうだ。出で立ちが、格好が、まるで何百年も前のもののように見える。

「あら、貴方死にかけじゃないですか。主に精神が。私達を呼び起こすのに随分苦労したみたいですね。お疲れ様でした。あはは。」

少女は中身のない労いと笑いをあげる。男とは違って、朗らかで無垢な年端の少女という雰囲気だが、やはり、只者ではない殺気がにじみ出る。紛うことなき殺気だ。殺してやる、というよりも、死ぬのが当然である、と強要するような、絶対的な物。瞳は深い紅に染まり、額には漆黒の十字架が浮き彫りになっている。


「貴方、面白い匂いですねえ。体に怪魔を混ぜているんですか?気味の悪い……ご自分のお体は大切になさって下さいね?あはは。」

何を言っても、私を嘲笑うかのように聞こえる。だがその実、やはり発言そのものに中身がない。付け入る隙のない空隙が、彼女を彼女として成立させているようだ。

「おいヴェルダンディー……人間と仲良く話してんじゃねえ……」

「あら?カルマだって、我先にと彼の頭を掴んだじゃないですか。お互い様ですよ。ええ。」

男は私の頭を離し、空気が流れるように軽く立ち上がって彼女に歩み寄った。異質だ。気配があまりにも薄い。彼の瞳もまた紅く、同様に額に漆黒の十字架が存在している。

互いに名前を呼びあって、口論を始める。カルマ、それにヴェルダンディー。業を意味する言葉に、神話の女神の名。分からない。四鬼士に名前が存在するのかどうかさえも。


「うるせぇよ、お前ら。」

頭を殴るような衝撃とともに、低い声が発せられる。声の調子は穏やかだが、この二人よりも圧倒的な恐怖が、その男から感じられる。肉付きがよく、筋骨隆々とした体躯は恰幅があり、大男と形容するに相応しい。どこまでも見下すような目が、私の身体の芯を射止める。

「もうこんな辛気臭せぇシケた墓場に居座ることはねえ、そうだろ、“アスタリスク”。」


四人目──────いや。恐らく、この男が四騎を統べる者であると本能的に理解する。軍服じみた黒い衣装は胸元が裂けるように空いていて、両腕は闇が溶けるほど黒い鎧に包まれる。腰に携えた剣は、十字架を模している……そして何より、私は驚愕する。

「……なぜ貴様がここにいる。」

口から漏れたのはそんな些細な疑問である。男は奴に酷似している。ほぼ同一人物に近いレベルで。

たくし上げられた髪、視線だけで生物を殺せる程の殺意等、外見的にも本質的にも違いはあれど、やはりどう見ても、あの男と見紛う。


「──────行くぞ。これより、王の名の下に蹂躙を開始する。血を集めよ、恐怖を集めよ、王はそれを好む。」

残りの三騎は沈黙という同意を見せる。声だ、声までもが似ている。どういう事だ……私は恐怖によって塗りつぶされかけた、目的を思い出す。

「……待て。汝らを解き放ったのはこの私だ。私が解放しなければ、今も汝らは暗闇の中に眠ったままだ。何か恩義の一つでも返すべきでは無いのかね……?」

冷静な振りをして、私は一歩強く出る。立ち上がってみれば、大柄の吸血鬼を除いて、他の三騎は私よりも背丈が低く、必然的に見下す構図になる。

だと言うのに。彼らの威圧感は凄まじく、眼前を塞ぐ山のような圧迫感に気圧される。


「──────恩義……ならば、今ここで貴様が生きていることこそそれと思え。我々は王の意思のみに従事する。貴様に協力する事は万に一つもない。分かったなら消えろ。」

黒い騎士は、凶器の如し言葉を吐く。私の計画が全て踏みにじられる。ならぬ。ここで終わってしまえば、今までに渡る骨も朽ちるような長い努力が無駄になる。

「ならば、その王の復活を約束しよう。私は彼の王の子孫を知っている。女の吸血鬼だ。その者の血肉と私の知識さえあれば、私は王の鎖を解くことが出来る。悪い話では無いはずだが。」


四鬼は黙り込む。流し目で一瞥をくれると、他の三騎は悟るように後に引いた。私は……認められたのか。

実に面白い集団だ。王を引き合いに出せば、こうも大人しくなる。事実として私は最終的に王の棺を開ける予定ではあるが、この四鬼士という駒も使いようだ。私の計画の完遂は見えている。ようやく……全てが叶う。


幾度も死にかけながら、ただ一人に想いを馳せ、呪いに塗れた余り物の生涯を送ってきた。それも終わる。血脈が全てを繋ぐ、完璧な調和のとれた新世界が幕を開ける。森羅万象が全て平に均されて、不完全と不必要という概念は調和に吸収される。

もう、君ばかりが苦しむことは無い───────香織君。



雑踏が過ぎる街の中で、私だけが「それ」を感じ取る。初めは些細な違和感。しかし、刹那のうちに圧倒的な恐怖に豹変する。

並の怪魔と対峙した程度では、まず体感することはない感情。未曾有の脅威が近づいていることは、すぐに理解出来た。この街で私だけが、それを感じ取る。

明白である。私の隣を歩く男も、さっきまで足を急かして交錯する人々も、もう全員、地に伏して居るのだから。


「な、に────────」


ようやく出た発音がそれである。力ない細い糸のような声は、すぐに轟音に潰される。

目の前にそびえていた巨大なビルが倒壊する。都会を構成する象徴的な建物が、一瞬のうちに踏み潰されるのを、私はこの双眸で確かに捉えた。土埃が辺りを覆い隠す。


瓦礫の雨が地上に降り注ぎ、先程まで都会の人々の流れを構成していたそれぞれは、その雨に打たれながら終わっていく。激しい音と生々しい音とが混ざり合い、耳朶に触れていく感覚が吐き気を催すほど気持ちが悪い。私の隣にいた彼も、もう原型すら留めておらず、肉々しい一部がとび出て体の節々がひしゃげている。



四人の影が朧気に、静寂を纏って揺れている。


「──────貴様か。」


声は重く、頭を殴りつけるような重圧感に私は気圧される。たったこれだけの発言でここまで圧倒されるのは、後にも先にもこの一回だろう、そう確信してしまう。

目の前の存在について、私は詳しく知らない。善悪のどちらかであるのかも、よく区別はつかない。ただ、その四人というだけで、香織も、灰崎も、異常なまで執着していた四人と言うだけで、体が強ばって動かない。緊張という檻に捕らわれる。

間もなく、視界が開ける……


「驚いた、本当にただの女じゃねえかァ……」


「ええ、とっても可愛らしくて、話の合いそうな子てす。あはは。」


名もしれない二人は、私を見るなり表情を緩める。だと言うのに、言葉は一つ一つ、信じられないほどの殺気を孕んでいる。彼らの声が頭に入り込む度、頭も、心も欠けそうになる。それだけで本当に死にそうになるのだ。息が詰まる。頭が鈍る。

全身が総毛立ち、視界が白と黒に点滅する。

私はようやく、怪魔を“化け物”と認識した。今までの雑魚とはレベルが桁違いだ。死が、目の前に立っている。

プレッシャーの範疇を越えている。どれをとっても目の前のたった四人に何も及ばない……!


「くっ……!」


これまで、あらゆる類の怪魔を殺してきた。しかし……吸血鬼を殺したことは無い。自分と同じ、いや、私は半分だけだから、恐らく完全体である彼らこそ真に吸血鬼と呼べる存在だろう。

身体中を巡る血液を呼び起こす。香織はいつか言っていた。

“月写し”はまだ未完成だと。

とはいえ相手も吸血鬼……怪魔である以上、確実に仕留めることは出来なくとも、現世と魔の袂を分かつこの妖刀なら、或いは……!


私は私自身が思考するよりも早く行動を開始した。全身の血流が沸き上がり、心臓に意識を集中させるとそれは外に顕現する。あの胡散臭い錬金術師が私に託した、怪魔を確実に殺す刀でありながら、怪魔ほど壊れた存在でないと扱えない最高の不良品が、この“月写し”────────いくつもの光芒が目まぐるしい虹彩を束ねながら、血を刀へと変えて、私の体の内から顕現する。柄をありったけの殺意を込めた手で握って、その白銀の刀身を引き抜くと、


「無駄な抵抗はよせ。」


鈍器で頭を強く打ち付けるような声とともに、体の芯から熱が奪われる。胸元を開けた漆黒の軍服を着た男は、瓦礫の山から私を見下して、私の感覚全てを“支配”する。

瞬間、私の刀の柄を握る手は震える。恐怖ではない。さっきまでの感覚とは、最早真逆の感情が起こった。私は確かに安堵した。だって、この声は。あまりにも聞き慣れているから────────

なんで……?


声には出ない。もう、発声という機能さえも死んでいる。あるのは、せめてもの思考力だけ。その極限まですり減った頭で理解するのは不可能な程、目の前の存在が奇妙だ。不気味だ。不可解だ。似ているだけ、というのは焦らずとも理解している。しかし、ここまで威圧的な空気を纏っていながら、何もかもが根本的にズレていながら、それでもあいつと見紛うのだ。

どうかしているのは分かっている、けれど……!


「……男と同じ顔をする。」


そういう彼は、つまらなげな顔をして私を瓦礫の山から見下ろしている。後ろの三人とは決定的に違う、人間臭い退屈な表情を浮かべている。これ程の化け物を、人間臭いと感じてしまうことがその時点でもう異常である。そう感じるのは間違いなく……


「華一────────」


ここにはいない鈍臭い男の名前が口から滑り出る。その名前を聞いても、四鬼はまるで反応を示さない。当然だ。初めて聞く、たかだか半端な人間と吸血鬼の混じった取るに足らない存在など、コイツらが深く知るはずもない。沈黙が流れてから、あまりにも華一に酷似した男がまたも口を開く。


「お前が王の血を引く女か?ならば来い。お前の血がいる。」


そもそも眼前の私を生命としてすら見ていない目で男はそう語る。さっきまで僅かに滲み出ていた人間臭さもその発言によって消え失せて、改めてこの男がこの世にとって存在自体が回避しようのない災害の様なものなのだと、思い知らせる。

ここから脱却するしか、私が無事でいられる道はない。しかし同時に、逃げられる道もまたあるはずが無い。

私は……この短い時間で完全に“詰んだ”のだ。


「勘違いすんなよ……?お前に拒否権なんてねェんだァァ……女ァ、お前がまだ抵抗する気なら、“運びやすく”したって良いんだぜェェェェ……!」


黒いフードを目深に被った、傷だらけの外套の男は、その画用紙のように蒼白な顔面から、尋常ならざる死の気配を漂わせて、息を吐くように私を脅していく。

その吐息に触れただけでも腐りそうだ。骨も血肉も、黒く朽ちていきそうな気配がある。男はまさに、“死”をそのまま形にしたかのようだった。


「お嬢さん、怖がらなくてもいいんですよ。私達は、貴方が欲しいのではなくて、貴方の“血”が欲しいだけなのです。この意味がわかりますか?貴方の血さえこちらに讓渡して頂けるだけで、私達の目的は達成されるのですよ。それでお終い。たったそれだけの取引なのです。あはは。ですから、その後のことに関しては私達は責任を負いませんけれど、有事の際は貴方の身の安全ぐらいは確保してあげても構いません。同級生……では無いですけど、女の子同士のよしみってやつです。あはは。」


女は長々と喋る。彼らの中でもっとも友好的な語り口で、おぞましいことを口にする。深紅のドレスが風に揺れる度、夢のように浮かんでくるものがある……彼女が浴びてきた血が、鮮明に蘇っていくようで、一種の芸術性すら感じる。艶のいい金髪も、透き通るような肌も、美しいという言葉は陳腐であるほどの美貌である。

普通の人間であれば。

彼女の笑いにはおよそ感情が篭っていない。まるで人の真似をしているようで気味が悪い。そういう意味では、彼女こそ四鬼の中で最も得体の知れない鬼であることが分かる。分かってしまう。


「あ、あれ?怯えなくていいのですよ?私ったらまた……あはは。あ、ここは笑うところでは無いですかね。あはははは。」


壊れていると、本心からそう感じる。まるで玩具のように、彼女は上っ面だけで言葉を適当に紡いでいる。こういう時、“人間”であればどう言う言動を取るのか。自分が知りうるパターンを再現しているだけで、そこに彼女の意思など微塵もありはしない。そもそも彼女にまともな意思が存在するのかすら定かではないが。


考えれば考えるほど末恐ろしい。体の震えも、もはや感覚として残っていない。自分が今震えているかどうかすら分からないのだ。これ程までの恐怖や脅威に対面したことの無い私にとって、今この状況こそが未知の最悪であった。心の中で何度も、何かに縋る。香織、華一、もしくは知らない誰かでもいい。今この空気に縛られている私を誰か、誰か連れ出して欲しい……!


血すらも見劣りするような真っ赤な眼を携えて、額に漆黒の十字架を浮き彫りにさせる四鬼は、私が何か発言するのを待っていた。待つ意味がわからない。これほどの力を有していれば、私を殺して血を奪うことなど造作もない。

結果的に助かってはいるものの、何故そうしないのかまるで理解できない。変に冷静になった頭で、何度考えても、彼らの真意が掴めない。霞のように何もかもが実態のない脅威である。


深く、息を吸う。異常なのは私も同じ……奴らにはない特殊な武器がある分、こちら側にも僅かに可能性はある。


「私は………私の血は、渡さない。」


「───────あァ?」


「私はこの血が憎い。けど、今ここでアンタ達に血を渡せば、世界中が頭の悪い王に怯えることになる。それだけは食い止める。聞いてるだけでイライラするの。アンタ達の伝説。」


赤く染った双眸で四つの影を見据えても、彼らの瞳はその赤など溺れてしまいそうな程に深く、妖艶でもあった。

一人一人が、その病的に白い肌から毛先までも“異質”という空気を着飾った化け物で、本当に本の中のおとぎ話がそのまま飛び出たかのように非現実的な存在であった。

緋音の張った虚勢は言うまでもなく看破される。いつの間にか痩せこけた顔面蒼白の枯れ枝のような男が目の前に居ることに気付くのに、少しばかり時間を要した。

死を纏った男は、自分の気配すら容易に殺していた……いや、気配すらも自らとともに死んでいるのだと、緋音は男を見て考える。


「考え事かァ──────────?」


背筋が悪寒に凍てついて硬直する。それほどまでに男の発した音があまりに生物的ではなく、様態全てが屍のように生き物として終わっていたからだ。文面に起こすと、支離滅裂極まりない話ではあるが、眼前の男は、死んだような男、ではなく、生きているフリをした屍、なのだ。

黒い外套を被った死人は、今にも飛び出そうな三白眼で緋音を凝視すると、不気味に口角を釣り上げて、むき出しの歯茎を見せながら笑う。不吉がそのまま形になったような顔である。

その表情に怖気付くような悪寒を覚えた直後────────


「え……?」


視界がぼやける。世界の輪郭が曖昧になり、それでも男の笑顔だけははっきりと写った。この僅かな間に確実に何かが起こったのだが、それが何かはまるで分からずに、立ってもいられないほどの倦怠感と脱力感に襲われ、脳が揺さぶられるほどの不快感も伴いながら地に倒れる。


「効いたなァ……」


彼はまさしく死神であった。緋音を蝕むのは、彼の“契り”によって発動した病魔だ。

───────第四の鬼、“冷血”のカルマ。



都心部に近づくに連れて、その爪痕は色濃くなっていく。俺も香織さんも、“手遅れ”であることは十分に分かっていた上で、口に出すことは無かった。全て、全てが失敗だ。

緋音を連れていかなかったのも、すぐに駆けつけることが出来なかったのも、何もかもが最悪の選択の結果だった。あの黒い青年はこうなることを知っていたかのような口ぶりを見せたが、ここまであの男の忠告通りに事態が進むといっそ清々しい何かを感じる。

人間は本当に絶望すると、もはや感情の起伏さえも曖昧になる。未熟な俺も、冷徹な香織さんでさえも、膝を着いて息を漏らした。


倒壊したビルと散開した瓦礫が物語る、“奴ら”の異常さ。これほどまでの惨状を作り出すのに、きっとそう時間は……むしろ、それこそほんの一瞬で全てが決まってしまったかのように、街は破壊によって完結していた。

頭を冷静に保とうとすると、奇妙な点が浮き彫りになる。


「人が……いないな。」


とっくに気づいていた様子の香織さんが、いたるとこに残されている血痕を確かめながら呟く。これだけの損害があれば、確実に死者の数は想像を容易に超えてくる。人が密集する都心部で起きた蹂躙とも呼べるこの侵略。既に屍山血河が築かれていてもおかしくは無いのだ。


「攫われましたかね……」


自分でも驚く程に、その言葉は簡単に滑りでた。香織さんは何も答えないまま、ここに来るまでの途中でいつの間にか浮かんで消えた、漆黒の十字架が存在していた空を思い耽るように眺めていた。

取り返しがつかない……あの絶望的な恐怖が四鬼の復活によるものならば、且つ、緋音がその者達に攫われたとするならば、現状俺達でどうにか出来るほどの戦力も知識もない。


仮に、片桐と協力的な関係を築けたとして……戦況は著しく変わる訳では無い。どれほどの力量差があるかはそれこそ未知数だが、九百年も前、彼の伝説の王の下虐殺の限りを尽くした集団など、道徳も戦力も人並み外れているに違いない。

先を憂いで、白い息を静かに吐いた。

───────瞬間。


『全人類、我が声を拝聴せよ。』


「……この声」


『我等は“四鬼士”。総てを喰らう鬼である。分からずとも良い。我等はたった今、日本の首都である東京を落とした。これは蹂躙である。故に覚悟せよ。我等は貴様等の築いてきた歴史を、文明を破壊する。

命が惜しい者は自らの血を全て捧げよ。そうすれば楽に死ねる。

抗うという者は心得よ。我等は如何に下等な人間共であっても、一切の躊躇、容赦をせずにその命を刎ねる。

我等は、我等の“王”の復活を、東京、渋谷にて待つ。抗うのなら挑め。従うのなら捧げて死ね。我等はこれより、世界を血に沈め落とす。

我等は死ぬまで終わらぬ。平和を願うのなら我等を殺しに来い……』


「……ハァッ!」


息が詰まる感覚がようやく終わった。俺も香織さんも必死に抑えて“これ”だ。仮にこの声が本当に全人類に届いていたとして、まともに聴けた人間など居るのか甚だ疑問ではあったが、世界はもう確実に終わりに近づいていることだけは確かなようである。

東京、渋谷……ここからは存外近い距離にある。無謀なことは、重々分かっているが、行かなければそもそも緋音の安否すらも分からずじまいだ。


「……行くぞ」


俺は今日、二度目の死を迎えるかもしれない……そういう予感があった。



頭は焼けるほどの熱に侵され、身体中の気力も蝕まれる様に削がれていった。視界もまるで安定しない。緩やかに与え続けられる不快感と悪寒で意識が飛びそうになるのを、時折やって来る強烈な吐き気が引き戻して、それが落ち着くとまた体の輪郭ごと溶けてしまいそうな怠慢に襲われる。これの繰り返しである。


病魔に苛まれる中の移動であったため、途切れ途切れではあるが、緋音の記憶によれば、ここは先程襲われた地点からはそう遠くない場所であるはずだった。四人の鬼は既に散開していて、緋音を拘束することも無くただ悠然と見守る鬼が一人。それ以外に生命は存在しない。


……きっと香織と華一は緋音を助けに来るだろうが、万に一つも二人が生きて緋音を連れ帰る未来はありえない。それを誰よりも理解していたのは、紛れもない緋音自身だった。

緋音はまだ、直接その目で彼の強さを垣間見た訳では無い。この短い間で得た有力な情報といえば、人を病に陥れる力を持つ鬼がいる。というぐらいで、他の三鬼に関しては殆ど未知である。それでも、彼だけは他の鬼とは圧倒的な差があることを本能的に察知してしまう。


鬼は真紅の双眸で遥か先を見据えている。あどけなさの残る精悍な顔立ちは、やはり十時華一その人に酷似していた。これこそご緋音が完全に敵意をもって臨むことの出来ない一つの原因だ。似ているのは見た目だけ。それ以外は決定的に異なっているのだが、“華一とこの鬼は別人である”という意識を強く保っていなければ、簡単に見間違えるほど本質的な何かが一致している。


「アンタ……は……何が、したいの……」


今にも消えかけそうな意識で、儚く脆い声で、彼女は問う。

緋音がそう口にするのには理由があった。他の鬼から目が焦げ付きそうな程に感じた殺気が殆ど存在しなかったからだ。この鬼だけは、生殺与奪の世界とは別の領域に居るのではないかと思わせるほど、彼は感情の機能が死んでいた。


「俺は、成すべきことを成す。」


黒い軍服を纏う鬼は、眉間を一瞬曇らせて呟いた。死んでいた男の感情が一度だけ、息を吹き返すように灯り、また忘れたように終わっていく。男から放たれる筆舌に尽くしがたい空気に惹き付けられながらも、緋音はただ蒙昧の中で二人の到着を待った。

それが、絶望を意味すると分かっていても、彼女は二人を信じていた。



声の主を、緋音を連れ去った本物の“四鬼”の一人を見た時、俺は最早恐怖や戦慄とは全く別の感情を覚えた。

ひたすらに、状況を飲み込めなかった。

言葉が継げない。それは隣の香織さんも同じで、俺たちは信じられないものを見る目をして並んでいた。事実、目の前に構える男は、存在そのものが信じられないほど──────俺に似ている。


「なるほど───────」


その一言だけを呟いて、深紅の瞳で俺を凝視する。

顔と声は自分でも嫌気がさすほど俺に瓜二つだった。已己巳己とは言うものの、“似ている”よりも“同じ”である感覚の方が遥かに納得が行く。体躯はただ血を得ただけの俺よりも何倍も力強く、鍛え上げられた筋肉は見ただけで鋼鉄程の強度を誇ることが容易に伺える。

男は別段驚く様子も見せずに、至って冷徹な表情のまま、腰に携えている剣の柄を取った。その挙動はあまりにも自然な流れで、男が完全に柄を握る手に力を込めるまで、動いたことにすら気づかなかった。


「お前……名はなんという。」


何たる圧迫感。聞いているだけで頭が軋む。


「十時……華一。」


俺が名乗ってから、しばらく沈黙があった。耐え難い静寂だ。だがそれを打破しようと口を開くことさえ許されない。そういう空気があった。

鼓動の音が明確に鼓膜に伝わり、全身の毛穴から汗が逃げ場を求めて流れ出る。ただ存在するだけで周辺の全てを殺し尽くすほどの存在感に気圧されながら、男の表情に注目すると、一瞬、ほんの刹那の内だけ、その曇りきった眉が微動した。


「十時──────────やはりか。」


「え?」


間抜けな声が漏れた直後。

唐突に頭上を突風が通り抜け、後方から心臓と脳を穿つ程の轟音が鳴り響き、強風に耐えきれず大きく吹っ飛ばされる。

抵抗できずに舞う空中で轟音の方角を捉えた瞬間、四鬼の格の違いを思い知り、同時に俺達の勝機も、緋音を奪還する好機も完全に失われた事を痛感する。


山が、避けている。


道中の建造物も何もかもなぎ倒され、一切のムラもなく均等に一文字に滅ぼされて、途方のない距離まで風が吹き抜けるようにして根こそぎ飛ばされた。


「おい……」


「十時の名は殺す。死ね。」


当然のように言い放つ男は既に俺の頭を掴んでいて、それを理解した瞬間、更地になった地面が抉られるほどの勢いで叩きつけられる。痛いという感覚をゆうに超えて、いっそ清々しさまで感じながら俺の骸骨はひび割れ脳が弾け飛ぶ。

互換は全て剥奪された後、真っ暗な視界に切り替わり、なまじ吸血鬼の再生力で、死してもまだ意識はある状態に陥る。つまり、生き地獄である。


(なんだこれ……!)


声は出ない。

ほんの一瞬でも気を抜けば、“死”という闇に引き摺り込まれそうになる。並の怪魔であればもう既に死んでいるだろう。王の血を引く緋音の血を受け継いだ俺でこそ耐えられる衝撃ではあるのだろうが、今はその頑丈さと再生力がかえって自分の首を絞める毒になっている。


「……因果なものだ。十時の末裔までも鬼の道に堕ちたか──────ならば余計生かしておく理由はない。」


言うと、男の腕から信じられないほどの力量が送られてくる。何度でも言おう。この男はもはや鬼ですらない。強者の概念を限界まで突き詰めた究極───────文字の如く“最強”の領域にいる……!

最早俺の体どころか、この一帯の土地の地盤ですら圧倒的な力に耐えきれず、大地震と相違ない激震を起こしながら、地底へと沈んでいく。それと共に、骨身が砕け散る“死”そのものの激痛を絶え間なく味わう。


(ああああああああああああああ!!!!!!)


……とうに狂った意識の中で、一縷の光芒が指すようにイメージが脳裏を過る。

不幸中の幸い……腕はまだまともに残っている。形が残っていればいい。重要なのは、俺の体の機能ではなく、俺の体の損害なのだから。

何度も砕かれては生え変わる歯を食いしばり、中身のなくなった腑抜けた腕がまだ根元からであれば動くことを直感し、懇親の力をもうどこかも分からない部分に込める。


───────打ち出す。


復讐する血流(リベンジ・ブラッド)!!!!!」


✕ ✕ ✕


結論から言えば──────────

ああ、やはり口を噤みたいほどに残酷な真実だ。しかし私はこの惨状を受け入れなければならない。私が人間のフリをしたいと思ってしまったばかりに……アイツも、アイツも、みんな“死んだ”。

ごめんなさい。弱くて。ごめんなさい。臆病で。

あの四鬼を前にして、私は全身の力がどこかに出ていってしまうのを感じた。戦慄も、畏怖も通り越して、ただ“無”に囚われた。

私が守らなくてはならないはずだったものは、一瞬で、簡単に手からこぼれ落ちて、さっきまで隣で息をしていた人間は皆、ただの肉塊となって瓦礫に紛れた。


崩れ行く大地の音の中から微かに、アイツの……十時の反撃の一手となる雄叫びが聞こえた。あの技なら。私もそう思って、思わず前のめりになり視界から消えた二人の方を覗き込んだけれど────────力の差とは、あれほどまでに残酷なものだったか。私は絶望する。

“月写し”さえあれば殺せる怪魔とは違う。あれが復活した時点で、人類は詰みだったのだ。あの不吉な男を私は心底憎んだ。

どうせ、あの男がここにいないということは、奴らに見捨てられたのだろう。


当然だ。あれほどの化け物が誰かと、それも人間と手を組もうなど考えるはずもない。奴らの力は計り知れない────────華一の懇親の反撃を、()()()()()()()()のだから。

それから先の出来事は一瞬だった。鬼が抜いたと思われる剣は、既に事を終えた後、つまり鞘に収められたところであり、文字通り神速で二人とも土地ごと切り刻まれた。

絶望の声もあがらない。私はあの瞬間、生き延びることを放棄してしまった。今も私の後ろにはその鬼がいる。

全てを殺した鬼が、何事も無かったように、静寂と共に佇んでいる─────────ああ、お終いだ。



信じ難いが、どうやら私は目を覚ましたらしい。

あの場で真に無力だったのは私だ。実戦経験ならすっかり板についていると思い込んでいたが、どうやらあの圧倒的な力の前では、経験など所詮約立たずの過去でしかないようだ。

ここがどこなのかは理解出来ないが、私が目を開けると、眉間にシワを寄せた荒い髪質の目つきの悪い青年……片桐雅衣が、精悍な顔立ちを曇らせて私を覗いていた。


「私は、生きているのか。」


ベタな言葉に返すこともなく、青年は苦悶の表情に唇を震わせ、額に手をつく。


「貴様らの後をつけて正解だった。貴様らが対峙した鬼、〈鉄血〉のアスタリスクは四鬼の頭だ。現時点でアレに対抗出来る生物は地球上に存在しない。」


私は押し黙る。勝機がまるで無いから、と言うのもあるが、なにより切り札になり得る緋音は真っ先に敵の手に堕ちてしまった。

彼女が抱いた自由と人間の生活への羨望。私はそれをふと叶えてあげたくなってしまって、彼女から目を離した。

親、失格だ。

現に私は、まだ彼女を“切り札”と考えている。違う。彼女は切り札ではない。物ではない。私が守らなくてはいけない儚い少女なのだ。言い聞かせても……私は変に割り切ってしまう。


「女───────十時は“死んだ”のか……?」


「え?」


思わず間抜けな声が出る。そう言えば、華一の姿が見当たらない。電球が一つ灯ったテントの中で、存在しているのは最低限の道具と私とこの青年、片桐のみである。

青ざめた表情になっているのが、自分でわかる。最悪の状況に声を震わせながら、


「お前……私と一緒に連れてこなかったのか……?」


と、質問を質問で返した。片桐は奥歯を噛み締めながら、その目線を下に向けて、静かに首を横に振った。


「アイツの斬撃は正に神速であったが、己はそれを怪魔の力で一息に“食って”貴様を確保した。残る十時を回収しようと奴の間合いに入りかけたところで……ヤツが居ないのを確かに確認した。

程なくして、アスタリスクの威圧に気圧され、引き返した──────十時はどうなった?俺は刹那のうちに強大なヤツの力を確認したが、それは直ぐに打ち消された……」


「……反撃なら、恐らく止められた。私も類を見ない程の力だったが、アレをも容易く止められては……」


私はそこから先を口に出せなかった。片桐は真上を見上げて、静かに息をつく。


「十時を()()()()()。勘だが、奴はおそらく、別の鬼によって連れ去られた。あの一瞬、僅かではあるが、アスタリスクとは違う“匂い”が過ぎったような感覚があった……その匂いを追えば、華一に辿り着けるかも知れん。」


身体に怪魔を宿す青年は鼻が利くらしい。片桐の事情は大雑把に調べただけで詳しく知らないが、とにかく今は、彼と手を組む以外に勝利の、ましてや人類存続の道はない。

こんな訳の分からない驚異に膝を着いている場合ではない。私は必ず、あの男に復讐する……!


「──────分かった。協力させてくれ、片桐。我々の利害は一致した。」


目線だけを合わせて、我々は関係を結んだ。現状をどうにかしなければ、これまでとは違い私情は挟めない。四鬼士を打倒すべく、やるべきことをなさなければ、人類に未来はない────────



信じられない。

“何が”と、問われれば……今自分の身に起こった全てが信じられない。あれだけ体躯も五臓六腑も砕かれて、完全に逃げ場のない状態だったにも関わらず、どうして今俺はこんな静かな場所で寝そべっている……?

頭が軋む。身体は完全に再生しているが、肉体そのものに蓄積されたダメージが残っていて、少しでも身体を動かす度に無数の針が筋肉を縫うような痛みを覚える。身体が損害と再生の繰り返しで麻痺したのだと、何となくそう考察する。


「あ、おきました。」


晴天の眩しさに顔をしかめて、日光を手のひらで遮ろうとしたところを、幼気な少女の顔が覗き込むようにして阻止する。

一目で日本人ではないことがわかった。光を柔らかく受け流す金髪に、透き通る碧眼。端正ではあるが幼い顔つきとは反対に、華奢な身体の輪郭は流麗で背丈が高い。総じて見れば、自分と同じか一つ上の歳ぐらいの印象を受ける。


「君……」


これより先の言葉が出てこない。そもそも俺があの後どうなったかが分からないためだ。ただの人間である少女があの修羅場をかいくぐれるとは思えない。この子は一体───────


「いや、死にかけになって倒れてたので驚きましたよ。でも良かったです。治療が効いたようで。」


「治療──────────?」


俺が言い淀んでいるのを見て事情を簡潔に説明した彼女ではあったが、この短い発言の中でも見落とせない部分があった。特に治療という一言だけは異質だ。

吸血鬼の身体など香織さんでもまともに弄ることはできないだろう。それを彼女が、死にかけの状態まで傷を負った俺の体を治したとでも言うのか。


「……ああ、まだあまり動かないで下さい。あくまで応急処置ですから。お腹は空いていませんか?必要であれば何か調達してきますよ。“飢え”はとても辛いですから、無理なさらないでください。」


彼女は淡々と話を進める。俺を労る言葉は、純粋に有難くも感じたが、どこか温もりを感じない。いや、労いの言葉に温もりの存在を前提として置いている俺もどうかと思うのだが、彼女の言葉には、何となく中身を感じないのだ。

その場しのぎの空っぽの言葉。人間社会でもよく見てきたものだが、彼女のそれは特別味気がなかった。


筋肉を刺激しないよう、視線だけで当たりを見回す。

やけに風の通りがいいと思っていたが、どうやらあの鬼は本当の化け物らしい。都市部を構成する建物が森の木々のように凹凸なく切断されている。どこもかしこもそうだ。

目印になるものもないから、現在地を特定するのも難しい。清々しいほど何も無くなった土地の上で、いくつもの不安に押しつぶされそうになる。

香織さんは無事だろうか。四鬼は、灰崎はどうなったのか。

緋音は……クソ。俺は何も出来なかった。


「君、俺のことはもういいから、ここよりもずっと遠くに逃げた方がいい。ここは危険すぎる。見ればわかるけど、普通じゃないんだよ。」


彼女は黙って俺の警告を聴くと、表情を緩め、静かに俺の瞳を見つめていた。


「───────優しい人ですね。」


一言だけ。彼女は、ほんの少しだけ温情を匂わせる一言を零して、ゆっくりと立ち上がった。


「お名前を伺っても?」


彼女の金髪が風になびく。そよ風がまた落ち着くと、三つ編みに一つ束ねられた髪が腰の辺りまで光が落ちるように垂れて、洋画の女優のような、見慣れない美しさを帯びる。


「……十時、華一。」


「────────。」


名乗ると、彼女の顔は一瞬強ばった。

暫くの沈黙を経て、彼女は自らの名も口に出す。


「ヴェルダンディー。私の名前です。アールグレーン・ヴェルダンディー。」


「そう……いい名前だね────」


「“四鬼士”、飢餓の契。〈鮮血〉のヴェルダンディーです。」


額に漆黒の十字架が浮かび上がり、澄んだ碧眼は血の赤に溺れる。耳の輪郭が鋭利になり、桃色の唇から蠱惑的な牙を覗かせながら、さっきとはまるで違った冷徹な視線で見下すと、


「……あはは。」


中身のない笑い声をあげた。何の意図も含まれない後付けのような笑みと声。彼女は感情が丸っきり抜け落ちた吸血鬼らしい気配を漂わせて、深紅のドレスを身にまとい、俺の首に残酷なほど赤く染った槍の穂先をかけたのだった。



お母さん……大丈夫だよね……

明日はきっと……お腹いっぱいになるよね……


お父さんが美味しいご飯をもって帰ってくるよね……


──────何もかも、焼け落ちる。

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