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ブラッティー・ブラッド

前回のあらすじ

平凡な人生を捨て、吸血鬼と成り果てた十時華一は、同じく吸血鬼の少女、赤神緋音と、漆黒の殺し屋の女性、黒木香織と共に、夜に蔓延る魑魅魍魎、“怪魔”を狩る仕事に就く。

かつての同級生で、陸上競技の天才少女、綿貫眞白と近所に出没するドッペルゲンガーの情報を仕入れた十時は、その帰路、謎の黒い外套の組織に攫われる。

そこには、その身体に“怪魔”を宿す青年、片桐雅依と、その当人である綿貫眞白の姿があり、一度は自らの分身により殺されかけるが、駆けつけた香織と緋音、そして自身の秘められた力によって窮地を脱する。

その後、強くなりたいと願う華一に香織より与えられたのは、変わり果てた祖父の形見である深紅の十字架だった。

煌煌と、燃え盛る血。

冷血に、鉄血に、熱血に、鮮血は身体を迸り、さらなる血を欲する。血が血を欲する。血は飢え、乾き、血を得て潤う。

我は原初の鬼なり。我は血の化身なり。

我の前に道徳は意味をなさず、我の前に知恵は役に立たず。

この牙は神の肩をも赤く濡らすだろう。

ならば我、()()()として、この地にただ超然と君臨するのみ。

築き上げた骸の玉座に、ただ静寂と共に君臨するのみである。

嗚呼、血が足りぬ─────────



世に蔓延る魑魅魍魎、“怪魔”専門の殺し屋である黒木香織の元に従事してから、四ヶ月が過ぎた。

一人でことを急いだ結果、不穏で不吉な連中に拉致され、更にその面子に高校時代の同級生がいたなんて大事件が起こってから、まだ日は浅い。

彼女が幕を引いていた“ドッペルゲンガー”の事件の噂はここ最近ばったりと途絶えていた。最初はあれだけ躍起になっても、今は彼女の身に何かあったのではないかと心配する始末である。


そう、始末が悪かった。

事件は終わったかもしれないが、解決はしていない。彼女がどうして怪魔を使うのか、人を襲うのか、何もわからず終いだった。

またいつあの片桐という男が接触してくるかもわからない今、まだまだ貧弱な俺ができることと言えば……


「そうだ、特訓をすればいいよ、十時。」


と、言われたのは一週間前のことだ。

「強くなりたい」と泣いて縋ったあの夜、香織さんから貰い受けた深紅の十字架のネックレス、元は亡くなった祖父の形見であるあのネックレスは、どうやら俺の力を最大限に引き出すアイテムに改造されたらしい。


その力を知るために、そして使いこなし、俺自身が“吸血鬼”として更なる力を手に入れるために、その日から俺は特訓を始めたということである。

当然、稽古をつけるのは俺を吸血鬼にした張本人、赤神緋音になる。

にべもない態度の彼女が課す特訓は、地獄と言い換えるに相応しいものだった。


彼女は、何かを論理だてて説明することは一切なく、徹頭徹尾フィーリング全開の擬音でコツを大雑把に伝授する。

「だから違う、そこはもっと腰を入れて、ギュッて、わかる?」

「……わかりません」

とは言え、彼女も珍しく親身になって付き合ってくれている。この調子なら、拉致されるなんてドジはもう踏まないどころか、返り討ちに出来るぐらいの実力はついてきそうだ。


特訓は家の庭で、お互い真剣なしの約束稽古のような形式で行われた。吸血鬼の能力は使用禁止、純粋な力と武器を扱う技のみの競り合いだった。

字面に起こせばこれは真っ当な稽古で、公平で、至極平凡なものに見えるのかもしれない。

だがその実態は、木刀をもった緋音相手に、おもちゃのチャンバラ剣で応戦するという馬鹿げた仕打ちだった。


「……!」

緋音の一振は無駄がなく、流麗に的確に決まる。

振り下ろす過程に無理に力を込めず、相手に刀身が届くその時に腰と力を入れる武術に長けたような動作だった。

「くっ……!があ!」

当然、ただでさえ軽いおもちゃの剣がこれを受け切れるわけもなく、スポンジの素材であることだけが功を奏して破損もせずに持っている。


「あぁ!もう!こんなんで勝てるかよ!」

「しょうがないでしょ、木刀一本しかなかったんだから。」

だから俺はチャンバラでいいだろうという発想に至るのか。

日中はまだ暑い。かれこれ三時間はこの茶番を続けているから、心身ともに限界が近い。

「無理、一旦休憩。」

「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


呆れた緋音の脅威の肺活量から繰り出される長い長いため息。その間に、吸血鬼性を抑制する例の不味い薬を麦茶で飲み下して、縁側に倒れ込むようにして横になった。

吸血鬼の身体であることには変わりはないが、抑制剤でほとんど人間に近い状態には戻すことが出来る。本来であれば、俺も緋音も、日の出ている間はあまり活動できない。

一時的なものではあるが、時間を無駄にできない今、これはかなりありがたい。


「これ作ってる人、どんな人なんだろ。」

香織さんの知り合いではあるらしいが、素性は全くわからない。

そもそも吸血鬼の力に関わる物を作れる時点で、只者ではないことは明らかなのだが、それにしても見た目も効力もよく出来ている。一見すれば、市販の錠剤と何も変わらない。


「なんだ、もう休憩か?」

というセリフを休憩中の香織さんが投げつける。アンタだけには言われなくない。未だに給料の一銭もくれずに、ただ経費を武器蒐集にのみ費やすアンタだけには……!

「こんなのじゃ戦えませんよ、何とかならないんすか!」

珍しく強めに言ってみても表情は変わらない。

缶コーヒーを片手にいつもと変わらない涼しい顔をしている。

この人は病的なまでに缶コーヒーに執着しているきらいがある。

コーヒーじゃなくて缶コーヒー。喫茶店とか、エスプレッソとか本格的なやつじゃなくて、自販機で売ってるものが好みにあうらしい。

ゴミ出しの日には毎回、大きめのゴミ袋二袋分の空き缶が出る程、殆ど薬物に近いレベルで依存している。


「私はいいと思うがね、ソレ軽いし。」

「軽すぎてダメなんでしょうが!こんなの実戦で使ったらもう本気で死にますよ!」

はぁ、ここでやっと溜息をつくと、香織さんは俺からチャンバラを取り上げる。何度か素振りをして、スポンジの刀身を凝視する。

「いいか、君は緋音から吸血鬼の血を授かり受けて吸血鬼の肉体を手に入れた。私が渡した十字架は、()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

ま、あえてなにも伝えずにやらせてみたら面白いものが見れたし、次はこのヒントだけでどこまでやれるか見せてみろ。結局感覚を掴んでモノにするのは自分自身だ。」


私は次の仕事がある。だらけている風に見えて、そそくさと行ってしまった。

俺をここまで泳がせたのがなんの計画性もない娯楽だったということがわかったところで、あのヒントの意味を考える。

弱い武器、自分の吸血鬼性。

吸血鬼性は謂わば吸血鬼の力そのもの……それを体外に排出すると香織さんは言っていた。吸血で蓄える、または増幅させることは出来ても、排出というのは着想がわかない。


力を使えば使うほど、労力という形で“消費”することはあるのかもしれないけれど、意図的に外に出すことで得られるアドバンテージが果たしてあるのだろうか。

排出、武器、もう少し解釈を変えてみるべきか……?


「緋音、もっかいやろう。」

「もっかいじゃない、まだまだやるよ。」

チャンバラ剣を手に取って、俺達はまた打ち合いを始めた。



「申し訳ありません。」

男がこの言葉を弱々しく呟くのは何度目になるだろう。薄暗い部屋で、男は恐怖に震えながら顔を伏せ、何度もそう口にする。

最初にことわっておくが、男は謝罪を繰り返している相手に別段何をされたという訳でもない。更に不思議なことに、謝罪の相手は男が謝る度に笑顔を浮かべながら、男の謝罪を真摯に受け止めているのだ。

「いいよ。」という返礼も、男の謝罪の回数に比例する。

一見すると冴えない痩せた外見の中年の男は、ランプの灯りに照らされて、彫りの深い顔が一層強調される。


謝罪を繰り返すのは、あの日、華一を襲った張本人、片桐であった。もっとも、あれほどの力を有している彼でも、黒いコートを几帳面に着こなし、たおやかな笑みを浮かべるこの男には足元も及ばない。いや、その表現すらおこがましいほどに、男は何ひとつとして敵わない。それが片桐を震え上がらせる理由の最たるものであった。

男の細い指先に、死の力がこもっているのは誰が見ても明らかである。逆らえば殺される、という被害妄想を植え付けるどころか、事実としてこの男は、こと“殺す”という行為を毛ほども残酷なことだと認識していない。

世間一般の理論とは根本的にズレているのだ。


彼にとっての殺害は、日常を構成する一つの要素に過ぎない。それどころか、彼が日々頭を働かせて練っている計画に必要な過程、つまりやって当たり前。そこに道徳もなにも存在しないのである。

故に片桐は恐怖する。この男はいつどこで、いかなる理由で人を殺すか分からない。彼は狂っている。しかしその前に、絶対的に“組織の長”としての素質を持ち合わせている。


この男が率いる黒の背広の集団……人に“怪魔の種”を植え付け、自らの手中に納め、世界を常識を少しずつ歪めて異質に近づけることこそ、彼の計画、そして目的に必要な過程である。

彼は、笑っている。


「それよりも片桐君、“彼女”の様子はどうかね。えぇと、確か。わた、わたき……綿木?」

「は、はっ、綿貫眞白のことでしょうか。」

「そう、それだ。」

紙タバコの吸殻は、もう灰皿からとっくに溢れ出ている。大きな溜息をついて、終始一貫していた微笑を解いて、侘しげな表情を見せる。

こうしてみると、誰もが物腰の柔らかそうな中年という印象をうけるだろう。

「彼女の様態は安定、遅くとも今月中には“柱”になりうるかと。」

「遅い。」

男は一喝する。鋭利な声で、怒鳴る訳ではなく、それこそ言葉を突き刺すように、一言で片桐の恐怖心を増長させる。


「やっぱり葉巻がいいなぁ、それとここは風通しが悪い。タバコは好きだが煙たいのは好きじゃない。退屈だよ、片桐君。」

「……はっ。」

男は気を取り直して、というよりも、その話題に飽きたかのように話をそらす。しかし、片桐の震えは止まらない。彼が今明確に、“退屈”と言ってしまったからだ。

この拍子に自分の命が終わっても、なんの不思議もない。


「あっ、そうだ!手紙を書こう! ……きっと、喜ぶよ。楽しみだ。実に……彼女と文通を交わすのは、これで百二十年と四ヶ月二週間ぶりだからね……!」

少年のようにはしゃぐ男が口にする時間。それに違和感を覚えてはならない。それがこの組織の暗黙の了解の一つ。

補足しておくと、男は冗談を言わない。

嘘のような言葉であっても、男の口から出るものは全て真実であり、男が実際に見てきたものである。


男は、不敵に笑う。



「喜ばしいことに、ついに依頼が入った。依頼主がもうじきお見えになる。」

長めに話し込んでいた電話がようやく終わったらしく、受話器を置いてから香織さんはそう告げた。

俺が入社してから何気に初めての依頼である。怪事件にばったり居合わせたとか、巻き込まれたとかではなく、被害にあった誰かからの依頼ということで、俺は少し身構えた。

「どういう依頼なんですか?」

「─────どうもなにも、依頼主は“綿貫眞白”の母親だ。」

「……え。」

この依頼が後に、事態を大きく動かしていく。


数分後


唐突に舞い込んだ依頼は、「娘を取り返して欲しい」という旨の、普通であれば警察等に相談するような依頼であった。

しかしこの場合は例外である。娘というのは、黒い背広の組織に属している俺の元同級生、“綿貫眞白”なのだから。

彼女は、経緯こそ不明だが、他人とそっくりのドッペルゲンガーを作り出し、数々の被害を続出させた。

親が動いたということは、そういうことだろうか。

確かに俺達はまだ年齢的に子供だ。

子供には親がついているものだと……思う。俺は、実の親という感覚をあまり感じることなく育ってきたけど、きっと子供は親がいないと、そして親は子供がいないと……寂しいのではないか、と思う。


そうして、綿貫眞白の母親は現れた。白髪混じりの頭髪は、若くない年齢を感じさせ、シワの入った皮膚と、目の下のクマ。小刻みに震える身体が、娘の不在を憂慮する親を物語っていた。

「どうぞ」

茶をだすと、女は静かにその腰を下ろした。肩から下げていた鞄を漁って、何枚かの写真を取り出す。

小さい女の子が楽しそうに笑う写真、徐々に成長していき、それに連れて表情も少し固くなっていく、普通の女の子の写真だった。

綿貫眞白だ。彼女の人生の一部がそこにある。


「私は情報には懐疑的で……でも、眞白が良からぬ方法で沢山の方を傷つけていると聞いて……!警察は相手にしてくれませんでした……黒木さん、あなた方ならば、娘を怪しい組織から切り離してくれるんですよね……!?」

ドッペルゲンガー、そして黒い背広の組織。それらを知っているような口振りで、且つ香織さんの苗字を知っているということは、予めコンタクトは取っていたのだろうか。


あの日、俺がさらわれた日、そのまま彼女を連れ出す機会はいくらでもあった。彼女の口から聞き出すことは叶わないにしても、身柄を確保した時点で、親元に返すべきだった。

実はココ最近、彼女の噂をめっきり聞かなくなった。巷を騒がせたドッペルゲンガーの少女の話は、もう消化され、というより、その少女がまるで雲隠れしたかのように、あやふやに終わった。


もし、彼女を親元に返していたら。母親はここまで心配をすることは無かった。だが同時に思う。彼女が組織から離れたことでまた、彼女自身にも危険が及ぶのではいだろうか。

片桐という男が、彼女を始末しに来ることも不思議ではない。ならば組織に返してやるというのが俺達の総意であったのかもしれないが、噂を聞かなくなった今、その判断はまるっきり間違えていたのではと疑ってしまう。


「ご心配はいりません。必ず娘さんを連れてまいります。どんな手を使ってでも。」

目を細めて、静かに口にする。香織さんは、本当にどんな手も惜しみなく使うだろう。

前のようにはいかないと思った。運任せのその場しのぎの偶然の一致、ここまで情けない切り抜け方はもう二度と通用しない。今度は攫われるのではなく、俺達が敵の土俵に乗り込むのだから。


「お母様、最後に確認したいのですが、“あの手紙”の差出人は、確かに灰崎と名乗る人物で間違いないですか?」

「はい……それが、なにか……?」

「いえ、悪評高い男です。万が一という場合も、頭の隅に控えておいて下さい。」

なにやら不吉な話が続く。手紙、そして悪評高いとされる男。綿貫さんを連れ帰るのはどうやら容易ではないらしい。

最悪の場合にも備えて、早く力を使いこなせるようにならなければならない。

それでも、妙な胸騒ぎがする……


それから程なくして、綿貫さんのお母様はお帰りになられた。状況が状況である。いくら親といえども、無力な一般人が無闇に深追いするのは危険すぎる。念の為、お母様は香織さんが送っていくことになった。

意外にも、ここから綿貫さんの家はそう遠くはないようで、香織さんが帰ってくるのも早かった。まぁ、同じ高校だったというのもあるかもしれないが。

それにしては、近所で彼女を見かけたことは、記憶の限りは一度もなかった。


「緋音、明日奴らの拠点に乗り込む。準備しておけ。」

「はいはい……」

香織さんは帰るなり、早々に一言託して部屋にこもってしまった。どういうことか、今何が起ころうとしているのか、詳細を聞く暇もなく、俺はその話に省かれる。

「……はやく強くなんねえと。」

心の声は漏れる。何となく悔しい感情が、胸の奥で闇のように広がっていく。俺は弱い、俺では役不足だ。

なら、早く追いつかないと。

スポンジのチャンバラ剣を握って、また庭に出た。

もう月が顔を出す夜のことである。

中秋の月明かりは、宵を静かに濡らした。身体中の血が騒ぎ出す。



香織さんは確かに、「自分の吸血鬼性を体外に排出する」と言っていた。力というより、吸血鬼としての能力を、外に出す。

考えてみてもあまり着想を得ない。そんなことをすれば、俺自身が吸血鬼の体を保てなくはないか?そういう逡巡が繰り返される。

なんのため…このチャンバラ剣が、もっと強力な武器であれば或いはイメージも沸いたかもしれないが。


……今一瞬、ある思考が脳裏を過った。

明らかに実戦では役に立たない代物を、強力な武器にしてしまえることが出来たとしたらどうだろうか。

もしそんなことが可能であれば、武器は実質半永久的なものになる。弱々しい玩具の剣も、道端に落ちている木の枝でさえも、岩をも砕く紛れもない剣となれば、戦闘においてこれほど便利な話はない。


吸血鬼性を排出……つまり、そこがゴールじゃない。

排出した後、自分が握るものにそれを“付加”すれば。

「そうか……!」

考えうる限り、もうこれしかない。そうと分かれば話は早い。このチャンバラに、ありったけの力を込めて……!


と、奮い立ったが。

結局イメージだけではどうにもならず、相変わらず刀身は柔軟で軽い、子供がいくら振るっても怪我もすることの無い安心安全なスポンジのままだった。

こんな夜更けに、一心不乱に玩具で素振りしている自分が情けない。虚しい。投げ出したいと思ったのはもう数えきれない。

そのまま庭に倒れて、しばらく月を眺めていた。


幼い頃もよく、祖父とこうしていたのを思い出す。もう今更懐かしいとも寂しいとも思わないけれど、ただ、あの頃は満たされていた。それを思い出して、行き場のない虚無が目から溢れ出る。

結局泣くのだ。俺は。


「そんな所でお月見?」

縁側から声をかけてきたのは、緋音だった。初めて出会った時のように、月光をも自らの美しさを際立たせる装飾にしてしまうほど、凛とした出で立ちで、たおやかな笑みを浮かべている。

夜のせいで、彼女は余計綺麗になる。隠れていた何もかもが浮き彫りになる。

赤神緋音はそういう少女だ。


「なんか悔しくてさぁ、色々やってみたけど全然ダメだわ。」

弱音を人に向かってはいてみると、少しは楽になった。

楽になっただけで、実の所は何も変わっていない。

強くなるわけでもなんでもない。彼女はそれを全てわかっているかのように、「そりゃそうでしょ」とこぼした。

鼓動が一度大きく跳ねる。やはり、俺はまだまだ弱い。


「だって今のアンタ、他人のために頑張ってる。他人が苦しんでると勝手に思い込んで、助けて欲しいと願ってると勝手に思い込んで、自分がもっと強ければ、助けられると勝手に思い込んでる。」

「……どういうことだよ。」

彼女は近づいて、俺の隣に寝転んだ。彼女の香りがふんわりと鼻腔を抜ける。あまり近くにいることは無いから、少し新鮮で緊張する。

彼女も同じく、満月を見て続ける。

「それはアンタが一番わかってるはず。だから言わない。けどね、これは私の持論だけど、結局人が一番力を発揮する時って、“自分の為に頑張ってる時”だと思う。

人は、他人の気持ちをわかった気にはなれるけど、完全に理解することは出来ない。だから誰かのために頑張ると、“わかった気”の分の力しか出ない……

でも自分の為に頑張れば、自分のことは自分が一番よくわかってるから、文字通りの全力を出せる。だから最後に頼れるのは自分だけ。

……私はそう思う。」


彼女の考えをこんなにちゃんと聞いたのは、初めてかもしれない。彼女の口から、こんなに近い距離から。俺は今日初めて、彼女とようやく“会話”をした気がする。

彼女が生きてきた孤独な人生。彼女自体の考えは歪んではいないけれど、そして間違ってもいないけれど、ただただ寂しかった。

祖父を思い出しても起こらなかった感情が今、胸を突き破りそうなまでに溢れ出した。


だから。言う。

「俺は……そうは思わない。」

「……え?」

彼女は目を丸めている。いや、顔を見た訳では無いけど、きっとそうだと思う。初めて語ってくれた彼女自身の本音を、否定したのだから。


「人は一人じゃ生きていけない。だから誰かを求める。誰かを愛する。誰かを憎んで誰かに怒る。逆もそうだと思う。

だから…その……俺は今度こそ、誰かを助けたいんだ。

助ける、とまではいかなくていい。誰かのためにできることをしたい。何の味気もない人生を送っていた頃とは違う、今の俺は泣いてる誰かに手が届く……!

なんだってできる。そう思ったんだ。緋音、お前の孤独は知ってる。でもお前の言う通り、完全に理解することは出来ない。お前は強いし、独りでも何とかなるのかもしれない、けど。」


「寂しいなら寂しいって言えよ。俺に力をくれたのはお前だ。なら、この力お前のために使ったっていいだろ?

そりゃもちろん、自分のためにも頑張るけど……それ以上に、お前のためにも何かしてみたいんだ。」

少し勇気を出して彼女の顔を見る。どうせ、冷たい視線で一瞥をくれているのかとも思ったが。

彼女は……泣いていた。


自分でもなぜ泣いているのか分からないような顔で、涙がとめどなく頬から滑り落ちていた。

「あれ……私……なんで……」

紅く十字架は光る。夜風が寒さを運んできて、俺は頭の中で色々考えた。

錯綜する脳内の中で、本当に色々悩んだ。

「緋音、俺、嫌な予感がするよ。綿貫さんのこともそうだけど、もう一つ、香織さんがえらく考え込んでいた件。何かに怯えるような表情をしたあの人を見るのは初めてだ。きっと事態が大きく動き出してるんだと思う。

だから俺はもっと強くならなきゃ。」


「だから……見てて、くれるか。俺はいつかお前を超えて、みんなを守りたい。お前に頼りきりでいたくないんだよ。」

お互いの視線が交錯する。お互い泣いていた。何故かは分からない。悩みも不安も、涙となって流れ出たのかもしれない。

そのくせ今も怖くて仕方ない。これからどうなってしまうのか、想像も及ばない。

俺の言葉に、緋音は涙を拭って頷く。

月は静かに佇んでいた。



翌日


「正気か……?」

香織さんの表情は青ざめていた。黒い封筒の手紙を握り潰し……叫んだ。始まった。そう思った。

未曾有の脅威が今、確実に動き出した。

手紙から漏れた一枚の写真を手に取って、戦慄しながらそう感じた。

───────綿貫さんの母親が、殺された。


事故死ではなく、確実に殺されたと思わせるほどの残酷な有様。その遺体は、人間としての体躯を留めておらず、臓腑は晒され、骨は砕け散り、血肉は地面を塗りつぶしていた。

言葉が出てこない。思考が追いつかない。昨日まで確かに生きていた人は、愛する娘の安否を憂慮していた一人の母親は……!

無残に、無残に無残に無残に殺されていた。


何かに縋るようにしながら、震える手でたった今香織さんから投げ捨てられた手紙を読んだ。

『────作品名:母』


殺す。

昨日までの葛藤は全て排斥された。今すぐ犯人を殺さなくてはならない。

怒り……違う。悲壮……違う。

純粋な殺意。こいつだけは生きてはならない存在だと、断言出来る。


「……十時。我を忘れるな。これが“向こう側”の手口だ。」

香織さんはいたって冷静なフリをする。貴方だって気持ちは同じはずなのに、俺をこれ以上動揺させないように自分が落ち着いた態度を見せる。

「緋音、支度は済んだか。」

「支度つってもすることないでしょ、心の準備なら出来てる。」

「十時……お前もこい。」

煙草に火をつけて、尖った声でそう告げる。理由は聞かなくても分かった。


黙って頷いて、その背中について行く。

香織さんは背広の中に二丁の拳銃、腰にも二丁。そして大きめの革のボストンバッグを下げて、ガレージに眠っていたオープンカーを呼び起こした。

その漆黒は光の反射さえも殺して、エンジンの音は獣の呻き声のように野性的であった。


緋音は相変わらず純白のワンピースの一張羅で、他に目立ったものはなにも装備していない。

最大の武器なら自分の中にあるからだ。


「十時、お前はまだ力を引き出せていない。だがもう気づいているはずだ。その十字架の力に……お前はどこまでも強くなれる。誰かの為に尽くし、誰かに絶えずその手を差し伸べようとする心構えさえあれば、お前は必ず、世界を統べる“王”になれる……!」

「王……」

何度目かのその言葉には一際力が入っていた。

この話の続きは帰ったらしよう、と言い残し、それっきりいつもの飄々とした私語は口にしなくなった。


まだ時刻は昼の一時。街も賑やかで、人々は忙しなく路地を行き交っている。その中で決死の覚悟を決めた俺達は、導かれるようにして“そこ”に向かう。



時刻は確かに昼間であったはずだが、俺達がたどり着いたのは陽の光など届かない、路地裏のさらに奥、そしてその地下であった。不気味という名の衣を纏った闇の中で、今にも切れそうに点滅する看板が目に入る。

“クロウ”と書かれた看板には、煙草をついばむカラスがあしらわれており、その店はどうやらバーのようである。

妙に辺りが酒臭い。扉は入れとも言わんばかりに、空きっぱなしである。


香織さんが合図を出して、俺達はその店に足を踏み入れた。

カウンター席は綺麗に整っているが、それ以外はゴミ屋敷と呼称するに相応しい有様で、ガラクタがまとまりもなく端に寄せられ一応足場は確保されている。

香織さんはこの場所を熟知しているようで、なれた足取りでカウンターを乗り越え、床の扉を開けた。

長い階段が続く。さらに深い闇に向かって伸びていくのは、この先の混沌を象徴するかのようである。


階段を一段一段降りていく音は、薄気味悪い闇によく響いた。風の抜ける音も、虫が壁を這う音も、よく響いていた。

暗闇の中、遂にその果てにたどり着く。

あるのは鉄の扉。鍵はかかっておらず、全体的に錆がかかっている。扉を開ければ……

ここまでの道のりからはまるで想像できないほど、絢爛な内装の部屋が広がっていた。


赤い絨毯に高級感のある装飾が壁を埋めつくし、見事なシャンデリアが悠々と存在している。ここに来て初めて、言葉を失った。

革靴の音が響いたのは、その輝きに気を取られて間もなくの時であった。

「いらっしゃい。黒木君。」

部屋の奥手から出てきた……痩せこけた男。物腰の柔らかそうな紳士という印象で、流麗なフォルムのスーツがそのイメージをより強固にしていく。その覇気のない顔に微笑を浮かべてはいるが、本能的に、“この男はやばい”という警告が頭で鳴り止まない。


香織さんの方を振り返ると。

彼女は男に向けてなんの迷いもなく銃口を向け、それを完全に視認する頃には既に、引き金を引いていた。

香織さんの拳銃からは、銃声は響かない。あまりにも特殊な細工が施された銃器から放たれる弾丸は、瞬く間に男の胸を貫き、上がる血しぶきに追い打ちをかけるように、すぐに二発目、三発目がその体躯を撃ち抜いていく。


制止することなどできるはずもなかった。むしろ、この銃撃で男が死んでくれればどれほど気が楽になることだろう。そう思わせるほどに、この男は危険である気がした。まだ、ごく一般的な一言をかけられただけなのに。

しかし、本能的な願望は届かない。


「ハハ、相変わらず痛いね、黒木君の弾丸は。」

虫を払うかのように、身体に突き刺さる銃弾を、その肉を抉りながら取り除いていく。痛い……?その言葉はまるで嘘であるかのように、男は表情を変えない。

香織さんはこの間も容赦なく打ち続けている。常人であれば蜂の巣に成り果てて当然の仕打ちであるにも関わらず、彼にはまるで通用していない。


その理由は、すぐに明瞭になる。

「吸血鬼…なのか……!?」

男は未だに笑ったまま、香織さんだけを見つめている。その視線からは、何か執念に近いものを感じる。

背筋に悪寒が走る。気持ち悪い。単純にそう感じた。

「久しぶりの再会じゃないか黒木君。少しは落ち着いて話をしよう……」

その言葉は悲しげだが、口角は徐々につり上がっていく。


「……死ね!灰崎!」

香織さんの何発目かの銃弾が命中するのを合図に、緋音が“月写し”で切り込む。全ての異形、怪魔を現世から切り離す至極の妖刀──────

しかし。それでさえ。

男は受け止める。

「……!なんで……!」


「怪魔を殺す妖刀か……残念。私には通用しない。私は“人間”だからね。」

……冗談。銃弾をあれだけ打ち込まれて平気でいられる人間なんているはずがない。あろうことか傷まで完全に修復している。

これが人間であることだけは本気でありえない。


「灰崎……なぜ綿貫の母親を殺した……!」

やはり、殺したのはこの男……!

つまり、黒い背広の組織の親もこの男ということだ。あの手紙を送ったのも……!

それを理解した途端、俺は理性を失う。気づけば、俺の拳は男の頬を……掠めることすらなく。

手前で拳そのものが弾けてしまっていた。痛みを覚えたのは、それから数秒後である。

「ぐぁぁぁぁぁ……!」


「君が新しい王……?あまりにも微力すぎるので人間かと思っていたが……」

「クソッ……!」

香織さんの言葉を借りるなら……こいつは“人殺し”であり“人でなし”だ。殺生の罪に苛まれることも無く、男は今目の前に繰り広げられる一部始終を日常のように捉えていた。

一切の表情を変えることをやめると、薄気味悪い視線で俺達を一瞥する。

「黒木君……随分と変わったつもりでいるかもしれないが、やはり君は何も変わらない。あの時の美しい君のままだよ。私の判断は正しかったようだ。」

香織さんの尋常ではない殺気に対して、男からはなにか慈しみに満ちた気配を感じる。しかしそれは全くもって安心感のない、不気味なものでもあった。

二人には何らかの因縁があることは、この時点で明らかである。


「何が目的だ……!灰崎!!」

切迫した声に動じることも無く、目的かぁ、と灰崎は無表情のまま視線を逸らす。

「強いていうなら、世界の理の再構築だ。」



今の状態を一言で言い表すのであれば、不安定という言葉が一番妥当であると思う。高校を卒業してからというもの、私には全くツキが回ってこない。

ずっと、ずっと最悪だ。羨望の眼差しを向ける奴らに教えてやりたい。私は不幸であると。

“あの本”を盗み見た時……私は男の怒りを買った。怒り、というよりも、アレは心底煽りの効いた哀れみのように感じた。

あの男は最初から私のことなど駒とすら思っていない。私の上司である彼もそのうち同じように捨てられるだろう。


喀血が酷い。視線の標準は定まらず、今自分が立っているのか座っているのかも分からない。頭がデタラメに掻き回されているようで、思考ももうまともに機能しない。

捻り出すようにして考えてみても、あの憎たらしいほど純粋な眼差しの男しか思い浮かばない。やっぱり私は彼のことが好きなんだ。そう何度も思い知らされる。

こんな気持ちには、一生気づきたくなかった。

あんな恥は、もう二度と味わいたくなかった。


けど、彼なら全て受け入れてくれるのだろう。どうせアイツはそういう男だ。

症状が少し軽くなる。我ながら呆れ果てると、とうとう私の意識は吸い込まれるように切り替わる。

埋め込まれた、別の私へと。



「十時君、君はどう思う?」

男の問いかけが始まる。灰崎という男は、謂わば感情や常識、人が人としてあるべき理性を捨てる代わりに、独自の理論と力を手に入れた“理想の成れの果て”のような人間だった。

彼は語る。自らの理想と思想。何人にも理解されないその末端を。

「だからね。人間は強くなりすぎたのだよ。

知性という大きな恩寵を賜ったせいで、この世に生きる生物のパワーバランスは崩壊した。人は長い時間をかけ文明を築き、今だなお進化を続けている。

このままでは人は“自滅”するよ。人が使う資源、人が定めた規則、人が発見した法則……これら全てが、いずれ当事者である自分達に牙を向く。結局、“飢え”や“戦争”が起こり、人は無作為に“自殺”していく。自分達で勝手に死んでいるわけだ。」

で……あるから。

灰崎はまるで教師であるかのように丁寧に説いていく。人に語り聞かせるのが慣れているかのように、自分の意見を交えながら克明に……

灰崎は結論を言い渡す。


「つまり、世界には新しい“支配”がいる。

“飢饉”“戦争”“死”これらを克服する支配が必要なのだ。

……君達は九百年前の伝承について、どこまで知っている?」


「狂王の歴史なら言うまでもない。」

間髪を入れずに香織さんが言うと、灰崎は肩をすくめてあきれ果てる。

「つまり、“四”については知らないというわけか。」

「……何?」

「きたまえ。」

灰崎は踵を返す。

病的な痩せ方をしているような彼の背中はか細く、しかし覇気に満ちていた。そこには度し難い矛盾があった。

闇をそのまま纏ったような黒のコートは、歩く度に風になびいて、俺達の奥底にある恐怖心を煽るようでもあった。

つまり灰崎とは、そういう男なのかもしれない。

こいつは俺達よりも、遥かに強い……



彼に案内されたのは、広く静かな書斎だった。地下に存在するとは思えないほど、見上げるまでに奥行きがあり、足音一つすらも響き渡るような殆ど神秘に近い場所だった。

読書を嗜むにはうってつけの、落ち着いた静寂が広がる空間には、世俗的な書物は見当たらず、そのどれもが他国の言語で綴られた分厚いものだった。

この組織にここまでの設備があったのは正直意外だ。だが俺達以外に人が見当たらないことを考えると、これは灰崎が個人的に所有するものなのかもしれないという推測も起こった。


「確か、これだな。」

呟いて、一際分厚く目立つ本を取り出すと、その本の中央のページを開いてみせた。

年季の入った本の独特な臭いが鼻をぬけ、それと同時に、尋常ならざる空気が場を支配した。

さっきまでの完璧な静寂は死んだ。恐怖が胸を蝕んでいく。


「おっと、言い忘れていたがこの書物には特殊な魔力がかかっている。九百年前のものともなれば、慣れていないものには応えるだろう。私の配慮が足りていなかったようだ。」

気にもとめない風に彼は適当にあしらう。それよりも、と、彼はそのページを指さして、これまでの無感情な声とは違う、高揚感がこもった上ずり気味の声で俺達の注目を促す。


そのページは、不気味という一言に尽きた。


何を指しているのか、何を伝えようとしているのか、意図が全くわからない紋様のような絵が、中央に堂々と記されている。

どこの国のものかわからない言語は走り書きのように乱雑な文字で綴られていて、まるでこの本を書いた人物でさえも怯えていたかのような空気が伝わってくる。

背筋に寒気そのものが取り憑くように、身体中が恐怖で凍てつく。


「分かるかね。この紋様は、よく見れば五つの種類があるのだよ。ここと、ここと、ここ、そしてここ……最後に中央の一際大きいこの紋様。これだけではなにを示しているのか皆目検討がつかないだろうね。

しかし、次のページを開くと……ほら、この通りだ。」


言葉が、継げない。

怖い。怖くて仕方ない。叫べるものなら叫びたい。逃げ出せるものなら一目散に逃げ出したい。そう本能に思わせるほどそのページは凶悪だった。


四人の鬼。額に十字架が刻まれた、四つの禍々しい影が、ページの中で揺らいでいる。比喩ではない。本当に、本の中で蠢いているのだ。


「“四鬼士(よんきし)”それが彼らの名だ。彼の狂王に仕えた四人の超上位吸血鬼。九百年前、王共々“封印”されたと聞く。

それも十時君、君の先祖達にだ。」

灰崎は俺の名前を知っていた。そして、俺が知らないことまで知っていた。

俺の先祖が、この影の化け物と、狂王と関係していることは、今まで知る由もなかった。無論、祖父からそんな話は聞いたことは無い。


「まて……!四人の吸血鬼だと……!?」

香織さんもとうとう青ざめた表情で声を上げる。

緋音と俺を差し置いて、らしくもない声色で身体を小刻みに震わせる。間違いなく恐怖によるものだった。

漆黒の殺し屋が、見えない影に怯えているのを見て、その光景自体があまりに絶望的で、未曾有の脅威にここにいるだれもが固唾を飲んだ。


ただ、灰崎という男は別である。この男も震えているのには違いない。脅威に息を呑んでいるのにも違いはない。しかしそれは俺たちの感じる恐怖ではなく、高揚によるものだった。

男は、楽しんでいる。

「君にも昔話したはずだよ……やはり、四人の鬼は実在した!これ程の書物を集め漸くその影にたどり着いたのだ……」


今まで微動だにしなかった表情を歪ませながら、男は言う。

「よってここに宣言させてもらう。私はあらゆる怪魔、人間の生贄を以て、九百年の眠りから“四鬼士(よんきし)”を現世に解き放つ!!」

「貴様!そんなことをしてみろ……!一瞬でこの国……いや、世界は血と恐怖に染め上げられる!貴様の命とて無事では済まないぞ!?」

間髪を入れずに声を荒らげ、今も尚震えの止まらない香織さんは忠告する。

しかしその言葉すらも男は嬉嬉として受け入れ、書斎の静寂を壊しながら高らかに笑いをあげた。


「私はとうに自分の命になど興味はないよ!だから君にあの“呪い”をかけたのだ! さぁ!勝負と行こうじゃないか……君達の目的は新たな王の擁立と世界の均衡!私は古の支配による絶対的な安寧!どちらが先に辿り着くか……!」

男は全て知っていた。故に揺るぎない自信を持って、男は狂気に酔いしれる。九百年前の伝説と、現代に蔓延る妖を結びつけ、男はこの世界を絶望に叩き落とす算段であるらしい。


「……ところで、いいのかい?君達が今日来たのは“彼女”を連れ帰るためだろう?放っておくのは些か危険なのでは……?」

「彼女……?まさか!」

「私が彼女に埋め込んだ“擬似怪魔”はもうすぐ私の支配を逸脱する。それは解放とも呼べる。そうなれば彼女はいよいよ人間という形を忘れ、見境なく命を喰らい尽くすだろうね……」

彼女という言葉が誰を指すのかは言うまでもなかった。

男はもうこれ以上何も語らなかった。衝撃が過ぎ去って、漸く意識が戻る。俺達は直ぐに、その場を後にした。

一抹の不安と絶望を抱えながらも、彼女の安否を祈るばかりだった。



誰もいない。いや、いない、というよりも、見えない。

誰かの声、何かの音、それら全てが突然絶たれてしまったようだ。おぼつかない足元はもはや感覚を忘れ、宙に浮いているような錯覚に陥る。少しでも気を抜くと、そのまま空へと昇ってしまいそうにもなる。

この浮遊感と断絶された感覚が恐ろしくて、思わず声をあげようとするも、音が身体から出ていこうとしない。徐々に人として当たり前の感覚が忘却に沈む。どうやって歩いていたか、どうやって喋っていたか、どうやって息をしていたか……


何も思い出せなくなる。記憶にも靄がかかり、そもそも今まさに脳裏で消えかけようとしている映像が誰のものかも分からなくなる。

怖い、怖い、怖い。

このままでは、恐怖に震えるあまり恐怖という感情さえも忘れてしまいそう。

何もかもが崩れていく中で、私は夢を見る。

昔日の暖かい夢を見る。


─────数年前─────


「あ、あの……」

一年の大会を目前に控えた日の放課後、夕暮れに染まった茜色の校舎を後にした私を、どうやら待っていた様子である男が声をかけてきた。

顔はどこかで見たことがある。隣のクラスの男子だと気付くのは、少し間を置いてからだった。

「なに。」

私は彼の名前も人柄も知らない。そんな奴にこの時間まで待ち伏せされて、声までかけられた事が気持ち悪くて、彼を冷たくあしらった。

「いや……なんつーか……中学時代、俺も陸上やってて……」


興味無い。

見たところ体格も標準程度でとてもいい記録を持っているようには思えないし、仮に彼が速かったところで私には関係の無い話だった。

彼は何か言い出しそうな雰囲気で、目のやり場を探していた。私と目を合わせて話すのには抵抗があるらしい。

「用がないなら、私もう帰るよ。」

「あ、いや!待って!」

去ろうとする背中を引き止める。彼の力は予想よりかは強かった。ただそれよりも、強引に肩を掴まれたことが癪に障った。彼もどうやらそれは認知していたようで、きまりが悪そうな声を上げて手を離す。

なんなの、コイツ。


「あ、あのさ……綿貫さん、確かにめちゃくちゃ速いし、“期待の新生”とか持て囃されてるけど……」

驚いた。彼はいよいよ私に僻みをぶつける気でいるらしい。待ち伏せまでして、無理矢理引き止めて、ようやくでた言葉が持て囃されてるだなんて、一周まわって呆れ果てた。

興味無いという前言は撤回する。彼は今まで私に声をかけてきたどんな奴よりも、どんな連中よりもずば抜けてタチの悪い不快な男だ。


「なんで、そんな退屈そうなの?」


「え?」

間抜けな声を出したのは私だった。それほど彼の発言が私の意表を突くものであり、同時に私の苛立ちと不快感を全て停止させるほど核心的な一言であったからである。

彼は私の功績など最初から大して目にとめていなかった。

それを理解した途端、そう、途端に彼に興味が湧いた。


「退屈?何が。」

「い、いや……綿貫さん、走ってる時、試技のときも練習のときも全然楽しそうじゃないし……なんで陸上やってんのかなって……」

彼はまた気弱な態度に戻る。私の空隙を見抜く程の洞察力がありながら、全く貧相で軟弱な人間だ。

でも、それで一度起こった興味が尽きることは決してなく。

私は彼に問う。


「退屈だったら何?それでも私は結果を残してるんだし、何しようと私の勝手でしょ。」

敢えて私は態度を変えずに冷たくあしらう。私はいつの間にか、彼を追い払うよりも、彼を試してみたくなった。

いや、もっと自分に正直になるのだとすれば、彼をもっと知ってみたかった。


名前も知らない。人柄なんて知る由もない。

けど彼は、私を見た。陸上部の期待の新生としてただ結果を残すだけの私ではなく、一人の人間である綿貫眞白を見た。

小学校から続く周りの重圧と期待感にうんざりしている私を、その双眸で捉えた。


「まぁ、それはそうなんだけど……あぁ!もう!俺も上手く言えねえけど、そんなにつまんないなら続ける理由なんてないだろ、もっと他にやりたいこととかねぇの?」

私はまたしても驚いた。彼は猫を被っていたらしい。

“豹変”とはまさにこの事だ。これが彼の素なのだとしたら、ますます面白い。本来はあまり人を待つタイプでも、何かに執着する質でもないのだろう。

なのにわざわざこの時間まで律儀に私を待って、ただこの一言だけを言いに来たというのだから、つくづくお人好しなのだろう。


「ふふっ……」

「な、なんで笑うんだよ。」

思わず堪えていたものが吹き出る。何だか馬鹿馬鹿しくなって笑えてくるのだ。このやり取りには間違いなく私にとって意味はあった。さっきまで感じていたわだかまりが一気にとっぱらわれたのだから。


「君、名前は……?」

初めて彼としっかり目が合う。こんな顔をしていたのか。

いかにもあどけなさの残る好青年という印象は、大雑把な髪型と乱雑な口調で少し損なわれている。

暫くして、彼はバツが悪そうに視線を外して名乗る。

私にとってきっと忘れられない名前を名乗る。


「……十時華一。隣のクラスで帰宅部。」

「そこまで聞いてない。」

私達は笑い合う。去り際に彼は“このことは忘れてくれ”と言い残した。真剣に人の事情に踏み入ったのが恥ずかしかったらしい。

私に忘れて欲しかったというより、自分で忘れたかったのだろう。

だからきっと彼はこの日のことをもう覚えていてはくれない。

でも、私はずっと覚えているから。

初めて私と向き合ってくれた人を、ずっと覚えているから。



胸騒ぎは落ち着くことを知らず、俺たちの足を急す。

どうか無事でいてくれという思案を何度も脳内で繰り返し、いつも通りであれば賑わっているショッピングモールまで、法定速度なんてとっくに無視した速さで駆けつける。

最もそう出来たのは、“車通りが皆無であったから”に過ぎない。

悪い予感は当たり前のように的中する。

日常の風景を地獄と見紛うのは、そうあることでは無い。


「なんだよ……“アレ”!」


「十時、無理はするな!緋音、お前は私とアレを全力で食い止める!……最悪の場合も考えておけ!」

電光石火の勢いで戦闘が始まる。香織さんが銃の引き金を引くのを、緋音が“月写し”の刀身で切り込むのを、俺は全力で止めようとした。

無数の人々がそこに血みどろで伏しているのが見えたから。それがまるでゴミのように積み上げられ、まさに屍山血河と形容するに相応しい光景であったから。

確かにそれも理由の一つであるかもしれない。


ただ何より、この地獄を作り上げたのがあのバケモノだとすると、俺は怒りと己の無力に壊れそうだった。無性に叫びたくなった。

最悪の場合も考えておけと香織さんは言ったが、俺にとってもう今が十分に吐き気を覚えるほど最悪であり、これ以上ない地獄だ。


バケモノの身体は宙に漂い、六本の腕は無数の足で構成されていて、むき出しになった巨大な心臓は鋼鉄の格子で囚われており、その頂点に両足が切り取られた彼女の像が立っている。

目を背けたくなるほど残酷で醜怪な姿を見て、俺は本能的に彼女を感じてしまった。

一目見てアレを綿貫眞白であると認識してしまった。彼女の歪で複雑な心情が、気味の悪い芸術とも言えてしまうほどめちゃくちゃに表現されていた。


「ア……ア……ア……」

心臓の鼓動に合わせて、彼女だったものは蠢きだす。彼女の声と似ていて全く異なる奇声を上げながら、攻撃する二人を払い除ける。

俺はその奇声こそが、彼女の叫びであり、彼女の悲痛であるのだと理解する。足で構成された身体。しかして両足を切り取られた彼女の姿の像。

彼女はやはり、陸上選手としてではなく、“一人の人間”として見て欲しかったのだと確信する。

もう、黙って見ていることなんて出来ない。


「綿貫さん……!」

身体は弾かれたようにその場を飛び出して、無防備なまま彼女の懐に飛び込む。

このバケモノを彼女だとはっきり感じることが出来たのは、きっとまだ彼女がどこかで生きているからだ。

この中のどこかに彼女がいる。俺はその可能性に全てをかけ、身体の中心に狙いを定め、渾身の打撃を打ち込んだ。


大きく鈍い音がしたものの、その身体が傷つくことは無かった。分厚い肉壁……と言うよりも、筋肉そのものが俺の力を全く通さなかった。打撃ではダメだ。そう理解出来ても、俺にはもう打点がない。

緋音の月写しがどれほど通用するか、という思案もすぐに崩れる。いかなる怪魔の存在そのものを断ち切る妖刀でも、この化け物にはある意味で通用しなかった。


緋音の一振は確かに化け物を切り裂いたものの、あの時のように身体が蒸発し消えるという現象は起こらず、生き物を切り捨てたように、そのまま大量の血が吹き出て、肉片が飛び散るまでであった。

そしてその切られた肉体もすぐに再生し、また奇妙に動き出す。

香織さんの弾丸も沈むように吸い込まれ、いよいよこの化け物に対する手段が尽きてしまった。


「クソッ……!」

「バカ!危ない!」

緋音の切迫した声が聞こえた頃には、彼女に突き飛ばされ、化け物の視界から逸脱していた。

「クッ!」

「……!緋音!」

緋音は、俺を庇った。

彼女は化け物の巨大な腕に掴まれたまま、何の抵抗も出来ずにその鋭い一瞥を俺に向ける。今にも握り殺されそうな中で、彼女が伝えようとしていることはすぐに分かった。

俺がやるしかない。この赤い十字架が、俺の中に流れる血流が、今この状況をどうにか出来る最後の切り札になる……!

緋音は俺に託した。ならもう、無力なまま立ち尽くすことは出来ない!


「頼む……!」

身体中が熱を帯びる。血の脈動が手に取るようにわかる。本能がけたたましく叫びをあげる。周囲の喧騒が、一気に鳴り止んだ。

彼女との記憶……そんなものはろくに残っていない。ただ、彼女の為にも、彼女を救いたい……!

今の俺は誰かに手が届くんだ……!

十字架が、赤く輝く。


「今だ!」

全身の感覚がそう告げた時、総毛立つ感覚は猛烈な闘志に変わり、身体全体がはち切れそうな程の熱と力に支配される。

何も考えず、すぐ側に転がり落ちていた“木の枝”を手に取った。

本来であれば、こんなもので化け物に対抗出来る訳が無い。

しかし、今の俺ならこれを最強の武器に変えることが出来る。

両の腕に、ありったけの力が宿る。


「──────血流・付呪(エンチャントブラッド)!!」


唱えると、木の枝は赤く変色する。割れるような音を立て、禍々しい亀裂が入り、本質的に全く別の物へと変化する。

“体外に排出”するというより、自分が手にしたものに吸血鬼性を付与する。

人間の俺が人から吸血鬼に成り果てたように、この枝も今や、かつての重さ、強度、それらが全て書き換えられる。

「やったか……!十時!」


「うらぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

枝に込められた吸血鬼性は、赤黒く揺らめく闇となって、大気中の全てを殺しながら、轟音を立てて、化け物の体躯を袈裟斬りにする。炎のように湧き上がる闇は、消えることなく化け物の肉壁を溶かしていく。

たった一本の枝は、刀も銃弾も遥かに凌駕する威力を発揮した。

直後、その負荷に耐えられず、枝は自壊する。


「綿貫さん……!」

音を立てて崩落する化け物の中に、彼女の姿が垣間見えた。そう呟くのと殆ど同時に俺の体は勝手に走り出して、まだ轟轟と燃える炎に飛び込み彼女を何とか連れ戻すことが出来た。


───────肉体だけは。


「くっ……!」

心のどこかで、こうなることは分かっていた。だから俺は彼女に力を放ったのだと思う。あれ程の熱の渦中にいたのに、彼女の身体は冷たかった。遺体にここまで直に触れたのは、祖父以来だ。

身体は痩せこけていて、かなり消耗していたのが掌に感覚として伝わってくる。

結局、俺は最後まで彼女が分からなかった。

彼女の苦悩を分かっていた気になっただけで、本当に彼女の手を取り、寄り添うことは叶わなかった。


彼女の顔をまじまじと見るほどに、救いたかったという思いが込み上げる。

俺は強くなったはずなのに、こうして失っていく。

もっと話したかった。もっと知りたかった。もっと、もっと出来ることがあったはずだ。今はもう、ただ真っ白な頭でこの現実を受け止めきるのに精一杯だった。


「十時」

声をかけてきたのは香織さんだった。すまないね、とらしくない言葉をこぼす。香織さんも緋音立ち尽くしていたが、二人がどんな顔をしているのか、俺は見ることが出来なかった。

彼女の顔が滲んでいく。自分の涙であるということに気付くのに少し時間を要した。


「俺は、どうすれば良かったんでしょう。」

誰かに答えて欲しくて、細い息とそんな言葉を吐いた。少しの沈黙があった後、緋音が口を開く。

「────華一、あんたはもう強い。」

俺は奥歯を噛み締める。俺が本当に強ければ、こんなことにはならなかった。冷たくなった彼女を、皮肉なことにもう走れない彼女を、力なく抱き寄せる。

「……綿貫さん」

とにかく何かを恨みたかった。何かに怒りたかった。そうすればこの気持ちが晴れるとも考えたが、結局あるのは自分への無力感のみだった。


「あんたは……きっと強い“王”になれる。私は信じる。」


「……はぁ?この期に及んでまだそんな訳わかんないこと言ってんのか?」

「十時、やめろ」

「王ってなんだよ!俺が王になれば綿貫さんは生き返るのか!?ゾンビにされた奴だってそうだ、ここで今死んでる大勢の人達だってなあ!

俺が王ってやつになれば全部助かるのかよ!?なぁ!答えろ!答えてくれよ!なぁ!!」

「十時!!!」

身体も目頭も熱くなっていた。綿貫さんはこんなにも冷たいのに。気付けば頬に平手打ちが飛んでいた。痛みを感じるのも遅れて、じわじわと現実を突きつけられている気がした。

「少し、頭を冷やせ。」


初めての依頼は、失敗に終わった。



後日談


綿貫さんの親族には、香織さんが電話で訃報を伝えた。母親に続いて娘まで。どんな反応をしたのかは分からないが、香織さんの曇った表情がそれを物語っているように見えた。

その後の葬儀等の手筈も、香織さんの尽力によって円滑に行われた。通夜と葬儀には、俺も参加した。彼女の遺影は、表彰台の頂点で純粋な笑顔を浮かべるまだ比較的幼い頃の彼女だった。


当然、嘗ての同級生とも何人か顔を合わせることになった。と言っても、ほとんどは綿貫さんと密接な関係を持っていた訳では無い人間である。ただ綿貫眞白という一人の絶対的な存在が、この世を去ったと言うだけでも、この場に集まるのには十分な理由になった。

皆、最初は自分に悲しむ権利があるのか悩ましい顔をしていた。しかし、棺の中で眠る彼女を見れば、生気を感じさせない白く澄み切った彼女の顔を見れば、自然と涙が滴るのは誰もが同じであった。


ただ一人、涙を流すことなく呆然と彼女を見つめる男がいた。

俺と付き合いの長い友人の外崎だった。今思えば、彼女が怪魔と絡んでいるのを突き止められたのも、彼のおかげである。アイツは顔が広いから、何かと情報力がある。

肩を叩いて声をかけたが、返事をしたのは少し間を置いてからだった。

「あ、あぁ……お前か。」

近くで見て気付いたが、思った以上に彼は追い込まれていた。今の彼を前にして、“泣いてもいい”なんて無責任なことはとても言えそうになかった。


「……こんなことになっちまったな。」

俺は何も返せない。こんなことになったのは、俺のせいだ。でも外崎は事情を知らない。流石の彼でも、化け物の話までは認知していないはずだ。だから、そんな事情は知らなくていい。そういう思いもあって、口を開くことは出来なかった。

それでも彼は独り言のように続ける。

「なぁ、覚えてるか?俺たちがまだ一年だったころ、綿貫が練習してるの見て、お前ワケわかんねぇぐらいキレてたの。」


言われて思い返してみれば、確かにそんなことがあった気がする。とはいえその記憶は明瞭ではない。だとしたら何に対してそこまでムキになっていたんだ。

「なんだっけなぁ、あぁそうだ。“アイツは本気でやってない”とか言って。元陸上部なりに思うとこがあるんだろうなぁとしか見てなかったけど、今思うとお前も熱い男だったんだな。」

ここに来て彼の表情が少し解けた。それと同時に、俺の記憶も沸き起こった。

外崎は知らないだろうけど、俺はその後綿貫さんが練習から上がるのをわざわざ待って、彼女に直接物申したんだっけ。


まさしく赤面の過去ってやつだ。あの時の俺はどこか無謀な面が目立った。のわりに、いざしゃしゃり出ると全く言葉が出なかったのも思い出した。最後の最後で地金を晒して笑われたっけ。

彼女とまともに話したのはあれっきりだったけど、あの会話には何か特別な意味があった気がする。

普段は周りと必要以上に関わらない冷徹な天才といった彼女も、あの時は何故か、普通の女子高生と変わらない明るさを帯びていた。

彼女の笑顔が脳裏に過ぎる。笑っている綺麗な彼女が、鮮明に蘇る────────


「ごめん……ごめんな…………!」

泣いた。人目もはばからず泣いた。彼女の棺にしがみついて、もう子供の年齢でもない社会人が、膝から崩れ落ちて無様に泣いた。悔しかったし、怖かった。涙と一緒に彼女の記憶が零れそうで。堪えたかったけどそれ以上に溢れる感情がそうさせなかった。

「なんで……お前が謝るんだよ……!」

外崎もようやく涙を流した。俺の背中を擦りながらも、彼の手は震えていた。周りも呼応するように、厳かな空気も沢山の人の涙で濡れた。


彼女は愛されていた。綿貫眞白という、一人の人間として。



その夜、俺は珍しく香織さんと肩を並べて帰路を共にした。秋の夜の凍える空気が、まだ涙で湿っている頬を冷やしていった。

葬儀中の香織さんは、いつもの様にタバコを吸いに出ることもなければ、飄々とした態度を取りながらも仕事を進めることもなく、一連の事件の関係者として、綿貫さんの母親と、泣き崩れる俺を見守っていた。

「十時。」

「……なんすか。」

お互いに目を合わせることは無い。ただ薄暗い闇の中で下を向く俺と真っ直ぐ前を見据える彼女との違いはあった。


「この先、これ以上の悲劇がお前を襲うかもしれない。そうなった時、私や緋音が、お前に手を差し伸べることは難しいかもしれない。なぜなら、人の気持ちは当人にしか分からないからだ。

私達は仕事仲間である以前に、苦楽を共にする家族と言っても過言ではない。だが、その一人一人の気持ちは、“わかった気”になる事でしか共有しようということすらできない。」


香織さんはいつかの緋音と同じようなことを言う。孤独だったのは緋音だけじゃなくて、香織さんも同じだった。

でも俺は、前みたいに気の利いた綺麗事は言えずに黙っていることしか出来なかった。


「お前は力を、強さを求めるかもしれない。だが、本当に必要なものは力ではない。あらゆる感情を受け止める、限りなく大きい器だ。お前はその片鱗を既に持っている。」


「だからこそ、もう一度お前に頼みたい……十時、お前がこの世界を統べる“王”になって欲しい。」

「……またその話ですか。」

心底うんざりして、ようやく彼女の顔を見上げるが、彼女の表情には何か、俺には読み取れない底知れない覚悟じみたものが浮き彫りになっていた。


「これ以上理不尽な悲劇を産み落とさないようにするためには、誰かの痛みが、悲しみが、苦しみが分かる者の統治が必要なんだ。

かの狂王のような力による独裁ではなく、誰かが崩れそうになる世界を支えなければならない。

それを成しうるだけの心を、お前は持っているんだよ、十時……!」


世界を統べるとか、支えるとか、全く持って理解が及ばなかった。俺は名前も顔も知らない誰かにまで、手が届く自信はない。俺はまだ弱いから。近くにいる人も守れない。

でも、俺が強くなって、そして誰よりも人の痛みが分かるようになれたら、今度こそ誰かを守れるかもしれない……!

誰も泣かずに、誰も失わずにすむなら、俺はもう、迷ってる暇なんてない。


俺は────────

「……香織さん」

「どうした……?」


「俺、やってみます。」

今夜、月は見えない。だが、夜風は凍える空気と共に、何かを運んできた。

俺にはそれが、過酷な運命である気がしてならない。

でも、もう決めた……


この理不尽な世界を、俺が壊す。

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