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「もう一人、もう一つ」

前回のあらすじ

人の身を捨て、吸血鬼として生まれ変わった十時華一は、同じく吸血鬼である赤神緋音と、彼女と行動を共にする黒木香織に雇われ、夜に蔓延る異形、“怪魔”を撲滅すべく結託した。

リビングデッドとして蘇った青年を討ち、その裏で暗躍する影の存在を察知した一行であったが……

誰も私を知らない。誰も私を見ない。誰も私を必要としない。

必要なのは、この足だけ。この足だけが私の存在意義を確立させる。この足だけが私を私たらしめる。

私は足。違う。私は私。

私はここに居るのに、誰も私を知ろうとしない。私の敵は私自身。私の足は私自身。もう、わからない。

教えて……誰が私なの───────



今年は肌寒い春の日が続いた。平成という時代も終わって一区切り。俺の人生も終わって……一区切り。令和の時代を吸血鬼となった体で迎えるとは夢想だにしなかった。

祖父も居なくなっただだっ広い家は、急遽三人暮らしの賑やかな宿になった。

そのうちの二人が吸血鬼、一人が殺し屋であるから、普通の人間が足を踏み入れようなら生きては帰れないのではないかと思わせる程物騒だ。


吸血鬼の体を手に入れてから、目まぐるしく変わったことは実のところ特にない。俺はてっきり、吸血鬼は陽の光を浴びると死ぬとか、ニンニクに弱いとか、そういう欠点ばかりを心配していたが、日中動き回ろうが、ニンニクのきいた肉料理を喰らい尽くそうが、なんの異常もなかった。

むしろ身体能力が嘘のように上がった分、人間の体では想像もつかないような運動もなんの不自由なく行えてしまうわけだから、案外吸血鬼というのも、悪くないように思えてきた頃である。


ただ、毎晩必ず服用しなければならないらしい薬があって、真っ青で気を引かせる大粒の錠剤は、曰く“欠かさず飲まなければ生きていけない”とのことなので、それだけは渋々必ず飲んでいる。

緋音も同じように飲んでいるところをみたことがあるが、整った顔がしわくちゃになるぐらい不味くて、苦くて、味覚が一気に地獄的になるのだ。

本当、この薬は誰が作ったか知らないが、顔を見合わせようものならば一発報いたいものだ。



……この世に存在する魑魅魍魎の類、妖怪、怪物、エトセトラ……都市伝説や街談巷説から生じる、噂の化身である“怪魔”なるものを狩る胡散臭い仕事に就職してから、今日で三週間経った。

依頼はゼロ。仕事ももちろん無し。ただ所在無い日々を過ごしている。

俺を吸血鬼にした張本人である緋音は、いつもどこかに出かけている。家……事務所にいることは殆どないし、いたとしても俺の事を空気のような扱いにする。冷たい女だ。


もう一人の方、つまり、殺し屋の方である香織さんは、祖父の書斎が気に入ったようで、日中は大抵そこで新聞やら文豪作品やらを読み耽っている。夜は酒に酔って居間で寝てる。

物置部屋を勝手に改装して、一般人がみたら卒倒するような、そして一部のマニアには大ウケするような、本物の銃器を年代ごとに几帳面に壁に飾ってしまっている。

家を貸してやっているというのに、俺の事を雑用としか考えていない。冷たい女だ。


なんとなく夏の気配も近づき初め、南側に位置する俺の部屋はとにかく蒸し暑かった。女二人と同居するというのも、初めは思い切って言ってみたが、いざとなると色々気まづいし不便で、精神も摩耗している。

今現在、俺は殆どニートと変わらない。このままではまずい。

仕事がないなら、自分で仕事を仕入れてみるか……

と思い立ったのが、数分前の出来事である。



もうすっかり自分の家と言い切るには安心感が無くなってしまった仕事場を後にして、錆だらけのガードレールが張り巡らされているだけの道を、のらりくらりと進んでいく。

この道を道なりに進んで駅の方までいけば、かつての同級生と嫌という程顔を合わせるので、とりあえずはそこでなにか情報を得られたら、と思う次第であった。


そう言えば……家を出る時、香織さんがやけに神妙な顔つきでなにか忠告していたのをぼんやりと思い出した。肝心の内容があやふやでよく分からないけれど、今の俺は吸血鬼なわけだし、あれほど強い力を持っているわけだし、ちょっとやそっとのことでは退かない自信もある。

だからあまり気に留めていなかった。それが、今回の件の命取りになるとも知らず。



髪質の荒い、白髪混じりの青年は、その眉間を曇らせた表情と漆黒の外套、やけに格式の高い背広のせいで、私よりも幾分か上の年齢にも見えたけれど、どうやら、私と同じ年齢であるらしい。

初対面の相手とここまで話し込むのは久しぶりだった。

あの薄情で臆病な普通の男の子以来である。

男は難しそうな名前を名乗ると、それはどうでもいいことかのように要点をまとめて淡々と話を進めた。

その口振りは職務の最中であるかのように無駄がなかった。まだ社会人になりたての私には、それが少しかっこよく映ったものだ。


男は、私の苦しみを理解してくれた。

私は、その“お守り”を受け取った。


次に男は、“お前の思う最強の敵を想像してみろ”とつまらない調子で突きつけた。

私の思う、最強最悪の敵。何度も敗れ、何度も打ち勝ってきた、因縁の相手が私にはいる。


紛れもない、“自分自身”だ。



駅前はいつもより活気が感じられなかった。空は雨の匂いを含んだ雲に覆われて、もうじきに夕立が降ることを予感させる。

街の色彩は薄いグレーで吹きかけられ、全体的に質素な雰囲気に変わった。

人は足早に建物に逃げていく。傘を持っていない人が殆どであるから、きっと雨宿りだろう。これでは情報収集は当分出来そうになかった。

数秒のうちに置いていかれた俺を見下すように、黒い雨雲は雨を少しづつ産み落とし、さっきまで夏の暑さの到来を告げていた温度を一気に湿気で塗りつぶした。間もなくバケツの水を放ったように勢いのある雨が忙しなく降りつけたので、俺もそそくさと駅に逃げ込んだ。


不幸にもこういう時に限って人身事故があったようで、改札前は不快な表情をした人々が携帯に釘付けになっていた。

その群衆の中でただ一人、年季の入った革ジャンを羽織った見覚えのある顔が、時計の時刻を退屈そうに眺めていた。


助走をつけて背中を引っぱたく。

「おごっ!!」

放心状態だった所を突かれて、痛みのあまり背中に手をあてがいながら、たたらを踏んで危うく転びそうになった男は、こちらを睨んだ後、ハッとした目を見開いて、そのうち人目もはばからず大声で笑いだした。

俺のよき理解者で、小学校時代から何かと一緒にいた、外崎研人(とざきけんと)という男だ。

「いや、なんだ、十時か!久しぶりだなぁ、何してたんだよ!」

「お前こそ、シケた顔してんじゃねぇ。」


暫く話し込んで、脱線し放題のブレた会話の懐かしい感覚を思い出しながら、相変わらずの外崎と、すっかり変わってしまった俺を勝手に自分で対比して、なんとも言い難い感慨に耽っていた。

外崎はかなり饒舌で、普通の人間ならば付け入る隙がないくらいよく喋る。ペラペラと、やっと話が終わったと思ってもまた新しい話題が浮き上がる。

今がまさにその状況で、既によく分からない話を溢れんばかりに耳に詰め込まれていた。

「あぁ、そういや。」

「今度はなんだよ……」


何度目かの話題転換が起こった時、外崎の表情が少し落ち込んだ。かと思えば、眉じりを上げて前のめりで耳打ちを仕込んでくる。

「お前、綿貫眞白(わたぬきましろ)のこと覚えてるか?」

聞き覚えのある名前の正体は少し間を置いて明らかになった。最近はすっかり外出もしなくなったので話を聞かなかったが、綿貫眞白と言えば、俺の高校ではかなりの有名人で、巷でも度々噂になるほどの人物だ。

どういう人間かと言われれば、ただ“完璧”であったとしか表しようのない、癖も性根も強い女だった。


陸上部に所属していた彼女は、他の屈強な男子部員達をその俊足で黙らせ、入部当初から期待の星ともてはやされ、早くもエースの座を獲得し、名だたる強豪校の選手をねじ伏せて、大会の表彰台の頂上から離れることなくあらゆる賞を総なめにした、。名声も、歓声も、欲しいままに走り続けていた。

その貪欲で強者らしい勇姿は俺も、外崎ももちろんよく知っている。


ただなんというか、非常に絡みづらい性格で、俺や外崎みたいな腑抜けたやつはまず受け付けないし、かと言って真面目な奴も無理みたいで、とにかく誰かと懇意にしているところは見たことも無い。

ついには媚びを売って近づこうとする輩もわんさか現れたが、どれもまるで相手にされずに、あえなく散っていった。

彼女の実力は人々を湧かせる。彼女の美貌は人々を引き寄せる。

それだけ彼女は強く、美しく、そして速かった。


「あぁ、そりゃ有名人だからな(忘れてたけど)」

当然俺は存在こそ知ってはいるものの、話す機会なんて無かったものだから、興味もクソもありはしなかった。たしかに実力は認めざるを得ないが、なんだか気に入らない。そういう雰囲気が常にあった。最もそれは、彼女が周りに抱く感情と同じだろうけど。

「それがあいつ、行方不明らしいぜ。」

「……なるほど」

ここ最近の怪奇的な生活のせいで、知人が一人行方不明になったぐらいではあまり衝撃は受けなかったが、それでも多少は事の経緯が気になるので、仕方なく外崎の話を聞いてみることにした。


「いつ頃だ、それ。」

「聞いた話では二週間程前だ。黒いコートを羽織った怪しげな男と一緒にいたって話も上がってる。」

すっかり情報通みたいな気でいる外崎は、次々に情報を羅列していった。

「誘拐なんて噂もチラついてるが、これがどうも、そんな生易しいものじゃなさそうなんだよ。綿貫が消息を経ってから三日後、街で“奇妙な現象”が立て続けに起こったらしい。」

周りの視線を気にしながら、声を潜めつつも外崎は続ける。

「お前……“ドッペルゲンガー”って知ってるか?」


ドッペルゲンガー……

聞いたことぐらいはあった。自分と同じ姿の人間に一度出会ってしまうと、謎の死を遂げるみたいな、アレだ。

「ソレと綿貫さんになんの関係があんだよ。」

「それがな、こっからは嘘みたいな話の連続なんだが……実際に“ドッペルゲンガー”に会ったとされる奴が既に五人いる。どれも、元陸上部強豪校のエース達だ。」

「……そいつらはどうなった?」

「──────死んだよ。」


暫くの沈黙があった。俺みたいなやさぐれた奴と違って、外崎は社交的で顔が広いから、多分その犠牲者も全員知り合いだっただろう。

その表情が、筆舌に尽くし難い哀愁を物語っていた。

外崎の指先は力なく震えていて、なるほどさっきの退屈そうな表情の原因もここにあったのかと気付かされた。


「サンキュー。後はもう、大丈夫だ。」

「……? お、おう」

ここに来る前まで、俺は今の自分がどこまでやれるかを証明したくて、仕事を欲していた。

今思えば馬鹿な話だ。この界隈において、仕事があるということは、誰かが死んだということだ。

やるせない感情を噛み殺して、外崎に別れを告げた。

「あ、おい」

引き止められる。

「お前……なんか“変わった”な。」

外崎は昔から、勘が鋭い。



帰路を辿りながら、ぼんやりと綿貫眞白についての記憶を掘り返してみた。彼女の武勇伝はいくらでも出てくるが、やはり俺が彼女と何か関わった記憶が微塵もない。

彼女はまさに雲の上の存在だった。三年間、クラスも同じになることは無かったし、あっちが俺なんか認知しているわけもないから、遂に無関係のままだった。

ドッペルゲンガーというのはまた何とも突飛な話だ。彼女に何らかの関係があることは外崎の話で分かった。被害者の共通点が今回の要となることも、よく分かった。


この事件は、何かの意図、前回のゾンビとは違って、極めて強い私情を感じる。また影で胡乱な者が絡みついているかもしれない。そういう推測は出来たとしても、こうもパーツが揃っていると、綿貫さんは事件に巻き込まれたと推理するより、事件を“引き起こした”と推理する方が賢明なように思えた。


「すみません。」

長考に耽っていると、背後からか細い声がした。辺りはもうすっかり日が暮れて、紺青の闇が染みのように広がっていた。

何となく蒙昧としていたせいか、気配を全く感じなかったが、振り返ってみると声の主はなんとも貧相な身なりをしていて、ボロ雑巾のような外套で身を包み、フードを目深に被った細身の男が案山子の如く無機質に突っ立っていた。

「はい……なんでしょう?」

「駅までの道のりをお尋ねしたいのですが。」

男は近寄ることも無く、薄気味悪い雰囲気を匂わせながら、けれど力なく存在した。


「あぁ、最寄りの駅なら路地を出て右に進んでいけば着きますよ。」

「そうですか、ありがとうございます……ところで、貴方は“吸血鬼”でいらっしゃるので?」

「え……あ、はい?」

空気が一変する。重く暗い不審な存在感が、突如として、凶暴なまでに研ぎ澄まされた“何か”に豹変した。

「やはり。」


そこからは刹那の出来事だった。俺の脈打つ心臓は、“空気に食われた”。自分でも何が起こったのかまるで理解できないまま、生命の要を失い為す術もなく薄汚れたアスファルトに倒れ込んだ───────



(いや)に帰りが遅い。

悪い予感が閃くように脳裏に過ぎった。今夜は曇りで月は見えない。

漆黒の背広を羽織って、女はネクタイをきつく締めた。物置兼武器庫から何丁かの拳銃と、万が一に備えての“とっておき”を支度して、冷たい革手袋をつけ、仕事場を後にした。

その後ろには、黒い女と対照的に、純白の“まだ”穢れを知らないワンピースを纏った少女がついている。


「場所は割れてるか?」

「なんとなく。」

「ならいい。さっさと連れ帰る。あちら側も動き出したという訳だ。」

そんな物騒な会話をしながら、二人は車ではなく、幾度も改造が施されたバイクに跨り、連絡の途絶えた華一を追った。

薄暗い夜の静寂は二人の相棒であったが、今夜は少し様子が違う。夜そのものが死んでしまったかのように、街を見下す月も、星も、人に寄り添う夜風も消えた。


「“月写し”は?」

「ダメかな。まぁアレは最終手段だ。普段から無闇に使うもんじゃない。前回だって……」

「でも今日は必要だよ。そんな感じがする。」

「どの道、ここで十時に死んでもらっては困る。だろ?」

「うん。あいつには役目を果たしてもらわないと。」

ライトは闇を切り裂きながら道を明るく濡らす。標識だけが光を反射して、死んだ夜の不気味さをより際立たせる。


ふと、向かいからも一筋の光明が見えた。

静寂をねじ伏せるエンジンの轟音は、こちらのものとよく似ている。香織は方向を少しずらして、構わず走り続けたが、奇怪なことに、向かいのバイクが導かれるように方向を合わせてきた。

「カオリ。あれ。」

「あぁ」

懐の拳銃を素早く手に取って、すかさず二発弾を打ち出した。構造が魔的な文明で弄られた銃は、発砲しても一切の音を立てない。暗殺にとことんまで特化した、無慈悲で効率的な凶器だ。


弾はバイクの車体を掠れて、一発はライトに命中した。光芒が途絶えた闇から、少しの沈黙のあと、“全く音を立てずに”、二発の銃弾が飛び込んできた。

「まさか……!」

咄嗟に緋音が盾になり、銃弾は弾かれる。闇からぬるりと正体を表したのは、黒木香織と、赤神緋音であった。

「“ドッペルゲンガー”か……!不味いな……!」

瞬間、バイクは縦に切り裂かれ、二人を弾き出した。

輪郭があやふやな影のような形をした“もう一方の二人”は、一切の言葉を交わすことなく、全く同じ手段で襲いかかる。



雫が滴り、強ばった空気が冷たく場を支配する。目を覚ましてすぐ飛び込んできた風景は、錆び付いた鉄格子と、ひび割れたコンクリート、そしてどこまでも続きそうな地下通路に……どこか香織さんと同じ雰囲気を思わせる、漆黒の外套に身を包んだ俺と歳は同じぐらいの青年だった。

「気分はどうだ?」

男の声は掠れている。ようやく分かった。俺はこいつにやられたんだ。見ると、男の肌は細かい外傷がいくつもあって、鋭利な目付きと、白髪混じりの長髪、そして何より特筆すべきは、およそ人間のものとは思えないほど歪に尖った歯だった。

まさか、吸血鬼───────


「お前と同じにするなよ。(おれ)はお前のような半端者ではない。」

木製の古い椅子に、鎖で拘束されて身動きが取れない俺を、男は軽蔑するように見下している。

「お前は……何だ?」

“誰”という表現を使うのは躊躇われるほど、男は極めて何か人間的なものが欠落していた。獣のごとき荒々しさが、隠すことなくさらけ出された殺気が、男を本能的に人間と判別することを阻害する。

禍々しい、という言葉がこれほど似合う生き物を、俺は知らない。


片桐雅依(かたぎりがい)、お前を殺す……否、“喰らう”者の名だ。覚えておけ。」

男は眉間にシワを寄せ、険悪な表情で名乗った。男……片桐の鋭い視線に目を背けながら、俺は緋音と香織さんの身を憂慮した。あの二人のことだから、多少の危険は心配には及ばないだろうけど、もし、万が一、俺を探しに出たのならば、只者ではない何かと交錯するという不快感に近い予感があった。


ふと、暗がりの通路の奥から足音がするのに気づく。甲高く響く音は、革靴のように格式の高い履物であることが推測された。

最もそれは、片桐が履いているようなブーツかもしれない。ならば通路の奥から出てくる者はきっと、こいつの仲間だろう。

しかし俺の予想は、あっさりと裏をかかれた。


「遅いぞ───────」

「そんな……あんたは……!」


「──────綿貫。」



宵闇の街中に響き渡る剣戟の澄んだ音。二人は純粋な殺意を持って、自分と同じ姿をした影と交戦していた。

間合い、手段、癖、全てが合致する。そうすれば自然と互いに一歩も引かない互角の攻防となる。

「埒が明かないな──────緋音!伏せろ!」

「は!?」

突如、闇を屈服させるほどの凄まじい光が辺りを照らし出す。閃光弾だ。

人間の目にもなかなか応える代物ではあるが……これが一番効くのは、暗闇を見慣れた吸血鬼の目である。

「今だ……!」

案の定、緋音の形をした影は光に目を潰されて、身動きを禁じられる。眉間に二発、心臓に三発、音のない銃弾が気配を殺してやってきた。

影と言えども、肉体は確かに存在するようで、それらの銃弾は柔らかな肉を抉りながら血をかき出して入り込んでいく。


「……そういうことね!」

緋音もすかさず、懐から短刀を取り出し、香織の形をした影の四肢を切り裂く。鮮血が宙を彩り、芸術的なアーチを描きながら、冷えた地面を真っ赤に濡らした。


光が収まった頃には、二つの影は消滅し、血痕も跡形もなく消え失せた。

「急ごう。こんなものが出たなら、十時ば無事じゃないかもしれない。」

「それは……困る。」

「移動手段がない。また羽を借りるぞ。」

「私それ嫌いなのに……!」

大翼は月明かりを一身に受けて、夜風を纏ってはためいた。



「どうして……」

ようやく振り絞るようにして出た言葉を踏みにじるように、冷徹な目をした女は、嘗ての少し着崩れた学生服の印象からは程遠い、流麗な肉体を魅せる背広を着ていた。

「久しぶり。十時華一君。」

彼女は綿貫眞白、確かにその人だ。俺は驚きを隠せないでいた。彼女が俺を認知していたことも、こうして今目の前にいることも、そして……男が綿貫さんの名前を知っていることも、全てが嘘みたいだ。

「私、もう普通に生きていくのは辞めたの。退屈な毎日も張り詰めた人間関係とも縁を切って、新しく始めることにしたわ。あなたと一緒ね。」


涼し気な見た目に反して、たおやかな女性の口調で話す彼女だったが、しかしその目つきには光は無く、ただ抜け殻のように、それでいて俺を軽蔑するように濁っていた。

「ドッペルゲンガーの正体を追ってるんでしょ?全く、君はあんまり目立たない方だったのに、今はかなり積極的なのね。」

まるで昔の俺を知っているかのような口振りに嫌気がさす。あんたは俺なんかが拝むことも出来ないほど遠くにいた存在だ。指の一本だって触れたことは無い。

何も、何も及ばなかったのに。なぜ俺を知っている。なぜ俺を理解する。


「綿貫さんは……俺のことなんて知らないと思ってたよ。」

「ええ。知らない。“吸血鬼”になったあなたのことなんて、何も知らないわ。」

そういった彼女は、全部知っていた。“俺が吸血鬼になった”という事実を、玲瓏な目をした彼女は知っていた。

「……綿貫さんは、こんなところで何を?」

無愛想を通り越して、禍々しいほどの敵意と殺意を備えた彼女に向かって会話を続けた。そうしなければならないと判断したからだ。この状況を鑑みるに、助けがくるまでの時間稼ぎにはこれが一番簡潔だと思われた。


「人殺し。」

この上なく、端的で、明確で、残酷な一言。完璧な彼女から放たれる、悪意に満ちた冷徹な発言は、俺の神経を戦慄させる材料としては十分すぎた。

「──────どうして。」

結局質問は振り出しに戻る。あれほど順風満帆な人生を送っていた彼女が、何もかもを欲しいままにしていた彼女が、どうして人を殺めるのか、それだけが不思議でならなかった。

だから、結局、この一言に尽きた。それほど彼女は、今の俺には理解できない存在だった。


「雑談は済んだか。」

片桐という名の男は、綿貫さんと一定の距離をおきながら、俺を凝視している。何かを見定めるような目で、特に俺の目をよく見ていたと思う。

「俺はどうなる?殺されるのか?」

最初の焦りは蒸発して、俺は賢明とはまた違う、冷えきった冷静さを得ていた。頭の中は蒙昧としているが、それがどうでもいい事のように、“目的”が決まっていた。

「単刀直入に聞こう……お前が新しい“王”か?」

不愉快な表情を浮かべたまま口を開いたかと思えば、奴の発言は丸っきり意味が分からなかった。


「王?」

思ったことがそのまま口に出る。王とは、なんの事だろうか……

新しいとは、ならば、古い王がいたのか?だとしたらそれは、誰にとっての王なのだろうか。

「知らんか。ならいい。貴様にもう用はない。」

「まって。殺すなら私がやる。」

「綿貫さん……!」

片桐を流して前に出たのは彼女だった。彼女の目を見て分かった。彼女は本気だ。

いくら俺が吸血鬼の力を有しているといえども、この状況下では自由に動ける彼女が有利なのは明らかだ。いくら超越的な回復力があっても、身動きの取れない俺を殺すのに、そう時間は要らないだろう。

そして同時に悟った。彼女は恐ろしい凶器を持っている。きっと俺は、あの日よりももっと凄惨な死を遂げる。

なんせ、もう一人の自分に殺されるのだから───────



夜の闇は絵の具で塗られたように街を塗りつぶし、夜風は寝そべったように溶け込んでいる。静か、というよりも、怯えた夜。

とくにその雰囲気が一層強く感じられるのがここだった。

「これは……地下にいるな。」

弾を装填する音は、不気味に響いて夜をより黙らせた。耳打ちでさえも許さないほど、“今から殺しに行く”と宣言でもするかのような堂々たる殺気を放つ。

土を被った錆びた鉄扉を見つけると、そこを蹴り破り、ライターの火を頼りながら、中へと入り込んだ。

「廃れた工場跡地にここまで魔的な空気があるとはね……どんな“怪魔”がいるのやら。」


「……いや。怪魔の気配はない。」

「……ほう?では武器を変える必要があるか?」

「ううん。むしろもっと強い銃があってもいいくらい。相手は怪魔というより……」

言いかけたところで彼方に火が点っているのが見えた。

人影が三つ……人の目にはそれを確認するのがせいぜいだが、吸血鬼ともなれば話は変わる。

夜の支配者の目は、暗闇でこそ真価を発揮する。

「華一……!」

「くっ!いくぞ緋音!」



────足音。二人が、二人が来る。

この場ではまだ、耳の効く俺しか気付いていない。荒ぶる呼吸、鋭い殺意、乱れた脈、雑音が飛び交う中、ただ俺の目の前には……太刀打ちのできない絶望があった。

「俺が……」

自分で自分の首を絞める。その言葉はまさにそのまま文字通り限界した。気道を握りつぶし、息の根を掌握して押し止める。突如として現れたもう一人の俺の目は虚空を見据えている虚ろな眼差しのまま、自分を少しずつ殺していく。

“ドッペルゲンガー”。外崎から聞いた噂は真実だった。綿貫さんが絡んでいるということも、もう一人の自分に殺されるということも。


「十時!」

意識が終わるすんでのところで、いつもの飄々とした口ぶりからは想像のつかないほど切羽詰まった声が聞こえる。来た。来たには来た。

だからといってどうにもならない。終わりだった。自分が今何を考えているのかも、どういう状態にあるのかも曖昧になっていく。水の泡だ。水泡に包まれながら死んでいく。

どうにも出来ない。首を絞める俺はこんなに強いのに、今の俺はこんなに無力なのか……!


「邪魔が入ったか……綿貫、もう二人分だ。」

「言われなくても。」

綿貫さんの艶やかな指先から、白い霧が流れ、それは徐々に形をつくり、香織さんと緋音の姿を瓜二つに模して完成した。

「またか……!」

二人はその現身を見る度、直ぐに間合いに入って戦闘を開始する。慣れた動き、賢明な判断。しかしそれらは全て、相手も同様に持ち合わせている材料に過ぎない。

今、香織さんも緋音も俺に割いている時間はない。きっとあの二人のドッペルゲンガーは、俺のなんか比にならないほど強いはずだ。俺が俺自身の力で、こいつを殺す……!大丈夫、相手は自分だ。なんの罪にもならない。自分を殺すだけ。無垢な他人じゃない……!

定めた“目的”を忘れるな……!自分自身を解放しろ!


行くぞ、行くぞ、何度も心の中で唱えて自分を叩き起す。鼓舞する。奮い立たせる。俺は死ぬ、俺は殺す。俺を倒す!

「悪く思うな……!俺!」

余力を振り絞り、力む腕を引きちぎる。ドッペルゲンガーといえど、鮮やかな血飛沫が薄い闇を彩り、幻像は虚ろな表情のまま体制を崩した。肘から下は無い。首元はガラ空きだ。

自分のイメージを掻き立てる。口の中がむず痒い。程なくして、口内の皮膚を鋭い何かが刺激する。

「これだ……!」


白く、鋭く、蠱惑的に輝く牙。ただの歯ではない、吸血鬼を吸血鬼たらしめる、そのイメージの最たる象徴。解き放たれた本能は、目の前の獲物にあてられて、その血を欲するままに叫び出す。

“血をくれ” そう何度も頭の中で鳴り響く。醜く異形な爪も、耳も、薄暗い部屋の隅々まで見通す邪眼も、今の俺が化け物であることの揺るぎない証明だ。

ここまで来れば、怖いものなんて無かった。


「────吸血(ドレイン)!!!!」

倒れ込んだ俺に飛び込み、完全に動きを封じて、目標に目掛けて牙をむく。まさに獣の狩り。人間ならざる動き……

露出した首から肩にかけての皮膚を突き刺し、溢れ出す赤い生き血を枯渇していた本能が絞り尽くす。一滴一滴を吸い上げる事に、力は漲り、脈拍は暑く素早くなる。


……うまい。

鉄の味しかしないと思っていた血が、信じられないほどにうまい。この世のどんな食料も霞むほど、何よりもうまい。

果たしてその血は、吸血鬼に成り果てた俺自身の血。

四分の一程度だった俺の化け物の部分は、ついに身体の半分を占めた。緋音と同じ、“半吸血鬼”。

気がついた時には、ドッペルゲンガーの身体は枯れ枝のような貧相極まりない姿に果てていた。

俺は……笑っていた。生き血の魅惑的な味には脳を弄くり回すような快楽が伴った。俺は完全にイカれたらしい。滾滾と湧き出る笑いを制御する術が見つからず、ただこの味に恍惚としながらも笑い転げた。

化け物だ。化け物とは、こういうことだ。


「壊れたか……十時華一、いい。ならば己が終わらせる。」

笑い狂う俺を横目に、片桐の背後から、無数の“口”が現れる。

見えるような気がする、という奇妙な感覚だ。だが確かに存在するらしい。現に、その口は周りの空気を食している。

大気のバランスが崩れ、息苦しくなるのを痛感する。

どうやらあの口は、“なんでも食える”らしい。

饕餮(とうてつ)─────己の中に蠢く“怪魔”。これを以て貴様を食い殺す。死ね……!」


群れをなす狼のように、口は一斉に襲いかかる。丁度いい。腹が減っているのはこちらも同じだったから。

あの化け物でさえ軽くねじ伏せられる自信が今の俺にはあった。力の使い方が分かる。稲妻の如く駆け巡る吸血鬼性が、殺せ、殺せと囃し立てる。ギリギリの際で維持している理性もはち切れそうだ。奴と会ったのは今日が初めてのくせに……

散々痛い目を見たからな。

「歯食いしばれ───────!」


復讐する血流(リベンジ・ブラッド)!!!!!!」

「十時!?それは────────!」

香織さんの制止する声は途切れ、脳と身体が焼けるように熱くなる。内側に炎を宿すような灼熱は、体外に一遍に放出されて、爆風と共にこの地下全体を揺らす衝撃を起こした。

「なっ……!食いきれん……!」

「ちょっと……!ほんとに化け物になったのね!!」


自分が何を言っているのか、何をしているのか、全く分からない。ただ欲望と本能の赴くままに力を解放し、目の前の敵に一杯食わせることぐらいが、俺に出来る最善策……

持てる力の全てを使い切ったと思う。強烈な閃光が闇を切り裂いて、俺の身体に蓄積されたダメージは何十倍にもなって片桐に放たれる。その衝撃凄まじいもので、地下牢を倒壊させるほどだった。


緋音がいなければ、ここから抜け出すことは出来なかっただろう。脳裏に過ぎった確かなイメージは案外容易に現実となった。吸血鬼であるからには、吸血はできるだろうけれど、まさかこんな芸当まで出来るとは夢想だにしなかった。

────目的は果たされた。

「今だ!その女性を!綿貫さんを─────────」

崩落する地下牢を脱出し、瓦礫に埋もれるあの男を脇目に撤収する。一瞬だけ交錯した視線、彼の目は怨念に満ちていた。寒い夜の終わりは、彼のむき出しになった感情に対する戦慄で締められた。



「俺は……吸血鬼になれたでしょうか。」

疲労というよりも、完全に脱力してせいぜい人と会話するのが関の山になった俺は、そのまま土壇場で香織さんに連れ出してもらった綿貫さんと共に地べたで伸びていた。

香織さんの表情が曇る。緋音はこっちに目もくれない。相変わらず不快感だけは伝わってくる。

「……十時、正直驚いた。そして君は危険だということがよく分かった。あの状況を打破し、且つ自らの強化も計るとは……気味が悪いよ。何が君をそこまでさせた?私達を頼っても良かった。何故そうしなかった?」


「分かりません、ただ、あの男に襲われた時……ほんの一瞬で殺されかけたんです。俺、怪魔っていうのはみんな、もう既に自我とか意識みたいなのを無くした怪物だと思ってました。

────でも違った。俺たちみたいな見た目は人間と変わらなくても、中身は恐ろしい化け物って言うのが居たんです。そういう奴らを倒すためには……俺も化け物になるしかないと思ったんです。」

香織さんも緋音も何も答えてはくれなかった。同時に俺は心のどこかで、“自分はそこまで悪いことをしたのだろうか”という疑心が燻っていた。

確かに、仕事を見つけようとして一人で突っ走ったのは俺だし、力不足で囚われたのも俺だ。でも香織さんはその辺りについては言及していない。


普段はあれだけラフな人だ。それこそ新人社員がドジを踏んだぐらいにしか思っていないだろう。けど、現にこうして二人とも、言葉にできない何かを表情に出して俺を窘めている。……あの吸血は、むしろここまでの失態を取り返せるものだと思っていた。

ここまでやれば、香織さんも少しは俺を認めてくれるかもしれない。

ここまでやれば、緋音の実力に少しでも近づけるかもしれない。

加えて噂の元凶ともなろう人を連れ出せたなら、俺も一人前……


甘かった、のか。

そもそも二人が助けに来たのは、まだ実力も知識も経験も浅はかな俺の身に何かあったから、無茶をしてまでここまで来てくれたんじゃないのか。

俺がもし本当に強ければ、一人前なら、一人でどうにか出来たはずだ。いやそもそも、あの路地裏で奇襲に倒れるなんてことも無かった。

全部俺のせいだ。俺が、まだまだ弱いせい。

「教えて……ください。」


「……どうした。」

「強くなれる方法を、教えてください……!!!」

傷だらけの腕を力なく伸ばした。傷を負うのも弱いせい。誰かに助けを求めるのも、助けてもらうのも弱いからだ。

……今、ただ堪えようもない涙を流しているのも、弱いからだ。


「──さっきから聞いてれば。」

「ぐっ……!」

腹を踏まれる。涙が滲んで表情がよく見えないけれど、確かに緋音は俺の目を見ていた。こんなにちゃんと目が合ったというのは、随分久しぶりな気がする。まだ俺たちが出会ってから半年も経っていないのに。


「あんたは、あんたはまだまだ弱い。当たり前でしょ。ただの人間だったんだから、私みたいにもともと化け物として生まれたわけじゃない……それなのに、弱い者アピールして図々しいの!

嫌いなんだよそういうの……!強くなりたいなら泣くな!縋るな!吸血鬼の力の使い方なんて、自分で見つけるしかないでしょ!?

他人があんたの“血”を知ってるわけないじゃん!

信じられるのも、全てを知ってるのも、自分の中で流れる“血”だけだよ。その血があんたを強くする……分かったら一生覚えとけ!バカ!よわむし!!」


……だだをこねる子供のように、何度も、何度も腹を踏みつけながら叱責する。今の今まで溜めていたものが吐き出されて、言葉の濁流が降り注ぐ。泣いていたのは、俺だけじゃなかった。

どうしてだろう。どうして二人とも、ここまで思い詰める。分からないから泣く。分かりたくて泣く。泣くな、と言われてもどうしようもないほど涙が止まらない。

縋るな、と言われても──────俺はまだまだ弱い。


十時、えらく優しい声で俺の体を起こして、香織さんは目をしっかりと合わせ言った。

「人が力を求めるのは当然だ。周りに自分の上を往くものがごまんといるからだ。人はそれを追い抜こうする。そしてそれを追い抜けば更にその上の人間を、また追い抜いて更に上、追い抜いて上へ、上へを繰り返す。

お前にとっての“上”とは緋音のことだろう。しかし今日、世の中にはまた吸血鬼とは毛色の違う類の猛者がいることを知ってしまった。お前は無力を痛感し、それを呪っているが、世界最強の吸血鬼の眷属になっただけでなんの努力もしなかったお前にはよく似合っている結末と言える。

しかし今回の件は我々の責任でもある。何もしなかったのはお前だけではなく、我々もまた同じだ。素人のお前を擁護するだけで、戦わせようとはしなかった。それが結果的にお前を急かした。お前を甘やかした。そしてあの愚行の原因になった。

吸血鬼の力を知りもせずに無闇に使うな、あれはお前を滅ぼす。長々しくなったが、つまり……」


「戦う術を、お前に教える。生き残る術、守る術、強くなる術を教える。異形蠢く夜の世界で、悪鬼羅刹の全てを屠るほどの力を……その使い方を教えよう。」


言って、すっかり冷たくなって動かない俺の体に、殺し屋の肩書きに相応しい漆黒の外套をかけてくれた。

冷え込んだ夜の闇は一層深くなる。もうじき夜が明けるだろう。

吐く息は白く、瞳は紅く、緋音は涙と寒さで赤くなった鼻を見せまいとするように、ずっと遠くを見つめていた。



家に帰る頃には、もう既に朝日の光が闇を薄く引き伸ばして、空は暗闇から紺青へ、そうして徐々に澄み切った薄い青を帯びていって、街もぼちぼち目覚め始め、時刻はすっかり午前五時を回っていた。

「ハァ……おっも……!」

車を停めてから家の居間につくまでの間、華奢な肩に意識はあるが動けない俺と、意識のない綿貫さんを担いでいた緋音は、今日分の疲労ごと脱ぎ捨てるようにソファーに俺達を放り投げた。

軽めの音と、ソファーが軋むほどの重たい音が連続する。


「いやぁ、疲れた疲れた。レンタカー借りれて良かったよ。バイクがぶっ壊れた時はどうなるかと思ったが。」

女三人と、男一人。狭苦しく気まずいドライブが終わって、というか絶体絶命の極地を命からがら切り抜けて、まさに疲労困憊、満身創痍と言ったところだった。

「……結局“これ”も使わなかったか。」


「で、この女、いつ起きんの。」

不機嫌そうに綿貫さんに指をさす。あの時の衝撃で服が少し破けているので目のやり場に困ったが、ふと、腕に奇妙な装飾を巻いていることに気づく。


「それ、なんすかね……」

「知らない。最近の流行りとかじゃないの。」

それにしては随分質素で、しかしどこか怪しげな雰囲気がある。手を伸ばしよく眺めてみることも出来ない俺は、ただそれを気にかけるのが関の山だった。

「さて。」

言うと、香織さんは黒いスーツの襟を正しながら、デスクライトをつけて、気を取り直す。

橙色の緩い光がその顔を照らして、目つきの悪さを緩和する。


「昔話をしようか、十時。」

「え?」

「それもずっと前の話だ。ざっと九百年前って所かな……」

そう呟くと、おもむろに一番下の引き出しからなにやら分厚い資料を取り出した。縁が黄ばんでいるのを見るに、なかなか年季の入った使い古されたもののようで、いくつか付箋も貼られている。


「さすがにこれ全部、というわけには行かないのでかなりかいつまんで話そう。九百年前、吸血鬼の始祖の話だ。」

ひと夏の怪談でも始まるかのように、香織さんは俺の興味を引くような声色で、ゆっくりと資料をめくり、その九百年前の話を始めた。

緋音にも目をやったが、彼女はまるでまるで興味の無さそうに、気だるげな態度で椅子に腰掛け、イヤホンを付けて瞳を閉じていた。

香織さんは構うことなく、ただ俺の目だけを見て、“昔話”を語る───────



九百年前、この時代から怪魔という存在はあったが、今日のように化け物としての扱いは別段されていなかった。つまり、“いて当たり前”の存在として、虫や動物となんら変わりのない存在として、この時代の背景を構築していた。

当然“怪魔”の中には、人に害をもたらすものもいる訳だが、怪魔が人を襲うことは一度も無かった。そういう事件が起こらなかったのも、人間が怪魔を恐ろしい化け物と認識していなかったのも、全ては絶対的な力の下で彼等を統治する彼等だけの“王”がいたからだ。


その王が、吸血鬼の始祖──────緋音の直属の先祖に当たる。


彼は自分の血を怪魔に分け与えることで、彼等を眷属とし、半強制的に自分に服従させた。そうすることで怪魔の暴走を食い止めるだけでなく、無数に蠢くその全てを一斉に支配したのだ。

人間と怪魔はお互い不可侵の距離を取って生活を営んでいた。

驚くことに……王は人間を攻撃しなかった。吸血鬼という最強の種族の長でありながら。

しかし、それも長くは続かなかった。


吸血鬼たるもの“血”は必要不可欠だ。王は長らく人間の血を摂取していなかったがために、その強大な力が枯渇しかけていた。

そうなると困るのは王よりも人間だった。彼の血により制御されていた怪魔達が反旗を翻し、人間を見境なく虐殺した。もともと怪魔なんてのは人を殺す以外に存在意義を見いだせない怪物そのものだ。枷が外れれば、当然暴れ出す。


惨殺された人間の屍山血河を見て、王は嘆き怒った。王は人間を愛していたからだ。理由は分からない。だが強いて言うのなら自分が不可侵をあくまで守り抜いたのがその証拠だろう。

とにかく、彼は完全に狂ってしまった。

そこからは一方的だ。溢れかえる血を飲み干した彼は、残りの人間も、人間を殺した怪魔も、目に映るものは全て破壊した。

怒りと血の狂王、それが吸血鬼の始祖だ。


で、ここからは今に繋がるエピローグのようなものだな。

狂王は最後に、生き残った美しい人間の娘を陵辱し、産まれた子に“赤神”という性を与えて己の力と怒りを誇示した。自分が息だえても、自分に代わってこの世を血の恐怖で治める者を生み出した。その末裔が緋音だ。

赤神の家系は続きこそしたものの、王の思惑とは裏腹に吸血鬼に覚醒するものはいなかった。皆人間の血の気が多く、吸血鬼としての素質は皆無に等しかった。だから、自分達が“吸血鬼”の血を引いているということも忘れていた。


ごく普通の人間として産まれ、人間社会に溶け込んでいく。自分は真っ当な人間だと思い込んでいた彼等の間に、緋音が産まれた。先天的な吸血鬼性を持つ、一種の“天才”だ。

超人的な身体能力、動物の血を好んで摂取する異常性、そして何より、鋭い八重歯や蝙蝠のような翼等、人間にはありえない身体変化。

緋音は化け物として、親に忌み嫌われ、捨てられた。私が偶然拾うまで、緋音はずっと孤独だった。己の力を呪い、己の先祖を呪い、そしてなにより、この世に蔓延る自分と同じ化け物を呪った。


誰に語られた訳でもない歴史は、緋音の脳裏に記憶として生まれ落ちた時から焼き付いていた。私とまだ幼かった緋音は手を組んで、どういう訳か今頃になって息を吹き返した怪魔の根絶を誓った。それが今から九年前だ。



「──────で、今に至る訳だが。」

分厚い資料をバタン、と閉じて、縛った髪をゆるりと解いた。黒髪は揺れて、大人びた雰囲気を辺りに撒き散らす。これほど飾り気のない格好をしておいて、ここまで夜が映える人もなかなか珍しい。大きな欠伸を一つ。

どうやら仕事モードは終わったようだ。

「怪魔は……絶滅したわけじゃないんですね。」

「そう、そこなんだよ。何者かによって蘇生したのか、それとも狂王が取り逃したものが逃げ延びて繁殖したのか……後者の可能性は低いと考えるが、まぁ、検討はつかん。正直私も緋音もさっぱりでね。」

肩をすくめてため息をつく。退屈そうにタバコに火をつけて、まぁ、と気を取り直す。

「私も緋音も必死なんだ。ああは言ったが、アレは緋音なりの激励だ。暗闇の中でずっと孤独だった彼女があそこまで強くなったのは、単に自分に流れる才能という名の血だけじゃない。それこそ、その血が滲むような努力あってのものだ。“月写し”だって、最初は苦労したんだぜ?」

「そうだったんですか……ところで、ずっと気になってたんすけど、月写しってどっから持ってきたんですか?あんな滅茶苦茶な武器……」


「あぁ、アレは私が作った。私、こう見えて錬金術師。」

───────今日一番の驚きだった。

アレを作ったのが香織さんだということも勿論、錬金術師なんてものが存在したことも、それを何食わぬ顔で告白した香織さんにも、全てまとめて肝を抜かれた。

そう言えば、思い当たる節はある。あの音のしない銃……アレも香織さんお手製ならば何となく納得出来る。この人、毎回説明不足なんだよな……


「ま、こんなとこだ。この資料はパクってきたものだから、読みたい時は慎重に扱えよ。」

それほどのものを逆にどこからくすねてきたのかが気になったが、おおよその話は理解出来た。緋音の過去も垣間見えた。

緋音は知らずのうちに寝てしまっていた。イヤホンからは微妙に音が漏れていて、携帯の画面には、流行中のユニットの最新曲のジャケットが映っていた。

普通の女の子として、生きていいはずなのに。彼女はそれを産まれた時点で許されなかった。

彼女の頭を撫でる。なんだか、無性にそうしたくなった。


「うう……」

甘い猫なで声に思わず焦って手を離す。イヤホンが外れて、寝返りを打っただけのようだ。

「どうした、興奮したか?」

香織さんはまたすぐ俺を茶化す。

「ちがっ……いますよ」

ハッハッハッ、高笑い。いつもこの人の飄々としすぎる軽い態度には呆れてしまう。ヒィヒィ言いながらも充分笑ったあと、タバコに火をつけて目を細める。

「もっとやってやれ、こいつはそういうの好きだぞ。」

「─────そうですか。」

言われて、また彼女の流麗な髪を撫でた。今はもう少し、こうしていたい気分だった。

「なんか猫みたいっすね、コイツ。」

「フフッ、そうだな。」



一人、また一人、芽を摘むように、文字を消すように、潰していく。いずれ私に追いつくかもしれない人間を、私を後ろからずっと追いかける人間を、その人間の姿を写し出して、存在ごと抜き取っていく。

あぁ、これで私を苦しめるものはなくなる。そう思っていたのに、胸の内のわだかまりがいまいち収まらない。

違った。そう思った。

ここまでやってきたが、これはこの答えを導き出すための通過儀礼、途中経過に過ぎなかった。


やはり私はあの子を奪わなければ。私から全てを奪い、全く別のものを与えたあの子を写し出さなければ、意味も意義もない。


私から闘争心を消した人。私に■を教えた人。


やはり私はあの子を奪わなければ。

待っていて───────



頬に衝撃が走る。微睡むことも許さないように、何度も何度も、左右に破裂音を伴って瞬発的な痛みが起こる。

ぶたれていることに気づいたのは、痛みに耐えかねて飛び起きた時だった。

「あぁ!痛え!」

「しっ!うるさい……!」

視界に飛び込んできたのは緋音だった。どうやらあのまま落ちてしまったのは俺も同じらしい。もう既に穏やかな昼下がりといったところで、頬を何度もぶたれたこと以外は、平和極まりない空気……かに思われた。


「起きた……十時華一……!」

背後から聞き覚えのある声が、切迫した雰囲気で聞こえてきた。

見ると、すっかり意識を取り戻した綿貫さんが、端正な顔立ちを歪ませて、拳銃を握りしめているではないか。

俺はこの剣呑な場を、寝起きの頭で理解するのに数秒かかった。

「おお、おはよう十時。アハハ。」

その銃口はデスクでヘラヘラしている香織さんに向けられていた。危機感と焦燥感が押し寄せると同時に、どこか呆れた。

こんな状況で何故そこまで超然としていられるか、到底理解できなかった。


「綿貫さん……!やめてくれ……!」

「黙れ!!」

諌める想いも虚しく、彼女は激しい何かに駆られて激昂する。純粋な怒りだけではないようにも思える。銃口が香織さんに向いているのは、自分が実質的な捕虜にされている屈辱からだろうか。

彼女は引き金を引くだろう。俺の知る彼女はそんな人ではなかったが。

彼女は躊躇いなく殺すだろう。俺の憧れた彼女はそんな人ではなかったが。


何が彼女をここまで変えてしまったのか。片桐という男に、彼女が一体どう関わっているのか……その全てが、今現在、本当にどうでもよかった。

「綿貫さん、俺は悲しいよ。」

銃を握る手は震えている。今にも崩れそうなバランスを保ちながら、誰かを殺すことで、自分の力を誇示している。

綿貫さんはそんな人じゃなかった。そう記憶が告げる。別段彼女の何か秘密やらを知っている訳でもないが、俺が見てきた綿貫眞白という人物は、ただ強くて美しい人、それだけだ。


「綿貫さんだって、本当はこんなことしたくないんだろ……!?」

彼女は口をつぐむ。ここから先を話すことは不可能であるかのように、あるいは禁じられているかのように、意志と言葉を押しとどめているように見えた。

「俺、吸血鬼なんかになっちまって……朝起きるのはめちゃくちゃだりいし、薬飲まないとやってけないし、血見るだけでゾクゾクするし、体の一部が急に変わったり、身体能力だって高くなりすぎて追いつけない。それでも何とか生きてんだよ。

綿貫さん、あんたは俺と違って完璧だった。俺はあんたを初めて見た時、これが不平等なんだって、そう思った。

なぁ……どうしてこうなったんだ。どうしてそんなモノ握ってんだよ!」


銃を握る手が、一瞬、ほんの少し、緩む。しかし彼女が冷徹な凶器から手を離すことはなく、学生時代の面影を残した表情で一瞥をくれる。玲瓏な目には、明確な殺意。

彼女の脳天からつま先に至るまでが、俺に「殺してやる」と呻くように、それほどまでに彼女は俺を殺したがっている。

一体、どうして。それは俺に分かるはずもない事だった。

彼女となんの関わりもない俺が、知る由もないのだ。


「……アンタさ。」

口を開いたのは緋音だった。この状況で表情一つ変えず、毛ほどの興味も示さないような顔で、しかし何かを問うようだ。

「コイツのこと好きなの?」

コイツ……?指をさす。その指は俺に向けられる。頬は赤く腫れ、涙と鼻水が面を濡らし、口が開いたまま塞がらず、歯をガタガタ震わせる、俺に向けられる。

「何言ってんだ、そんなわけないだろう。」

言うはずだった。そういう言葉を俺は言いたかったが、彼女の反応がそうさせなかった。俺に発言することを許さなかった。


「ホラ、図星。」

あろう事か……本当にありえない事だが、彼女は羞恥に頬を赤らめて、握っていた漆黒の銃器を手放した。重たい音が場に沈黙を産む。顔を赤く染めたまま、彼女は小刻みに震えだした。

どうした、なぜ反論しない。

なぜ「そんなことはありえない」と立ち向かわない。彼女の生意気な冗談を糾弾しない。

「───────え」

この一文字に尽きた。今の自分の感情を的確に言い表すのに最適な言葉は、たったの一文字でいいらしい。


「だ……黙れ!」

ようやく我に返り、勢いよく両手を構えたが、その手にはすでに銃はない。彼女はどうやら、落としたことに気づいていなかったらしい。緋音だけが平然としている。俺は唖然としている。

香織さんは腹を抱えて笑っていて、綿貫さんは構えを取ったままフリーズしていた。

「はい、じゃあこれは没収だ。」

拳銃は簡単に香織さんによって回収された。どうすればいいかも分からない雰囲気が続く。

「まぁ、話せば楽になるだろう。最も、君に一方的に吐き出してもらうことになる。“組織”についてね。」

……“組織”?


「その妙に畏まった背広、そして腕に巻かれたセンスの欠けらも無い装飾、物騒な武器、およそ怪魔と呼んでも遜色のない能力……これら全てが、何者かによる授かり物では無いのか?だとしたら、()()()()があるんでね。」


赤面が冷や汗に濡れて、真っ青に覚めた顔に切り替わる。綿貫さんの恥辱の震えは、恐怖の戦慄に変換され、ついに立ち続けることも叶わずに脱力した。

それほどまでに、香織さんが真剣だった。普段はいい加減な彼女が、ここまで剣呑な表情を浮かべて誰かに詰め寄るというのも珍しい……そんな呑気なことは言ってられないほど、彼女はなにかに執着するような様子で、彼女を威圧する。


「君たちの首魁は誰だ?あの地下牢にいた男は上司だろうが、ボスと呼ぶには程遠い雑魚だ。社会に紛れ、怪魔の力を人の身に捩じ込み、裏から根回しをする陰気な男がいるはずだろう。君達のバックには……!」

「し……しら……しらな、い……しりません……!」

綿貫さんの視線が、香織さんと交錯することはない。彼女から放たれる殺気じみた禍々しく重々しい気配がそれを許さない。こうなればもう、綿貫さんは、あれほど強く完璧だった女性は、ただ震えて首を振るしかない。

私は何も知らない。見え透いた嘘でも逃げ切らなければ、この殺し屋は手段を選ばない。


「カオリ、やめて。」

彼女の耳には届かない。パートナーの制止でさえ意に介さない。待て、俺は何を見ている?どう見てもやり過ぎだ。

過度な恐怖と緊迫を乱暴に与え続けているだけだ。尋問でも質問でもない。彼女は暴走している。

「カオリ!」

怒鳴った。黒い殺し屋は静かに反応する。

「……ん?ああ、違うよ、彼女は私に怯えている訳じゃない。そう見えただろうが……悪い。私も些か冷静さを欠いていたようだ。」

取り直して場の空気を懐柔させるが、あれはどう見ても、香織さんの感情が爆発しているようにしか見えなかった。冷静さを欠いていたとは、少なからずそういうことだろう。


「喋ったら殺されるか……ならば仕方ない。君はもう帰るといい。元々ウチの社員の気まぐれで誘拐されたんだ。君が話したくない……もとい話すことがないならば、私も大人として、無理に聞き出すマネはしない。

もちろん、後をつけるなんて卑怯な手も使わない。私は間接的にも人殺しをしたくないんだよ。今回の件は無かったことにしよう。それでいいだろう?」

言って唐突に和解を持ち出した。綿貫さんは震えながらそれに応じ、何度も頷いて、おぼつかない足取りでとっとと行ってしまった。

「いや、まってよ……!綿貫さん……!」

こんな、こんな何も収穫がないまま終わることってあるか。

綿貫が今身を置いているところもきっと碌な組織じゃない。あの銃器と、ドッペルゲンガーを作成する能力がそれを物語っている。このまま放置することが危険だということぐらいは誰にでもわかる!


「いくな。」

「でも!」

()()()()()。」

諦めるように煙草をとって一服する。緋音はそれを静観しているだけで、俺を行かせることも、制止する香織さんを説得することもなく、ただ立ち尽くしている。

……いや、興味無いんだろう。俺と彼女の関係だってどうでもいい、今回の事件のことも。きっと彼女はそう思っている。

俺が少し無茶をするぐらいじゃなきゃ、彼女は動かない。


「十時、同じ過ちを繰り返すんじゃない。」

「くっ……!」

冷静さを欠いていたのは俺もだった。

「それに、彼女は丸腰だよ。」

そう言ってみせる香織さんの方を見ると、その指先にはあの珍妙な腕飾りが垂れ下がっていた。今見ても、胡散臭くてキテレツな装飾だ。そしてどこか、目を逸らしたくなるような不気味さがある。

「私は“錬金術師”だと言ったろう。あまりに突拍子のない告白だったのでな。今からその所以を見せてやる。来い。」

黒い殺し屋は不敵に笑う。



私は必死だった。陸上の世界から身を引いた今、またこうして無我夢中で走る……否、逃げる日が訪れるとは夢想だにしなかった。

あれほどまでの恥辱を受けたのは今日という日で二度目になる。

やはり私は、あの少年と関わるとろくな目に合わないらしい。

だから欲しい。だから奪いたい。彼の脳天からつま先まで、残らず私のものにしてやりたい。

身体の垢も、体液の一滴に至るまで、全て。私という存在に閉じ込めたい。染め上げたい、と言うと些かニュアンスが異なる。


脱出の余地のない檻に、一生涯監禁しておきたい。


久しぶりに会った彼は、噂通り人間を辞めていた。自らの意思でそうする人とは思えなかったのが余計に意外だった。前よりも随分体格は図太くなって、時々覗く尖った八重歯が不思議なまでに官能的だった。

彼一人だけなら。私は全てを投げ捨てて、卑しい吸血鬼となった彼に血の一滴でも捧げたのだろうけど。

私を暗澹から引き戻したのは彼だけではなかった。

幻滅した。結局私はどこまでいっても自由にはなれない。

こんなことなら最初から、大人しく普通の人間として息を潜めていればよかったのに。


私はどうしても、私の後をつける奴らが。私を羨望の眼差しで見る彼が……気に食わなかった。

ああ、私、なんでこんなことしてるんだっけ──────?



そう言って連れてこられたのは、ウチの庭にある蔵だった。重々しい扉を開けて、遠慮もなしにズカズカ入っていく。ここも倉庫みたく香織さんの私物になっていることだろう。

祖父に蔵には入らないように、とよく言いつけられていたので、祖父が生きているうちは……というか、今の今まで入ったことは一度もなかった。

つまり、全くの他人である香織さんに先を越されたのだ。

長い溜息をついた。

「倉庫が武器庫だとするなら、この場所こそが私の仕事場と言っていい。事情はよく分からないが、ここには微量の魔力が浮遊している。工房にはちょうどいい環境だ。」


蔵の中は薄暗く、香織さんが灯した蝋燭の灯りにあてられて、棚に詰められた箱が露見した。埃を被っているのを見れば、これはきっと元からここにあったものだろう。香織さんが漁ったという形跡も見受けられなかった。

ちなみに、緋音も着いてきていた。何も喋らないのは、本当に不安になる。

「まぁどれ、この胡散臭くさいブレスレットだが。恐らくこれが能力の発生源……いやもしくは、装着者が元々持っている潜在的な力を限界まで引き出す装置、のほうが適当か?兎に角興味深い。

これを元にしようか。」

呟いて、香織さんは地面に座り込み、何やら床に置いてある小道具を次々取り出して、その腕輪をいじり出した。

普段から見慣れているような道具から、見た目だけでは何の用途があるのかさっぱり分からない奇妙な道具まで、その様々を使いこなす。


「なるほど、まぁ分かった。」

よし、と体勢を整えて、一度道具を戻す。

「錬金術師というのは、化学的な手段によって卑金属を貴金属に変える……それ以外にも、人間の肉体や魂に関わるものを錬成する術の事だ。そうして現代、現代化学というカテゴリーに統合された錬金術は、本来ならもうほとんど扱われることは無い。

誰でもやり方さえ教わればできるからだ。学校の授業でも実験なんてものがあったろう?

だが私の錬金術は人が誰しも扱えるそれとは違う。正真正銘、魔術による錬金術、その原点だ。ある物質とある物質を魔術を用いて融合、新たな物質を錬成するなどの……アレだ。まぁ百聞は一見にしかず。よく見るといい。」


「……と、その前に、なにかお前の私物が欲しいな。出来れば長らく身につけているものとか、思い入れのあるものがいい。というか……前から気になってたんだが、吸血鬼が首から十字架のネックレスとは何の皮肉かね?」

「ああ───────これは祖父の形見です。何となく付けてたけど……吸血鬼でもなんともないんですね。てっきり十字架には弱いものだと……」

「そうか。まぁこの際なんでもいい。よこせ。」

横暴な態度で手のひらを差し出す。生前、祖父が肌身離さず付けていたものだ。俺の私物というよりも、祖父の物である要素が強い。十字架を見つめると、白銀の輝きが鏡のごとく、化け物を写し出す。俺もたいした顔になったものだ。少なくとも人じゃないなにかというのはひと目でわかる。

人によく似た、ただの化け物がそこにいた。


「はい。壊さないでくださいよ。」

「ふむ……ならばやはりこちらを元にしよう。少し痺れるぞ、後ろに下がれ。」

言うと、十字架のネックレスとセンスの無いブレスレットを重ねて、その上に手をかざして静かに瞼を閉じた。

今の所はなにか不思議なことが起こるような空気もなく、錬金術師というのはいっそ香織さんのでまかせだったのではと思われるほど、気まずい静けさだった。

もう、いいですよ。笑って冷かそうとしたその瞬間、全身を伝う電流のような感覚に苛まれ、その場に拘束される。


青白い光が辺りを包み込み、二つの媒体は白い炎に燃えながら、粉々に灰化する。灰は、突如起こった風に巻き上げられたかと思えば、空中に留まり、飛び回る虫のように舞を始めた。風、炎、二つの要素が互いに摩擦し、眼前で自然の猛威の如し景色が繰り広げられる。

「シメだ。」

呟いて、両の手を強く握り締め、ちょうど祈りを捧げるような姿勢になる。瞬く間に空中の灰と風は纏まり、炎はそれをより強く燃やす。体の痺れが頂点に達した頃、それらは物の見事に石化した。芸術的な石像のようにも見えるそれは、中心から徐々にひび割れて、倒壊する。


「これが……錬金術……?」

想像していたのとはまるで違う。魔術的手段とは言っていたが、ここまで常軌を逸脱したものとは考えてもみなかった。錬金とはもっと別の何か。自然を操り、無から有を生み出すその過程。

見蕩れるようにして、視線を奪われる。

────────瞬間。


爆発音が蔵中に轟いて、鼓膜を突き抜ける勢いの騒音が鳴り渡る。石像の瓦礫は弾け飛び、辺り一面、煙に覆われる。

「失敗……!?」

冗談じゃない。あれは大切な最後の形見だ。

こうも派手に壊されては、祖父に合わせる顔がない……!

「いや、我ながらいい出来だ。」

煤に汚れて出てきた彼女は、左手に形は見覚えのあるものを握りしめている。

──────まさに祖父の形見そのもの、十字架のネックレス。だが、もうそれに以前の温かみはない。禍々しく、直視するだけで目が焼けそうに熱い深紅に染まり、尋常ならざる“魔”を放っている。


「君がまともに一人で働こうとした記念だ。初任給代わりに受け取れ。一生モノになるぞ。」

変わり果てた形見を、受け取った瞬間の出来事である。

脳裏を駆け巡る記憶が、徐々に血に濡れていくのを見た。祖父の優しさも、過去の平穏も、俺の人生が、俺の血に侵食される。

赤い、紅い記憶の映画は、誰かの死で幕を閉じた。


俺だ。俺が死んだ。

人としての俺が、完全に、完膚なきまでに殺された。

殺したのも……俺だ。

俺が俺を殺した。吸血鬼の俺が、人間の俺を殺した。


何かの枷が外れた音がする。

「おめでとう。これで君はもう、絶対に元には戻れない。」


「───────強さとは、そういうものだ。」

その十字架を、静かに首に通す。化け物になった俺の罪を戒めるように、十字架はそこに赤く存在する。

「君は、王になるんだ。」

香織さんがそういった時、緋音の表情が曇った。

俺はそれがどういう意味なのか、まだ分からずとも何かが確実に変わろうとしていることは容易に察することが出来た。


十字架は、赤く輝く。

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