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「夜に潜む者」

前回のあらすじ

何の苦境も刺激も娯楽もない人生を送ってきた少年、十時華一は、ついに自分の面倒を見てくれていた祖父までをも亡くし、途方に暮れていた。

そんな中、世間では奇妙な殺人事件が立て続けに起こっていた。

自分の身を案じた華一は、足早に帰る途中、満月を横切る少女の影を目にし、興味からそれを追いかける。

ついにその影の主に追いついた華一だったが……

古い映画を見ているようだ。閑静な闇の中に、ぼんやりとあかりが灯って、俺の人生を映し出す。

生まれた時のことから、映写機が音を立てて次へ次へと流していく。急いて急いて場面は移り変わり、疾走するかのように映像が視界をすり抜け、脳を駆け巡る。俗に言う走馬灯ってやつか。


抜け殻のように、ただその映像を見ている。興奮することもなければ、懐かしむようなこともとりわけない、俺の人生は昔から、在り来りのくせに、余計な不幸が付きまとっていたから、今更見せつけられても感傷に浸ることはできなかった。

一度見た手品は驚けないのと同じ、退屈な順序の温い再生が、瞬きをする暇もないほど疾く終わっていく。


俺の終わってしまった人生を、俺だけが見ていた。


周りに誰かがいるはずもなく、ただ一人、たった一人だけだ。俺だけが、筆舌に尽くしがたい虚しさを抱きながら、ひっそりと涙を流した。何故俺は、こんな人生でも、「生きたかった」と思ってしまうのだろう。

映画の展開はみるみるうちに進んでいく。いつの間にか背もだいぶ伸びて、高校の半ばの時期まで来ていた。

友達もいたし、祖父もいた。両親だけがいなかったけれど、寂しくはなかった。


──────楽しかったのだろうか。

今思えば、俺はやっぱり贅沢な悩みに勝手にうなされていただけだったのかもしれない。世の中の不幸に比べれば、この程度同じ天秤にかけるまでもないだろう。

それでも何かが足りない、何かが欲しい願ったのは、人の薄汚い性のようなものなのか、俺の人生は結局未完成で中途半端だった。


ついに祖父が死んだ。この光景を二度もみせられることになるとは夢想だにしなかったが、今更特別悲壮も哀愁も湧き上がるわけでもなく、“俺の人生の一部”として、それをぼんやり眺めていた。

……それから特に何も起こらず、退屈な繰り返しが続いた。大きな欠伸がぬるりと抜け出して、すっかり眠くなってしまったらしい。ここで眠れば、もう覚めることも無いだろう。

それでも俺は、静かに、双眸を閉じた。

安らかな(さざなみ)が、冷たい身体に染み込んでいく。



首筋が、シンと軋む。

凍える悪寒が全身を迸り、恐怖に似た何かに叩き起された。

さっきまであれほど安堵に包まれていたのに、今は締め付けられるように息苦しい。

何があった。

未知の感覚に瞳孔が開き、全く見覚えのない天井が視界に飛び込んだ。

暗くて、こじんまりとした一室。いや、これは……車の中だ。

辺りを視線だけで軽く探ったが、誰かがいる様子もない。とりあえずゆっくり起き上がろうとした、その時。

全身の肉が悲鳴をあげた。筋肉痛に近いが、痛みが比にならない。

声にもならない激痛を噛み殺し、座席のシートに縋るようにしがみついた。身体中が熱い。生きているという実感を、凄まじい勢いで実感させられる。

俺はもう、死んだはずなのに。


激痛は引かない。狭い後部座席でのたうち回り、枯れた叫びを上げたが、か細く、掠れた声は、どこかに届きそうもなかった。血管がはち切れそうだ。

死にそうなくらい生きている。死んだはずなのに。

もう訳が分からなかった。考える余裕もないくらいに痛みが強いし、骨も破裂しそうだ。

消えそうな意識で悟った。俺の体は、俺の体じゃ無くなろうとしている、そんな予感がある。

自分でもおかしくてしょうがない。けれど、心当たりがある。

出会うはずのないものに出会ったなら、起こるはずのないことが起ころうとも、不思議ではないんじゃないか……


あの吸血鬼の少女。彼女が俺を変えてしまったのなら、説明がつきそうだ。


「おはよう。」

車のドアが重たい音を立てて空いた。夜中の空気が入り込み、汗で濡れた身体を冷やす。

聞き覚えのない柔らかな声が、耳を通り抜け、脳に響く。本能的に、この声に反応してしまう。身体の震えと痛みが収まって、その声を待つ家畜のように大人しくなってしまった。

「初めまして。」

その声の主は俺の顔を覗くようにして姿を見せた。あの夜の少女。紺色の流麗な髪に、玲瓏な肌。緋色の瞳が俺を見据える。

彼女は、笑っていた。



「俺に……何をした」

あの時の恐怖が蘇る。大きい声でがなろうとしても、弱々しい吐息のような声しか出なかった。

「見て。」

どこか含みのある微笑を浮かべたまま、彼女はおもむろに車のライトをつけて、手鏡を取り出した。

分かり切った俺の顔を写して、彼女は「どう?」と聞く。


「あ……はぁ……?」

俺の予感は的中した。彼女の含み笑いの意図もわかったような気がする。鏡の中に、自分と同じ姿をした化け物がいた。

俺の知らない俺。それは、鋭利な八重歯と尖った耳、そして、彼女と同じような緋色の瞳を持っていた。

「あ、あ、」


「うわぁぁぁぁぁ!!」

手鏡を払い除けて、ここから逃げ出そうとする。嘘だ。こんなの。俺は人だ。人であるはずだ。人でなきゃいけないんだ。

車窓にも、僅かに自分が映る。慌てふためく化け物が、俺と同じ動きをとる。その恐怖はあまりにも現実と乖離していて、自分の存在さえも呆気なく忘れてしまいそうなほど、俺を盲目にさせる。


血管の細部に至るまでが完全に痺れてしまって、金縛りのように俺を殺す。寒気が俺に取り憑いて、実感と理性を悉く(ことごと)奪い尽くす。

嫌だ。嫌だ、逃げなきゃ。帰るんだ。逃げるんだ。逃げなきゃ……帰らなきゃ……!


「まって。」

彼女の声に俺の動きは死んだように止まってしまう。石のように固められた体に抵抗して、恐る恐る後ろを振り向くと、彼女も同じ、吸血鬼らしい姿に形を変えていた。

「私、赤神緋音(あかがみあかね)。」

彼女はそう名乗る。“美しい”。俺かにも俺は、彼女の姿を美しいと感じてしまった。雲に隠れていた満月が顔を出し、外の闇が明るみになる。

「────君は?」

鮮やかな赤を含んだ、温い涙が頬を伝って滴る。

俺はもう、人間じゃない。俺はもう、普通じゃない。

そう理解した途端。彼女がとても美しく見えた。


十時(ととき)……十時華一(とときかいち)。」

諦めるように名乗った。因果なものだ。化け物になった俺の名前は、“十”を持っている。考えるだけで頭が軋む。

俺の名前の響きは、こんなにもきついものだったっけ。

彼女は変わらず笑っていた。出鱈目な血を纏った白のワンピースが、あまりに芸術的だった。

俺もそんな彼女を見て、今までの自分と別れを告げるように、笑ってみせた。



その男は、死にそうな顔をしていた。いや、死にたそうな顔をして震えていた。

年はきっと、私と同じくらい。白銀の十字架を首から下げているのがうざったい。ここまで追いかけられたのも、正直不快だった。よりによって“仕事帰り”だった私の服は、汚らわしい血で汚れていた。

まじまじと私の顔を見て、“死”を恐れ竦んでいる少年を、私は壊してみたくなった。

二度と普通に生きていけないような、私と同じ身体にしてみたくなったのだ。興味と興奮は一気に私を盲目にさせた。


“人間の血は吸うな”と言われていたけど、そんな言葉は完全に排斥され、目の前の子を、ただ真っ赤に染めてみたくなった。

どうせ死にたいのなら、狂おしいほどに生かしてあげよう。

そう考えれば考えるほど、彼の首筋は蠱惑的に写った。衝動はもう歯止めが効かず、燃えるままの狂気で、初めての試みを実行した。


彼は、とっても綺麗に壊れてくれた。


十時華一。聞いているだけで頭が痛む名前だけれど、今日から彼は、私の唯一無二の同類で、私の人形なのだから、あまりのおかしさに口元が歪んでしまう。


彼と私。そしてあの女。今日からきっと三人で仕事をすることになるだろう。

私は彼に淡い期待を抱いている。きっと彼は私を満足させてくれる。私の穴を埋めてくれる。よろしく。華一君。

いや、仕事仲間なんだし、余計な配慮は要らないか。

華一。君がどんなものを見せてくれるのか、今から楽しみでしょうがないよ。それこそ、狂おしいほどに───────



それからしばらくの間、俺は黙り込んでいた。頭の中の整理がつかないとか、終わった人生に絶望しているとか、そういう訳ではなく、これからどうして行こうかという方針を、脳内で画策していた。

彼女……赤神緋音に聞いても、「もう一人来るから、それまでまって」みたいな風で全く説明を受けずにいた。

こんな身体になってまで、俺は何が出来るのだろうか。


……吸血鬼か。子供の頃からそういうのには興味はあった。そういう“空想上の生き物”であるからこそ、多少の憧れを抱いていた。

まさか実存するとは夢にも思っていなかったので、俺のイメージするものと、実際のものがどれほど違うかは分からない。


だがまぁとりあえず、血は吸えるし、仲間も作ることが出来るのは確かだ。現に彼女が俺にそうしたのだから……間違いはない。

だとしたら、俺もそんなことが出来るということだろうか。

……ダメだ。実感だけは全くもってわかない。今更後ろめたさとかを覚える訳でもないが、少し先が思いやられる。


「華一。」

「え。」

唐突に助手席に座った彼女は俺の名を呼んだ。やけに声が大きくてハッとした。一体何の用だ。

「おもしろ。」

ハッ、と鼻で笑った後に吐き捨てる。裸足の彼女は座席の上で足を組み、退屈そうに……飴を舐めている。

そうか、こんなにも静かだと、つまんないかな。


すっかりわかった気になった俺は、吸血鬼とかそういう話題とは乖離した、どうでもいいことを聞いてみることにした。

「お前のこと、なんて呼べばいい」

馴れ初めは所詮この程度だ。人間だった頃も……異性との始まりはこんな感じの質問からだ。男同士なら、変な気は遣わなくて済むんだけどな。

「緋音でー。」

意外にも呼び捨てを希望するらしい。棒のついた飴をくわえたままで、依然つまらなげに誰かを待つ。


「緋音、飴好きなの。」

「まぁ。」

「ふーん……」

音もしない夜に異性と二人だけともなると、こんなにも気まずいものなのか。緋音……後ろから見ると余計にミステリアスな雰囲気が加速する。

滑り落ちるようなうなじが、信じられないほど魅力的に見える。

もしも……吸血鬼の血を、吸血鬼が吸ったらどうなるのだろう。

一瞬のうちに沸いた興味は、なんとなく蒸発した。


「お前、年いくつなの。」

「じゅーはち。」

「マジか。一緒だ。俺も十八だよ。」

「ふーん。」

気まずい空気は変わらない。同学年の女子となら、もう少しマシに話せるはずなのだが、緋音はなんとなく踏み込み難い。会話が味気なく、途切れ途切れになるのもそのせいだ。

というか……本当に同い年だったのか。さっきからまじまじと観察してみてはいるが、大人びた高貴な美しさが、彼女がまだ子供であるということを忘れさせる。


「見すぎ。」

「あぁ、ごめん……」

眉間を曇らせた表情で振り向く。味気ない会話の中でやっとみせた感情らしい感情。恥じらいとか怒りとか、そういうのもちゃんと持ち合わせてるんだ。

違うのは、ただ血を吸うことだけ。怯えることなんて、最初からなかったのかもしれない……


「ねぇ、つまんない。」

「そうだな……」

「面白いこと言ってみ。」

「はぁ……?ねぇよそんなの。」

「つまんない。」


エンジンもついていない車の中は静かで、淡白な静寂の中でただ誰ともわからない人間を待ちわびる。

微かな血の香りが鼻をくすぐる。緋音が何かを傷つけたことは、衣服から見て明らかだった。緋音自身に一つの傷もないので、きっとそれは一方的な傷害……もしくは、殺害だったのだろう。


時々覗かせるあどけない発言と仕草が、より彼女という人物に対して興味を抱かせる。ただ、もうすっかり疲れてしまって、視界と意識がぼやけ、微睡みの淵に立たされていた。

……外の風に当たりたい。車の中は昔からあまり好きじゃない。


とはいえ、眠気がもうよく身体に馴染んでしまって、どうしようもなく抗い難い。考えても見れば、無理に起きている必要も無いのだ。

俺は少しの間、仮眠をとってみることにした。



二月十二日。

高校の卒業の日が近いらしい。最も、真っ白な病室の中の僕には関係ない。


二月十六日。

久しぶりの面会だった。誰なのかはよく分からなかったけど、背の高い痩せた男が話し相手になってくれた。帰り際に、また会う約束もしてくれた。


二月二十日。

あの男の人が来てくれた。お土産によく分からないお守りをもらった。持っておくといいと言われたので、大事にしようと思う。


三月三日。

腹が減った。どうしようもなく腹が減った。何か食い物はないのか。


三月五日。

寒い。どうしようもなく寒くて震えが止まらない。僕はもう死ぬのだろうか。嫌だ。せめて、せめて僕と一緒にいてくれる人が、死んでくれる人がいたら。


三月八日。

気味の悪い夢を見た。ずっと空腹で、ずっと何かを食べていた。目を覚ますと、口の中は甘い匂いで満たされていた。


三月十日。

みんな一緒だ。みんな、僕と一緒だ。

そういう幸せな夢を見た。



「起きろ」

顔をすっぱたかれる。あまりの痛みに眠りから目を覚まし、頬に手をやるともう若干腫れているのがわかった。こんな乱暴なことをするのはどこのどいつだと、面を上げる。


そこには、初対面であろう真っ黒な女性が立っていた。


髪、瞳、服装、全てが他の色を拒絶しているかのように漆黒で、冷ややかな印象を与える。流れるような髪は後ろで少し乱雑にまとめられていて、外だけでなく、中着まで黒いスーツは、“デキる女”というよりも、殺し屋とかヤクザとか、そういう物騒なものを連想させた。


なにより目付きが最悪で、目が合えば殺されそうだ。口にはタバコをくわえていて、いかにも機嫌の悪そうな表情をしている。もっと見た目に気を遣えば、テレビに出ていてもおかしくなさそうな隠れた美貌を感じるが、それは呆気なく台無しになっている。

カッコイイ、とは、一瞬だけ思ったが。


「おそいよ、カオリ。」

「この辺りは余計に清潔だな。タバコがどこを探しても見当たらなかった。やっとの思いでコンビニたどり着いた時は思わず拳を握ったよ。」

「あ、あの……」

冷たい視線で一瞥する。痛みで自然に潤んだ瞳を、彼女は半開きの目で凝視する。


「お前、就職先とか決まってんの。」

彼女の息がタバコ臭い。血の匂いか、タバコの匂いしかしない車内は居心地が悪すぎる。

「いえ、まだですけど……」

しばらくの間を置いて、クスリと笑った。しめた、そんな声が聞こえたかと思うほど穏やかではない含み笑いだ。


「よし!君、今日から私の下で働きなさい!」


言って、頬肉を力いっぱいつまんで激しく上下させる。この人は本当にとんでもない人らしい。現時点で俺には何がどうなっているのか全く分からなかった。

女性はさっきまでの表情と打って変わって、子を褒める親のような情に充ちた顔をしていた。


こうして俺の未定だった就職先は、あっさりと決まってしまった。

「君、名前は?」

「十時、華一です。」

「十時……そうか。とんでもない人材を引き抜いてしまったものだ。」

彼女が呟いた言葉の意味は分からなかったが、ともかく、俺の人生のその先の物語が、幕を開けた。



「すみません。もう一度お願いします。」

その後、ようやく落ち着いたので、この女性────黒木香織(くろきかおり)さんから、緋音と香織さんが今日までやってきた“仕事”の話を聞くことになった。

香織さんは先ず、ウチは人から依頼を受けて、その依頼を達成することでもらった報酬をそのまま給料に分担して当てている。ということを話してくれた。


淡々と話が進んでいくが、肝心の仕事内容、主な依頼の内容の話がまだだったので、こちらから聞いたところだった。

香織さんは当然のように答えたが、それは聞こえてはならないようなものだった気がしたので、もう一度問い直したというわけだ。

が、

「だから、“殺し屋”だよ。これで四回目だ。漫才やってるわけじゃないんだから、一発で覚えろ。覚えの悪いやつは社会に出ても役に立たんぞ。」

きっと俺は、顔面蒼白でその言葉を受け流していると思う。いや、俺の考えが足りていなかった。吸血鬼と、ヤクザのような風貌の女。

こんな人間達で(人間ではない人物がいるが)構成された就職先がまともなものであるはずがない。

ブラック企業も顔負けの、職業と呼ぶのも間違っているような悪職に就いてしまった。


「えっと……その、ほんとに殺すんですか……?」

「あぁ、サクッと殺るよ。幸い、私達は強いから直ぐに終わる。君はしばらく見ているといい。」

さっきからずっとこんな調子で、発言の一つ一つになんの重みもなかった。ただ流れ出る縁起の悪い言葉が俺を不安の渦に突き落とす。

「どうした。何さっきから震えてるんだ。……あ、お前、まさかとは思うが、人を殺す仕事だと思ってないか?」

「だっ、だって殺し屋でしょう!?」


はぁ、と香織さんは溜息をついてから、肩をすくめて呆れ果てた。目付きの悪さが和らいで、死んでいた美しさがその片鱗を見せる。

「あのねぇ、君。君はもう吸血鬼なんだろ?そこにいる緋音だってそうだ。考えてもみたまえ。吸血鬼がいるなら、他にも化け物がいたって何ら不思議じゃない。残念ながら……いや、仕事柄幸いと言うべきかね。この世界にはそういう類の怪物がウロウロしてるんだよ。……私達はそれを、人と相容れない魔性の怪物。“怪魔(かいま)”と呼んでいるがね。

私達はそれを専門に狩るんだ。自分達の意思ではなく、人が殺して欲しいと頼むことで、生活資金を得るために……そして、“その大元”をいつの日かぶっ殺すために、そうしてる。

だから、私達は怪魔専門の殺し屋、というわけだ。そうか、最初からそういえば良かった。私にも多少責任があったな。これは。」


言って冷静に取り直す。“仕事”の実態は、つまりそういうことらしい。言われてみればそうだ。吸血鬼なんてのが存在する時点で、他にどんな化け物がいたっておかしくはない。

そういう……“いてはいけないもの”みたいなものを、人間の都合によって殺しているんだろう。害虫駆除とか、そういうのに似てる。


「安心したまえ、私達は“怪魔”しか殺さない。人間はもちろん、家畜や野生の動物も例外じゃない。いいか、覚えておけ。“人殺しは人でなし”だよ。当然だが、常日頃から命を奪っていれば忘れがちなことだ。」

“人殺しは人でなし”──────香織さんがそう言っているうちは、きっと他の誰かに危害が及ぶようなことはないだろう。俺はこの人を信用してみることにした。いや、もう信用するしかないんだ。この世界のことも、受け入れなきゃいけない。

“怪魔”という囲いに、吸血鬼も含まれるのなら、俺はもうそっち側に分別される方だ。俺は、考えなきゃいけないんだ……


誰も知ることの無い領域に、確かに足を踏み入れた。

もう引き返せないかもしれない。けれど、それでいい。

元より何の未練もない。俺はこの道を駆け抜けてやる。

もう、振り返ることも無い。

覚悟は─────決まった。


「俺に……出来ることは。」

「……そうだな。君は吸血鬼の力を試したか?恐らく君は今、身体の四分の一程度は立派にその血を持っている。持つものと持たざる者では雲泥の差だ。一種の“才能”と言う風に考えてしまっていい。

私は持たざる者の側だから感覚は分からないが、どうだ。自分の身体を触ってみろ。直ぐに変化に気付くはずだ。」


言われて、身体のあちこちに軽く触れてみた。その通りだ。俺の身体の変化は火を見るより明らかだった。

二の腕、胸、腹、どこを触っても、以前の俺より明らかに筋肉質になっている。特別スポーツをやっていたわけでもなかった俺は、高めの身長に反して体重が追いついていなかった。

だが今の俺ならきっと、七十キロ後半……下手したら八十キロ程はあるかもしれない。

元が六十に届く程度だったから、かなり大きな変化と言える。


「体格なんて努力すればどうにでもなるが、今の君は普通じゃありえない力をいくつも持ってる。

ここで話していてもしょうがないか。外に出てみよう。吸血鬼は夜にこそその本領を発揮する。平たくいえばコウモリだからね。当然夜行性というわけだ。」

「私、その言い方嫌い。」

不機嫌な緋音を、そうだったね。と軽くあしらって、ドアを開ける。

タバコの匂いが充満した車の外は、涼しい空気と澄んだ静寂が流れていた。車の中の方が明るいのに、今はこの暗闇の方がよく馴染む。


「人間の私には真っ暗闇だが、君はどうかな。」

すぐ新しいタバコを吸い出した香織さんを横目に、目を凝らしてみると、昼間のように景色が良く見えた。

街の建物の一つ一つ、植物の緑、何もかもが明白に、くっきりと輪郭を持っている。

「す、すげぇ。」

そのままの感想が口から漏れ出てしまうほど、それは未体験の感覚だった。


「まだまだ序の口もいいとこだ。君は慣れていないから力を完全に使いこなすことを期待している訳じゃないが、まぁ、要するに君は“眷属(けんぞく)”ってやつでね。緋音の下っ端みたいなものだ。

君は緋音に決して反抗できない代わりに、緋音の強大な力を受け継いだ。吸血鬼の中でも上の上。いや、間違いなく原点にして頂点、世界最強の力の片鱗だ。

最も、緋音も“その半分”を持ち合わせているにすぎないので、更にその半分の半分である君は、最強と呼ぶには程遠いが……間違いなく他の怪魔よりも格別のアドバンテージがある。その力、限界まで引き出してみろ。」


はい!と、元気よく返事を返そうとすると、香織さんは徐ろに内ポケットから何やら黒い塊を取り出した。

当然だがタバコではない、どこまでも黒く、鈍く光る重厚感。

間違いなく、銃器だった。

「え……」

「撃つぞー」

気だるげなままその引き金を引く。乾いた銃声が夜の静けさを殺して、放たれた銃弾が、夜風を抉りながら俺の胸元へと一文字に飛び立つ。


「がっ……!」

二発、腕と首元に命中し、一瞬の鋭い痛みの後、生気が全て抜け落ちたような脱力感に襲われる。頭は蒙昧として、立っていられるのもやっとだ。

「落ち着けー、人間であろうとするな。人の感覚は全て忘れろー」

遠のく意識の中で、辛うじて香織さんの飽き飽きした声が入ってくる。

(ふざけんな……!マジで死ぬぞ……!)

問答無用で次々に銃弾が打ち込まれる。信じられない。生身の人間をここまでいたぶるなんて……人間、そうか、人間じゃダメだ。

十八年も人間として生きてきたから、定着した常識を捨てきれないだけ……


ならどうする?曖昧な答えが頭をよぎる。イメージ。とにかくイメージしてみることにした。今の自分は最強、この程度の傷はすぐ治る……治る……治る……!

「ああっ!!」

蜂の巣に近い状態までボロボロになった俺の体は、何事も無かったかのように傷を塞いだ。それどころか、負傷する前よりも身体は軽く、そして体温は熱く感じる。

アドレナリンがみなぎるのを感じた。包み隠された戦闘欲みたいなものが目を覚ましたらしく、戦いのイメージが何パターンも脳内を飛び交う。


「おぉ、ウォーミングアップは出来たみたいだな。」

「えぇ、お陰様で……!」

許されるのなら香織さんを一発殴ってやりたいが、後でどうなるか分かったものじゃないので、とりあえずそれっぽいステップを踏みながらファイティングポーズのまま待機する。


「そうだな、次はこの木をへし折ってみろ。条件は一撃のみ、蹴りでも殴りでも、手段は問わないよ。」

香織さんの後ろに生えた木、幹がかなり太めの大木だった。

これほどまでの木は、普通の人間がいくら攻撃したところで微動だにしないだろうが……


「おらぁああぁ!!!」

熱くなる身体に活を入れて、衝動のまま駆け抜ける。間違いない。足だって前よりも格段に速くなった。風さえも追い抜いてしまえそうで、地面を蹴る事に力が増していく。

「だぁぁっ!!!」

漫画やアニメの戦闘シーンをよく思い浮かべながら、拳を前に全力で突き出した。腕の筋肉が呼応するかのように力んで、長い年月をかけて育った大木をいとも簡単に根こそぎ抉り倒した。

想像していたよりもはるかに凶暴な結果になったので、おっかなさに腰を抜かしてしまう。


「ウソだろ……」

「おぉ、ものすげぇ音。これなら当分は心配ないか。感覚や飲み込みの速さ。そして想像力。君は元々のポテンシャルも高いらしい。いいね。実にこの仕事向きだよ。」

流石に今のは驚いた。たかが四分の一化け物になった程度でここまで劇的に変わるものなのか。人間として培ってきた、養ってきた感覚や価値観は、四分の一変わった程度で、丸っきり変わってしまう。

俺はそれが少し、怖い事のように感じた。


「まぁでも、君が実戦で活躍する場は殆どないと思ってもらっていいよ。いや、役に立たないという意味ではなくて、この場合は緋音が強すぎるからね、よっぽどのことでもない限り、私も余計な真似はしない。

最初のうちは、依頼の整理とか、情報収集の雑用をやって欲しいんだ。生憎私も緋音も立派な社会不適合者でね、人間社会と隔絶した独自のコミュニティで生きてきた。そんな私達に比べて、君は人当たりもいいし、一見すれば物腰の柔らかそうな好青年だ。

だから君には、他の人間と密接に関わりながら仕事をして欲しいな。」

よくやった、ご苦労。俺はまだ何も役に立っていないのに、香織さんは労いの言葉をくれた。

上司に褒められる感覚は、人間の時にも味わったことがなかったというのに。彼女は普通に接してくれるし、仕事についても詳しく教えてくれる。

なんだ、いい人じゃないか。

起こされた時はどうなるかと思ったけど、この人となら上手くやっていけそうだ。


「車に戻ろう。……午前二時か。あと一時間は粘るぞ。」

「え、粘るって、何を?」

「あぁ、そうか。言ってなかったな。」


車に戻ってから渡されたのは、ホチキスで止められた何枚かの資料だった。

職業も年齢もバラバラの人間の個人情報が、プライバシーを無視されてまとめられている。細々と、余すところなくびっしりと几帳面に文字が詰められていた。

中でも特によく情報の整理がついた、丁度同い年の少年の写真が目に入る。

中川勇(なかがわいさむ)……ですか。」

「おぉ、そうそう、そいつが今回の“事件”の犯人だ。」

顔が窶れて、頬骨が出っ張った生気のない少年。よく見ると、大きめの病衣を着ていて、入院中であることが分かる。


それは資料にも強調して記されてあったが、香織さんが言うには、この少年こそ“犯人”であるらしい。

でも……そもそもなんの事件の。

「“連続怪奇殺人事件”君も聞いた事ぐらいはあるだろう?」

あぁ、思い出した。そのゴテゴテした名前はなかなか忘れられるものじゃない。(忘れてたけど)

殺害された遺体は決まって心臓が“食いちぎられている”という話の、アレだ。


「あの事件ですか……でも、この人入院中ですよね?外には出られないはずじゃ……しかも、この人が犯人なら、遺体の状況はどう説明するんですか。心臓だけが食いちぎられるなんて、普通じゃない。人間業とは考えられないですよ……」

ふむ、と、香織は一度黙り込む。

一息間を置いて、目付きがまた最悪になる。

「十時君、資料をよく読んでみろ。」

言われて、ざっと読んだだけの資料に目を凝らして、隅々まで熟読する。果たして、香織さんの言いたいことは何となく分かった。

「この人……亡くなってる。」

「そうだ。しかもつい最近、二月二十日の出来事だ。もともと集中治療室に身が置かれるほどの病状だったらしいが、余命期間はもう少しあったらしい。

更にこの日、一人の人間が面会に来ている。中川為(なかがわつくる)。勇少年の父親だとのことだが……まぁ、偽名だろうね。」


「どうしてそう思うんですか……?」

恐る恐る聞いた俺に冷徹に続ける。

「中川勇の両親は、五年前に事故で亡くなっている。そしてこの“ツクル”という名前。笑えるだろう。まるで私達のような探りを入れる者を嘲るかのようだ。

恐らく、そいつが勇少年に何らかのコンタクトを取り、君と同じような状況の“化け物”にさせた。」

話が飛躍する。確かに父親を偽る存在のことは不審極まりなく、只者でないことは十分に理解できるが、そこから俺のような化け物にこの少年が成り果てるとは考えにくい。


「いいかい。私達はね、この仕事を初めて割といい年月が経つ。吸血鬼以外の化け物なんていくらでもこの目で見てきたし、一つ残らず殺してきた。そしてその事件の裏には、常に今回のような不審な存在があった。

あちら側も我々に気づいていることは明白だ。吸血鬼が仲間を作るように、人間を化け物に変えてしまう何かがいるとしたらどうだ。随分と無理矢理だが説明はつく。

人の隙に漬け込んで“怪魔”を作り出す。馬鹿げた話と思うかもしれないが、もう常識は通用しない世界なんだよ。

疑えるものは全て疑え。世界は闇で塗りたくられているんだ。」

氷の視線で一俺を瞥する。“疑えるものは全て疑え”。恐ろしく孤独な表現だ。

周りの人間に恵まれてぬくぬくと育った俺には、想像も及ばない発言だった。

緋音と香織さんはこうして生きてきたのだろうか。少し、胸が痛む。


「つまり、中川君は……“ゾンビ”のような状態であると……?」

「そうだ。リビングデッド。生ける屍。死してなお現世を彷徨っているのだろう。死者がこうして肉体をもって生者に何か影響を及ぼすというのは、日本ではあまり聞かないかもね。

海外は埋葬。日本は火葬。文化の違いというやつだ。

今回の件は加えて、“カニバリズム”の要素も色濃く足されている。

食人文化。こんなものを文化と称していいのかは人道的に微妙だが、そういうモノが存在していたのもまた事実だ。心臓を食べることになんの意味があるかは定かではないが……最も願い、求めたものが“生命”や“寿命”だったとするならば、心臓という部位が一番それに近い。彼にとってこの行為は、欲しいものを手に入れているだけに過ぎないのだろう。」

“怪魔”とは一概に言っても、文化や風習の違いによって種類も多様であるということが聞く限りで明らかになる。

中川勇という少年に何があったのかは分からないし、まだこの少年が犯人であると確定したわけでもないけれど……もし、この少年が望まず犯行を繰り返しているのなら。

一刻も早く、彼を……楽にしてやるべきだ。


「さっき言った一時間粘るって言うのはね、この時間帯が一番“彼ら”にとって活動しやすい時間帯なんだ。悪鬼羅刹、百鬼夜行、都市伝説や街談巷説。存在そのものが不確かなものが、もっともはっきりと現れる時間帯が、“丑三つ時”というやつだ。

聞いたことぐらいはあるだろう。午前二時から三十分の間とされている。この時間に犯人が現れる可能性にかけるんだ。

まぁ、残り三十分は残業みたいなものだな。」

嘘みたいな話は現実味をまして、恐怖をより加速させていく。

背筋を這い寄る悪寒に凍えながら、真夜中の奇妙な空気を感じていた。


何かがおかしいという感覚と、何かが来るという予感。

脳が熱くなり、異常な気配を感じた。


「きたね。」

俺が言い出すのよりも先に、緋音が切り出す。この気味の悪い気配を感じたのは、緋音そうらしい。

いや、これもきっと、吸血鬼の身体だからこそ感じたものだろう。現に俺は今……かつてないほど高揚している。


この真夜中の魔的な空気ですら、俺の興奮を引き立てる刺激になった。何の苦境も、刺激も、娯楽もなかった俺の味気ない人生では感じることのなかった、盲目的な衝動が俺という存在を余すとこなく支配し尽くす。


───────始まる……!


「よしきた。方角と距離は?」

「南に二キロ、河川敷の住宅街!」

お互いが切迫した声で急かす。夜の街を法定速度を遥かに凌駕した速度で疾走し、ナビが介入する余地もなく、緋音のガイドに従って香織さんがアクセルを踏み込んで、ハンドルを素早く切っていく。


幸いこの時間ともなれば、他の通行人や車の姿は見えず、道路は独占状態にあった。車線もお構い無しに真ん中を突っ切って、獲物をみつけた獣のように迅速にかつ貧欲に対応する。

誰の咎めもない真夜中で、怪奇と異常と緊迫が交錯する。既に酔いとは違った吐き気に催され、身体を圧迫するような気味の悪さがまとわりついて離れなかった。


「もう少し…………もう………………出る!」

緋音の合図と共に、川沿いの比較的街灯に照らされた明るい場所に出た。駅周辺の見慣れた景色は、宵闇によく染まっていたが、その景色に混ざった異変は、直ぐに俺を戦慄させた。

「あれ……!」

「分かってる、外に出るぞ!」

乱雑に車を止めて、追い出されるように外に出る。単純に夜の空気と表現するには些か冷たすぎる異様な雰囲気と、目に見えて分かる惨い風景。


川沿いの雑草に芸術的に添えられた、惹き込まれるような鮮血の赤。手も、足も、頭も、綺麗に残っていながら、左胸に穿たれた風穴の様子が、“怪奇”という印象を重たく与える。

「あれはまずい、起きるぞ……!」

(え……起きる……?)

──────死体はゆっくりとその身体を起こした。

左胸の空洞を残したまま、白目を向いて、血だらけの図体は粘土を練り固めたように歪で不細工だった。


俺が香織さんの発言の意味を理解するより先に、緋音はその空間から抜け落ちたかのごとく速さで、空気を弾いて、起き上がった死体の首を──────────もぎ取った。


「あ、ぁぁあぁぁあ!!」

プッツリと、そういう音が聞こえた気がする。脊髄が剥き出しになって、野菜のようにいとも簡単に抜けた頭は、大量の出血を引き連れて、放物線を描きながら、鈍い音を立てて地に落ちた。

「落ち着け十時、あれはもう既に死んでる……気持ちは察するが、彼を楽にしてやるにはこれしかない。」


それからまもなく、無残な死体は跡形もなく腐るように消滅した。死体が腐敗する速度ではない、一瞬の出来事だ。

何事もなかったかのように空気は元に戻り、風景も日常を取り戻す。

今の刹那の殺害を目の当たりにしたのは、ここにいる三人だけ……

腰が、抜けた。


「まだ近くにいるはず、ここ逃したら当分キツいよ……香織……!」

「マジかよ、ならば車を出してる暇はない!緋音、“羽”頼む!」

あからさまな舌打ちをして見せて、不機嫌な顔でうずくまる。

緋音の滑らかな背筋が露呈した、次の瞬間。


どこまでも黒々とした、視界をほとんど埋めてしまうほど巨大な“羽”が、強風を仰いで勢いよく発現する。

悪魔のような羽……いや、香織さんの言葉から推測するに、コウモリそのものの翼だろうか。

おい。まさか……!

「私、これ好きじゃないのに……!」


襟元を呆気なく鷲掴みにされて、香織さんも俺も宙にぶら下がった状態で、翼をはためかせて空を滑空する緋音に連れて行かれる。

力強さというよりも、空気に誘拐されているような浮遊感で、まるで自分が鳥か何かになったような錯覚さえ覚える。

「香織さん!さっきのって……!?」

「あぁ!ゾンビ映画を見たことはあるかい!アレはつまりそういうことだよ!」

強風に煽られながら大きめの声で言葉を交わし、ようやくこの件の肝、というか、カラクリを理解した。

ゾンビに噛まれたものはゾンビ化する、吸血鬼が仲間を増やすのと同じように……なんて、どこまでも馬鹿げた話を突きつけられる。


すっかり眠った夜の街の上空を、静寂を攫いながら翔けていく。

不思議な感動に包まれている俺を横目に、香織さんは両の手にそれぞれ異なる種類の拳銃を握りしめ、煙草もくわえるのを辞めていた。

その目付きは、獲物を仕留めようとする獣というより……より確実に、より効率的に殺害を執行しようとする、凶暴な知性を持った“人”の目だった。


「──────いた!あれだ!」

一層剣呑な眼差しで少し離れた人影を捕らえる。

狩りに似た、知性的で怪奇的な殺害が幕を開ける。

「降ろすよ……!」

吊り上げていた空気が解けたように、音もなく緩やかに着地する。……瞬間、数十メートル先の人影の背中から、破裂したように血しぶきが上がる。

「なっ……!」

……信じられないことに。横に目をやると、香織さんの握っていた銃の口からは、既にか細い煙が上がっていた。

一切の声も聞こえない、対象を殺す前に、音と空気を殺してしまったかのような発砲だった。


「緋音!!」

その声が上がった時には既に、緋音はその人影の首を、今まさに手刀で刈り取ってしまうところまで来ていた。

刀が振り下ろされるように、刹那のうちの出来事。完璧で一方的に完結するはずだった殺害は、

すんでのところで、阻止される。


「アレを止めるか……!」

枯れ柳の幹みたいな左腕が、鋭い一撃を重たく受けて止めると、その身体は通常ありえない方向にねじ曲がり、目も当てられないほどに歪曲し、螺旋を描きながら緋音の華奢な身体にまとわりついた。

丁度緋音の身体を支柱として、関節というものを無視しながら骨と肉が折れて裂ける音を立てながら、動きと呼吸を奪っていく。

まるで強姦の一部始終のように一方的で、非情な構図だった。


目の前の惨状に意識を奪われる。手足は笑い狂い、立っていられるのが信じられないほどだった。香織さんの放つ銃弾も最早意味を成さず、ただどうすることも出来ずに、不愉快で残酷な侵略を見せつけられる。

「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!」

「十時君!!待て!!!」


人は想像できる最悪の容量を超えると、とうとう狂ってしまうしかなくなる。後ろで叫ぶ香織さんをよそに、俺の身体は少しの蛮勇と多くの恐怖に弾き飛ばされて、まさに一心不乱に彼女の元に飛び出した。

どうすればいいのか、既に頭になかった。自分が何者であるかも、この時は完全に忘れてしまっていた。

気付けば俺の手は、まとわりつく化け物を鋭利な爪で引き裂いていた。


俺の爪はナイフのようにすんなりと硬い皮膚を通過して、肉と骨でさえも構うことなく切断する。その度に伝わる感触は筆舌に尽くしがたいほど奇妙で、とにかく、死体を殺しているような気持ちだった。

どっちが何をしているのか、ちっとも整理がつかないまま、彼を殺そうとした。

……彼は、笑っている。


「ぐぁあ、はははは!!あ、あは!へへははは!!」

五臓六腑が露呈して、肉も皮も引き剥がされ、骨はどこを構成していたかも分からないほどに砕け散った身体のまま、彼は笑い転げる。苦痛にもがくように、ヨダレを撒き散らして、焦点の合わない目はさまよいながら、地面にしがみついている。


異常だ。彼の動態は、強くそう思わせる。

しかしながら、彼をここまで傷つけた爪を持つ俺も、言い逃れがないほど異常だ。


「ゴホッ……ガハッ……!バケモノらしくなってきたじゃん……!」

冷淡な瞳の一瞥をくれると、彼女はおもむろに立ち上がり、血痰を一つ吐き捨ててから、紺色に染まった髪を後ろに流して───────八重歯を覗かせた口を釣り上げて、笑う。


「ねぇ、中川勇って……アンタ?」

のたうち回る彼を見下して言うと、空気の質が一気に変わり、一つの音楽が終点にむかって一度落ち着くように静まり返る。

「はは、は……あぁ、そうだよ。」

青白い血相の悪い身体と、肉付きの悪い枝のような手足、傷は飾りのように、もともと存在していたかのようだ。それほど今の彼は薄気味悪い。


「───────殺していい?」

「……ダメだと言ったら?」

「殺すよ」

赤い、赤い満月。神秘的な恐怖を緩やかに与え続ける、真っ赤な月明かりが俺たちを照らす。

夜の街も、化け物も、何もかも、お構い無しに赤く染めあげる。


緋音の心臓の音が、一度だけ、自分のものであるかのようによく聞こえた。

夢の中へと意識が惹かれて、微睡みの縁に立たされる。強烈な浮遊感からくる目眩に苛まれ、酷く頭が軋んだ。

その時……中川勇の死んだ肉体が、もう一度完膚なきまでに殺されるイメージが、脳裏を遮った。

予知夢のように曖昧で、しかし映像のようによく映ったそのイメージは───────


ここに、現実となる。


緋音の身体から、その背丈の倍はあろうかというほどの見事な刀が、蝶が孵るように生々しく、美しく抜かれていた。

柄から刀身まで、月明かりを神秘的に反射する鋼で出来ており、鋭利な刃先は、この世に存在するものならば、全てを断ち切ってしまいそうな程に、完璧だった。


「なんだよ……それ……」

神々しい闇と光を纏った刀に見蕩れて、ため息代わりにそう漏らし、化け物は、断罪の時を跪きながら静かに待つしか無かった。


「……。」

空気、光、宵闇、全てを殺しながら、その刀は縦に振り下ろされる。風も音も立たない。何故ならば、それらも全て殺されたから。

刀は、化け物の身体を確かに切ったはずだが、まるで切られたことに気づいていないかのように、傷も、血も、一切見受けられなかった。

口を開けて呆然としたまま、ここにいる誰もが二の句を継げないでいた。

凍りついた時間が溶けた時、“殺された”という自覚すら抱くことが出来ずに、彼は、一つも痕跡を残すことなく、蒸発して死んでしまった。


その一部始終は残酷すぎるほど美しく、今まで見てきた何よりも強く頭を支配した。彼がさっきまで存在していたことが嘘であったかのように、刀は肉体や魂だけでなく、存在そのものを虐殺した。

月写し───────全てが終わると、刀はゆっくりと、緋音の元に還っていった。



──後日談──

人であることを捨て、血を吸う鬼として、夜の世界に生きることになった俺は、この黒ずくめの殺し屋の女性と、最強の吸血鬼の少女と共に、世間の噂の根源である、“怪魔”を退治する仕事に就いた。

波乱万丈の初仕事から一週間が経ち、身体の扱い方もそれとなく把握出来たところだ。日中はなんでかかなりだるくて、そのくせ夜は全く眠れないほどやけに元気だから、昼夜逆転の日々を送っている。

これは初仕事の直後に聞いた話だが、なんでも香織さんと緋音は、丁度仕事の最中に根城としていた“元暴力団の事務所”を追い出されてしまったらしく(その紆余曲折が気になるところではあるが)活動拠点に困っていたところに、俺を引き入れたらしい。

つまり目覚めた時のあの車こそが仮の事務所であり、二人の活動拠点だったというわけだ。


俺はとんでもなく不安定でドス黒い職業に就いてしまった。得体の知れないものとの命のやり取りは、仕事量としてはかなりのものだ。

そのくせ、この仕事の実態は衝撃の給料未払い。報酬から山分けして直接給料にするとの事だが、今回は肝心の依頼人から報酬を頂けなかったらしく、あれほどの怪事件は、「やっぱりそんな話はあるはずがない」との結論に片付いてしまった。

これだけ死ぬ思いをしても、所詮はその全貌なんて陽の当たる世間を生きていく人間達にはどうでもいいらしく、この件はあと数日も経てばきれいさっぱり忘却の彼方に葬られていることだろう。


それでも主に香織さんはこの仕事を続ける理由があるらしく、また商談と称して今日も一般人に不審極まりない商売の話を持ちかけに出掛けていった。

“怪魔”を狩るには、まず噂を仕入れることが大前提であり、そこからネチネチした交渉術で上手く商売を進めて、最終的に化け物にありつけていく、という手段を取る。

世界中のどこをさがしても、こんなに胡散臭いビジネスはないだろう。しかし、実際にあんなものが夜に潜んでいると考えれば、自分も化け物の身であるとはいえ、気味の悪い寒気に襲われてしまう。


中川少年の件も、それに関与したと見られる人物も、事件の真実は俺達も分からず終いだった。化け物になってしまった者と、化け物にしてしまったであろう者。

彼の死の孤独には寄り添うことは出来なかったが……綺麗に終わらせてやることは出来た。彷徨える屍は、月明かりの前に消滅した。気の毒だけれど……楽にしてやれたなら、仕事は上手くいったと思う。


まだこの仕事に就いて得たものは、吸血鬼の肉体と人生という非常に扱いに困るステータスのみだが、こうなってしまった以上は、もう後には引けないだろう。覚悟は出来ているつもりだ。

給料は欲しいけど……


「いや〜新入社員が君でよかったわ。今日からお世話になるよ。」

「綺麗に使ってくださいよ……あと給料。」

「大丈夫大丈夫。今度の仕事はでかいから、金は腐るほど入るぞ〜!」

という会話が数分前。さすがにいつまでも車で寝泊まりする訳には行かないので、祖父が居なくなってスペースが有り余った俺の家を、事務所として貸すことにした。

ひとつ屋根の下、殺し屋と吸血鬼と過ごすのは仕事を含め先が思いやられるが、人間として生きていた頃にはなかった、なんとも不思議な高揚感が、俺の未知なる期待を加速させる。


刺激も苦境も娯楽のない人生は終わった……正直なところ、これからが楽しみだ。

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