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沈黙者の唄  作者: 小林 豊
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其処は本来、高官の子息息女とは言え、成人を迎えるか迎えないか程の若者風情には昇殿を赦されない高貴な場所である。


南を向いたその紅梅殿の名を冠した建物は明るいが、其処を満たした空気は明るくない、というよりも寧ろはっきりと澱んでいた。


御簾みすの向こうに男の影がある。彼は年齢と確かな出自に裏付けられた気品に溢れ、若くはないまでも凛とした意志を纏っている。紛れもなく、彼はこの國の最高権力者だ。


彼の前には、数人の男女達が畏み坐っていた。

三人は王と同じくらいか、或いはそれよりも少し上くらいだ。

そしてもう四人はまだ若い。二回り以上は若い。皆成人を迎えたか迎えていないかくらいで、幼ささえ見える。


女は成人して暫く経っている風貌だ。女の盛りを過ぎたとはいえ美しい事に変わりは無い。だが釣り上がって狐を思わせる眼は、今日は明らかに不安に揺れていた。名を葛葉といい、王子の后である。


青年達の中の一人、烏の濡れ羽色の髪を持つ青年が、着物の袖を捲り上げ、その白い左腕を肩から晒し目線の高さに掲げた。


この行動も通常ならば考えられない事だった。國王夫妻の前、それも紅梅殿のただ中において大きく膚を晒すなど無礼そのものであって、処罰されてもおかしくはない。


葛葉が小さな悲鳴を上げる。

他の男達は聲を上げる事こそしないが、皆眼を見開いた直後には、恐ろしいものを見る目付きで、僅かばかり遠巻きにその腕を凝視する。


青年、瑞垣の左腕には、禍禍しい傷痕が這っていた。


「これが蝦那亥の祟りです。」


低い聲は、葛葉と瑞垣の父である神祇頭のものだった。

葛葉は末の弟の痛痛しく恐ろしい傷痕に言葉を失っている。そんな姉の好奇と恐れの眼に耐えるように、瑞垣は自らの腕を睨み付けている。


「なんと……、」


瑞垣の腕を初めて見たその男も驚きの余り聲を洩らさずにはいられなかった。落ち窪んだ峻険な目許──國書寮の副長官で、此処に介した一人の青年、夏草の実の父であった。


彼は元元、自然の道理から外れたものや精神的な豊かさなどを軽んじ侮るきらいの強い男だった。神祇頭によって下された、年明けの「竹の花の卜占」も鼻で嗤い、それどころか神祇一族の我田引水策と信じて疑わなかった人物だ。


そんな彼も、桔梗の儀での異形の暴挙、破壊された梧桐殿、そして瑞垣の腕を眼の当たりにしては、流石に現実を受け容れざるはあたわずと観念したらしい。


彼の息子、少し癖のある明るい色の髪の夏草青年は、何も言わずに瑞垣を睨み付けている。


瑞垣は苦しげに眉根を寄せていたが、何もかもを決意したという聲音で以て、


「私は王に仕え、王をたすける日を心待ちにしておりました。しかしこのような由由しき身になったいま、その冀望きぼうも潰えました。……それどころか、私は國に必ずやわざわいを齎そうと思います。國の仇とならない為にも、そして、唯死を俟つだけの果敢はかない身とならない為にも、王宮を去ります。」


そう言って、瑞垣は王子の後ろに座っている姉を横目で見た。姉は俯いていて表情は読み取れなかった。


「私も行きます。」


またしても青い聲が上がった。

夏草の顔が一層険しくなる。


「國書家の玉藻です。」


名乗った青年は瑞垣の横に並び、同じく袖をたくし上げた。その腕は眩しい程の若若しい腕で、健康そのものであった。

瑞垣は下唇を噛んだ。


「この腕は私のものではございません。私の隣にいる、瑞垣殿の腕にございます。」


御簾の奥から息を呑む気配がした。

瑞垣は心苦しかった。一度に幾つもの怪奇を受け容れねばならない姉の胸中が察せられて、申し訳なかった。


「桔梗の儀の際、蝦那亥に左腕をからめられました。そして同じく蝦那亥の邪瘴に取られた瑞垣殿の左腕を挿げられました。本来の持ち主である瑞垣殿が傍にいれば良いですが、彼から離れる程に痛み、仕舞いには身体から外れてしまいます。」


紅梅殿を驚嘆の吐息が包んだ。


「蝦那亥なる物怪は瑞垣殿と私の左腕を奪い、瑞垣殿には蝦那亥の腕を、私には瑞垣殿の腕を挿げたのです。ですから、私は瑞垣殿と離れるわけにはゆきません。」

「玉藻……、」


王の聲だった。

王と國書頭、副頭の兄弟は従兄弟同士だ。國書家が王位継承権を持っていないにしても、腹心の部下である事に変わりは無かった。そして王にとって玉藻は、立場の違い故に関係こそ希薄ではあったが、それでも生まれた時から知っている親類であった。


そんな彼が、王宮追放という運命を背負って、しかもそれを自分の力ではどうにもできない事実が、大きな遣る瀬無さとなって王にのしかかった。


「玉藻……お前はいい役人になると思っていた。こうなってしまった事が口惜しくてならない。……星の巡りが悪かったんだ、そう思うしかあるまい。そして瑞垣、」


御簾越しに王の視線が自分に注がれるのを感じた。


「お前も、必ずこの國の繁栄を弼けてくれると思っていた。残念でならない。」


瑞垣は必死で王の眼に応えようとする。

王の視線がまた動く。


「玉藻が王宮を去る以上、時期國書頭は夏草だ。」

「え……、」


悦びの混じった聲を洩らしたのは、夏草本人ではなく彼の父だった。


しかし、父の悦びをよそに夏草青年はゆくりなく立ち上がり瑞垣に掴みかかった。


「あんたの所為で……玉藻は! あんたを助けた所為で、玉藻は王宮を出ていかなきゃあならなくなった!」

「夏草、辞めろ!」


驚いた國書一族が止めに入る。

瑞垣は胸倉を掴まれながらも、夏草を冷ややかに見詰めている。


「辞めろ夏草、王の御前おんまえだぞ!」


國書副官が、青ざめて息子と瑞垣の仲裁に入った。

折角舞い込んできた好機だというのに、反故になっては堪らない。それどころか紅梅殿で刃傷沙汰にでもなろうものなら、國書一族の立場すら危うくなるやもしれぬ。


当の瑞垣はその三白眼に嫌悪を一層籠め、


「きゃんきゃん吠えてんなよ、噂話の次は癇癪起こして八つ当たりか。……あんたみたいな頭空っぽの浮ついた奴が一番嫌いなんだよ。」


無理矢理瑞垣から引き剥がされた夏草は、酷く恨めしそうに瑞垣を睨む。


「懐いてる主人を取られて口惜しいからって騒ぐなよ、犬が。」

「この……!」


夏草の顔がかっと赤くなり、開きかけた脣から処も忘れた罵倒が飛び出しかけた。

憎い相手を眼の奥が痛くなる程睨み付けている視界に、従兄の姿が現れた。


「いい加減にしろ、夏草。」


いつもなら穏やかな彼の睛が静かに燻っている。


「玉藻は……口惜しくないのか! 此奴の所為で……!」

「なら、見殺しにしておけば良かったって言うのか。」


夏草はすぐさまにそうだと言ってやりたかった。

が、國王やその息子夫妻、神祇頭、父や伯父の手前黙るしかできない。


その色を読み取った瑞垣の聲は矢張り冷たい。


「誰かの為に一人を見殺しにしろとはご英断。将来の國書寮が楽しみだな。」

「辞めろ、瑞垣。」


瑞垣の肩を叩いたのは彼の父だった。


「王の前だ。喧嘩を買うものじゃあない。」


瑞垣は涼しい顔をして、いま一度夏草に向き直った。


「あんたの従兄殿には感謝してるさ、申し訳ないともね。だがな、俺と一緒に行くと決めたのはあんたの従兄殿だ。悪者にされちゃあ堪らない。」

「そうだ、夏草。俺がこうなったのは星の巡り合わせが悪かっただけだ、瑞垣殿の所為じゃあない。」

「しかし……、」


口惜しそうな夏草を無視して、瑞垣は王子夫妻に、というより自分の姉に向き直り跪いた。

姉はなおも俯いている。瑞垣は心苦しかった。


「姉上……このような由由しいものをお見せしてすみませんでした。申し上げた通り、俺は此処を出ていきます。……今生こんじょうのお別れです。どうか、はなむけを。」


葛葉はおもてを上げた。その美しい顔は歪んでいる。

……気丈な姉だった。

瑞垣は記憶の中の姉と眼の前の女性とを重ねて胸が痛んだ。


「瑞垣……。貴方がこのようなすずろな目に遭って王宮を去るのが口惜しくてならない。貴方は必ず、國を支えてくれると、そう信じてた。」


噛み締めた脣のあわいから零れる聲は凛としつつも震えている。


「姉上……、」


取った姉の手は温かかった。

瑞垣はそこに、姉のやる方ない慚愧ざんき憤懣ふんまんの念を感じ取って仕様なかった。


夏草は最早何も言わなかったが、腹に恨み言をどうにか抑えて姉弟の永訣の辞儀を憎憎しげに睨みつけていた。


彼の従兄は、同じ光景を胸に違った想いを抱いて見詰めていた。

自分と、神祇の青年の皮肉な星の巡りへのを嘆きと覚悟を睛に灯していた。


皆、悲愴な二人の青年に同情して涙を流さんばかりだった。

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