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沈黙者の唄  作者: 小林 豊
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あの出来事は大勢が一斉に見た悪い夢だったのだろうか。

誰もが過ぎ去った嵐を現実のものと思えずいるうちに時は流れる。


しかし、時時交わす言葉で、相手にも自分と同じ記憶が確かにある事を改めて確認すると、夢幻と笑い飛ばす事が不可能と悟る。


崩壊した梧桐殿はそれを何よりも雄弁に物語るのであった。


宮中に流れていた世の滅亡観は愈愈加速して熄滅の気配は露ほども無い。寧ろ、果てゆく世の愁訴を俗物的な流行と言っていた者の中にも、変えがたい観念として定まってしまった者もいるようだった。別人になったかのように顔が曇り、或いは反対に諦念が過ぎて晴れやかな顔をしている者もいる。そして、桔梗の儀より三日しか経っていないというのに、王宮を退き出家した者も決して少なくはない。


竹の花が咲くから──。


此処へ来て、神祇頭の卜占の確かさが皮肉にも証明されたと言えた。


神祇頭は口惜しくてならない。

初めから警告していたというのに、それを信じず散散自分を罵っておいて、事が起きてから慌てふためき掌を返すのだから。


道理に蒙い痴者おこもの程、感情と主観に流されがちで、さも自分は悲劇の中心で世の中で最も不幸であるかのように歎くものだ。


しかし、神祇頭として自分が成さねばならないことは、以降の糧にならぬ非難や雑言ではなく、これ以上の災いを避ける為の天読みである。


神祇頭は青年の傍らで胡座をかき、その青白い顔を覗き込んでいた。


雨に打たれつづけた事による発熱からは快復した。


全身傷だらけであったものの、信じられない事に容態を診たくすし曰く、打ち身は多いが骨に異常は無いとの事だった。


しかし、と、医は眉を顰めた。

難しそうとも、忌忌しげとも見える眼差しを、瞼を閉じた瑞垣青年に向けた。


力無く投げ出された木偶でくに似た左腕には、鬱血痕の大蛇おろちが濃く巻き付いていた。


これには流石の神祇頭たる父も震駭しんがいした。

それは、まさにあの時蝦那亥が発していた瘴気の色をして不気味さ極まる代物だった。


医は唯黙って首を横に振るのみだった。

そうして神祇頭に向き直り、これは貴方様の領分にございます、と言った。


父は昏昏と眠る息子と二人になった部屋で、歯軋りを念じ得なかった。


息子のその腕をさする。


医に診せてもこの腕を治せぬのはわかりきっていた。

暫く俟てば自然に消えるような傷でない事も明らかだった。

更に、瑞垣は最早宮中にはいられまい──。


そしてその原因も、一つしか考えられなかった。


──蝦那亥の瘴気の祟りか……。


あの時、國書の処の倅が矢を射なければ、瑞垣は瘴気に呑まれ蝦那亥の喰らう処となっていたに違いない。


脳裏に蝦那亥の悍ましい姿がうかぶ。

忘れようとしてもどだい無理な話であった。


山のように聳える黑い巨体。

激情に歪んだ二つの顔。

四つの腕──。


神話に聞く物怪の姿そのものであった。


蝦那亥という邪神を知らない筈はなかった。というよりも寧ろ、いまのこの國では一番自分が詳しい筈である。


それでも矢張り、その異形を眼の当たりにした衝撃は四十余年生きてきて経験したその他のどんな事物にも喩えられない。


眼の前にまたありありと奴の影が泛んで、彼は眉根を寄せた。


その時、横たわる瑞垣の瞼が震えてゆっくりと開いた。

正気の無い胡乱なひとみが覗く。


しばしぼうと虚空を眺めていたが、傍らの人影を認めたようで、その二つの黑に光が灯り始める。


神祇頭の手の下で、青年の左手もぴくりと動いた。


「ち、ち……上……、」

「瑞垣、」


冷たい手は緩く父の手を握った。

まだ現実と夢幻との狭間を揺蕩たゆたっている筈だ。彼の無意識が、一瞬庇護を求める幼子に戻した。


父はそんな息子を、暗然たる面持ちで見詰めている。


眼醒めた瑞垣は、身体を投げ飛ばされ叩きつけられた事が嘘のようにけろりと起き上がり、湯をみ、着替えて父の前に坐した。


矢張りあれは幻ではあったのではあるまいか──との念が父の胸をかすめたが、眼を醒まして改めて容態を問われた瑞垣が一言、腕が痛うございます、と掠れ掠れ答えたので、父の一縷の希望は敢え無く雲散霧消した。


着物の袖から覗く左手を侵している不気味な痕が痛痛しい。


眼の前で胡座をかいている瑞垣も己の左腕をおどろおどろしく彩るくちなわの痕を眼の当たりにして狼狽戦慄していると見え、黑い睛が揺れて泳いでいる。


それでも父は瑞垣に告げねばならない事があった。

そしてそれは、無事に眼を醒ました息子を労う言葉でも、無事を寿ぐ言葉でもなかった。


「──追放、ですか、」


父から残酷な宣告を受け、しばし間を置いてから信じられないというふうにぽつりと発した。


父は無言で頷く。

するとみるみる瑞垣の顔に絶望の色が射す。


王宮追放の宣告を受け、咄嗟には領解できぬ息子の胸中が推し量られた。


「何故、ですか……。父上は、この國が私にかかってるとおっしゃっていたじゃあありませんか、」


鼓動が煩くて自分の聲が遠く感じる。


「言った。確かに言った。その言葉に偽りは無い。」

「ならば……、」

「しかしな。」


救いを求める聲をすげなく遮る。


「状況が変わったんだ。その腕を見なさい、瑞垣。」


瑞垣の表情が険しくなる。右手が左腕を撫でる。

矢張り、という認識と、恐ろしさと憎しみが一体となった感情が腕に向けられた。


「お前は蝦那亥がだいに呪われた。見ただろう、彼奴きゃつが全身から発していた黑い霧を。あれは邪瘴じゃしょうと言ってな、心悪しき物怪が発する邪気だ。神話の草子で、物怪の周りに黑い靄を見た事があるだろう。」


左の腕を抱いていた手に力が籠る。

父の言わんとしている事は理解できる。だが受け容れる事ができない。受け容れたくない。


「物怪の穢れを宮中に持ち込む訳にはいかんのだ。それに……、」


と、父は一度言葉を区切り、小さな溜め息をついた。

そして意を決したように瑞垣を真っ直ぐに見据えた。


「その腕はお前のものではない。」


一瞬間が空いて、それから瑞垣の眼と口がぽかんと丸くなる。

無理もないとは思うが、重大な話をしているというのに、何とも間抜けな面だ。


「その左腕は蝦那亥の腕だ。」

「ど、どういう意味ですか…… 、」

「あの時、お前の腕は蝦那亥の腕とげ替えられた。」


瑞垣はますます驚愕と混乱の複雑に入り混じった表情になった。

咽の奥から意味を成さないままなきが二、三洩れる。


「その腕は蝦那亥の腕だ。」


父は再度同じ事を言って聞かせた。


彼奴きゃつはあの時、お前の腕をいだ。」

「しかし……この腕は私の自由になります……! 私のものでないなら、こうして動かせないのでは、」

「誤魔化すんじゃあない。」


鋭い眼差しと叱責にびくりと震える。


「神祇の人間が自分から発している瘴気に気付かない筈がない。それともなんだ、お前はそれ程濃い物怪の気配にも気付かないくらいに無能なのか。」

「…………。」


瑞垣は奈落の淵で背を押された気持ちだった。

ぐっと奥歯を噛み締め、爪が喰い込む程にその忌まわしい腕を握り締めた。


暗み眩む自分の視界に黑とも紫ともつかぬ霧が立ち籠めている。

それは確かに、ずっと、自分の左腕から昇っては空気を澱ませていた。


瑞垣は愈愈泣きたくなった。


「お前の腕は、恐らくは蝦那亥が持っている。物怪にとっては人間なんぞ取るに足らない存在だ。だがな、」


父の眼が何かに痛み入るように伏せられる。


「人間は物怪の邪瘴に耐えられまい。」


哀しいかな。瑞垣はその時全てを悟った。

そして自分に課せられた天命の恵まれざるを半ば呪い、半ば覚悟した。


左腕を掴む手がぶるぶると震えている。


「……唯死を俟つばかりの身なら、蝦那亥を探してみせます。見付からぬかもしれない。喩え星の巡り合わせが良く見付かっても、今度は死ぬかもしれない。それでも、」


俯いていた瑞垣が意を決したように凜乎りんことして顔を上げ、父を見据えた。


「何もせずにいつか来る死を歎くだけは厭です。」


父は矢張り何も言わなかった。

唯哀しげな険しい表情で、鷹揚に、何度も頷くばかりだった。


その時、部屋の外で雑用の女の、来客を告げる聲がかかった。


何方どなたのご用か。」

「國書頭の旦那様と、ご子息君にございます。」


女の返答に、瑞垣ははっとする。


あの時、荒れ狂う御扉を眼の前にして固まった自分を正気に戻してくれた、自分の名を喚ぶ叫聲。

あれは國書寮の処の倅のものではなかったか、と薄ら感じていた。


「……ご案内なさい。」

「はい。」


雑用の女の足音がさかる。


「父上、では、私は失礼いたします、」

「いや。」


腰を浮かしかけた瑞垣は、中途半端な体勢で止まる。


「瑞垣。お前がいま生きているのは、國書頭殿のご子息のお陰だ。」

「────」


何となく気付いてはいたが、はっきりと言われると、衝撃と嫌悪が自分の内に湧くのがわかった。


「ご子息が蝦那亥に矢を射たから彼奴きゃつが怯んだんだ。……ご子息にも邪瘴の影響が出たのかもしれん。お前の事も含めて、話をしよう。」


瑞垣は腰を据え直したが、両の手は拳を作っていた。


軈て複数人の足音が部屋の前で止まった。


息子の方は部屋に瑞垣がいるとわかると、ほっと安堵の色を見せた。


「失礼。神祇頭殿、國書頭の者にございます。」

「息子の玉藻にございます。」


向かい合った青年二人は睨み合う。

口を開いたのは、玉藻の父の國書頭だった。


「神祇頭殿、突然に訪ね申して相すまない。お察しきかとは思いますが、倅の玉藻の事です。」


神祇の二人の眼が玉藻を見る。

玉藻は少し居心地悪そうに、左の腕を自身の身体の前で抱き込んでいる。


瑞垣はまさか、と思った。


「腕か──。」


殆ど無意識の内に呟きは空気を震わせていた。

玉藻は瑞垣の袖から覗いた痕を見て、それから瑞垣の睛を見詰め、口を開いた。


「いかにも。眼醒めた時から左腕が痛くて堪らんのです。くすしに診てもらっても、腕には別段異常は無いと言う。しばし大人しくしていれば治まるかとも考えたのですが、一向に良くなりません。」


神祇の父子は、腕をさすり擦り紡がれる玉藻の話を黙って聴いていた。


二人の頭には同じ一つの意見と、はてな、と思う気持ちが同時にうかんでいた。だが、國書の息子の腕には、瑞垣の左腕のような気味の悪い模様は出ていなかった。


「しかし──、」


と、玉藻は訝しげな表情で続けた。


「今日になって此方こちらへ赴く道すがら、どんどん痛みが和らいでいくのです。こう、本来在るべき処へ還って、子どもが落ち着くみたいな感覚なのです。此処へこうして坐っているいまは、苦しんでいたのが嘘のように痛くありません。」


神祇頭と瑞垣は顔を見合わせた。


二人は玉藻から邪瘴を感じていなかった。ならば蝦那亥は関係の無い単なる怪我かとも思われたが、これ迄仕様なかった苦痛が此処へ来たら治まったというのは解し難い。


収穫の無い帰途に、一度は完全に快復したのではないかと思える程であった左腕が、また痛み出した。


都を外れた処にある神社かむやしろで平癒祈祈祷してもらおうと向かっているのであるが、痛みはまるで一歩を踏み出す毎に強まるように思われた。


心臓が全身に血を送り出す度に、腕の付け根が鈍痛に襲われる。それは血管を押し広げて指先にまで響く。


頭まで痛くなってきた。視界が白と黑とに明滅する。


頭の奥で、痛みは丁度大きな地震ないが揺り返しを何時までも響かせるように駆け巡る。


地面が揺れる。

地面が迫ってくる。


遂にその場に膝をついた。うずくまり腕を抑え込む。


「玉藻……!」


父の聲が遠い。

意識が朦朧とする。


やっとの思いで見上げた父の顔が、恟然として硬直している。

疑問と痛みが頭の中で弾けている。


「玉藻……、」


どうしたと問うよりも前に、父の震えた指が自分を指す。


道行く者達が異変に気付いたらしく、狂気じみた悲鳴が上がる。一つの悲鳴が別の悲鳴を喚ぶ。


眩む眼に映ったのは、軀幹くかんから離れ地に落ちた腕だった。

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