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沈黙者の唄  作者: 小林 豊
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桔梗の儀の起源は礼祀らいし寮が詳しい。

礼祀寮は神祇省に属する、儀式祭典を司る組織だ。


桔梗は初夏の湿気の水気の多い頃に花を咲かせる。芳香は無く、控えめで慎ましやかな花だ。その清爽で凛とした礼容が若者を連想させる。


その昔、と或る二人の若者がいて、共に成人を迎えようとしていた。若者のうち一方は心優しく誠実であったが、他方は外面ばかり良く自らの利を追いがちな性質であった。時の王はその内のどちらを股肱の臣として迎えるか決めかね、より好き好きしい方に決めようと、最高神である斧毘羅ふびら神のまします祭壇を彩る花を献上させるが、二人とも美しい青い桔梗を持ってきたので困り果ててしまう。ところが、我がちな若者が捧げた桔梗は祭壇に措くや否や瞬く間に褪せてしまい、これを神託と解釈した王は、真面目な若者を側近にした、という伝承を元に、成人の儀式に用いられるようになったらしい。


無論現在では、成人する若者本人が選び摘んだ桔梗を神に捧げる形式だけが残っているが、元元は神の沙汰を窺うという意味であった。


水清さやみせせらぐ瀬ごとる時のよろづよまでにながらへよかし


節を回した朗唱が響き、几帳が仄湿った風を受けて僅かに揺らめいた。もとより壁らしい壁は無く、衝立などで仕切りを設けているような部屋である。聲は随分と散ってしまうものの、それでも、人の心に重く届かせることができるのは、この梧桐殿あおぎりでんという場所の性質と其処にいる者の心持ちが大きいのであった。


梧桐殿の室内前方は周囲より一段高さが設けられている。其処には荘厳たる扉が閉じられた儘構えていて、左右には幾重もの幕が下がっている。扉の向こうに、最高神斧毘羅を祀っているのだ。


祝詞のりとを唱えた四十がらみの男は、いかにも動くのが大儀そうな、袂が長くゆったりとした装束を身に付け祭壇前に胡座をかいている。祭典全般を運営する、礼祀寮長官である。


祭壇の端の方には、同じ着物を纏った、厳しい表情の中年の男が坐っている。神祇省長官である。彼の存在の為に、張り詰めた若い緊張感の中に、芳しくない意識が射し込んで、梧桐殿内の空気が鋭く尖っていた。


その男の背後には、数人の青年達が堅い顔で坐っている。これまたふくらかな衣装を不慣れな様子で身に纏って背筋を伸ばす彼等の顔には、心身の緊張が素直に色に出て薄く汗が滲んでいる。


青年達は皆、青紫鮮やかな桔梗を一輪かしこみ胸にいだいていた。この為に自ら用意したものだ。まさか口碑のように斧毘羅に認められなかったら退色するなどという事は有り得ないと知っていても、桔梗は美しいものがよいに決まっている。故事は兎も角としても、自分の官人としての器量を表す意味合いがあるのであるから、より凛として、傷の無いものを摘みたいのは自然の心情である。


そんな中に、濡れ羽色の髪の青年と、栗色の髪の青年もいた。瑞垣と玉藻だ。


瑞垣は先程唱えられた、この國最古の歌を頭の中で反芻し、自分を判定する予定の桔梗に鼻を寄せた。馨しい匂いは無い。が、若い匂いが肺を満たす。成熟していない青い匂いだ。これがいまの自分の有様なのだ。


一番端に坐っていた青年が立ち上がる。緊張している他の青年達が心配する程不安に顔をこわばらせ震えている。小心者の、文房寮長官の三男坊だった。


彼は祭壇前の男に大きく三度礼をし、自分の桔梗を備え付けられた土器かわらけに挿した。当然ながら花は瑞瑞しい咲き姿で、花びらを張り巡る繊維も青さ濃い。三男坊は緊張した面持ちに安堵の色を見せ、元の位置へ戻った。


一人、また一人と斧毘羅に認められ、次は玉藻の順番だった。


玉藻が摘んできた桔梗は、まさしく彼の性格を映して、研ぎ澄まされた色艶としなやかさとを併せ持っている。


従弟の夏草には、こうも凛と爽やかなのよりも、白や薄紅のぼうとしている「優しい」のの方が玉藻らしいんじゃあないか、と揶揄された。 自分でも、青い桔梗は似合っていないと思う。


玉藻は瑞垣をちらと見た。


細く釣り上がった眉は冷たく、睛は気怠げで取り澄まして見える。濡れ羽色の彼には濃い青紫の桔梗はよく似合っていると思われた。


祭壇に向き直り、背の高い華瓶けびょうに指先揃えて桔梗を挿した。儀式めいた指に取られた花は、黄金に輝く華瓶から傾げた首を出して僅かに震えた。


眼前は祭壇だ。幾重にも下がった幕の、そのまた向こうにうすぎぬの下りた扉がある。神神が祀られているのだ。


御扉は開く筈だ。だが、開いた処を見た事はない。

幼い頃、神という甚だしく畏れ多い存在を直視すると眼が潰されてしまうのだと父から聴かされた。


御扉みとびらの隙間から斧毘羅が覗いて、自分が政に与するに相応しいか否か量っているのだろうか。


既に幾輪か挿された桔梗と同じく、玉藻の花もふっくらと若若しい。それを見て玉藻はほっとする。


絶対に有り得ないとは思いつつ、このように自分の身の振り方に大きく関わり、不安と緊張を否が応にも強いてくる場面に当たっては、真らしくない事も頭をよぎるものなのだ。


神だとか、神罰だとか神託だとかが本当に存在するかどうかという沙汰は無意味であると玉藻は思う。人の畏敬の念や詠嘆を、現実的に実現 可能か否かで測る事にいか程の意味があろうか。その二つは相容れない、全く別物の営みではあるまいか。


眼の前にいる筈の神神に対し、桔梗を枯らさずにいてくれた事への感謝と、一人前の大人になる事への決意を捧げた。


玉藻は元の位置へ胡座をかき、ふと、瑞垣が視線だけを此方こちらに寄越しているのに気付いた。


矢張りその二つの黒曜石からは感情は量りかねた。

玉藻が戸惑っていると、瑞垣は幽かに口角を上げた。


冷笑には思えなかったが、かと言って完全に友好的な笑みでもなさそうだった。


屹度きっと、自分に限って、一瞬間に桔梗が見るも無惨に茶けてしまうのではあるまいかと心配していた心が見透かされているのだと、そう思った。


意味深な眼差しは直ぐに逸れ、今度は瑞垣がしなやかに立ち上がる。それはどこか黒い大型の猫を思わせた。


瑞垣は祭壇の直ぐ傍に構えた神祇省長官を見た。父は息子が自分に注ぐ視線に気取かどり、眼を細めた。厳しい表情であった。しかし、父が自分に期待してくれている事をよくよく知っている瑞垣は、その父のかんばせに怯むどころか薄く笑みを返した。


父にも、己のせがれ愈愈いよいよ、成人の儀に際し心細くなって父に助けを求めたとは思わなかった。


そのおとがいが聲も無く動く。物分りの良い倅ならば、父の意図を読み取るだろう──。


祭壇の前に跪坐した時、瑞垣は眼前の荘重たる扉が小さく動いたように見えた。怪訝に思ったが、そんな自分を直ぐに内心で自嘲する。


自分までも、不安な気持ちに支配されて起こる筈も無いものを見てしまうとは。


自分の青い桔梗を恭しく両手に持ち、御扉に──御扉の向こうにまします神神に捧げた、その時だった。


見間違いではない。


瑞垣の動きが止まる。


御扉の左右の召し合わせ部分から、濃灰の煙のようなものがうっすら立ち上っている。


眼をみはったのも束の間、扉はがたがたと音を立てて激しく震え出した。


梧桐殿に一瞬にしてどよめきが湧き上がる。悲鳴、引き攣った呼吸、その全てが一点に注がれる。


扉の揺れは凄まじい。黒い霧を蒙蒙もうもうと吐き出しながら、梧桐殿全体を揺らす程に脈打っている。


それは明らかに、内側で何かが扉へ衝突している様だった。

何か得体の知れない禍禍しいものが、外へ出てこようとしている様に違いなかった。


一際けたたましい絶叫が梧桐殿を貫いた。

それを合図にしてように、その場に固まっていた者達が足をもつれさせながら飛び出して行く。


扉が吐き出す黒い霧は、天井を、壁を舐めるように伝って呑み込もうとしている。

そんな信じ難い現象の中心で、扉は湾曲する程強く、幾度も幾度も内側から叩きつけられている。


重い音が骨に響いた。扉に大きく亀裂が走っている。


「瑞垣殿ぉぉぉおおっ!!」


自分を喚ぶ切羽詰まった叫聲に瑞垣は意識を引き戻された。

が、同時に眼の前で扉が弾けた。


勢いよく吹き飛ばされた扉は幾つもの欠片となり床に転がり、耳をつんざいた。


煙は一つの巨大な塊となってどっと瑞垣に覆いかぶさる。

強烈な風圧だ。視界を奪われる。翳した袖が耳元ではためく。


──何が起きている!?


頭がついていかない。

唯、身体が硬直して動かない。


とめどなく襲いくる黒い風に噎ぶ。

頭が痛い。内側から揺すぶられているようだ。


凄まじい暴風に、木でできた壁が、天井の一部が軋む音を立てて壊れる。


瘴気だ。湿っぽく、寒い、黒い瘴気に自分は呑み込まれている。


その奥に気配を感じた。

濃い瘴気の奥、一際どす黒く濁る部分──そう、まさに梧桐殿の御扉があった処に、誰かが立っている。


否、立ち上がろうとしている。


その影は、嘗てない程に大きく瞠目する瑞垣の前で、ゆっくりとその巨大な首をもたげ──。


持ち上がる大きな首が梧桐殿の天井を押し上げる。

神聖にして荘重な建物は、まるで女児のひいなの家のように脆く崩れていく。


図体が陽の元に晒される。


露になるその姿に瑞垣は絶句する。


──聳える山影のような肢体。

──荒ぶる四本の腕。

──左右に備えた二つの顔。


太陽を覆い隠し逆光に立つその醜い姿を認め、瑞垣は息を呑む。


「……蝦那亥がだい……!?」


四つの黄色い眼が一斉に瑞垣を見た。

瑞垣の肩がびくりと跳ねる。


蝦那亥がだいの纏う黑い瘴気は立ち処に太陽を隠し、一帯を夜の如きに落とす。

更に高く昇り、雲と一体となり空を覆い尽くす。


遠くで雷鳴が低く唸る。

どす黑い大きな雨雲が立ち込めている。


暗い世界に、物怪もののけの濁った四つの睛ばかりが爛爛とおぞましく光る。

それは他の何ものでもない。獲物を見定めているけだものの宣戰布告に他ならない。


「がっ……!!」


突如として瑞垣の身体が飛んだ。

何が起きたと考えるよりも前に全身に鈍い痛みが走る。


叩き付けられた壁から落ち、其処へ弐の衝撃が来る。

瑞垣の左のかいなに瘴気が纏わり付く。その儘埃(まみ)れの床と重い霧とに押し潰される。


「ああああああああああああっ」


漸く蝦那亥に跳ね飛ばされたのだと頭が理解する。

が、逃げようとしても化け物は瑞垣の腕を引き裂かんばかりにしかかる。


霧は左腕から瑞垣の身体を這い、まるで悶絶する青年をなぶるかのように緩慢に、肢体にその黑い無数の手指を伸ばす。


烈しい痛みに息さえ詰まる。

頭の中で血がたぎる。血管を無理に押し広げて痛みが爆走する。


身体が一つの心臓と化して大きく脈打つ。

何もわからない。唯一つわかるのは、確実に自分に迫る死の匂いだった。


眼の前が白く弾ける。

そして一瞬にして暗転する。


雷鳴が近い。

大粒の滴が、崩壊した梧桐殿を打ち始める。


空を閃光が駆け抜ける。

が、しかしきたるべき轟音は、いともおぞましい醜悪な雄叫おたけびに掻き消される。


空気がびりびりと震える。

周囲の山山に、蝦那亥の叫びが反響して大地をも揺らす。


物怪のおめきが、まだ耳の奥を侵食している。

壊れそうに打つ心臓を制し、瘴気と埃の煙に包まれた、梧桐殿と喚ばれていた建物に、何百もの遠巻きな視線が交錯する。


──蝦那亥の胸に矢が生えている。


「玉藻!?」


その聲は誰のものとも知れない。


瞋恚しんいに血走った四つの眼光が一人の青年を捉える。


恐怖と混乱と怒りとが宿るくり色の睛で蝦那亥をめ付ける──。

玉藻が弓を放った儘の恰好で勢いまさりゆく雨に打たれている。


蝦那亥は己に射掛けた狼藉者を認め睛を鋭く光らせる。

涅色と金色がかち合う。

玉藻は奥歯を強く噛み締めた。


「玉藻おおおおおおおお!!」


青年の名を喚ぶ絶叫が響き渡る。


玉藻にも当然眼の前で何が起きているのかわからない。


えびらから矢を抜き二の矢を番える。

視界の自分の左手ゆんで戦慄わなないている。


いけない。一撃目は運良くあたったがこんな為体ていたらくで仕留められる筈が無い。

おまけにこの雨と風だ。


「辞めろ! 玉藻! 辞めろおおおお!!」

青年の名を叫ぶ狂乱の聲は、青年には届かない。


──くそっ……!


焦る玉藻に瘴気の四肢が伸びる。

全身が大きく打ち、血が凍る。

思わず矢筈やはずを引いた腕が緩む。


其処へ留めおく力から解放された矢は瘴気の闇を裂いていく。

その様が奇妙に鈍鈍のろのろと見える。

容赦なく横面をはたく雨に眼が霞む。放った矢も見えなくなる。


それでも睛を逸らしてはならない。倒れてはならない。


くぐもった聲が暴れる雨風の間を縫って鼓膜に届いた。

風圧と恐怖に途切れそうな意識へ、小さな歓喜が湧く。


が、次の瞬間、半ば虚空を彷徨う左腕が何かに締め上げられた。


「ぐ……!」


弓は紙でできた模型のように容易くへし折れる。


雨水が眼を侵す。身体も動かない。

絶望的な恐ろしさに喰われてしまう。


ぼく、と。

何とも間抜けで、簡単で、身の竦む音が身体の内側から耳へ抜けた。


締め上げられつづける左手ゆんでが強烈な力で引っ張られ、身体が浮く。

危険だとわかるのに何もできない。


蝦那亥に持ち上げられた身体が宙を閃いた。桐殿の壁が玉藻を受け止める。


放り投げられた玉藻の身体は、既に其処で意識を飛ばしていた瑞垣に半ば重なるようにしてくずおれた。


人間達は悲鳴さえ上がらない。上げられない。

息をも止まらん程の光景が繰り広げられている。


雨と風との暗闇の中に、醜悪な怪物は聳えている。

物怪のその胸と一本の右腕には矢が刺さっていた。


蝦那亥は矢を受けていない腕で自らに刺さった矢を引き抜きほうると、しゅんと大人しくなった。まるで癇癪の収まった孺子じゅしのように。


雨は立ち尽くす蝦那亥も打ち、その輪郭を白ませている。


蝦那亥は緩緩と身を翻した。

最早「舘」と喚ぶこともできない、先程までは確かに梧桐殿だった瓦礫がその足にもつれ崩れる。


異形の巨人はなおもゆっくりと歩を進める。

烈しい雨と風の暗い壁が、徐徐に蝦那亥の姿を隠していく。


その場の者達は誰一人として動けなかった。

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