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沈黙者の唄  作者: 小林 豊
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吐息するそばめを湿った風が撫ぜた。

生命力の汪溢する葉末が僅かに揺れる。薫る瑞瑞しい空気が咽を心地よく潤す。


辺りは眩しい青に包まれ、初夏の木漏れ日が、葉のつらを、せせらぐ水面みなもを、張り出した木の根を、青年の白い頬を柔らかく彩っている。


晴れてはいるもののすっきりしない空気だ。この時期に珍しい空気ではないが、もうすぐ雨が降るのかもしれないと思った。


瑞垣は、およそ機能的ではない、袂が長くゆったりとした装束を身に付けている。旧い形の礼服である。普段の生活では着る機会など無く、ましてやこれからまさに成人になろうとしている彼に、着慣れぬ晴れ着は身体の緊張を強いてくる。


儀式用の晴れ着で川に、それも山を少し入った処に来るなど不釣り合いも甚だしいのだが、懐古の情のほしいままに赴いてしまった。


この装束で思い出すのは祖父の事だった。無論、瑞垣の祖父も神官として王に仕えていたのだが、その頃にはまだ王宮からは離れた処に住んでいた筈であった。だから何の為か、祖父は既に分別のある姉兄きょうだいではなく幼い瑞垣のみを引き連れて王に謁見していた。小さな瑞垣はそれを若干疑問に思ったが、必ずや解決せねばならない火急の問題とはしなかった。


先代の王と祖父は懇意だった。王が私の生活をしている紅梅殿で、先王と祖父とが、或いは他の人を交えて笑い合っているのを見かけた事は何度もある。故に、瑞垣は先王からも、祖父が実の孫にするように可愛がられた記憶が朧気ながらある。そして、記憶の中の、先王と談笑している祖父はいつだってこの堅苦しい装束を身に付けていた。


いま思えば畏れ多くて身が縮む思いがすることであるが、先王は紅梅殿に幼い瑞垣を上げてくれた。そして、恐らくは自分と同じように連れて来られたらしい少年と遊んだり、先王や祖父、年長者のゆったりとした口調に紡がれる、時に英雄的で、時に残酷とも思える昔話や神話を聞いたりしたものだった。


御所の北にね、川が流れているだろう、あの川から私たちは始まったのだよ、と、ある時先王は言った。優しさに満ちた声だった。瑞垣は祖父の隣に坐っていた。先王は睛の前の御簾みすの、そのまた向こうの帳の中で微笑んでいるのだろうと推察された。祖父も、そして、その時その場にいた初老の男性も鷹揚に頷いていた。当時は何者だかわからなかったが、いま考えてみると、國史や神話に明るかった彼は、祖父と同じように神官か、國史撰修の役人だったのかもしれない。


苔蒸した岩は瀬を分かち、とめどなくぶつかり来る水を白ませる。


辿った事はないが、この細流は下っていけば幾つかの河川と合流し、遂には海という茫漠たる一面の水の國になってしまうらしい。瑞垣は海たるものを見た事がなかった。どのようなものなのかという知識はあるのだが、大量の水が溜まっている地理といえば川や大きな湖沼しか見た事のない瑞垣にとって、見渡す限りの水が広がる光景など想像もつかなかった。そして、知る必要も無いと思ってそれ以上特に追求したことも無い。


川は穏やかに光を照り返す。きぬた打ちされた着物の艶を思わせた。川はいつかは自分が海という名のものになる事を知っているのだろうか。


水清さやみ──、」

つと歌が零れた時、傍で小枝さえだを踏みしだく音がした。


振り向くと、栗毛の髪の青年が川の畔にぼうと佇んでいた。視線がかち合ったが、何処か意志の読み取れない表情をしている。自分と同じように袖の長い着物を身に付けている。その姿を認め、忽ちに旧懐の清浄な念は薄れてしまう。何故礼服姿の彼がこんな処にいるのか、という疑念よりも先行して反感が主張してきた。


「瑞垣殿、」

「あんたも今年桔梗の儀だったんだな。」


自分の名を喚んだ玉藻の聲を遮る。


「飼い犬の奴は連れてないのかい。」

「夏草は来年成人です。」

「そうかい、そりゃあよかった。あんたらが同時に王宮に入ったら堪ったもんじゃあない。」


以前瑞垣と話した際に瑞垣の性格を諒解した玉藻は、皮肉を事も無げに聞き流して歩み寄ってくる。瑞垣は冷ややかに青年を見つめ返した。


「川を眺めてると、落ち着きますよね。」

「は?」

思わず間抜けな顔を玉藻に向けてしまった。

三白眼気味の涼やかな眼が丸くなる。


先刻さっき歌ってたの、人間誕生の神話の歌ですよね。」


瑞垣は頬を歪ませた。

聞かれていたとは思わなかった。

独りでもの思いに耽り、あまつさえ古歌に自分の心を重ねて詠めている姿を目撃されていたとは傍ら痛い。


「……隠れて俺の事窺ってたのか、」

本気でそう思っているわけではない。厭味の出来損ないを決まり悪そうに吐くしかなかった。


「まさか。式が始まる迄少し気分を落ち着けようと此処へ来てみたら瑞垣殿を見かけたんです。」

思った通りの、新鮮味も面白味も無い返答だ。そして、それは瑞垣自身の現状の理由にもその儘当て嵌る。


「綺麗な川から人間が生まれたり、川を見て巣辺すべが永遠の繁栄を祈ったりしたっていうのもわかりますよね。」

川を眺める玉藻の横顔を見遣る。東雲しののめ色のふくらかな脣が緑色の景色を縫い取っている。


玉藻の言葉には瑞垣も同意見だった。


燃え上がっていた恋心に秋風が吹き込み、盛りの菖蒲あやめ杜若かきつばたも褪せ、安國やすくにが戰によって烏有に帰す。人間じんかん目紛めまぐるしい変化へんげに無常を歎き、そして、毎年同じ時季に花を香らせ、争いに動じぬ自然に悠久を思うのは、どうやら脈脈と受け継がれてきたこの國の者の気質であるらしい。瑞垣もいま、それをしっかりと感じた。


「剣に付いた蝦那亥がだいの血をこの川ですすいだって伝えられてますよね。蝦那亥の棲家っていうのも、おそらくこの山だって。」

「それで、生まれたのが最初の人間、」

片朱糸かたあけのいと。」

「へぇ。ちゃんと勉強してるんだな。」

「片朱糸が人間と王家の始まりですから。」


──あの川から私達は始まったのだよ。

先王が記憶の中から語りかけてくる。


先王や祖父の話を聴いて、瑞垣はその様を頭に思い描いた。

日光を受けて白く見える程に輝く穏やかな流れに、細い朱が幾筋とたなびきあゆく。まるで、婚礼で姫が身に付ける豪奢な朱いのように。だから初めての人間は「朱い糸」の名を持つのだ。


「颱風一過の事だって言われてます。」

意味のわからなかった瑞垣が、何が、と問う。


「片朱糸が生まれたのが。蝦那亥って、暴風雨を齎す悪神でしょう。蝦那亥を倒して平和が訪れたって、つまりは颱風一過の事だって考えられてるんです。」

「なるほど、辻褄が合うな。」


颱風は空気中につたよう塵を連れ去っていく。だから颱風が去った後は空気が澄みわたり、清清しいまでの晴天にあずかる。


蝦那亥が齎したのが颱風ならば、人間の誕生はいまよりももう少し暑いくらいの出来事だったのだろう。ならば、水面みなもが鏡のように見える程に強く光を照り返す印象は間違いではなかったのかもしれない。


「だから屹度、片朱糸が生まれた日は夕陽も凄く綺麗だったんだと思います。」

「そうか、」


その時の夕焼けとはどのようだったのだろう。瑞垣はまた想像してみる。

都の西の方に聳える山の向こうへ、太陽は沈んでいったに違いない。


空は烈火の如く朱い。太陽を自身の後ろに匿った山は、自らを屹立する影となし、空を切り取っている。


──朱だ。


それを見た巣辺の、愛之子めのこの感歎たるや、四肢から腹からみなぎった事だろう。

朱を名に持つ我が子の誕生に際して、燃える空に恍惚としたのはこれ必然と、自らの子孫と國の繁栄を硬く確信するに至ったに違いない。


「水清み──、」

今度口遊んだのは玉藻だった。


「水清み、せせらぐ瀬ごと、る時の、よろづよまでに、長らへよかし」

ゆっくりと、句毎を慈しむように区切って諳んずる。


能天気な奴だな、と瑞垣は思う。

王家の血を引き、憧憬や嫉妬の念こそ向けられはすれ、白眼視などされた事のない坊ちゃんだ。屹度、桔梗の儀を直前に控えて、その古歌に託された國家の泰平と栄耀を自分の務めと奮いたっているのだ。それができるのは、未来に対して大きな希望を持っている人間だ。


瑞垣は、父にかけられた言葉を思い出す。

──この國はお前にかかってる。


自分は祖父や先王や父に期待されている。

七光りで高位に就ける坊ちゃんとは違うのだ。


「……水が綺麗なので、穏やかに行く流れのように、平和な治世が永遠に続いてほしい。」

そうなればよいと思う。

だが、一つの歌に乗せる瑞垣の願いは、玉藻程明るいものではない。


神祇一族がこれからも王に重用され栄えてほしいと、そう思うのだ。


瑞垣も神官とは言え、高位官人の一族だ。「家」というものをわきまえている。父が自分に向ける叱咤激励の言葉は、純粋に、良い國を作る為に王を支えられる者になれという意味も勿論だが、屋敷に大輪の花を飾れという意味も多分にある。だから、父が瑞垣に「姉や兄よりも素質がある」と言うのは、褒め言葉であると同時に圧力でもあるのだ。それだけ自分には責任がある。


「竹の花──、」

隣の青年が洩らした言葉にはっとする。

彼の中でどのような思案があり、その単語が出てきたのかは量りかねた。

何処かで笹の葉が不気味にざわついた気がした。


「平和な世の中が続いてほしいですし、私は次期國書頭としてそれに努めなければいけないと思います。」

「……そうかい。」

「私、竹に花が咲く事も知らなかったんですが、父は知っていました。古い文献で、一件だけ見た事があるらしいです、」


僅かに俯く玉藻の視線は虚空を彷徨う。

水面の光は、彼の頬に波状の模様を転写している。


「それが、あの菅乃根の叛乱の予兆だって書かれてるそうです、」

瑞垣は驚きはしなかった。

腹の奥底がじわりと熱くなって、四肢を巡る血が重くなった気がした。


今年の卜占の後、菅乃根の叛乱が起きた時も竹の花の歳と天読みされたらしいと父から聞かされた。神社かむやしろの沿革が記された縁起に記載があるらしい。


後世の人間が歴史的事実の継承に際して文学的な興趣を添えた故の創作であるか、若しくは全くの偶然の一致ではないかと瑞垣は思う。都人みやこびとというのは何でもないような事にも心を動かされる「風流心」を崇拝するばかりに、全く以て因果の無い物事まで強ちに結び付けて、やれ世の末だ無常だと悲嘆するのが趣味の俗物達ではないか。


それでも父の態度が、一蹴する事をよしとしない。父の険しい顔と、責任を自覚させる言葉とが瑞垣を苛む。本当に大凶事が起こるのかもしれぬ、との念が、自身の体内で蠢くのだ。


「瑞垣殿は、竹の花の年に成人する事に不安は無いんですか、」


──不安はある。

けれども、父がお前なら國を救えると言ってくれるから、乗り越えられると、乗り越えなければならぬと奮い立つ。

救える力のある者が力を行使しないのは罪である──父の低い聲が、胸の内の不安を詰る。


「──弱気になってたら、隙を衝かれちまう。大凶事の予兆なら、強く構えてないと、それこそつけ込まれる。」

言ってから、自分がかしたのは憂懼ゆうくを誤魔化す為の気障きざでしかない事に気づいて苦苦しくなる。


それが玉藻に知られてはいないかと思うと、羞恥と焦りとがい交ぜになり、瑞垣の嫌な部分を刺戟する。

「未来の國書頭ともあろう奴が、とんだ為体ていたらくだな、」


玉藻の緑がかった深いくり色の睛が自分を見ている。怒りも哀しみも読み取れなかった。何となくいたたまれなくなった。


「俺はもう行く。」

「瑞垣殿、」

「儀式で使う桔梗を摘みに行かなきゃならんからね。またな。」


青年は何か言いたげだったが、無視して川を後にした。

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