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沈黙者の唄  作者: 小林 豊
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低く刷いたような雲に薄藤が射し込んでいる。見廻り当番の夜から五日後の夕べ、瑞垣は父に呼ばれた。格子の下りた身舎みやの前の大床に跪座し、参上を叙す。一拍空き、中から父の聲が入室を促した。


この時間一日の勤めは終えている。ならば父は神祇頭としてではなく、父として自分を喚び出したに違いなかった。父から直直に喚び出されるのは久しぶりの事で、すまいとしても緊張はなりを潜めなかった。


父は社会的な地位や家庭での立場を笠に着て積極的に周囲に欽仰きんぎょうを求める人間ではない事はわかっている。が、父が立派な役人であり、息子や娘に甘い人間でない事も同時にわかっている。瑞垣の潜在意識が彼に自然と背筋を正させる。

「失礼します。父上、瑞垣です。」


墨の匂いがした。父は文机ふづくえに向かっていた手を止め、瑞垣の前に胡座をかいた。瑞垣もそれに倣う。碁盤の目状に板の組まれた格子は、涼やかな風を殿中に運んでくる。

「話とは何でしょう。」


父はうむ、と置いてから話し出した。

「お前も今年で成人だ。もうすぐ成人の儀もある。それがどういう意味か、勿論わかってるな。」

「はい。」

父の口調は厳かだった。


成人するとは、大人になるとは、一人前の人間になるとはどういう意味か。それは王を支え政をたすけるに足る人物になるという事に他ならない。そんな事は瑞垣に限らず、他の官人やその子息息女にとっても当然の意識だった。喜ばしくもあり、任が課せられる重みを実感する事でもある。


息子の意識を確認して、父は満足気に頷いた。瑞垣が産まれた時から見てきた可愛さもあるが、よく育ってくれたと思う。

「瑞垣、お前もじきにこの國を支える事になる。知っての通り、今年は竹の花の歳だ。」


瑞垣は胃の辺りが脈打つのを感じた。

その言葉は、いま御所中に不安と焦燥という見えない黑い霧を生じさせている元凶だった。


瑞垣を含め、多くの人間は竹に花が咲く事すら知らなかったから、聞いただけでも、何か得体の知れぬものに触れてしまったようなそら恐ろしい気持ちがしていた。それが見る者に悦楽をもたらす類の花実でない事だけは明白だった。想像するに、黑百合のような花なのかもしれない。


「竹の花が咲くのは、國家転覆の前兆と伝えられている……。直ぐに手は打ったが、充分ではあるまい、」


瑞垣は真剣に父の言葉を聴いている。

父の言う対策が、姉の婚嫁である事は言わずもがなだった。


天読みをして直ぐ、まず父が神祇頭として為した事は王家の保護だった。

神の加護をより強力なものとする為、王家と事実上の親類関係を結んだのだ。葛葉も神官一族の長女として生まれ育ってきた以上、父が行う祈祷のしるしを王家へ流す媒介としては充分な素質と力量のある女性だった。これで王子と葛葉の間に御子が産まれれば王家と神祇との結び付きはより強固になる。が、今回は急の事だった為に葛葉を王子に嫁がせられただけでも最善の策であった。


更に言えば、彼女の片割れの弟である天彦あまひこも、卜占以降毎日都全体に結界を張る祈祷をしている。


──猫も杓子も、何も知らないで憶測で人を非難しやがる。


父や姉兄きょうだいが正しい事をしているのはよくわかっているだけに、自分達一族を悪く言う噂に強い嫌悪感を抱いて仕様なかった。そんな者達を真実にくらい俗物達めと軽蔑する事で一族の正しさを己に言い聞かせても、矢張人間の好奇心と悪意の籠った蜚語ひごに晒されて気分のよい筈はなかった。父は放っておけと言うが、悔しさはある。


「それで、」

と、父は歌膝坐りに直った。瑞垣は背を伸ばした。


「重ねるが、お前も今年で成人だ。お前は神祇の血を引く者として、よく育ってくれた。葛葉も天彦もいまできる事に尽力してくれているが、安心はできない、」


瑞垣は何も言わない。

父の睛を見詰め返す。夕暮れ時の薄暗さの中で、父の睛は輪をかけて峻険に見えた。


「瑞垣、お前の神官としての器量は葛葉や天彦より遥かに上だろう。ともすると、私をも凌ぐかもしれん。」

膝の上でぐっと拳を握る。


「この國はお前にかかってる。」

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