物怪を封ずる事
遥かなる昔、山鳴くことありけり。暴風吹きて雨かきたれ降り、世界暗がりぬ。すさまじき雨風やむけはひも無かりければ、湖のごとく浸かりわたりにけり。植ゑけむ苗どもも水底に沈むもあり、汚き水に流さるるもありけり。人人己が行方のおぼつかなさに嘆き合ひ惑ひ合ひ、落としける泪の玉がためにいきほひまさりぬ。
夫婦あり。夫は斧毘羅が仍孫にて、名をば巣辺となむいひける。妻は愛之子となむいひける。愛之子、憂ひ惑ひて、「あはれ、稲はほとほと無くなりにけり。かくて雨風止まずば、さだめてみな餓ゑて死なぬべし。」と言へば、かなしがりて、「な泣きそ。さあらば、なほかさ増していよいよすべて流されぬべし。」とぞ。
雨風七日降りやまざりければ、巣辺、険しき貌にて言ふやう、「山に蝦那亥なる物怪棲むと云ひ、その様、二つの顔と四つの腕をぞ持つなる。顔は猩猩に似たりとて醜く、牙剥き出し吼ゆる声、大地揺るがして響くと云ふ。四つなる腕のふたつに、大きなる扇の鉄にて成る持て、ふたつに蜥蜴の角生ゆるを摑めりと聞く。ひとたび扇振らば暴風起こりて、其のほど木木薙ぎ、海川逆巻かせ、蜥蜴の眸光らばただちに暗き雲立ち込めて雨降ると云ふ。この霖雨、さだめて蝦那亥の仕業にあなるべし。」と。愛之子「あなすご。さばかりおぞましきものありや。」とわななきわななき言へば、「な憂ひそ。これが必ず蝦那亥ぞ討ち果たしてむ。」と言ひて、髪結ひ、護法の首飾り、剣を設けそむ。
山に至れば、木木萎れ葉をはたはたと叩く音の激しきことこの上なし。雨も斜に頬を叩くこと矢のごとければ、つやつや目も開くべからず。いかでか洞に潜みゐて雨風免れぬ。いかで討たむかと思案しつつ洞が奥へ進み行けば、岩が間より甘きにほひ漂ひこれり。はてと思ひて指にて探りたれば、酒にこそあるなりけれ。さては猿酒にあなりと思ひけり。巣辺其れを掻きて土器に結びて、洞が口に措き奥へ潜み眠りけり。
しばしありてはたとおどろきぬれば、雨風の音にまじりて幽けく物語する声すなり。岩陰に隠れゐて垣間見れば、大きなる人のやうなるものの、左右に顔二つあり、腕四つあるがおり酒を飲めるめり。巣辺、あはと思ひて、耳そばだてつ。右なる顔、「暴風かきたれさせてはや七日経。人村は湖になりて沈みぬ。」と言へば、左なる顔、うち笑みて、「よきことなり。なほ三日のうちに、人村は悉く流され、大地開きけむ時の様に戻りぬべし。人間なる者ばら、実にめざましきものなり。姿猿のやうなりて、言ふところのもの驕れることかぎりなきこそ、いとどいまいましげにてうたてげなれ。」とぞ、いと醜き瞋恚の形相になりて言へば、「実にや実に。聞くところ、人間斧毘羅が眷属になむあなる。かれ性驕りたかぶりて痴なりければ、其の創るところのものどももかのごとくならむ。」と言ひつつ、酒を飲みつくせば、やがて酔ひて鼾臥しにけり。
巣辺、岩陰よりあらまし見聞きしけるが、怒にわななきて言ふやう、「すばらしき神なる、これが神祖辱め、人村流さむとするや赦しおくべき。必ずや討ちつべし。」と。かきたれ雨風がごとく鼾臥したる蝦那亥に近付きて、腰に据ゑたる剣抜きて、深々と寝入りたる蝦那亥が四つの腕をぞ切り落としてける。されども己が腕ども切られたりとも気取らでおどろかざれば、剣を喉に突き刺してぞ殺しける。やがて雨風弱まりゆきて、しばしありてやみてけり。
巣辺山降り、愛之子が許に帰りつ。愛之子、巣辺が容貌見ゆるより、いみじく感じて泣き、「よくぞ無事にて帰りつる。死なむと思ひて惑ひけれど、雨風弱まりて、つひにやみたれば、それがしけるなりと信じて待ちたり。」と言へば、「蝦那亥討ちはたしたれば、三日のうちに湖もはけなむ。もはや憂ひはあるまじ。」と言ひて抱きあへり。
三日の後に世界鎮みぬれば、川の水おだやかになるに、蝦那亥が血滌がむとす。畔に蹲りて手に水を結び飲む。ついで川に入りて、腰より剣をひやうと抜きて水にさらしたり。ただちに水赤く染み、細くたなびき揺かむを見、愛之子、「あは、朱き絹糸のたなびきたるやうなり。」と言へば、水底に影あらはれ、「何とかや。」とあやしがりあふを、人の形になりて片朱糸となんなりぬる。「蝦那亥が血を滌ぐより生まれしか。それ我らがめずらしき子にこそあるめれ。さだめて、悪しき物怪、魔のものを蹴、國を平らかに治む主となりぬべし。」とてことほぎて詠める。
水清みせせらぐ瀬ごと治る時のよろづよまでにながらへよかし
片朱糸、うちうなづきて、地上の主とぞなれりける。