第7話(再会の約束)
「どうかした?」
黙って宙を見つめるアレグイルを、彼女が不思議そうに見上げ、問いかけた。
アレグイルは目の前に寝転がっている彼女を見下ろす。
彼女は気付かないのだろう。二人の間には空間だけでなく時間の差があるかもしれないということに。
もし彼女のいる場所が二年後ならば。
彼女の語る内容が真実ならば。
そこに自分はいない。
それを彼女は知らない。
「モリーネ・ザイ・ツィウク」
彼女の名を口にした。
何か尋ねようというのではなく、唐突にアレグイルの口から出た。
それに驚いたのは、彼女ではなくアレグイルの方だった。
混乱している彼のそばで、彼女は不満そうに口をとがらせた。
「モリーって呼んでって言ったでしょ。そういう呼ばれ方は好きじゃないわ」
「どうしてだ?」
「だって、その呼び方、ツィウクの娘って感じがする」
どうやら、家の名では呼ばれたくないらしい。モリーと呼べとは、家の名で呼ぶなと言っているわけで。モリーネは彼女自身を見ろと主張しているのだ。
子供らしい主張をするものだと思ったが、それは彼の冷えていた感情を温かくほぐした。
「どうしたってモリーはツィウクの娘だろうに」
「そんなことはわかっています!」
本格的に頬を膨らませ、睨みつけてくる。迫力は欠片もない。ぽっちゃりとした白い頬が余計に際立ち、我儘さを露わにする。そんなことをして何になるのか。
だが、思ったより効果はあるらしいと気付いた。
知らずのうちにアレグイルは彼女の横で寛いでいるのだ。
彼女は、怪しげな侵入者であり、招かれざる者だというのに。下手な知人などよりも遥かに緊張を抱かせない。
これを相手に警戒心だの不審感などというものを持続させるのは最初から無理な事だったのだ。
これは、そういう存在らしい。
アレグイルは、膨らんだ白い頬に手を添えた。
睨んだままの彼女は動かない。頬を撫でる指には滑らかな感触が感じられた。
彼女の住む未来に自分がいないなら、どうしてここにこうして互いが存在しているのだろう。
そう疑問を抱きつつ、手に伝わる彼女の存在を消したいとは思わなかった。
「そうだっ。アレグイルにお願いがあるの」
頬を撫でられるにまかせていた彼女が口を開いた。頬を膨らませるのに疲れたのかもしれない。
「何だ」
「私の背中に何か書いてくれない? 私が自分では書けないような、そうね、何かの文字がいいわ」
「なぜ?」
「帰った後、夢じゃなかったってわかるようによ」
「背中では自分で見えないだろう」
「鏡で見ればいいのよ」
彼女はドレスのボタンをはずし始めた。
「ちょっと待て。別に背中でなくとも、手の甲でいいのではないか?」
「駄目よ。そんなとこじゃ、自分でできちゃうでしょ?」
「利き手の甲にすれば」
「駄目駄目。私は両手が器用に使えるから、どっちの手でも字が書けるわ」
「筆跡が違うだろう?」
彼女は彼の言葉など全く聞き入れようとせず、ベッドで寝そべったまま首後ろに手を回しごそごそと動く。背中にドレスのボタンがあるのだ。しかし彼女が外せたのは上二つほどでしかなかった。
その様子を見ていたアレグイルの頭の中には。
お前、本当に両手が器用なのか?という疑問が浮かんでいた。
じたばたした後、彼女は少しだけ肌と下着がのぞく背中を晒し、ほらほらと催促するようにアレグイルを見上げてきた。
その仕草に、本当に子供だなと苦笑する。
書けと言われても、この白く滑らかな背中にペン先を落とす気にはなれない。ペンを取りに行くのが面倒だということもあったが。
その背に手を滑らせれば、びくっと身体が揺れた。
ふっと彼が口元に笑いを浮かべたのが気に入らなかったのか、彼女は彼の膝をぴしっと叩いた。
「アレグイルっ。早くしてよ! これでも恥ずかしいんだからっ」
一応、声の大きさを抑えてはいたが、夜の室内にモリーネの声はよく響いた。
彼女はあわてて口を噤み手で口を覆ったが、その行動には意味がない。すでに室外にも彼女の声が聞こえただろうからだ。
さて、外の騎士達はどうするか。室内へと入るタイミングを伺っているところだろう。
アレグイルは彼女を見降ろした。
口を手で覆いじっと背中を向けて待っている。目が合うと、早くという意味か頷いてくる。そんな彼女に呆れはしたが、ちょっとした悪戯心が沸き起こった。
アレグイルは彼女の背に覆いかぶさるように上体を倒した。そのせいでベッドが揺れ、静かな室内に軋む音が響く。
細いうなじに唇を落とした。そこを強く吸い上げた。
「んっっ」
小さな悲鳴のような声があがった。それを無視して、彼はそのまま首筋から背中へと唇で辿っていく。
彼女の背中に緊張が走った。しかし、彼女は何も言わない。口を手で覆ったまま声を出さないように我慢しているらしい。
何度も唇で首筋や背中を感じ、所々に赤い鬱血を残していった。その度に起こる彼女の口から発せられる音と、しだいに赤みを帯びていく彼女の首や耳に気をよくしながら。
いくつかの跡を背中につけた後、ドレスのボタンをはめてやると、彼女は大きな息を吐いて仰向けに転がった。
そして耳まで赤く染め潤んだ瞳で彼を見上げてくる。
こちらの言う事を聞かない彼女へのちょっとした悪戯のつもりだったのだが。アレグイルは大きく息を吐いた。
その彼の両腕の下で、彼女の唇が動き、彼の名を呼んだ。
アレグイルは引かれるように彼女の唇へ上体を倒したが。
なんとか直前で、我に返った。
ここで目を閉じるんじゃないと無言の文句を並べながら、瞼を閉じた彼女の額に軽く唇を落とした。
アレグイルが上体を起こすと、彼女はゆっくり目を開けた。不満そうな表情を浮かべて。
アレグイルは立ち上がりベッドから離れた。
再び彼女に視線を戻すと、彼女は起き上がり石壁を見ていた。
「もう、帰らないと……」
「そうだな」
彼の答えに、モリーネは泣きそうに顔を歪めた。自分で言っておきながら、引き留められたかったらしい。
彼女を慰めるための言葉が口から出そうになるのをアレグイルは必死でとどめた。
うっかり、望むなら帰らなくてもいいと言いそうになったのだ。
一体何を考えているのか、と自らを叱咤する。
少し前まで、彼女は捕えようとしていた相手だというのに。
いつもの冷静さを欠いていることを自覚していても、平静に戻れるわけではなく。アレグイルは口元を歪めた。
「また、会えるわよね?」
「さあな」
「会うのっ! だから、忘れないで」
「ああ」
「アレグイル……」
「何だ?」
「……忘れないでよ。ね?」
「ああ」
「もし今回と同じ方法でここに来れなかったら、ハラディルフ王国に、貴方に会いに来るわ。ここはどこなの?」
「……それは、教えない」
「どうしてっ?」
「モリー」
「いいわよっ。貴方が教えてくれなくたって。私は自分で探すからっ。絶対に貴方を見つけてみせるんだから」
叫ぶようにそう言う彼女の目には涙が滲んでいた。
たった二度会っただけなのに、どうしてそこまで必死になっているのか。
だが、その涙をこらえようと悔しそうに唇を噛んでいる顔は、可愛いと思った。
「お前が十六になったら、連絡をしよう。覚えていれば、な」
「そんなのっ……」
「モリー」
「……何か方法はあるわ。家出するとか、ハラディルフ王国に留学すれば……」
「モリー」
言い聞かせるように名を呼ぶ。
彼女は何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。彼女にもわかっているのだ。世間知らずの貴族娘である彼女が自由に動けるはずがないことは。
「私が十六になったら、絶対に連絡して! 絶対よ! そうでないなら……そうでないなら、神殿にかけ込んでハラディルフ王国のアレグイルって人は酷い人なんだって言いふらすんだからねっ」
アレグイルは一瞬ぽかんと口をあけた。
あまりに稚拙な報復方法に笑いが込み上げる。
神殿で神様に愚痴を言う? 酷い人だと言いふらす?
その報復は、とても正しいことだと思えた。
「そうか。神殿か」
「笑ってるけどっ。女性の噂話は国を超えるんですからねっ! 貴方の評判はガタ落ちになるんだからっ」
「あぁ、もちろんだ。そうならないよう、努力を惜しまないつもりだ」
「わかってくれればいいのよ。ぜひ。そうして頂戴」
まだ不満そうな顔だったが、涙は引っ込んだらしい。
瞳も鼻の頭も赤くして、彼女は口を歪めて見上げている。スンっと鼻を啜りあげ、精一杯偉そうに振舞ってみせた。
そうして彼女は名残惜しげな顔をしつつ、通路の石壁へと歩いていく。
一度だけ振り返った彼女はじっと瞬きもせずアレグイルを見つめた。その目に彼の姿を焼き付けているようだった。
そして決意を秘めた瞳の彼女は、壁の中へと姿を消した。
彼女がいなかったときと同様の空間に戻った。五年前のあの時のように。
少しだけ残ったベッドの温もりだけが、彼女がここにいた証拠だった。
彼女が背中に何か書いて欲しいといった理由を実感する。すべてが幻であったかのようにかき消えた、今。
しかし、そこに証拠などなくとも、彼女はそこに存在した。
そして彼女は未来を語ったのだ。
二年以内に命を落とす可能性がある、と。
だが、それを前もって知っているなら、回避できるのではないか。
彼女がここへ来たのは、それを知らせるためだったのではないのか。
二年後の彼女に連絡しよう。神殿で妙な愚痴を神に向かって訴えられる前に。
アレグイルは、これからすべきことを考えはじめた。