第4話(演奏会)
毎日庭の散歩をかかさず続けるモリーネだったが、暗い部屋への手掛かりはまったくつかめない日々が続いていた。
そんなある日の夕べ。
兄ラフィールが招待されていた演奏会へモリーネも同行することになった。
演奏会といっても演奏家による演奏を聴くための催しではない。
独身貴族達が集う催しの一つであり、貴族子息や娘が趣味を披露する場だ。だから、演奏の質について期待してはいけない。
そこに集うことが重要なのであって、そういった趣味を持つことを理解していると表明するのが大切なのである。そこでどれほどの騒音に遭遇したとしても、顔を顰めることなく笑顔を保つ訓練場でもある。素晴らしい演奏に遭遇することも稀にはある、らしいとモリーネは聞いている。その事実に遭遇したことはまだない。
兄ラフィールは、こういった催しへの招待はひきもきらない。
ツィウク家はタラント国の名家であり、兄はその名家の跡取り息子だからだ。
モリーネは十六に満たないので、まだこのような場に招待されることはない。娘は通常十六歳になれば、正式に招待されるようになる。十六を過ぎると結婚できる年頃とみなされ、子供扱いではなくなるからだ。ちなみに男性は十九にならなければ大人扱いされない。
すでに二十を越えている兄ラフィールは昨年からあちらこちらから呼ばれるようになっていた。
なぜ子供扱いのモリーネがそんな場にいるのかというと、兄の強い要望のせいだった。
兄は、モテる。
名家の跡取り息子であり、笑顔もさわやかで人づきあいもよい。
娘を嫁がせたいと思う貴族家は大量にいた。
そのため、兄に群がる女性は凄まじく多く、兄がゆっくり相手を吟味する余裕は与えられないらしいのだ。
そのことに辟易した兄は、対策として妹を連れて参加するようになったのである。
少し早いがもうすぐ十六になるのだし、可愛い妹と一緒に楽しい催しに参加したいという兄の要望は、どこの貴族家の催しでも受け入れられた。
下手な娘や母親が近寄ってきても、妹の気分がすぐれないようだと妹をだしに兄は逃げることを得意としていた。
そんな兄を妹思いの優しい男性と評価するのだから、世の中おかしいとモリーネは思っている。
「今夜は誰の演奏なの? この前のお嬢様は聞くには騒音すぎる出来だったわよね」
「今夜は上級騒音の部類だ。どこかの坊っちゃんが手に入れた珍しい弦楽器を披露したいらしいからな」
「ならどうして参加したのよ」
モリーネは演奏会が行われる貴族家の屋敷の廊下を兄に連れられて歩いていた。
すでに何人もの招待客が廊下のあちこちで立ち話をしている。まだ演奏開始には時間があるらしい。
客達の横を通り、もっと多くの人が集まっていそうな奥の部屋へと向かう。
「かわいい妹のためじゃないか」
「嘘ばっかり」
「まあそう言うな。お前も少しは普通に喋れるようになっておかないと、困るだろう? だから協力してやっているんだぞ?」
いい兄だろう?と言わんばかりの笑顔をモリーネに向けて兄ラフィールはそう言った。
兄の言葉にモリーネは横目で睨んだ。ありがた迷惑なのよ、と。
モリーネはとても普通のちょっと生意気な小娘だったが、外では、人見知りしてしまう癖があった。親しい者となら問題ないのだが、知らない人の前では緊張してしまい、口数が極端に減る。特にモリーネが素敵だなと思う男性が相手だったりすると最悪で、返事をすることすらできなくなってしまうのだ。
モリーネが初恋に破れた原因も、それだった。
それはモリーネも自覚していることであり、直さなければと思っているのだけれど。そう思ってすぐに直るなら苦労はしない。
そんな妹を知っている兄に、親切心が無きにしも非ず。妹の人見知り癖を直す協力をとの思いはある。のだが、自分の都合のために妹を引っぱり出しているのには違いない。
いつもなら、兄の心遣いに感謝しつつここで気合いを入れるモリーネだが、今日は様子が違っていた。
おや?と兄は妹を見下ろした。
「そんなに心配してくれなくても大丈夫ですから」
モリーネは自信ありげに答えた。いつもと違い強気なモリーネだった。
口元には薄っすらと笑みを浮かべ顎を上げた顔は少々偉そうな態度であり、相当の自信をうかがわせた。
その自信の元は、あの不思議な出来事、暗闇の部屋で彼と難なく会話できたことにあった。
あの時、彼に対してドキドキしていたにも関わらず、初対面の男性である彼とは、兄と会話するようにスラスラと会話ができていた。言葉が出てこないなんて事態になることはなく、緊張しすぎて「はい」と「いいえ」すら返せないなんてことにもならず。
彼を思い浮かべると気分は高揚するけど、緊張とは違う。あの時も。見知らぬ男性だというのに。
その経験が、モリーネの自信になっていた。ドキドキする彼を相手にできたことが、他の男性相手にできないはずはない。同じように接すればいいのだから。
案外、簡単なことなのね。
ふふふっ。
モリーネは余裕の笑みを浮かべ、演奏会を前にすっかり克服した気分だった。
その数時間後。
帰りの馬車には重い空気が立ち込めていた。
「……大丈夫なんじゃなかったのか?」
黙りこくったモリーネにラフィールが話しかけた。
そう。ちっとも大丈夫ではなかった。
モリーネは、今夜も喋ることができなかったのだ。
「セイフィル殿下が来ているなんて……」
モリーネは悔しそうに呟いた。
セイフィル殿下は、今日も優しげな笑みを浮かべていた。その優雅な立ち姿が目に入った途端、モリーネの頭の中から音を発するという機能は消え去った。
今夜のモリーネは今までで一番最悪だった。
誰の前でも、始終笑顔を張り付け口は笑みを浮かべているものの、頷くことが出来ればいい方で。はい、いいえの返事すらも口を動かすだけで音にはならなかった。
兄の知り合いだという独身貴族の男性二人に紹介されたモリーネだったが。男性陣には、兄の後ろに隠れる非常に大人しい女性という印象しか与えなかった。声を発しない女性に対して、それくらいの印象ならまだましな方だろう。
馬鹿にしているという印象を持たれなかったのは、隣でモリーネの子供時代の失敗談を嬉々として語る兄のおかげだった。
だが、モリーネとしても、失敗談で盛り上られるのは微妙な気分であり。
自分の不甲斐なさも相まって、帰りのモリーネは不機嫌丸出しとなっていた。
「兄様も残念ね。美人がみんな殿下に行ってしまって」
一応、自分の失態からは目をそらすべく、モリーネは兄のことを話題にした。
どうやら兄には今夜お目当ての女性がいたようなのだが、女性はもれなく殿下に視線を注いでいたので接触できなかったのだ。
モリーネは喋れなかったけれど、そういう状況を把握することはできていた。
そんな妹に、兄は恨めしげな顔を向けたが、口に出したのはそれではなく。
「そんなことよりも、だ。ちっとも大丈夫じゃなかったじゃないか。このままでは、結婚しても旦那と満足に会話できないぞ」
「結婚したら、一緒に生活するんだし。さすがに旦那様とは話せるようになる、と思うわ」
やっぱり追求は避けられなかったかとモリーネは観念して答えた。その声は弱々しかった。自信喪失の極みにいるのだから、それはしかたがない。
これでも反省しているんだから、もう言わないでよと思っていた。
「話せるようになる頃には旦那と会話する機会がなくなっている可能性が高いぞ」
兄はありえそうな現実をモリーネに付きつけてきた。
モリーネも、それはもっともだと思う。
思うけれども、何も今言わなくてもいいよね、とも思う。
モリーネとしても今夜は自信があったし期待していただけに、落胆は大きかったのだ。激しく落ち込んでいる妹に、これ以上まだ傷を酷くしようとは冷たい兄だとモリーネは思った。
横に座る兄をじとっと睨みつける。そのモリーネに、兄はさらに言葉を続けた。
「だいたい、いい格好しようとしすぎるんだよ。だから、上手く喋ろうとして、結局何も喋れなくなるんだろう?」
「別に……格好つけてるつもりなんてないわ。緊張しちゃうんだから、仕方ないでしょ!」
「だから、な! 素直に自分を出せばいいって言ってるんだよ」
「やろうとしてるわよっ」
兄妹は不満を馬車いっぱいに充満させ、ぎゃあぎゃあ喚きながら帰宅することとなった。
「お前も、普通にしていれば可愛いんだから」
馬車を降りる時、兄は妹に手を貸しながらそう声をかけた。
いつもより落ち込んでいる妹を慰めているつもりらしい。
兄はモリーネの初恋がセイフィル殿下だということも知っていたし、妹が殿下の眼中にないことも知っているのだ。
「兄様のかわいいは、全然あてにならない」
モリーネはぶすっとふくれっ面のままそう返した。
かわいいなんて言ってくれるのは兄と両親くらいだとは、彼女にもよくわかっているのだ。
母と兄は美形の部類になるが、父とモリーネは標準に入れてもらえるかどうかの瀬戸際な部類だ。自分が愛嬌で勝負するしかないことは十分に自覚していた。
だからこそ、会話ができないということがどれほど致命傷になるか。
わかっているだけに厳しい現実だった。
名家の娘だから結婚相手に困ることはないのだが、そこで一人さびしく過ごすことになるかどうかは別問題だ。
モリーネはしょんぼりと肩を落とした。
「知らない人と喋る機会が少なかったから慣れなくて緊張してしまうだけだよ。そのうち慣れるさ」
兄ラフィールは妹の背をぽんぽんと軽く叩いた。
それに応じて屋敷へと歩きだしながら、モリーネはつとめて明るい口調で兄に話しかけた。
「ま、そのうちね。今夜の騒音会は、悪くなかったわ。殿下のお姿も拝見できたし。でも次は、耳に優しい催しがいいわ」
「そうだな。あれはちょっと、耳に痛すぎたな。次は目で楽しむ系にして見るか」
「目が腐らないのを希望」
「行ってみなければわからないという楽しみは、やめられないよ」
「変な楽しみ」
兄と妹は軽口を叩きながら屋敷へと戻った。