第32話(弟)
アレグイルはモリーネの身体をアンデの領主館に運び込んだ。
寝静まっていた館内が一斉に目覚め、慌ただしくなる。
この街では、彼女はとても大事にされているようだった。
モリーネの濡れた服を脱がせるのを手伝った時、アレグイルははじめて彼女の胸に残る傷を目にした。白い肌に大きく横に直線を描くその傷跡は、あまりに痛々しく息を飲んだ。
彼女が斬られた場面を目にしていたというのに、これほどの傷跡が残っていることを知らなかった。思い至らなかった。少し考えればわかることだというのに。
彼女が、タラントの舞踏会で口にした言葉の意味が変わる。
ハラディルフのドレスは着られない。
そう言った彼女は。
派手なドレスが苦手なのだと思っていた。タラントの女性達はみな清楚なドレスを好むようだったから、彼女もそうなのだと思ったのだ。
そうではなく。
胸元が大きく開いたハラディルフ風のドレスでは、彼女の傷が見えてしまうからなのだ。
そんな簡単なことにも気付かなかったとは。
忙しく動き回るアンデの女性達に、アレグイルはモリーネの眠るベッドのそばから押しやられ、部屋を追い出された。
「オルレイゲン殿下は部屋に閉じ込めて見張っておりますが、すでに何度か脱走を図っております。如何いたしますか?」
アレグイルはオルレイゲンのいる部屋へと向かった。
オルレイゲンは部屋の椅子に動けないように縛り付けられていたが、ドアが開き現れたアレグイルに嘲笑を浴びせる。まるで自分の方が優位であるかのような態度だ。
アレグイルはそんな彼に淡々と事実を告げた。
「オルレイゲン。お前が私を暗殺しようとしていたという証拠はあがっている。元王妃がお前を庇おうとしていたことも」
「私は貴方を殺そうとしたんじゃないよ。あなたは死ぬべきだった、それだけだ。私が王ユェイルンの生まれ変わりだからね。あなたはもういらないんだ」
「ユェイルンの生まれ変わりなどと……。そんなことを言って何になる? 今は私が王太子だ。お前は王太子になりたかったのか? 王位を継ぎたかったのか?」
「わからない人だな。王位なんかいらないよ。勝手に私のもとにくるべき権利だけどね。王ユェイルンの生まれ変わりの私だからこそ、私が仔犬の王妃を手にするべきなんだ。あなたではなく」
オルレイゲンは明るい笑顔だったが、彼の言葉はアレグイルには奇妙に歪んでいるように聞こえた。
彼が固執しているのは、王ユェイルンの生まれ変わりだという主張。だから、仔犬の王妃に執着すると?
「お前がユェイルンなら、なぜ仔犬の王妃はお前の前に現れない? それこそが、お前が王ユェイルンではないという証拠ではないのか?」
「仔犬の王妃が忘れているだけだ。私の手に入れば、私の望みを叶えるはずだ!」
「お前の望みとは、何だ?」
「この世界を手に入れることだよ。私はこの国などという小さなものを望んでいるんじゃない。仔犬の王妃を、緑の石を手にすれば、強大な力が手に入る。王ユェイルンの時代が再びやってくるんだ。あなたは、そんなことも知らないんだろう? 私は過去の記憶を持っているから、あなたが知らないことも知っているんだよ。あははははっ」
オルレイゲンは高らかに笑った。夜の狂気を感じさせる笑い声だった。
アレグイルは眉間に深い皺をよせ、部屋を出た。いつの間に彼はあんなことを考えるようになっていたのだろう。世界を手にする、などと。彼の愚かな妄想に顔を歪めた。
緑の石。オルレイゲンはそう言った。
近隣国の伝説に、赤い石を手にすれば永遠の命と最強の力が手に入るという話がある。オルレイゲンは、仔犬の王妃が緑の光であることと、その話とを混同してしまっているらしい。
だから、仔犬の王妃を手に入れようとしていたのか。王太子暗殺もそれを手に入れる為だけの行動で。
自由に暮らし遊ぶ第二王子という身分の彼は、一体何が不満だったと言うのだろうか。王ユェイルンの生まれ変わりだと自分を信じさせて。第二王子のオルレイゲンでは、駄目だったのか。
その胸中は自分には測れそうもない。
アレグイルは頭を上げ、部屋の外の見張りに命じた。
「眠らせて逃げないよう縛り目に付かぬよう馬車に乗せておけ。急ぎ王都へ戻る」
「はい」
モリーネの目覚めを待つことなく、アレグイルは夜が開ける前にアンデを発った。
「モリーネお嬢様、お目覚めですか?」
モリーネがうっすらと目を開けると、心配そうにテラが覗きこんでいる。
どうして?
ぼんやりした頭でモリーネは頷いた。
ほうっと安堵の溜め息をついているのは、彼女だけではなく、数人の女性達がモリーネを取り囲んでいた。
「どうしたの? テラ?」
モリーネがゆっくりと頭を動かし、視界にファシルが入った時、ようやく昨夜のことを思い出した。はっと身を起こし。
「昨日、オルレイゲン殿下がっ!」
急に身体を動かしたせいで、モリーネはぐらりと目眩に襲われベッドに突っ伏した。
「モリーネお嬢様! 急に動いてはいけません。まだお疲れなのですから」
テラに身体を支えてもらい、モリーネは姿勢をなおしたけれど。頭はガンガンして気持ち悪い。身体は重すぎて腕も動かしたくない状態だった。
モリーネは、オルレイゲンに抑えつけられ溺れそうになっていたのを思い出した。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。ちょっと気持ち悪いけど」
「今日はゆっくりお休みください。すぐに良くなります」
「うん。ごめんね、世話をかけて」
「いいえ。モリーネお嬢様、昨夜のことを覚えていらっしゃいますか?」
「えぇ、覚えているわ」
「お休み前に教えていただきたいことがあるのですが」
「何を?」
「オルレイゲン殿下は捕えられ、王都へ連れていかれました。仔犬様は、どうなってしまわれたのでしょうか?」
「仔犬? あれ、ね。あれは、湖で寝てるわ。呑気なものよね。オルレイゲン殿下が嫌いなんですって」
「そう。そうでございますか。モリーネお嬢様は、仔犬様をお守りくださったのですね」
「守ってないわ。あの仔犬、湖底でボケた顔で寝てるし。助けてくれないし。勝手に私を呼んでおいて、ほんとに我儘過ぎるわっ、ううっ」
仔犬に対して怒りが沸き起こり、つい起き上がろうとしてモリーネは吐き気が込み上げた。
「モリーネお嬢様っ、大変! 盥を!」
「はいっ」
モリーネはムカムカした気分のままベッドに沈んだ。今は何も言うまい、そうして大人しく目を閉じた。
次に機会があったら、絶対にあの仔犬を捕まえてオルレイゲンに渡してやると恨みの晴らし方を考えながら。
王都へ戻ったアレグイルはすぐにでもアンデへ向かいたかったが、執務に追われ自由にはならなかった。
オルレイゲンは北の領地にひっそりと住まわせることになった。王ユェイルンの生まれ変わりと言う彼は、それを受け入れた。必ず、この国は自分を必要とする日が来るだろう、という言葉を残して。王子ユェイルンが幽閉され、その後、王となるために王都へ呼び戻されたことを自身に重ねようとしているらしく。
北の領地へと向かうオルレイゲンを、アレグイルは苦い思いで見送った。弟は、いつの間に、こんな風になってしまっていたのだろうかと。
弟と積極的に関わろうとしなかったことが、こういう結果になってしまったのだろうか。血を分けた兄弟だというのに。
オルレイゲンは他にも厄介な事を残していた。彼が仔犬の王妃はアンデの街にあると告げたせいだ。
そのために、仔犬の王妃を祭る神殿はアンデ領まで出向いて調査しようとした。
だが、今、神殿には仔犬の王妃を見ることができる者はいない。犬に判断させていたので、あの街でもその方法を取ったようだが。その方法で街中を調べて回っても見つかるはずがない。おそらくは湖にあるのだろうから。
街人に仔犬の王妃のいる場所を尋ねると、決まって皆こういうのだという。
アンデの街にいる、と。
神殿から王太子宮へ戻すべきだとの嘆願が王へ出された。王はアンデの領主に、仔犬の王妃を所持しているのなら即刻王宮へ戻すようにと通告したが。
アンデの街に仔犬の王妃がいると思うとしながらも、仔犬の王妃を見ることも触れることもできないので、どこにいるかわからず対処できない旨を領主は王への返事にしたためた。
王と神殿そしてアンデの領主とで何度もやり取りが交わされる。アレグイルは、そこにいつモリーネの名が出はしないかと思いながら、黙って知らぬ存ぜぬを通していた。
そんな状況だったから、なおのことアレグイルはアンデに近付くことが出来なかった。
会いに行って、巻き込んだことを詫びて、出来ることはなんでもしてやりたいと思った。だが。タラントには本人がいるため、帰してやることもできず、王都へ呼ぶこともできず。
バルデスを通じて、モリーネと密かに手紙をやり取りすることくらいだった。その手紙の内容も、身体はもう治ったのかとか、弟がその街を訪れることはもうないだろうとか、誰が読んでも大丈夫な内容しか書くことはできなかった。
それに対してモリーネからの返事は、なかなか面白く書かれてあり、アレグイルは届くのを心待ちにしていた。
あの可愛くない仔犬は、貴方の弟が嫌いだと言ってたから、今度彼が来たらいつでも引き渡すわ、仔犬が嫌がって暴れたら私は気が晴れると思う、とか。みんなへちゃ顔仔犬が可愛いっていうけど、誤解し過ぎていて、とか。そのほか、今日は誰それの家でこんなものをもらって驚いたなどという日常の出来事がつづられており。ツィウク家から離れた場所でありながら楽しそうに過ごす彼女の様子が手に取れるようだった。
「アレグイル。お待ちかねのものだぞ」
王太子宮の執務室までやってきたバルデスは紙をひらひらとアレグイルの前で振って見せた。
アレグイルがそれに手を伸ばそうとすると、バルデスは手紙を引っ込めた。
「なあ、アレグイル。もうすぐ、彼女に時間が追いつくんだろう? そうしたら、彼女は、どうするんだ? 国へ帰すのか?」
もうすぐ、ツィウク領のモリーネが姿を消す。その時、どうするかを実は話し合ってはいなかった。
手紙のやり取りでは、詳しいことが書けないということもあったが、モリーネがその話題に答えようとしなかったからだ。
「わからない。帰るなら国境を通過する手配をすると何度も伝えたのだが……」
「何度も伝えた? もしかして彼女に故郷へ帰れと、手紙に書いてたのか?」
「そんなことを書くわけないだろう。彼女が帰りたいと望むなら、だ」
「その書き方が問題なんだよ。その回数の倍は、ここにいて欲しいと書いたんだろうな?」
「そんなことを、書けるわけがないだろう。ここにいろと命令しているようなものじゃないか」
「何のために俺がこっそり手紙を仲介してやってると思ってるんだ? 本音を書かないと意味がないだろう?」
「バルデスを介しても、私が王太子であることには変わりがない」
「……お前、馬鹿、だな? ああ、馬鹿なんだな! あり得ないほど馬鹿なんだな! ああっ、信じられんっ。この二カ月、何をやっていたんだ! 馬鹿野郎! 愛の言葉の一つや二つ、百や二百、書かなかったのかっ」
「……書いて、ない」
「うおーーーっ、信じられん。アレグイル、お前、お前、お前っ、女を口説いたことがないんだなっ!」
「……………………ない」
「そんなだから、他の男が好きな女ばかり妃にしてるんだよ」
「……」
アレグイルは全く反論することができなかった。王太子の妃として奥宮にいる女性達は入れ替わってはいるものの以前となんら変わることがなく。現妃達もみな、弟オルレイゲンもしくは金はないが顔のいい貴族男に惚れている女ばかりであることは調査で明らかとなっていた。みな妃として選ぶ前には、なぜかその事実が判明しないという現実。それが全てを物語っていた。
アレグイルが女性に疎いことが王宮での周知の事実となりつつあるのだとは、バルデスも言えずにいた。王太子という身分のアレグイルを不憫にも思うが、彼が非常に恵まれた状況にいるのも事実であり、バルデスは下手な忠告はしないつもりだった。
モリーネ・ザイ・ツィウク嬢に対しては他の女性とは異なり、アレグイルが彼なりに悩んでいたのを知っているので、うまくいけばいいと思っていた。彼女がアンデに現れたと知った時から、彼は険しい目つきに鋭さが増し、活き活きとして睨みの凄さを増しており、てっきりうまくいっているものと思っていた。
それが。ただ、手紙のやりとりをしてただけ、とは。愛の言葉も書かずに、帰るなら手配する、だと? バルデスは、彼女に送る手紙の内容を確認しておけばよかったと今更ながらに思った。おそらくは、事務的な内容しか書いてはいなかったのだろう。この様子では。少しくらい気持ちが手紙の文章に滲み出ていれば、それを彼女が読み取ってくれていればいいのだが。それは、限りなく不可能に近い所業だとわかっていた。
バルデスは、バンッ、と勢い付けて手紙を机に叩きつけた。
アレグイルはいそいそとその手紙に手を伸ばした。
バルデスは人の話を聞いていたか?と睨みつけたが、あっさり無視して手紙を広げる。そして、読み進めるうちにアレグイルの顔が強張っていった。
「どうした? 彼女に何かあったのか?」
バルデスの問いに、アレグイルがはっと顔を上げたが、再び目を落とした。何度も読み返した後、ぼそりと呟いた。
「アンデの男性と結婚する、らしい」




