第29話(タラント)
ハラディルフから戻ったモリーネはツィウク家でのんびりと過ごしていた。あれから順調に傷は癒え、以前と変わらぬ生活を取り戻そうとしている。
しかし、以前とは変わってしまった事もあった。引く手数多だったモリーネの嫁ぎ先候補が激減してしまったのだ。
モリーネが行方不明だった一年間はハラディルフ王国に遊学していたことになっている。が、噂というのは早いもので。タラントを離れていた間モリーネはハラディルフ王国の王太子暗殺に関わっていたとか、盗賊に攫われていたという悪い噂が広まっていた。
そのためモリーネはもう十七歳だというのに、ちっとも嫁ぎ先が見つかりそうになかった。モリーネとしては、どこにも嫁ぎたいとは思えないので、全く困ってはいない。けれど、母はそんな状況に溜息漏らすこともしばしばで、モリーネとしては申し訳ないような気持ちだった。
父や兄は、モリーネの適齢期が過ぎようとも、無理にモリーネを嫁がせるつもりはないらしい。今、すぐそばの敷地にモリーネのための家を建てている。そこで一生暮らせばいいというのだ。
父は多くを語らなかったが、ハラディルフ王国の王家からたんまりと贈り物が届けられているようなのだ。王太子の命を救ったために犠牲を払うこととなったモリーネへの感謝として。
父も兄も、それを拒みたくても、タラントの王からハラディルフとの関係を向上させたいからと言われれば無碍に拒絶することもできず、渋々受けとっているようだった。
兄ラフィールはその鬱憤をはらすかのように、モリーネのために以前にも増して財を使いまくっている。モリーネ名義の領地を購入したり、ツィウク家の庭に新しいモリーネの家を建てたり。それでもなお金財宝が送られ続け、減らないことに兄の鬱憤は増しているようでもあったが。
母は父や兄とは意見が違うらしく、なおもモリーネの結婚相手を捜そうとしていて。ちょっとだけ、家族団欒が険悪な雰囲気になることがある。
モリーネは、自分のことを心配してくれている家族に申し訳ないと思いながら。もう少しだけ、放っておいて欲しいと思っていた。結婚とか、将来のこととか。そのうち決めるから。
もう少し、今はしばらく、何も考えないでいたい。
そんなことを考えながらモリーネは何度も歩いた庭の小道を、今日もゆっくりと歩く。そして何も起こらないことに肩を落とし、すごすごと部屋へと戻った。
とぼとぼと歩くモリーネの後ろ姿を、侍女ミルダは心配そうに見守っていた。
モリーネがタラントへ戻って数か月が過ぎた頃。
タラントの王宮で王太子の新しい妃を披露するパーティが開催されることになった。
モリーネは貴族家で行われるパーティや催しには参加しなくなっていたが、今回は王宮で行われる催しのため久々に華やかな場へ出ることにした。
「大丈夫か? 今から帰ってもかまわないんだよ?」
兄ラフィールは心配そうにモリーネに尋ねた。
彼等を乗せた馬車はもうすぐタラントの王宮に到着するというのに、今更である。ハラディルフから帰国して、兄は妹に対してすっかり過保護になってしまっていた。
「大丈夫よ、兄様。ちょっとだけ王太子殿下とセイフィル殿下のお姿を拝見するだけなんだから」
モリーネは軽い笑顔を返した。兄が心配しているのは、モリーネに向けた心ない貴族達の嫌みや嫉みだった。モリーネに対して風当たりが強くなっているのだ。彼女が適齢であることと、ハラディルフ王国との交渉成功によるツィウク家の功績が高く評価され、また、ツィウク家がかの国での流通経路を拡大し収入を飛躍的に増大させていることが大きい。
そのため、ツィウク家は嫉妬の的なのだ。その嫉妬がモリーネに向かうのは避けられないことだった。
モリーネとしてもいい気持ちはしないし、腹も立つけれど、直接害が及ばないものには流すだけの余裕があった。余裕というか、それほどの気力がわかないというか。
兄が心配するほど、貴族達の悪口雑言がモリーネを傷つけることはない。そして、もしモリーネが誰かにわざと躓かされようものなら、兄がこれ幸いと攻撃に移る。鬱憤ばらしに家を再起不能寸前まで追い込むことは朝飯前だった。
そんな鬱屈を溜めているらしい兄を心配しつつ、モリーネは笑顔で王宮のパーティ会場へと移動した。
モリーネの父と母は王太子の結婚の儀式に参列していたため、先に来ているはずなのだけれど、まだ姿は見てない。これほど人が多いと、簡単には遭遇しない。モリーネと一緒に来た兄ラフィールは、あちこちの貴族達と挨拶を交わすために会場内のどこかを彷徨っている。
そして一人残ったモリーネは会場の隅で華やかな様子を眺めていた。
タラント王宮のパーティは久しぶりで、その華やかさにモリーネも少しだけ気分が軽くなる。タラントに戻ってからというもの、どうにも気の抜けた状態で。モリーネとしても、このままではいけないと思っているのだが。なかなか脱せずにいるのだ。
会場にいる人からの嘲笑を避けるように、モリーネは視線を落とした。
「モリーネ・ザイ・ツィウク」
低いその声を耳にしたモリーネは、息を飲んだ。
それは、こんなところで、聞けるはずのない人の、声だった。
モリーネが恐る恐る声の方を向くと、アレグイルがそこに立っていた。煌びやかな王太子にふさわしい衣装に身を包んだ彼の姿に圧倒される。
険しい顔は、以前よりも恐さが増したかもしれない。相変わらずきつく睨みつけてくる細い瞳に、モリーネの胸が高鳴った。
「アレグ……、いえ、王太子殿下。お久しぶりです」
モリーネはゆっくりと膝をかがめ、タラント式の礼をして見せた。もう会えないと思っていた人が、アレグイルがここにいる。
モリーネのドレスを摘んでいる指先が震えた。
ああ、もっと可愛い髪型に、もっと綺麗に見えるように気合を入れてドレスを選んでおけばよかったと後悔しながらも、期待に胸が膨らむ。
盗み見るようにモリーネは彼をチロリと見上げた。
「貴女は……元気そうだな」
「ええ。とても。殿下もお元気そうで、何よりです」
もっと色々とあの時のことを尋ねたかったけれど、いつの間にか二人の周囲には人だかりができていた。高い身分を誇示する衣装を身にまとったアレグイルがいるのだから、人目を引かないはずはない。
素晴らしく威圧感あふれるその立ち姿、険しい眼差し。アレグイルの低い声はよく通り、モリーネの耳に響いた。
人見知りの癖はなおったはずだけど、モリーネの上擦った声は滑らかとは言い難い。ドキドキとうるさい鼓動が、喉をふるわせてしまうのだ。モリーネは緩んでしまう頬に力を込めた。
アレグイルが見てる。普通にしないと。でも、顔が……。息が……。
モリーネは何か話さなくちゃと思ったけど、洗練された会話など思いつかない。聞きたいことはあったけど、誰にでも聞こえる場所で、あの時のことを問いかけることはできず。モリーネは、言葉に気をつけながらアレグイルに話しかけた。
「えーっと、その、殿下はずっとお怪我などなかったのですか? あ、お元気ですものね、そんなことあるはずないですよね」
十分考えたはず言葉は間抜けな内容になってしまい、モリーネは問いかけておきながら笑って誤魔化した。
そんなモリーネを前に、アレグイルは険しい表情のまま。
「ザイ・ツィウク嬢、あなたはあれから私に会っただろうか?」
その言葉に、モリーネはピンっと反応した。王宮で彼の部屋を訪れる前、彼は不思議な現象で三回会っていると示唆していた。彼はそのことを尋ねようとしているらしい。
「いいえ、まだ」
震える声でアレグイルにモリーネは答える。すっかり忘れていたけど、そういえばと、モリーネは三度目があることを思い出した。四度目以降はわからないけど、三度目は必ずある。この後にも、また、アレグイルに、会える。
顔に浮かぶ笑みをモリーネはなんとか噛み殺していた。
「三度目には、危険だから通路を閉じるように、そして……誰もあの部屋には入れないようにと言って欲しい」
モリーネは、声を落として告げられた彼の言葉に頭を捻った。
危険だから通路を閉じる、誰も部屋に入れないように……。
三度目の私はそれを言わなかったんだろう。だから、それを告げて欲しいとアレグイルは言っている?
三度目の私とアレグイルは会っていて。でも、私がそれを告げなかったからあんな事になってしまった、ということ?
あの日、アレグイルは、何も知らなかった。石壁から暗殺者が現れることも、私が消えることも。
だから、告げて欲しいと言っているのだ。
そうすれば危険を事前に回避できるし、暗殺事件も防げたはずだから。
でも、じゃあ、なぜ私はそれを言わなかったの?
モリーネは不思議に思い、アレグイルに尋ねた。
「三度目、私は何を喋ったの? そういうことを全然言わなかったってこと?」
「おそらく、私が間違えたのだ。貴女の、本当の望みを叶えられなかったから。正しい未来ではなくなってしまった」
アレグイルが間違えた? 私の本当の望み? 正しい未来ではない?
彼の言葉は、モリーネにはわからないことだらけだった。
でも、彼の声からは苦悩が滲み出ていて。浮かれた気分のモリーネの気持ちを重く沈ませた。
この未来は間違い? そんなことない。
こうして会っている今が間違いだなんて、そんなはずはない。
でも、アレグイルは悔やんでいるのだろう。あの事件のことを前もって知っていたらと思っているのだ。
「殿下が、何を間違えたと思っているのかは、わからないけど……。そういえば、お礼を言ってなかったわ。あの場所へ連れて行ってくれてありがとう。やっぱり、昼間に見ると随分違って見えるのね。少なくとも私の望みは間違ってないから」
「あんな目に、あったのに、か?」
アレグイルは極小さな声でモリーネに問いかけた。彼の歪められた表情に、はっと胸を突かれる。彼の苦悩の種は、自分なのか、と。
アレグイルがやり直したいと思っているのは、彼自身のことではなくて。あそこで自分が斬られたことなのかもしれない。
「間違ってないわ。あなたも私も無事だったし」
モリーネは彼を元気づけるように明るく返した。
悩ませていたのなら、ごめんね。私は無事だったし、もう一度あれが現実に起こると言われれば逃げるだろうけど、もう過去のことだし。気にしないで。
そんなつもりで、彼に向って首を傾げて見せた。大丈夫?と。
「貴女は、まだ嫁ぎ先も決まってないと聞いた」
うぅっ。アレグイルは痛いところを突いてきた。
モリーネは笑顔を引きつらせる。まだ決まってないどころか、今後も決まらないみたいなのとはさすがに言いにくい。
「ハラディルフに、来ないか? 私の妃として。ハラディルフなら、貴女に自由な生活を約束できる」
モリーネにとって、それは、ものすごく、魅力的な言葉だった。
アレグイルのそばに行くことができる。そんな誘いの言葉なのだから。
だけど、同時に、厳しい現実も目の前に差し出されていた。
あの事件に巻き込まれた嫁ぎ先のないモリーネを、アレグイルは引き取ってくれようとしているのだ。何度もハラディルフ王国からの贈り物が届けられるのは、彼に残る呵責のせいなのだ。モリーネを犠牲にしたことに対する。
彼の命の恩人になったかと思えば、次は彼の心の重荷になってしまったとは。
モリーネはがっくりと項垂れた。さすがに、笑顔で取り繕うにはショックが大きく、難しすぎた。
「モリーネ・ザイ・ツィウク?」
慎重に返事を催促するアレグイルに、モリーネは無理やり小さな笑みを作る。
「私は、ハラディルフの派手なドレスは着られないの。だから、ハラディルフで暮らすことはできそうにないわ」
モリーネはなんとか明るく返そうとした。冗談めかして。
「本当に、気にしないで? 私はツィウク家の娘だから、この国で十分楽しく暮らせるし。父が、そのうちいい嫁ぎ先を見つけてくれるわ」
アレグイルは真っ直ぐに見つめてきた。それはモリーネの心中を推し量ろうとしているようで、モリーネは目を伏せる。
モリーネが足下に視線を落した時、横から二人の間に割って入る人物がいた。
「きっさまぁっ、よくも我々の前に顔を出せたものだなっ」
ガッという鈍い音に、はっと顔を上げるとモリーネの前で兄ラフィールがアレグイルへ殴りかかっていた。
「兄様っ!」
モリーネは兄の背後に縋りつき、アレグイルの周囲をすぐさま騎士が取り囲む。
騎士達の間からアレグイルが口端の赤い血を拭うのがちらりと見えた。
さすがに兄ラフィールもアレグイルを守ろうと立ちはだかる騎士達に突っかかることはせず、握りしめた拳を下ろした。
「二度と我々の前に姿を現さないでもらおうっ」
ラフィールは、アレグイルへ語気荒くそう告げると、モリーネの肩を抱くようにしてその場に背を向け歩き出した。
「兄様、大丈夫なの?」
ここはタラントだとはいえ、ハラディルフの王太子を殴るなんて。ハラディルフ王国との関係に亀裂が入るようなことをタラントの王は望まないはずで。
兄が咎めを受けることになるのではないか。モリーネは不安な顔で兄を見上げた。
「大丈夫だ。くっそう、吹っ飛ばしてやりたかったんだが。鍛えてないと、厳しいな」
「兄様ったら……」
兄がアレグイルに向けた怒りは自分のためなんだとモリーネは小さく笑った。
「お前、何もされなかったか?」
「されるわけないでしょう? ここは王宮よ?」
「あんな奴と口を聞く必要などない。王族とは関わるな」
「はぁーーい」
「わかってるのか?」
「わかってますって。ふふっ」
「なんだ?」
「兄様、かっこよかった」
「そうか」
モリーネは兄ラフィールとともに王宮を後にした。
ごめんね、アレグイル。私は大丈夫よ。大丈夫だから。
帰りの馬車で、モリーネは少しだけ涙をこぼした。




