第25話(アンデ)
モリーネは意識を失ってから何日も高熱にうなされ、その山を乗り越えたのは一週間も経ってからのことだった。
モリーネはこの地の領主の家で介抱されていた。最初は耳にした言葉がハラディ語だったので、ツィウクじゃないんだとがっかりした。けど、ここの人達はモリーネに対して驚くほど親身に世話をしてくれていた。
この領主館は、ツィウク領の屋敷と比べるとかなり古ぼけた貧相な印象だった。人々の服装や出される食器や食事から生活も困窮しているのではないかと思うほど。
しかし、モリーネのそばには一日中誰かしらの女性が付き添い、看病していてくれて、みな人情味の厚い人達のようだった。
手が動かせるようになってモリーネは早く連絡しなければと思ったけれど、どこに連絡すればいいのか困ってしまった。
この街はハラディルフ王国の王都から遠く離れた田舎街らしく、詳しい王都の様子がわからない。
ここから便りを出したとしても、王都に届くには数日かかってしまう。モリーネは寝込んでいたから、手紙が届く頃にはタラント使節団が王宮にはいないかもしれないと思ったのだ。
自分が突然失踪して兄が探さないとは思えないので、ハラディルフ王国に滞在しているのだろうけれど。一体どこに滞在するか、兄がこの国の誰と親しくしているのか全く知らなかった。
そこで、モリーネはタラント王国ツィウク領の家へ手紙を出すことにした。王都へ向けて手紙を出すより数日余分にかかるけど、手紙は確実に届くだろうから。
「モリーネお嬢様、手紙を出してまいりました」
「ありがとう、テラ」
親身に看病してくれる女性のテラが、部屋に入ってきた。うっすらと湯気の立ち上るカップを手に。
「こちらの薬湯を飲んでくださいな」
彼女はテーブルにカップを置くと、横になっているモリーネの背中に手を添えて起き上がるのを手伝った。動いた拍子に痛みにうっと呻くと背中を支え、少しでも痛みが和らぐようにと腕を撫でてくれる。
そして、モリーネが落ち着いた頃を見計らってカップをその口元に運び、少しずつ少しずつ飲ませてくれた。
モリーネはタラントの貴族娘とはいえ、この国では全く地位をもたないただの重病人だ。この街でツィウク家の名が通用するとは考えられない。
それなのに、領主ですらもモリーネのことをさも高貴な人であるかのように扱ってくれる。その領主館の使用人は、丁重極まりない態度で接してくれる。
動かない身体で見知らぬ場所にいながらモリーネが心穏やかに静養できるのも、こうした人達のおかげだ。モリーネは彼等にとても感謝しているけれど、それと同時にとても不思議だった。
「どうしてテラ達ここの人は私に親切にしてくれるの? タラントのツィウク家を知っているわけではないのでしょう?」
モリーネはずっと傍で世話をしてくれている彼女に尋ねた。
テラは両親よりも年上ではないかという年嵩の女性で、領主の親族だ。そのため、館の中では地位が高い。
そんな女性が怪我人のモリーネの世話をしているのだ。女中や下働きの女性はいるというのに。
「モリーネお嬢様は、この国の仔犬の王妃様の昔話をご存知ですか?」
「ええ、少しだけ知っているわ」
テラはゆっくりと昔話をはじめた。それはモリーネの知る昔話よりも少し詳しい内容だった。そして。
「王子ユェイルンを毒殺しようとした辺境の地がこの街だと言われています」
「えっ?」
「この街は人々に見捨てられ廃墟と化した過去があります。ですから、これは古い言い伝えで、真実かどうかはわかりません」
テラはそう言い置いてから、言い伝えというものを語りはじめた。
王子ユェイルンを屋敷に住まわせていた領主は、王妃から再三の王子殺害の依頼を受けていた。
それまでにも、王子と会話をしてはいけない、食事は最低限与えればよい、など細々した指示が王妃から出されていた。それだけでも、心苦しい思いをしていたというのに、王の血をひく方を殺せなどと。領主は毎日嘆いていた。しかし、逆らうことは出来なかった。王宮から王子の警備と称して屋敷で警護に当たっていた騎士達は、王子の見張りだけでなく領主達の見張り役でもあったのだ。皆が皆というわけではなかったが。
領民を王妃の犠牲にはしたくない、しかし、王位継承権を持った王子を手にかけるなど人として許されることではない。思い悩む領主の背中を見ていた娘は、こっそり毒を混ぜて作ったパンを王子の部屋に置いた。
そして、仔犬が倒れた。王子が仔犬に食べさせてしまったのだ。
動かない仔犬を腕に抱いた王子は食事もせず、そのまま衰弱してしまうのではないかと思われた時。王宮から使者がやってきた。
王となるために王子は王都へ去り、この地には王子暗殺を謀った街という汚名だけが残された。もしも仔犬が犠牲にならなければ、王の血が途絶え、国の存亡すらも危うくなっていたかもしれないのだ。しかし、その汚名は、近隣の街だけに留まっていた。
王子が王として立った後、近隣諸国からの侵略がはじまってしまったためだ。王急死により小さな子供を王として擁することになった国など、今戦争を仕掛けてくれと言っているようなものだった。繰り返される侵攻。
しかし、予想に反して王ユェイルンは連戦連勝を重ねて行く。素晴らしい王と持て囃されると同時に、王の過去が明らかになっていく。王子の時代に、王妃に加担し暗殺を目論んだ街のことも。
近隣の街に留まっていた噂はもっと醜悪な内容となって国内に広まった。
そして街から多くの人々が去っていった。この街の出身だと知られれば周囲の人々に白い目で見られるのだ。
領主の娘は、全ては私のしたことだとの遺言を残し、湖に身を投げた。そして、その領主の家は途絶えた。
領主のいなくなった土地からは人がいなくなり、数年で街は消えた。
その後、一人の男性がその地に領主として着任し、多くの人々を引き連れてその地に移住してきた。
再び街に人が暮らすようになった或る日、湖から美しい少女が現れ、王子ユェイルンに会うために産まれてきたと告げた。王子の腕の中で息を引き取った仔犬が少女へと生まれ変わったのだ。
領主館に残されていた前領主の書き物を読んでいた領主は、その少女を王に会わせるべく王都へと連れて行った。少女は王に受け入れられ、その地の名誉回復のため街の名を改めることを許された。
領主はこの地を泉に身を沈めた元領主の娘の名からアンデを街の名とした。
「仔犬様は、この近くの湖の畔で王子ユェイルンと出会われました。そして、少女として現れたのも、その湖と言われています。ですから、私達は、湖に現れるものを仔犬様の生まれ変わりと思っているのです」
「私は違うわよ。ツィウク家の娘だし」
「モリーネお嬢様は、湖のほとりに突然現れたとうかがっております。仔犬様と全く関係がないとは思えません」
「でも、なんだか申し訳ないわ。生まれ変わりでもないし、仔犬の王妃みたいなことは、私にはできないし。それなのにこんなに大事にしてもらってるなんて」
「私達が勝手にそう思っているだけです。モリーネお嬢様。余計な話をしてしまいましたね」
「ううん、そんなことない。聞けてよかったわ。でも、なんだか……、昔の人の罪を今の人が償おうとしてるの? 仔犬、様に」
「いいえ、まさか。償いなんかではありませんよ」
テラは朗らかに笑って否定した。そこに後ろめたい感情とか悲しい感情とかは全くなくて。
貧しい暮らしの中でも、彼女達は明るく強い瞳を持っている。心の中に揺るがない何かを持っているのだとモリーネは感じた。
「私達は、待っているのでしょうね」
「何を?」
「仔犬様の起こす奇跡を、です」
仔犬の王妃の起こす奇跡……。
アレグイルの部屋から一瞬でここに来たことは奇跡だと思うけど。それを素晴らしいと思うかっていうと……疑問なわけで。
一応、ここに来たから大きな傷の手当ても早く受けられて命が助かったのかな。それなら感謝するべきだし、素晴らしい、かも。
モリーネはうーんと考え込んだ。
「ほらほら。悩まなくていいのですよ。今は傷を癒すことを考えましょう。さ、少しお休みくださいな」
「そうね。ここで手当てしてもらえて助かったんだもの。元気になったら薄茶で鼻ぺちゃな仔犬様にはお礼言わないと。歩けるようになったら湖に行かなきゃ」
「……薄茶で、鼻ぺちゃ?」
テラの問いかけにモリーネは答えなかった。
うつらうつらと瞼が落ちかけており、少し前に飲んだ薬湯が効いてきているのだろう。
シーツをかけてやりながら、テラはそっと微笑んだ。そして眠りにつこうとするモリーネを眺めながら、彼女の言葉を反芻する。
やはり仔犬様に深い関わりを持っているのかもしれない。ハラディルフ王国民なら、仔犬の王妃が仔犬だった時の姿は、白い毛で覆われた金の瞳の優美な仔犬を想像する。仔犬の王妃を祭る神殿にそのような像があるために。
この地の書物には、薄茶毛で手足が太く短く丸々とした小さな身体で、鼻が短く大きな黒い瞳の仔犬だったとの記述が残っている。けれど、神々しい仔犬という印象が強く、この街の人でさえあまり記述通りの姿を思い浮かべはしない。
神殿の仔犬像を知らないタラント人であるモリーネが、そんな仔犬を思い浮かべてもおかしくないかもしれない。しかし、彼女は、あの湖に突然現れた人なのだ。そして、お礼を言いに湖へ行くと言う。それは、湖に仔犬様いると思っているからでは? 王宮へ行かれたはずの仔犬様が、湖に戻っているのでは?
テラはモリーネの穏やかな寝息を確認すると、領主の元へと足を運んだ。
仔犬様の望みを叶えることが、この地に代々続く領主の望みだった。そのために王や王族の不興を買うとしても。
長くは続かない領主家が多い中、この家は血が途絶えることがない。王を守っているといわれる仔犬様に、アンデの領主家もまた守られていると思っているのだ。それは、領民にも深く浸透していた。
この地は仔犬様の産まれた地。仔犬様の加護を受ける土地。
そこに神殿はなくとも、仔犬はこの地で守り神の化身として深く信仰されていた。




