第24話(緑色の光)
アレグイルの前で姿を消したモリーネは、別の場所へと移動していた。
その、少し前。
まだ恐ろしい事態が起こることも知らず、モリーネはアレグイルとともに王太子宮へと向かっていた。
モリーネはアレグイルに手を引かれ胸をドキドキと高鳴らせながら歩いていく。
王太子宮は本宮ほどではなかったけれど、さすがに荘厳な建物だった。柱の一本、床石、廊下などどこも細密な装飾がほどこされ絢爛だった。
その様子には圧倒されるもののアレグイルに重点をおくモリーネは彼の腕や足取りに気もそぞろで。雰囲気に負けることなく促されるまま、奥へと歩みを進めることができた。
ようやく到着したとある部屋へと足を踏み入れた途端、見覚えのあるベッドやその配置に息が止まる。
吸い寄せられるように間近で見たベッドは、暗闇で見た時とは違い明るい日差しの中では濃翠と金で細々となされた装飾が鮮やかに映え、美しい天蓋を持つ豪華なもので。王太子のベッドならば頷ける。
それは、とても親しみを持つような代物ではないけれど、どこか懐かしいような気さえした。
そのベッドに勝手に触ったり寝転がった過去を思い出し。顔から火が噴きそうになった。無礼極まりない行いで、他人のベッドに、アレグイルが眠っていただろうベッドに、無断で上がるなんて。
あの時の自分は、一体何を考えていたのだろう。いや、考えていなかったからこその行動だった。
そんな自分の行動をアレグイルがどう思って見ていたのかと考えると、モリーネは同じ室内にいる彼と視線をあわせることなどできそうになかった。
彼の視線に背を向けるようにしてモリーネはベッドから離れた。そして、確かこの方向だったはず、と思い返しながらゆっくりと壁へ向けて歩く。
開けて欲しいというモリーネに答えてアレグイルが壁に何かをした後、石が擦れる音がして壁が横へずれた。
目の前の扉が開いた時、黒ずくめの男達の姿が目に飛び込んできた。それは、あっという間のことだった。
最初の一人が自分の方へと足を踏み出したかと思うと、銀色に光る剣先が胸を横切っていた。
そして剣を持つ男は何の感情も浮かべることなく、モリーネから向きを変えた。
「モリー!」
アレグイルの声がして、違和感のある胸元に視線を落とせば、ドレスが赤く染まっていて。それでも、何が起きたか理解できなかった。
力が抜け、膝を落とす自分の前を数人の黒い男達が通り過ぎていく。
あの人達は、何? アレグイルを?
モリーネの耳は名を呼ぶアレグイルの声を辛うじて拾っていた。
逃げろと叫んでいる。
モリーネは腕を身体を動かそうとした。すると腕を生温かい血が纏わりついて伝い落ち、手元がズルリと滑る。
痛みが襲う。息が苦しい。身体が熱い。耳鳴りがする。
動かなければ。しかし、思ったようには動かせない。
すでに男達が抜け出て空っぽになった隠し通路の方へと身体を動かした。
早く。早く、前へと思うのに。
手足がうまく動かない。
なんとか通路へとモリーネは辿りついた。
正面の壁の片隅に、緑色の淡く輝く光の球に目が引き寄せられる。緑色の光をよく見れば、その中には小さな犬の姿があった。こちらに向かって繰り返し吠えるように口をパクパクさせ、飛び跳ねている。喜んでいるのか怒っているのかわからなかったけれど。
これが、あの仔犬、だと思った。
モリーネをここへ呼んだのは、今も呼んでいるのは、この仔犬だったんだと。
それは小さく可愛い薄茶の仔犬の姿で。凶暴野獣と勘違いして、ごめんねと思った。
その言葉が通じたのか、抗議するように口パク速度が上がり前足をバンバン床に打ちつける仔犬の姿はかわいらしかった。
昔話にあるように、仔犬の王妃が今も王太子を守っている。自分がここにいるのは、そのためで。
役割を、果たせたのかな。
「モリーーーーーッ」
悲鳴のようなアレグイルの声が背後に聞こえた。アレグイルは、大丈夫らしい。
モリーネは、視界が薄れゆく中で緑の光に腕をのばした。
自分をここに呼んだものへの憎しみは湧かなかった。彼を死なせてはならない、そう思ったのは緑の光なのか、自分の感情なのか。
ただ。兄様、ごめんなさい。
モリーネは目を閉じた。
その一瞬後、モリーネの身体が宙に浮く感覚。そして。
どざっと背中に軽い衝撃を感じ、ぐっと身体を襲った痛みと同時に思わずモリーネの口から音がこぼれた。
モリーネが苦しい痛みの中でうっすら目を開けると、視界いっぱいに晴れやかな明るい青空が広がっていた。
「きゃああああっ、誰かっ、誰かきてえぇっ」
けたたましい女性の叫び声がして、草を踏む荒々しい足音がモリーネへと向かってくる。
モリーネは柔らかな土や雑草の上に身体を横たえているらしく背中は痛くない。しかし、息をするだけで胸の傷がドクドクと疼き、ちょっとでも身動ぎしようものなら激痛が走った。
「大丈夫? しっかりっ。今、助けを呼んだからね!」
モリーネは肩や腕を叩かれ、女性に声をかけられた。誰かがドレスの胸元を開けようとしているらしく何度もモリーネを強い痛みが襲った。呻くたびに頭の近くから自分を励まそうとする女性の声がして、モリーネは何とか頷き返した。
「大丈夫だっ、あんたは助かる。助けてやるから。頑張るんだよっ。誰か止血の薬は持ってるかい? 医者は?」
「今呼びに行った!」
「薬は練ってる! 湯を湧かせ」
「こっちは鍋が小さいっ。誰か大鍋はあるか?」
「あるぞ、火をまわせっ」
何人もの声が次々とモリーネの耳に届いていた。周囲には結構大勢の人がいるらしい。
手に掴んでいたはずの緑色の光はどこに、と頭を横に動かすと、右手には湖面が広がっていた。ここは水辺だったのだ。ほんの少し腕をのばせば水に触れることができそうなほど水に近く。右手から零れた緑の光が、水の中へゆっくりと入っていくのが見えた。
緑色の光の中で、仔犬が何かを喋っているようだけど、モリーネにははっきり聞きとることが出来なかった。ただ最後に。
凶暴野獣だなんて、失礼ね! 今の王子って趣味悪ーい。
それだけは聞き取れてしまった。そうして喋り終えた仔犬は、にっと笑ったかに見えた。そして尻尾を大きく振り踵を返して、水中へとひょこひょこ歩いていく。その後ろ姿に、これでよかったんだとの思いが込み上げた。
そう思ったのを最後に、モリーネは意識を手放した。




