第20話(願い事)
コトッ、女官がテーブルの上にカップを置く。
そのカップからは白い湯気が真っ直ぐ立ち上っており、窓の外からはピチュピチュという軽やかな鳥の声が聞こえている。
外は非常に長閑な陽気だというのに、部屋には重苦しい空気が充満していた。
モリーネは、アレグイルの要望でこの小さな部屋のソファで向かい合っている。
二人の間にあるテーブルへ茶を整え終えると、女官はしずしずと下がっていく。その時開いたドアの向こうには、様子をうかがおうとする兄ラフィール達の姿が見えた。ここは彼等のいる居間とは続きの部屋なのだ。
ドアが静かに閉じられると、何とはなしに緊張が高まる。
でも、今日のモリーネは昨夜アレグイルと対面した時ほどの緊張に襲われることはなかった。それでも、指先も震えそうでカップに手を伸ばせそうになく、呼吸も乱れていたけれど。口から音が出せそうな気がする。
昨夜のような醜態はさらさなくて済みそう。そう思うだけでも、ずいぶん気分が落ち着いた。
モリーネは昨日の自分がいかにみっともない態度だったかを自覚していた。相手の話に耳を貸さず、喚き散らして走り去るなど、育ちのいい娘のすることではないのだから。
そうはいっても、全く状況がわかっていないことには変わりがない。
モリーネはチラリとアレグイルの様子をうかがい見た。きつい眼差しが、テーブルの上のカップに落とされている。すっきりとした輪郭や、カップに添えた手に、ドキドキと鼓動が速くなってしまう。
やっぱり素敵……。とか、ここでときめいちゃったりしている場合じゃないのっ。ちゃんと尋ねないと。
モリーネは、アレグイルから視線を外すも、やっぱり見たくて、視線を戻す。
アレグイルは今日はすっきりとした飾り気のない黒い上着を着ていて、昨夜のゴテゴテした飾りがない分、肩から腕にかけてのラインにがっしりと逞しい肉体を感じさせる。とても男っぽくて……。
だから、うろたえている場合じゃないのっ!
必死で大きく呼吸を繰り返し、落ち着こうとしては、ちら見して悶えるモリーネだった。
その彼女の前で、アレグイルは静かにカップを傾けていた。
チラチラと見ては顔の表情を変化させるモリーネを見るのは、なかなか面白い。昨夜のモリーネよりも、前回会ったモリーネをアレグイルに思い出させていた。それでもなおあの時とは違い距離を感じるのは、やはり王太子だと知ってしまったせいなのか、との思いがかすめる。
カップをテーブルに置き、アレグイルは口を開いた。
「モリー。昨夜、私が言ったことを覚えているか?」
「えっ? ……ええっ、はい……」
突然声をかけられたモリーネは、自信なさそうに答えた。
これは何も覚えていないと思った方がよさそうだとアレグイルは判断し、最初から話をすることにした。昨夜、アレグイルはモリーネが覚えていないと判断したため、彼女にわかるように話しはしなかった。だから、覚えていても、モリーネが意味を正しくとらえてはいないだろうから。
「まずは、モリーと会った時のことから話そう」
「前の暗い部屋で、会った時の、こと?」
「モリーには数ヶ月前のことだろうな。だが、私には最初は七年前、二度目が二年前のことだ」
「え?」
当然、モリーネは呆けた顔で固まった。
そんな彼女にアレグイルは細かく丁寧に説明していった。二年前に彼女が告げた王太子が狩りで事故死するという話を聞いて、事故を避けるよう対策を施したこと。そのために生き延びることができたということを。
モリーネはその話をちっとも理解できなかった。けれど、アレグイルは何度も説明し、たどたどしいモリーネの呟くような疑問にも丁寧に答え、理解を促した。
「そ、れじゃあ、私は、過去のアレグイルと、会っていたの?」
「そういうことになる」
モリーネは、アレグイルの話を聞いて理解するにつれ、ショックを隠せなくなっていた。目の前で心配そうにアレグイルが見守っているのがわかる。相変わらず険しい目つきなのに、とモリーネは口元を歪めた。
彼が自分に対して最上の礼をする理由は、王太子が事故死すると話したから。そして、その情報を提供した自分を彼が命の恩人と思っているから。
それは、特別なことで。とても、凄いこと、なんだけど。
モリーネは、そんな風に思われたかったわけじゃなかった。モリーネは会いたかったから、会いに来たし。アレグイルのことをもっと知りたいと思って、捜そうとしてて。
なのに、命の恩人? 恭しく扱われても、ちっとも嬉しくない。そりゃ、粗略に扱われたり、無視されたりするよりは特別扱いの方がいいけど。
自分に会いたいと思っていて欲しかった。自分が思っていたように、アレグイルも思っていてくれるんじゃないかって勝手に思っていた。会えば、嫌そうな表情をしながらも、喜んでくれると思っていた。
喜んではくれているようだけれど。こういうのは、何だか、違う。
モリーネは、昨夜のアレグイルの姿を思い返す。華やかな世界で、美女達を侍らせ王太子然とした姿で立っていた。
その脳裏の映像に、モリーネはむっと表情を曇らせた。もやもやとした不満が胸の内に燻る。美女、美女、美女! やっぱり噂通りの美人が好きなスケベなんじゃない。あぁ、悔しいっ。
自分一人がアレグイルの前で期待して緊張してドキドキしてたなんて。……馬鹿みたい。
「アレグイル。昨日も訊いたけど、どうして自分が王太子だって言ってくれなかったの?」
モリーネはできるだけ不満を彼にぶつけないようにと気をつけながら尋ねる。でも、彼に問いかけた口調はきつくなってしまった。
アレグイルが自分を特別に想っててくれたんじゃないかって舞い上がってた自分が恥ずかしくて。自分を勘違いさせたと彼を恨んでしまいそうで。全部、アレグイルが悪いのよと言ってしまいそうで。
「あの時は、言わない方がいいと思った。次に会うのが何時になるかはわからなかったからな。だが、次に会う時には名乗るつもりだった。約束したように、十六になれば、この国に招待するつもりでいた」
「そっか……」
十六になれば、招待してくれるつもりだったんだ。じっと待っていれば、そうしたら、突然連絡が来て驚いただろうな。
モリーネはきゅっと口を噛んだ。
待っていればよかったのかな、そういう娘が好みなのかな。動くなって言われてたのにノコノコやってきて、アレグイルは困ったのかな。
でも、会いたかったし。この国にいるって思ったし。会いたかったし。
いつの間にかモリーネの憤懣は解け、かわりに落胆という脱力感におそわれていた。
「モリー。お前に、その礼ではないが、いや、礼かな。何か願いがあれば教えて欲しい。私にできることなら、何でも叶えよう」
アレグイルは真摯な瞳でモリーネを見つめた。モリーネはその表情にドキリとした。
本当に感謝しているのだと告げる瞳に。
……願い。
そんなことを急に言われても、思いつかない。モリーネは戸惑ったけれど、きっと何かを言わなければ、彼はすっきりしないだろう。
恩人というくらいだから、その返しをせずには彼の心残りとなってしまう。それはそれで、いいかな、とちょっとだけ思う。そしたら、いつまでも忘れないでいてくれて、気にかけてくれるかもしれない、なんて。
本当の、願いは……。会いたくて、会いに来て。会えて。それは叶った。好きになってほしいと思うけど……それはちょっと無理、だから。
だから、モリーネは別のことを思いついた。
「それじゃ、ね。……あの部屋を、見てみたいわ」
「あの部屋を?」
「そう。以前、アレグイルはどこか教えてくれなかったけど。あれ、寝室なんでしょ?」
「そう、だが……」
「もしかして、入っちゃいけない場所?」
「いや。モリーだけなら、構わない。だが、あの部屋を、見るだけなのか?」
「そうよ。いけない?」
「まあ、いけなくはないのだが。私は、王太子だ。もっと色々なことが叶えてやれると思うが?」
「そうね。だから、あの部屋を見たいわ」
「それだけか?」
「しつこいわね。見たいものは見たいのよ。駄目なの? 駄目ならいいのよ、無理しなくても」
「もう少し、ツィウク家のこととか、だな……」
「ツィウク家? 家のことは父や兄の仕事だから、私がお願いするわけないでしょ」
そう断言するモリーネにアレグイルは自然と笑みを浮かべていた。ようやく彼女の態度が解れたのか、以前のような遠慮のない話しぶりに安堵する。
彼女の望む物は、出来る限り手に入れてやろうと思っていた。タラント国との交流についても、ツィウク家はそれなりの手腕を持っており側近達に口を利いてもいいと思っていた。多くの貴族娘が望むように、弟オルレイゲンと会う機会を設けることだってしてやれる、そう思っていた。
そのどれも違っていた。彼女が望んだのは、あの部屋を見ること。あの部屋を欲しいと言うわけでもなく、ただ見たいと言う。
モリーネはアレグイルが王太子だということを忘れているかのようだ。ハラディルフ王国の王太子なら、もっと大きな願いを叶えてやれると思うのだが。
彼女の願いは、拍子抜けするものだった。だが、それはそれで、納得できるものでもある。
彼女が時間と空間を越えて現れた場所。そこを見たいと彼女が願うのは当然のことなのかもしれない。あの不思議な体験をしたからこその願いなのだ。
「お前は、この国に来るまでに何度私と会った?」
「この国に来る前? 二回よ」
「そうか」
アレグイルは意味深な笑みを浮かべて立ちあがった。
その表情に、モリーネは直感した。
彼は、二回ではないのかもしれない。過去のアレグイルに会っていたのなら、未来の自分がここにいるアレグイルと会っている可能性があるの?
モリーネも立ちあがると、彼がすぐ横に立って彼女を促した。
「あの部屋へ招待しよう」
彼の言葉にモリーネは足を踏み出した。そしてドキドキしながら、アレグイルを盗み見た。彼にもう一度会うなら、それはいつなんだろう。きっと彼に尋ねても喋ってはくれない。何となく、アレグイルは秘密にしそうな気がする。
でも、また機会がある。
モリーネはアレグイルに手を預けて、部屋を出た。
部屋の外、居間では、兄ラフィールが奇妙な表情で待っていた。
そういえば、昨夜のことを話す予定だったけど、何も話してなかった。あの兄の視線は、様々に訴えかけてきていると思われ。
しかしモリーネは、今からあの部屋へ招待されているのだ。ここで時間を潰すわけにはいかない。
兄様、ごめんなさい、後でね。
モリーネはそう訴えたけど、そんな心中の言葉が伝わるはずもない。
緩んだ顔のモリーネの隣でアレグイルが兄ラフィールへこの後のことを告げていた。モリーネを連れて行ってもいいかというアレグイルの問いは、応以外の答え求めてはいなかった。




