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第2話(昼)

 娘はあまりの眩しさに目を閉じた。

 顔や身体に感じるのは温かい陽の光で、さっきまでの暗い場所にはなかったものだ。

 ゆっくりと瞼を開く。

 そこには見慣れた自邸の庭が広がっていた。右手には彼女の住んでいるツィウク領主館が建っている。全体が灰色で石作りのそれは、無骨な佇まいだ。そして左手には草木や花が植えられ小道や水場もある庭が広がっている。

 その館と庭を塀が取り囲んでいて、その囲いの中が娘モリーネが知る世界のほとんどだった。

 ここはタラント国ツィウク領。

 モリーネはその領主の娘だ。この狭い場所以外では、父や兄に連れられて他の貴族屋敷や王宮へ行くことはあるが、何度もあることではない。外を知らない、ごくありふれた貴族娘だった。


 住み慣れた家の庭。

 モリーネはその庭にある小道で四つん這いになっていた。小道の石畳の上についている掌は、太陽の熱で暖められていてほんのり温かさを感じる。


「何をなさっていらっしゃるのですか?」


 呆れたような声がモリーネの背後からかけられた。振り向くと、庭にテーブルが準備されていて侍女がお茶の準備をしている。

 それはいつもと変わらぬ午後のことで。

 モリーネは掌と膝に痛みを感じて、立ち上がった。

 立ち上がった拍子に、モリーネの掌やドレスについていたらしき綿埃がふわりと風に舞う。そのふわっとした塊がモリーネの目に留まった。それは風に流されテーブル近くの草の上に落ち、弾むように転がっていく。

 その動きを目で追ううちに、モリーネの意識は現実に引き戻されていった。

 あれは……私に付いていた埃で……。この庭には、ないもので。あの暗い場所の床にあったものでは?


「モリーネお嬢様」


 侍女の声にモリーネは視線を動かした。お茶の支度が整ったらしい。

 テーブル上のカップから湯気が立ち上っており、あたりには甘酸っぱい果実の香りが漂っていた。

 モリーネがもう一度視線を戻した時には、すでに綿埃はどこかに消えていた。


「何をご覧に? 面白いものでもあるのですか?」


 侍女は何かを捜している様子のモリーネに声をかけた。モリーネの視線の先にはいつもと変わりなさそうなのに宙を見ていた時から不思議に思っていたのだ。


「ミルダ、私、ずっとここにいた?」


 ミルダと呼ばれた侍女は自分の問いに答えないモリーネに眉を上げてちょっと不快を示した。けれど、モリーネの問いに答えた。


「もちろんいらしたと思います。ずっと見ていたわけではありませんが、モリーネお嬢様が庭端の小屋に辿りつけるくらいの時間しか目を離してはおりませんので」


 侍女のミルダの声には何かしたんですか?という咎める響きが込められていたが、モリーネはあっさり聞き流した。そして、宙を見つめる。

 モリーネはさっきまでの暗い部屋の痕跡を探そうとしていた。

 背後にあったはずの場所は視覚内に存在しない。でも、確かに自分はあそこにいた。ミルダも知らない、秘密の場所に。

 モリーネの中にじわじわと興奮が膨らんでいった。信じられないような不思議な体験に遭遇したのだから、それも無理はない。

 その興奮とともに疑問が次々と湧いてくる。

 あれは、何?

 あれは、何処?

 あの人達は一体?

 興奮と疑問がグルグルとモリーネの全身をかけ回っていた。

 何か叫びたい衝動と身体が震えるほどの高揚が押し寄せている。

 心臓が忙しく動いてて、息苦しくて。

 何か言いたくて、でも何を言えばいいかわからない。でもでも、何か、どうにかしたい。

 モリーネは手を握りしめてみたけど、拳にうまく力が入らなかった。指先が震えているらしい。


 あの場所。

 あの人。


 アレグイル。

 それが、彼の名前。


 名を頭に浮かべた途端、モリーネは息が詰まりそうになる。それは、まるで不思議な呪文のようだった。

 こんなことがあるなんて。

 まさに夢のようだと、モリーネはその場に立ちつくしていた。


「ミルダ、」


 モリーネはミルダに声をかけたものの、先を続けることを躊躇した。さっきのことを話そうと思って声をかけたけど、話してしまうのが惜しくなってしまったのだ。

 不思議な出来事を自分一人の秘密にしておきたいような。ミルダに教えようか、どうしようか。

 モリーネはちらちらとミルダに視線を向けては、そらし。中々、話し出せずにいた。


「そんなに言いたいことなら、さっさとおっしゃってください。目の前でニヤニヤ笑いながら意味ありげにちら見されるのは不愉快です」


 ミルダにもモリーネが言おうか迷っているのはわかっていたが。何せニヤニヤ意味深な笑みで見てくるのだから、見られる方は苛々してしまう。

 ミルダはあからさまに不機嫌な表情でモリーネに告げた。


「相変わらず、はっきり言うわね」

「そうして欲しいとおっしゃったのはモリーネお嬢様です」


 確かにそうだった。

 侍女だからと仕えているモリーネを褒めたり肯定するばかりでは感覚がおかしくなるからと告げたのはモリーネだ。

 だからといってそう行動する人も貴重だとモリーネは思っている。

 ミルダが侍女になるまでは、いくら伝えていてもそういう侍女ばかりだったのだ。


「で? 何なのですか?」


 ミルダは興味はないけどモリーネの思わせぶりな態度のせいで仕方なく訊くのだという姿勢だった。

 モリーネは、そんなにニヤニヤしてたかなと頬に手を当て、なかなか口を開こうとしない。


「モリーネお嬢様!」


 ミルダの苛々した様子に、モリーネは首をすくめた。

 モリーネとしては、苛々させるつもりはなくて。秘密を話したい、でも、やっぱり話したくない。と、まだ迷っていたのだ。

 しかし。

 惜しいけど、ミルダには話してあげてもいいわ。きっと、信じないでしょうけどね。

 踏ん切りをつけたモリーネは、ふふんと鼻を鳴らしてから口を開いた。


「あのね、私、さっき知らない場所に、いたのよ。物語にあった地底の王国みたいな場所にね」


 ミルダは一応黙って聞いてくれるようだったので彼女は仔細に話すことにした。それは、ミルダに聞かせるためというよりも、モリーネが思い返したかったからだが。


 まず、庭の小道を歩いていたら突然まっくらな場所に落ちたところから。

 その暗い場所はとても豪華な部屋で、ふわふわの敷物、さりげなく置かれた衝立やテーブルがあり、どれもみな気品を感じさせる品々が置かれていた。

 モリーネ自身も国有数の名家に育っているのだから、それなりに豪華な物は見慣れているけれど。あれは桁が違うと感じるほど。

 そんな部屋に、突然、剣を持った騎士達が現れて。その騎士達を制する声とともに暗闇から若い男性が現れた。彼が騎士達に命じる声は厳しく揺るぎなくて、その場の騎士達に対して彼は絶対的な立場にあるようだった。

 うねった金髪を首の後ろで一つに束ね、首から肩の線は細く、騎士達のような逞しさはない。おそらく彼はとても若い。もしかしたら五つ上の兄よりも年下なのかもしれない。でも、彼に頼りなさは感じなかった。

 眉間に皺をよせ切れ長の細い目に、引き結ばれた固い口元は、溌剌とか爽やかとかいう形容を全く寄せ付けない。どちらかといえば、悪い人、恐い人を連想させる顔立ちだった。辺りが暗いということがそう思わせる理由になっていたかもしれない。あの部屋が地底の王国にはぴったりだと思ったのだから。

 華奢に見えた彼だったが、モリーネの身体を軽々と持ち上げた。

 抱きあげられた時に頬に触れた彼の服は滑らかな素材の薄い服だった。それは一見すると淡黄色で簡易な衣服のようだったけれど、布地と似た色の細かく刺繍された高級品で。

 その布越しに彼の胸や温かな体温を頬に感じ。その時の驚きと狼狽と期待の入り混じった複雑怪奇な感情ときたら。

 ちらっと見上げると女性とは違う喉元と鋭利な顎のラインが目に入って、彼は異性なんだとモリーネは急に恥かしくなった。

 自分の息を吸ったり吐いたりする音が大きすぎるんじゃないかと変に気になって息を止めたり。止めたら止めたで苦しくなって余計に息が荒くなって。

 自分を抱きあげるために掴んでいる彼の手を腿裏にあるものだから、汗ばんでないかと気になって身体を硬直させたり。

 そうしながら、耳をすませてすぐそばの彼の息遣いに耳を澄ませていたし、触れている彼の温かさや感触には神経を研ぎ澄ましていた。

 めまぐるしく変化する自分の感情と感覚に翻弄されていたけれど、嫌だったわけじゃない。だから、床に下ろされ彼が離れてしまった時には、どんなにがっかりしたことか。

 抱きあげられていた時間はごく短かいものだっただろうだけど、モリーネにとっては非常に長くも短くもあった。

 モリーネは父と兄以外で男性とあんなに接近したことがない。それは結婚前の貴族娘なら普通のことだけど。モリーネはあの時のことを思い返すだけで顔が熱くなりそう。

 でも、彼の方はモリーネを抱きあげても何とも感じていないようだった。彼の細く鋭い目には全く変化がなく、しかも彼はモリーネを追い払おうとしたのだ。

 それが少しというかかなり悔しくて、モリーネは元の場所へと這い進んだ。なぜあの壁へ向かって進んだのかと今になってみれば不思議だけれど、あの時は全く疑問に思わなかった。あそこへ戻らなければと思ったのだ。固い石の壁をその目にとらえていたにもかかわらず。

 壁が目前に迫っても四つん這いのまま進もうとした。壁がないことを無意識に感じていたのかもしれない。

 そして壁に当たる感触が身体に伝わることはなく、手と膝は石床を歩いている感触のまま、モリーネの視界は明るい光に覆われ眩しくて目をつぶった。

 次に目を開いた時には、庭で。

 暗闇の世界は終わったのだ。ああ、なんて残念。

 宙を見つめて熱弁をふるっていたモリーネに対して、ミルダは。


「へえー。なかなか長い夢をみてらしたんですね」


 疲れたようにそう答えた。

 夢、と言われ、モリーネはがくっと肩を落とす。このミルダの反応は予想していた。でも、せっかく教えてあげたのに、と思ったのだ。

 が、ミルダの感想は当然だった。ミルダは途中から、もういいですと表情でも訴えたし、言葉を挟んで中断させようともした。それを無視してモリーネは語りをやめなかったのだ。やめたくなかったので。


 モリーネはあれが夢だと思ってはいない。

 現実に起こったとすればおかしな点はいくつもあげられるし、現実にはあり得ないと考える方が自然だとは理解している。

 けれど、あの感覚を、モリーネは覚えているのだ。

 自分以外に夢だと思われても別に構わない。

 むしろ、あの世界を知っているのは私だけ、という感覚の方が強い。だからミルダに信じてもらって同意された方が、胡散臭いと思ったかもしれない。

 モリーネはすでに湯気の消えたカップを手に庭を流し見た。

 もう一度、あの世界へ行くにはどうすればいいだろう。私だけが知る、あの場所へもう一度行くためには。

 見慣れた庭の景色が、モリーネの気持ちを高揚させるものになっていた。いつもと同じ毎日が、今日からは違う。

 モリーネはお茶を一気に飲み干しタンッと軽やかな音をさせカップをテーブルに置いた。


 ニヤニヤと笑いながら庭を見るモリーネを侍女ミルダは困った顔で見守っていた。他人の夢の話など聞かされてどうすればいいというのか。どうする必要もないけれど、どっと疲れた。

 お嬢様の世界は狭い。空想くらいは自由にさせてあげたいけれど。

 なぜ悪人面の男性を空想してドキドキしてるんです? せめてもっと素敵な方を空想しましょうよ。屋敷に盗人がやってきたら、自分から盗人に付いて行きそうで恐いんですが。

 お茶を片付けながら、行き場のない不満をミルダは内心でモリーネの夢にぶつけていた。



「ハラディ語の勉強を強化した方がいいですね」

「……今で十分じゃない?」

「夢の中でスラスラ喋れなかったのでしょう? 勉強が足りないせいだと思います」

「うっ、そうかも、しれないけどっ。苦手……なのよねぇ……。私、母国語が話せればいいと思うの」

「ツィウク家の娘がハラディ語を自由に操れなくてどうします。では、明日から頑張りましょう!」

「明日から? 仕事が早すぎない? そのうちで、よくない?」


 モリーネの訴えは聞き入れられることはなく。ミルダはテキパキとテーブルを片付けた。

 ミルダに促され、モリーネも自分の部屋に戻ろうと立ち上がった。

 モリーネはもう一度庭を眺める。

 すでに陽が傾いており、まもなく空は赤みを帯びて行くだろう時刻。そこにはいつもの庭が広がっているだけ。

 モリーネは屋敷へと戻った。


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