第17話(王太子)
アレグイルがタラント使節団の方へと近付いてくる。
モリーネは目の前の現実に困惑していた。
王太子? アレグイルが?
遠くにその姿を見つけたときは嬉しかったけど、それよりも驚きの方が大きかった。相変わらず険しい目つきで、すっきりとした立ち姿。以前より極悪さは減ったようだけど、冷淡さが増してるみたい。ハラディルフの最初の活動でいきなり出会うなんて、と浮かれ。でもそれは、一時のことで。
モリーネはすぐに何かがおかしいと思った。煌びやかな衣装を着たアレグイルの姿は、この場で注目を浴びるに相応しい身分の証明でもある。そして彼の左右でアレグイルに親しげに寄り添う美女。彼女達は、ひときわ美しく着飾っていて。まさか?
ボソッともらしてしまったアレグイルの名を兄が咎めた。
アレグイルが、王太子? 彼の横の美女達は彼の妃?
彼が、弟と好きあっている女性を無理やり妃にした、あの、王太子? でも、あれは、間違った噂だったらしいから……。
で……どういうこと? 何がどうなってるの?
アレグイルが徐々に近付いてきて、ざわめきが増していく。
モリーネは兄の隣でぼんやり立っていた。
笑顔を作ることもできず、身体が硬直してしまう。兄の腕に添えた指先が小さく震えて、唾を飲み込み目をしばたたかせる。モリーネは自分が緊張していることを自覚した。
アレグイル相手に、どうして緊張なんか。そう思っても、震えは止まらなかった。声は出るだろうか。全然自信がない。
モリーネは目の前に迫るアレグイルから視線を外し、俯いた。
「ラフィール・ザイ・ツィウク。貴方の連れを、紹介してもらえるか?」
アレグイルの声が、静かに響く。ざわめきは彼が立ち止まったと同時にあたりは静かになった。誰もが息を潜め様子をうかがっている。
モリーネの伏せた視界には彼の足先しか入っていない。これはアレグイルなんだから、そう言い聞かせるのに。モリーネは口を小さく動かそうとしたけど声にはならなかった。
こんな時に、こんな時にっ。
どうして緊張するの? アレグイルなのに喋れないの? 私は、いつも、どうしてっ……。
モリーネはキュッと唇を噛み、兄の腕を掴んだ。悔しくて、モリーネは顔が上げられずにいた。
兄ラフィールは、モリーネがいつものように緊張していることにほっとしていた。
王太子がなぜ妹に声をかけようとするのかはわからない。だが、モリーネは、特にどうということのない娘だ。自分の妹だから可愛いとは思うが、これが知りもしない他人なら目に留めないだろう。まして緊張している妹は、ひたすら引きつった顔で無言なのだから。何も起こりはしない。
ラフィールは、視線を落として緊張した面持ちのモリーネを見ながら、そう自分を納得させた。そして、渋々、王太子に答えた。
「私の妹、モリーネ・ザイ・ツィウクでございます」
兄ラフィールがそう告げると、モリーネは王太子に向けて腰を落とす優雅な礼を行った。言葉はない。
モリーネが王太子に言葉を返さなくとも不敬にはあたらない。もともとタラントの娘は家長によく従い大人しい性格という評判がある。見知らぬ男性と気安く言葉を交わさないモリーネの態度は、王太子を前にしたごく普通のタラントの娘と言えるものだった。
何が起こるのかと期待して大勢が耳を澄ませているその場に、軽やかな音楽が流れ始める。ダンスが始まるのだ。
広間中央へと男女が移動し、列を作っていく。
「モリーネ・ザイ・ツィウク。ダンスの相手を」
王太子がモリーネの前に手を差し伸べた。
二人を取り巻く観衆が張りつめた空気をその場に閉じ込めているようだった。そして彼等は王太子とその前に立つ娘に視線を浴びせていた。動こうとしないモリーネへは非難を込めた眼差しを。
ラフィールは悩んだ。断れるものなら断りたいものだが。相手は王太子なのである。動こうとしないモリーネの手を、王太子に渡すべきなのか。
ラフィールが思い悩んでいる間、王太子はじっとモリーネを見下ろし待っている。うつむいた娘が珍しいわけでもあるまいに。ラフィールは二人を何度も見比べた。おそらく、他の観衆も多くはそうしていただろう。
張りつめた空気の中、モリーネはゆっくりと震える手を差し出した。
その手をとり、モリーネを連れて王太子は歩き出した。二人の前方に立っていた人々がさっと左右に割れ、道を譲る。その間を、微笑ましい会話が交わされるとはとても思えない雰囲気で二人はまっすぐ進んでいった。
二人が中央の踊りの列に加わると、ラフィールのあたりに元の空気が戻った。喧騒がもどり、踊る二人を話の種にあちらこちらで歓談に花を咲かせはじめる。
広間中央を眺めながらカッセウ氏が呟いた。
「モリーネ嬢は、王太子殿下とオルレイゲン殿下の両方の心を捕えた、か」
ラフィールはその言葉を咎めるようにカッセウ氏の方を振り向く。が、カッセウ氏はどうにも釈然としないといった表情を浮かべていた。彼も本気でそう思っているわけではないようだ。ラフィールが反論しようとした声もため息交じりで。
「ありえない……、そんな……」
「でもこの状況は」
「ザイ・ツィウク氏っ! 素晴らしい妹をお持ちですなっ」
ラフィールとカッセウ氏がこの状況に戸惑っているところへ次々と人々が声をかけてきた。王太子に声をかけられた娘の存在はラフィールが思った以上に大きかったのだ。王子オルレイゲンが女性に声をかけることはよくあるが、王太子が自ら声をかけたのをはじめて見たという。
ラフィールには妹が睨みつけられていただけの現場が、他の人々には一目で恋に落ちた二人という場面に置き換えられていた。誰もが王太子が妹を睨んでいたと認識しているにも関わらず。
「いやぁ、こんな場面に遭遇できるとは思いませんでしたよ。あの王太子殿下が恋におちるとは」
「恋に落ちては、いないでしょう」
「何をおっしゃる。他の人が全く目に入っていなかったではありませんか。王太子殿下の後ろにいた妃達の凄い目ときたら、背筋が凍りそうでしたよ。あっはっはっはっ」
「は、は、は」
機嫌のよさそうな貴族男性の言葉に、ラフィールは乾いた笑いを返した。
広間の中央で踊りの列に並んだモリーネは、固い動きながらなんとか音楽にあわせ身体を動かしていた。アレグイルと向き合って。
踊っている間は言葉を交わす必要がないので、モリーネにもほんのわずかに余裕ができた。アレグイルと目線を合わせることはできなかったけれど、モリーネはそっとアレグイルをうかがい見る。
不思議な現象ではなく現実の目の前にいるアレグイル。会いたいと、思っていた。ずっと、すごく。だから、ここまできたのに。嬉しいはずなのに、落胆している自分がいた。
アレグイルが王族だったなんて。どうして教えてくれなかったんだろう? 会いにこられたら、迷惑だから?
色々なことがモリーネを気落ちさせる要因になっていたけど。一番の理由は、やっぱり彼の横に立つ美女達だった。
アレグイルに妻や恋人がいるなんて、思わなかった。なぜか自分のアレグイルだと、自分のためだけに存在する人だと思っていて。
こんな現実は、知りたくなかった。
固い表情のモリーネを前に、アレグイルは非常に不機嫌で、表情そのままの気分だった。しかし、アレグイルはいつも厳めしい表情であるため、彼が不機嫌かどうかを他者が知るのは難しく。今もいつもと変わらぬ様子と判断されていた。常にない不機嫌にもかかわらず。
アレグイルは、命を狙われた狩りの事件から今まで自分を暗殺しようとする首謀者を洗い出すことに懸命だった。二年近く前、狩り場で暗殺事件が起きてからというもの、次から次へと事故に見せかけた暗殺や夜盗の襲撃が多発するなど、王太子宮のみならず王宮全体が緊迫していった。
そうして一年前には三人の妃達をみな実家へ返した。妃達のうち二人は確実に暗殺者と繋がっていたが、その繋がりは直接的ではなく彼女等ではその根源に関する重要な情報を何一つ持っていなかったためだ。
様々な邪魔を排除し、最終的に王妃まで辿り着いたのは極最近のことである。やっと王妃からその地位を剥奪するに至ったのはさほど前のことではない。
王妃を僻地に幽閉同然の立場に追いやったものの、彼女の息子オルレイゲンは残っている。新しく入った今の妃達も元王妃との接触があったとの報告がある。
まだ王太子の命を狙おうとする者が残っているのか。王宮を訪れる者達を見極めている段階で。王宮内が落ち着くかどうかは、わからない状況だった。
そんな時に、モリーネがハラディルフへやってきた。タラントの使者とともに。
必ず生きて会うのだと思っていたモリーネが、現実に現れた。彼女は十六になったか、その直前かという年齢だ。もし隠し通路に現れた彼女なら、自分とはすでに一度は出会っているはずだった。
果たして、ここに現れたモリーネは、あの彼女なのだろうか。自分が生き残ったことで、彼女の未来が変わっていたなら、彼女は自分と出会っていないのかもしれない。
そんなことを考え、アレグイルは憮然としていた。
あのモリーネであって欲しいと、どれほど願っているのかと思ったからだ。
あのモリーネなら、目があえば笑顔を浮かべただろうと思い。喜びを露わにしたはずだと思う。
しかし、ここにいるモリーネは、オルレイゲンに誘われその手をとる、ごくありふれた貴族娘の一人のように見えた。オルレイゲンと並んでいる姿を見て、お前もか、と。そう思うことに、思わされたことに失望する。
過去に会ったモリーネは、自分の命を救うために神が遣わした特別な存在のように思っていた。彼女が弟の美貌に惑わされる妃達と同じ存在だとは認めたくなかった。
彼女は年頃の娘で、自分の考えが大人気ないと十分に理解しながら。目の前にいるモリーネが、石壁を越えたモリーネであって欲しいのか、そうであって欲しくないのか。アレグイルは複雑な感情でモリーネを見つめてた。
二人は互いに複雑な思いを胸に、向かいあって踊っていた。
時折触れる手と、すれ違う視線。言葉はなかったけれど、その近い距離が、無言の中にも少しだけ二人の感情を和らげていた。




