1・きつねうどんは美味い
『諦めろ』
小さい頃からねーちゃんが散々口にしてきた言葉だ。
刷り込まれるように言い聞かされたそれに幼い俺は反論することができなかった。幼い俺が素直だったこともあるし、なによりねーちゃんが恐かったのが一番の理由だ。
ねーちゃんは俺の三歳上の大学二年生。なにを学んでいるのかはよく知らない。でも恐いことは知っている。
あの人は平気で弱っている魚に石を投げつけるし、か弱いネコを空に放り投げることができる人だ。俺が風邪をひいたとしても優しく介抱などしてくれない。「私に風邪をうつすな。治るまで外に出ていろ」と家から叩き出されるのが常。容赦がなさすぎる。
まあ、そんなわけで、気付けば諦めることに慣れきっている自分がいるのだが、それはそれで世の中をうまく渡っていくためには必要スキルなのではないかと感じている。
「たとえばこのきつねうどんとか?」
この学校には限定品のパンがある。その名も『絶品焼きそばパン』。ふわふわのコッペパンに挟まれた具材盛りだくさんの焼きそばの上に金色に輝く目玉焼きが乗っかっている。
一日限定二十個。公平を期すために、売り出すのは昼食時のみ。それを巡って熾烈な戦いが日々繰り広げられているわけだが、俺はそれに参加したことはない。始めから諦めている。
うちのクラスは購買からかなり離れた位置にある。そのため最初の段階から不利だし、そもそも運動神経が中の中の自分では、到達したところで売り切れ必至。
戦いに参加できたとして、奪い合いの中でボロボロになるのは確実だ。
きつねうどんなら無駄な体力の消費をせずに楽にありつける。空腹を満たすためには加えておにぎりの一個は必要ではあるが。
だからありつけるかどうか分からないような熾烈な戦いにも参加することなく、無難なきつねうどんをすすっている。
「まあ、これはこれで美味いんだけどね」
時刻は十二時三十六分。昼休みは十二時三十分からなので、食堂が混雑するにはまだ早い。人はまだまばらだった。
だが限定の焼きそばパンはとうに売り切れている時間だ。諦めの悪い友人は焼きそばパンのためにチャイムが鳴るなり走り出していた。俺は授業が終わり教科書を片付け、のんびり歩いて食堂へ。
注文して一分で出てくるわりにここのきつねうどんは美味しい。かつおダシがしっかりきいているし、油揚げも味がちゃんと染みている。絶品とまではいかないが、そこらのチェーン店には負けていないと自負して良いと思う。あくまで庶民の舌での感想だが。
うどんを食べるときはまず汁から。そして数本のうどんをすすってコシを確かめる。次にようやく油揚げ。口の中に味が広がるので、それが消えないうちにまたうどんをすするのが俺なりのきつねうどんの食べ方だった。
ジューシーな汁の予感に未だ満たされない空腹を抑えつつ、油揚げを箸で持ち上げたときのことだ。
視線を感じた。
それはもう針で肌を突かれているかのような、突き刺さるような視線を感じた。
思わず箸を止めて顔をあげる。
「金田……?」
こちらを見ていたのは、うちの学年でも指折りの美少女の部類に入るとウワサの金田 悠月だった。
ふんわりと垂らされた金の髪はどこかの国のハーフのものだと聞いたことがある。白い肌に映えるピンクの唇からはイチゴの匂いがするらしい。彼女に憧れる男子生徒は数多存在していると言う。全部ウワサだが。
友人の美少女アイドル好きの一人が写真部から高額でブロマイドを購入していたので、それなりに人気のある人物なのだと認識している。鼻息が荒くて気持ち悪かったことをよく覚えている。アイドル好きはべつに構わないが、そんな一面は隠しておいたほうが良いと思う。今後の社会生活の潤滑さを求めるならば、ぜひそうすべきだ。
美少女アイドルってやつは限りなく二次元に近い三次元の生物なのだ。だから触れることは叶わない。まして話し掛けるなんて、とこのときまでは思っていた。
金田もそんなカテゴリーに入る部類の人間だ。いや、そこらのアイドル顔負けの美少女っぷりに引け目さえ感じる。だからたとえクラスが同じだとしても、こちらから話し掛けるなんてすることはないだろうと思っていた。
思っていたが、こうまでギリギリと見られると話しかけないわけにはいくまい。
「えっと、何か用?」
話しかけたが返事は返ってこなかった。視線は未だ注がれている。よく見てみると、金田の視線は俺自身というよりは俺が持つ油揚げに注がれているようだった。
金田は羨むべきか、購買の限定焼きそばパンを胸に抱えていた。たかが焼きそばパン。されど誰もが一度は食べてみたいと欲する焼きそばパン。それを柔らかそうな胸に押し付けて、金田はじいっと俺が持つ油揚げを見つめていた。
「欲しいの?」
そう聞いてやっと金田は我に返ったらしい。ぶんぶんと金の髪を振って否定の意を唱えた。
「いやいやいや。そ、そんなことないよっ。大丈夫。私、焼きそばパンゲットできたし」
否定はすれど、視線は油揚げに釘付けのままだ。力一杯否定したからか、胸に押し付けている焼きそばパンがつぶれて麺が溢れ返っている。もったいない。
「箸を付けてしまったので悪いが、それでもよければ」
「だ、だだダメだって。マズいよ、それは」
提案は速攻却下された。けれど「ああ、そうか」と思う。「マズい」というのは、きつねうどんが「不味い」ではなく、男子が口を付けたものを食べるのは「できない」ということだろう。
しかも男子から人気らしい女子のことだ。どこで誰が見ているかしれない。余計なやっかみを受けることになりかねない。
「あ、ごめん。無神経だった。人が口を付けたものとかマズいよな」
では、と引き続き箸を動かして食事を始めることにした。「いるか?」と尋ねて「いらない」と返されたのだ。これ以上の会話は必要ないだろう。
顔と名前は知っているが友人じゃないし、世間話に花が咲く関係でもないのだ。
おっといけない。箸を止めている間に油揚げから輝くダシ汁がポトポト落ちてしまっている。
箸で持ち上げた油揚げを口に含もうとしたとき、
パクッ
横から金の光が視界に侵入してきた。俺がかぶり付く寸前の油揚げは、とんびに油揚げならぬ美少女にかっさらわれてしまった。
ピンク色の唇が油揚げの油で艶めかしく光沢を放っている。もぐもぐという文字がこれほど似合う食べ方をされたことはない。
「う~、美味し~い!」
油揚げをかっさらった彼女は頬を染めて、それは美味しそうに咀嚼して嚥下した。
そのとき、俺は見てしまった。
金色の髪で覆われていて傍から見ると分からなかったかもしれないが、近くにいることで見えてしまったのだ。
ポンッ
コルクが抜けるような小さな音が鳴り、金田の耳元でごくわずかな白い煙が立ち上った。
そして見てしまった。
常ならばつるんとして丸い耳が、ふわふわとした金の毛で覆われた形に変化し、ツンと尖ってぴょこんと動く様を。
「あっ」
「あっ」
お互いに何かに気付いたような声を出す。金田のほうはその後の言葉を発することができないでいるようだった。
代わりに俺が言葉を発する。
「金田……それ、趣味?」
獣耳とはまた顔に似合わず凄い趣味をお持ちですね。そんな感覚で出てしまった言葉だった。
「んなわけあるかぁっ!」
ドガッと音を立てて俺の顎に拳がめり込んだ。
華麗なる技をくらって俺の体が宙に浮く。浮いて床に沈む頃には、金色の髪は食堂からあっと言う間に姿を消していた。
「うわぁーん。だからマズいって言ったのにぃっ!」
そんな声がこだましていたが、悪いのは俺じゃない。勝手に口を付けてきたのは向こうのほうだ。言いがかりはやめてくれ。
床に倒れて数秒後には痛む顎を抑えつつ食事を再開したが、後に金田にこっぴどくふられた男としてしばらくウワサに上ったことは大変不名誉なことだ。訴えて良いですか? でもきっと負ける。美少女対そこらの男子生徒なら、圧倒的にこちらに分が悪い。可愛いは正義なのだ。
だが一言言っておく。誰も聞きやしないだろうが言っておく。
俺は悪くない。
俺はただ、限定の『絶品焼きそばパン』を諦めてきつねうどんを食べていただけだ。
俺は悪くない。……よな?
一話目のくせに主人公の名前が出てこない不思議。