Sの思い出。
いつの間にか常識になってること。
悪のほうが強く、正義は弱い。
うそつきは得をして、正直者は損をする。
そもそも勧善懲悪なんていうドラマや映画が流行るのも、普段は起こり得ないファンタジーにカタルシスを見出してるから、としか言いようがない。
私たちの世界の真実は、もうそうとうねじ曲がってしまってる。
この世界でどう考え、どう行動するのが「正しい」のか、分からなくなってる。
すべての感覚がマヒしているからだ。
こんな時、思い出す人が一人だけいる。
Sという男の子。
男の子と言っても大学時代の同級生だから、青年と言ったほうが正しいかもしれない。
彼は、エイズだった。
なぜ、どうして、彼がエイズになったのか私は知らなかった。
でも初めて彼が自分がエイズであることを告白した時、私はどう反応したらいいのか迷った挙句に、核心はつかないけれど状況が把握できそうな質問をしてみた。
ある意味私がふだん取る、安全で防衛的なコミュニケーションだ。
「なぜエイズだと分かったの?」とか、
「でも深刻な症状じゃないんでしょ?」とか。
すると彼はニヤッと笑って、
「おまえ、興味津々だろ?」と言った。
私は何も言い返せなかった。恥ずかしかった。
Sには分かっているのだ。
私は私の印象が悪くならないようにしか気を使ってないこと、人に嫌われないためのコミュニケーションしか取れないということを。
Sは同情しているふりをしてあたりさわりのない会話をする人間の弱さとずるさを見透かしていたのだ。
世の中で、自分の力ではどうしても抗えない、強力な負の力を目にした時、私たちは自分の無力さを呪う。
中にはそれを力に立ちあがる人もいるし、怒り狂う人もいるし、あまりの絶望に嘆き悲しんで居るだけになってしまう人もいる。
ただその強力な負の力が自分の身に起こった場合にのみ与えられる才能があるのだと、その時私は知った。
それは「この世界を少し遠巻きに眺める才能」だ。
自分の死について身近に感じることは、この世界を客観視する才能を与えてくれる。
死を前にすると私たちが中毒のように追い求める物の価値は一瞬にして消えてしまう。
Sは私たちのその滑稽な様をみて、こんなくだらない世界に自分は今までいて一喜一憂していたのかと自嘲する。
Sとは卒業以降、会っていない。
たぶん、もう、居ないと思う。
時々、私に「興味津々だろ?」と言ったのは、もしかしたらSの精いっぱいの虚勢だったのかもしれないと、ふと思う。
私たちは普段死について考えたりはしない。
生きていることをことさら大げさに考えないのと同じように。
でも世界を遠巻きに眺める特権を得たSからみたこの世界はもう、どうしようもないほどねじ曲がっている。
そんな時、このねじ曲がった世界でなんとかことなきを得ようとしている私たち、なんとかそのねじ曲がり方に沿うように生きている私たちを見て、Sは腹が立ったのかもしれない、と思う。
誰に強制されるわけでもなく、なんの根拠もなくねじ曲がろうとする私たち。
私たちだって傷つきたくはないのだ。
正義をもつこと、正直で居るということは人一倍傷つく人生を選ぶということに他ならない。
でも、本当に傷つくだろうか?
私たちは悪の持つあまりの力の大きさ、強さに圧倒されすぎて、正義を信じることが出来ない……。
Sのニヤッと笑った顔を思い出す。
あの見透かされたような冷たい視線はすべての言い訳を一瞬にして無にしてしまう。
私は心の口をつぐむ。
そして、せめて黙っていよう、と思う。
それがたぶん、唯一の方法なのだ。
口を開けば人は偽ってしまう生き物なのだ。
せめて黙る。
言葉にすることでそこに起こる感情を片付けてしまわないように。
言葉にならない感情そのものをただただ黙って感じることが、このねじ曲がった世界に反抗する唯一の方法なのだ。
今の私にはそれしか思いつけない。
そしてSに対してそういう対応こそ、あの時の真実だったのではないかと最近思う。
初めて小説をアップしてみました。
難しかったです。
色々未熟ですみません。。。