002
街は平穏だ。人々の頭に隕石のことは無い。それぞれ別のことを考えている。仕事のこと、恋人のこと、学校のこと、これから向かう取引先のこと。視線は一点を捉え、その一点に向かって誰もが歩んでいる。人生の忙しい歩み。歩かない者に対する批判的な目を誰もが携えている。「隕石?そんな場合じゃないんだ。そんなことよりもやることがあるだろう?」彼らはそう思いながらじろりと人を見る。
ビルの光沢のある壁の向こうに空がある。青く反射させているビルの壁の向こうに。分裂をまぬがれた白い雲が並行に流れている。雲は下から眺めると、本当は存在しない偽物のように思えるが、飛行機の窓から眺めると哀れなほど確かに空を流れている。
会社に向かう途中で、若者が集団で叫んでいた。
「五月二十二日!五月二十二日!」
旗に日付を記し、顔に戦士のようなペイントをして上半身裸で叫んでいる。彼らは数少ない隕石を危険視している人々だった。二十人か三十人はいるだろう。珍しいことだ。若者でさえ興奮することは少なくなっている。しかし、もうすぐ警察が来て事態はすみやかに鎮圧されるだろう。
会社に着くと上司から呼ばれてこう言われた。「この書類を頼むよ。来週までには」来週までには。来週が本当に来るのだろうか?
会社のトイレに潜み、埃っぽい空気がこもる狭い空間に閉じこもってラジオを聴く。イヤホンを着けて身を屈め、誰かから姿を隠すように、こっそりと。ラジオではアナウンサーが淡々とした口調で米軍の作戦について話している。
「本日五月十八日、米軍は作戦を実行するために新たに一基のロケットを打ち上げることに成功。これまで各国の打ち上げたロケットはどれも効果を上げるのに成功しているとは言えず、米軍の新たな作戦に期待が寄せられる。本日、日本時間の午後七時に行われるアメリカ大統領の会見によって、次の作戦による詳しい説明がなされる予定。日本政府はこれまで同様――」
何か物音が聞こえて僕はイヤホンを外す。個室の外に人が入って来たみたいだった。彼らは若者らしい愉快な気分で話をしている。笑い声の合間に話をしているような。水を流す音が数回聞こえ、彼らは笑い声とともに去っていった。僕はラジオの電源をすでに切っている。彼らにラジオの音声を聞かれてしまうことが、なにかやましいことにように思えたのだ。
温暖な明かりがあった。優しさを模した肌触りの良い色をしていた。テーブルは表面に樹々の要素をむき出しにしている。部屋は親密感を煽る密接した狭さだった。僕ら3人は身を寄せ合って座っている。誰の顔にも明かりの赤茶色が揺らめいている。僕らはこの店を質の良い“よく分かっている店”と呼んだ。客のニーズをよく知っている、なかなか優秀な店だ、と物知り顔で卑猥な笑みを浮かべて言った。部屋は横に開かれ、神秘的な薄暗い廊下が通っている。店員の折り目のついたスラックスが静かに時々通り過ぎていく。
「会社に嫌な奴いない?」と村田が言う。
「みんな優しいですよ」とクミコが言う。
「本当に?」
「本当ですよ。佐伯さんも美和さんも静代さんも優しく教えてくれますよ」
クミコは慌てて、訂正するように言った。誤解が生まれるのを恐れているのだ。出来たばかりの自分の不安定なポジションに怯えている。小さな誤解で居場所が消えてしまうと思っている。村田は信じていなかった。意地悪く笑みを浮かべたまま黙ってクミコを見ている。コリコリと漬物をかじる音が村田の奥歯から聞こえている。誰も何も言わないので「はい」とクミコはもう一度言う。頷きながら。
「まあ、そう言うよな」と村田が笑いながら言う。
「本当なんですって」クミコは笑った。
「ならいいけど」
彼らの微弱な性のやりとりを眺めながら、僕は隕石について考えていた。こうしている間も地球に近づきつつある直径11kmの隕石について。音の無い宇宙の暗闇の中を、隕石は滑り進んでくる。無音のエコーを響かせて、沈黙を届けるために熟考して突き進んでいる。隕石は事実そのものみたいだ。大袈裟な音も反応も無く、無音の世界で地球へと薄情なほど確かに進んでいく冷たい事実みたいだ。隕石は見えないところで冷ややかに進行している。静かに、確実に。
「どこにでも嫌なやつはいるよ」と村田が言う。
「会社には良い人ばかりですよ」とクミコが言う。
「まだ気づいていないだけだよ。必ず嫌なやつが見つかるよ」
「必ずですか」
「必ずだよ。人間のあらゆるグループには必ず嫌なやつがいるんだよ。彼らは同じ人種なんだ。あるいは同じ種族か。どこかから湧きでてきて社会に静かに潜り込むんだ」
「時々は、嫌な人を見ますけど」
「彼らは決して自分たちでは気づかないんだ。嫌われているということに」
「どうしてですか」
「そうプログラムされているからさ。彼らは嫌われるために存在しているんだよ」
「なんのためにですか」
「みんなの敵になるためだよ。嫌われ者の彼らがいるから、俺たちは団結できるんだよ。彼らは俺たちを団結させるためにどこかから湧きでて嫌われ者になるんだ。団結する者たちと、嫌われる者たち、その二つのグループのことを人間と呼ぶんだよ」
「どこから湧き出るのかしら?」とクミコはたずねる。
店員がやってきてそれぞれの空いたグラスを下げていく。僕たちは次に注文する酒をメニューの乾燥した紙の上で指差し、店員に向かって視線を送る。店員の心には訓練された穏やかさがあり、店の雰囲気を形成する。彼らはいつの間にか、店と一体化しプライバシーの喜びを抹消する。
「いつまで?」と僕が聞く。
「何が?」と村田は言った。
「いつまでに彼女は馴れるかな」
「一ヶ月もあれば十分だよ」
「そうですか」とクミコが言う。
「地球は?」
「地球がなんなんだ?」
「地球はあとどれくらいもつ?」
「永遠だよ」
「永遠なんてあり得ないよ」
「それぐらい長くってことさ」
「隕石がやってくる」
「お前まだ、そんなこと信じてるのか?」
「隕石は消えてないよ」と僕は言う。
「消えたさ」と村田が言う。
「何も解決していないはずだ」
「消えたんだよ、隕石は。人々の心から不安は消えたんだ。誰ももう隕石のことを思い出さない。隕石とは不安のことだったんだよ」
村田は髭の伸び始めた頬を撫でながらアルコールの循環を感じている。透明な濃い液体が彼の身体に静かに潜り込んでいる。短く刈り上げた髪の両側に白髪が混じっている。焼けた黒い肌の下で、彼の身体は緩んでいる。スポーツ選手のように頑丈だった彼の身体は緩やかに脂肪を蓄え始めている。彼の声は喉の奥で掠れていた。疲労して、疲労することにすら慣れ、多くを諦めて来た声。いつでも自分の若い息子を諭すような、疲弊した掠れた声を出す。
僕らは家に帰るために駅のホームに来ていた。
「俺は反対方向だから、ここで帰るよ」と村田は言った。「帰り道に気を付けろよ。隕石が降ってくるかも知れないからな」
クミコは酔ってうつむいている。小さなバッグを両手にぶら下げて、時々うめき声を上げる。ほんのわずかに、小さく揺れている。ホームは疲労と安堵が充満していた。帰宅しようとする人々のネクタイをわずかに緩めようとする微かな安心。頭の片隅に湧く、家の風景。
電車がやってくる音がしても、クミコはまだ揺れていた。目を閉じている。僕は彼女の肩に触れて「危ないよ」と言った。「電車が来たから」
すると彼女は目を開いて言った。
「本当ですか?飲み過ぎちゃって。本当ですね。命の恩人ですね」
彼女は笑っていた。