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幅の広いテレビを見ている。洗練された表面を持つスリムで大きな板を。一体いつからこんなデザインになったのだろう。僕は古いテレビを思い出す。自分が慣れ親しんだテレビという僕のイメージ像とマッチする、古いテレビを。それは背中の大きな灰色の箱だった。枠は太く、埃っぽいディスプレイと堅い小さなボタンが並ぶ、時代遅れの無駄なデザイン。
若い女性が映っている。赤いTシャツを着て首もとにさりげない金色のネックレスをしている。湧き出る若さと、果汁のような笑顔。それからほんの少しのユーモア。もしかしたら採用要項に書いているあるのかも知れない。湧き出る若さ。それからほんの少しのユーモア。
朝食にはサラダと食パンが出た。妻は眠たそうに無言で台所を行き来して僕の前に皿を運んだ。食パンの焼けた匂いとサラダにかかるドレッシングの酸味の匂いがする。ランプの消えたケトルを掴んでカップに注ぐと白い煙がもくもくと上がった。インスタントコーヒーの偽物っぽい匂い。妻は僕の向かいに腰掛けると毛玉のたくさんついたパジャマを着てコーラを飲み始める。
「ごはんは?」と僕が聞くと、
「いらない」と答える。「お腹が空いていないの」
それから眠たそうに腕を伸ばすと、身体を震わせて涙を滲ませる。飽きたように携帯をいじる。隣には彼女が読もうとしてずっと置いてある料理の本が積んである。その間に挟まる住宅やスーパーのチラシ。
「変えていいかな」と僕が聞く。
「なにを?」
「チャンネル」
「ダメよ」と妻が言う。「見ているんだから」
約一年前、政府がある発表を行った。地球から離れた宇宙のある場所に、直径11kmほどの小惑星があるという発表を。その惑星は軌道上、地球と衝突する恐れがある。もしも、という話を政府はしなかった。現在その惑星に対するあらゆる対策を講じているところである。話はそこで終った。政府の発表はほとんど重要性を持たなくなった。その代わりにアメリカの大統領の会見が映しだされるようになった。米大統領は力強い口調で人類の安全を宣言した。そうして始まった著しいパニック。
テレビでは膨大な特集が組まれた。政府が扱わなかったもしもを番組は徹底的に取り上げた。もしもその惑星が衝突したら。もしも人類の立てた対策がうまく行かなかったら。徐々に明らかになる事実の中、衝突の予定は一年後であることがわかった。それらの膨大な番組は大きなパニックを巻き起こした。電話回線はストップし、買い占めが起こり、交通は麻痺した。仕事にやってこない人間がいるというニュースが流れ、自殺者が数名出た。犯罪率が上昇し、レイプや殺人、強盗が起きた。と言っても、それらはほんの少し普段より増えたに過ぎないが。パニックは二ヶ月弱続いた。米大統領が会見した初日にピークを迎え、やがて右肩下がりに沈静化した。二ヶ月が過ぎると、人々の生活はほとんど元の通りに戻った。人々は飽きていた。一年というあまりにも長い猶予に。
米大統領が会見した一週間後に、日本のテレビでは新しいチャンネルが開設された。惑星に関する最新の情報を公開する専用のチャンネルが作られた。惑星に対して指揮を取ったアメリカ政府の動向を逐一翻訳して聞かせた。何も変化の無い時、そのチャンネルではひたすらアメリカのアナウンサーが惑星に関するデータを話している。
僕は久しぶりにそのチャンネルを見ようと思った。延々と携帯の画面をスクロールする妻の前にあるリモコンを取り、チャンネルを変えた。テレビは明るい賑やかな画面から、灰色の沈んだ画面へと変わる。
「ダメよ」と妻が言う。音が変わったことに気づき、顎を支えていた腕をどける。身を起こして手を伸ばす。それから、こう言う。
「ダメよ、そんなつまらないもの。元に戻して」
「もうすぐじゃないか」
「なにが?」
「衝突するまでさ。隕石が」
「大丈夫って聞いたわよ。結局大丈夫なんですって。何も起きないのよ」
予定では衝突はあと一週間かそれぐらいのはずだった。
家を出ようとした時に、玄関口で息子とすれ違った。息子は寝癖のついた複雑な髪を揺らせて洗面所へ向かう。夢遊病者のような様子と、深くしつこい若者の眠気。蛇口を捻る音と水の流れる強い音が聞こえる。それから、もう一度蛇口を捻る音が聞こえ、水の音は少し小さくなる。
「今日は休みか?」と僕が聞く。
息子は返事をしない。聞こえていないのか、聞こえていないフリをしているのか。
「学校?」ともう一度聞く。
「そうだよ」奥から息子の声が聞こえる。
「いつもより遅いな」
「部活が休みなんだよ。先生が倒れてね」
「どうして?」
返事の代わりに水を顔にかける音が聞こえる。バシャバシャと水の跳ねる激しい音。息子は遠まわしに挑発しているのだ。父親である僕を、それから、父親という存在を。
「どうして先生は倒れたんだ?」
「さあ、わからないよ。確か車に跳ねられたんじゃなかったかな」
「車に跳ねられたんだったら倒れたとは言わないだろう」
「確かにそうだね」
息子は青いタオルで顔を拭きながら僕の横を過ぎていく。息子は笑っている。何も気にはしていないのだという様子で。陽気な、気のいい青年を装って。息子はリビングに入りながらこう言った。
「母さん、昨日Tシャツを洗っておいてって言ったじゃないか。今日学校で使うんだよ」
「あら、そうだったわね」
「どうするんだよ」
「急いで今からやるわよ」
「間に合うの?」
息子の閉めるドアに合わせて彼らの声は小さくなる。僕の知らない彼らの親密な関係。深く、友人のように密接な。ドアは閉まり、彼らの世界は完結する。