零章 ~まだあなたと笑いあえていた頃~
私は魔法使いだ。
とはいっても、黒いとんがり帽子を被ったり、黒いローブをを纏っているわけではない。黒猫が手伝ってくれたりもしないし、怪しげな薬も作ったりしない。もちろん、悪魔と契約しているわけでもない。でも、確かに私は魔法使いだ。
理由はただ一つ。私には魔法が使える。
魔法が使えるから魔法使い。なんてわかりやすくて簡単。読んで字のごとくとは、このことだ。
使える魔法は唯一つ。物体を最大一センチ動かすことが出来る。ただ、それだけ。何の役にもたたない、けれどこれが、私が私を魔法使いと断定する確かな証拠だ。ただ超能力とは言わないでほしい、それはあんまり可愛くないから。そんなことをシキに話したら、お腹を抱えて笑われてしまった。ひどい彼氏だ。
私は隣にいるシキを見つめる。全体的に細い印象で、本を読む横顔がとても知的に見える。まあ、ひ弱そうと言えば頷かざるをえないけど・・・。
私は目線をシキから彼の部屋に移した。整然とした、という言葉が似合う部屋だ。机とベッドと本棚しか家具が見当たらず、それぞれがきちんと整頓されている。ふと気になるものが目に入った、本棚の上から二段目、ミステリー小説が置いてある段に一つ、妙なタイトルの本があった。
「護身術~基礎編~」
・・・なんだこれ?
私は訝しさに首をひねる。シキは確かに読書家だ。でも読む本はミステリー小説か推理小説がほとんどで、あとはSFとかがちらほらある程度だ。どうして武術の本、それも指南書があるのだろう。
「おーいアキ」
確か特に何かスポーツをやっているわけではないし、そもそも運動自体苦手なはず。来年からは大学受験だし、今から道場に通いだすってわけでもないだろうし・・・うーん何か不安になるようなことでもあったのかな。それともただ単に興味が沸いただけかも。
「ねえちょっと聞いてる?アキってば」
とんとんと肩を叩かれる。
すると、頭の中に直接語りかけられたかのような感覚に陥る。頭の中に別の人が入ってきて、聞こえてる?と問われているような、そんな不思議な感じがする。
私ははっとして、物思いに耽っていた意識を元に戻した。シキが心配そうにこっちを見ている。そのちょっと眉根を寄せた顔に少しだけ、胸が高鳴る。心配してもらうだけでこんなに嬉しいのは、私がシキを好きだという何よりの証だ。少し、誇らしく思う。
「あ、ごめんごめんちょっとあの本が気になって」
私はぱたぱたと手を振り、本棚を指差した。
するとシキは、ああ、と頷きどう説明したものかと考え始めた。
私は立ち上がって本棚に近づくと、その本を抜き取ろうとした。けれど思ったより高いところにあり、手が届かない。背伸びしても背表紙に触れるくらいだ。
「俺が取るよ」
シキが立ち上がろうとしたのを手で制して、私はその本を見つめる。
イメージは手で掴む感じ、見えない手が本を掴みゆっくりと、手前に引くように動かす。
すると本は微かに動き、背表紙の一部分を指でつまめる程度の距離だけ動いた。これならなんとか取れそうだ。
私はもう一度背伸びをし、少しだけ出っ張った本を二本の指でつまんで引っ張った。本は微かな抵抗のあと、するっと抜けて、落ちるように掌に入った。それは思ったよりも重く、間近で見るとかなり本格的なもののように見える。
「今、魔法使った?」
「うん、こういうときだけは便利だよね」
私はシキの隣に座り直し、本を手渡す。
シキは本を受け取ると、説教を始めるお坊さんのような顔になった。
「前も言ったけど、あんまり使っちゃ駄目だよ、いつ誰にばれるか分からないんだから」
シキは、もう幾度となく聞いた台詞を繰り返す。
シキは私が魔法を使うことをあまり良く思っていない。付き合い始めた頃、勇気を振り絞ってこの魔法のことを話すと、彼はものすごく驚いた後、とても怖い顔で「誰にも知られてはいけないよ、それはとても危ない」と言った。
こんなこと、今時誰に話しても信じてはもらえないだろうし、実践してみせるのも気が引けるから、誰かに教える気はもとより全然ない。それでもシキがあまりに真剣だったので、私はそれ以降、意識してばれないようにしている。まあ、使う機会もほとんどないから、そうそうばれるものではないと思うけど。それに、気をつけるのはシキも一緒だ。彼も私と同じで、魔法使いなのだから。
「わかってるって」
私はあやふやな笑みで返事をした。やはり心配されるのは嬉しい。
私が魔法を使えることはシキしか知らない。そして、シキが魔法を使えることは私しか知らない。まあ、彼がどんな魔法を使えるのかは詳しく知らないけれど・・・。なぜなら私が何度聞いても、大したものじゃあないよ。と言ってごまかすばかりで、ちゃんと教えてもらったことがないからだ。私だって、きちんと話したのだから、シキも話してくれるべきだと思う。
小学生の頃に気づいた私の魔法は、両親にも、学校の友達にも話したことはない。まあ、小学生の時はクラス中に話したけど、誰も信じていなかったからノーカウントとする。それは野暮だ。
とにかくこれは、二人だけの秘密ってやつになる。私が魔法を使えばシキは嫌がるけど、それが信頼の証だと私は思っているから、彼の前ではたまに使っている。これも一つの絆なのかな。
「で、結局なんでこんな本があるの?」
私は率直に聞いてみた。どう考えてもイメージに合わない。
シキは悩んでいた顔をこちらに向け、得意そうな顔で答えた。
「念のためかな」
「念のため?」
「そう、念のため」
私は首を傾げ、その意味を吟味する。念のためということは、必要になるかもしれないということ?つまり彼は誰かに狙われている?まさか、漫画じゃあるまいし、それはないはずだ。ならいじめ?いや、学校でも大体一緒にいるのだから、いじめられていたらすぐに気づくはずだ。もしかすると脅迫状が届いたとか?でもそれなら警察に通報するだろうし・・・。
「後は、そうだな、いざというときの為かな」
「それって念のためと何が違うの?」
「同じかな」
そのときシキが悪戯っぽく笑いながら、私を見つめていることに気がついた。からかわれたのだ。
「もうっ真面目に答えてよ」
「ごめんごめん、でも理由なんて特にないんだよ」
シキは気楽そうな顔でそう答え、本を脇に置いた。
私はからかわれたことに恥ずかしさを感じ、そっぽを向く。何か言い返せることはないだろうか、からかわれるばかりではなく、こっちからもからかってやれるような何か・・・。
「考えすぎて頭が痛くなった・・・シキのせいだ」
からかい返そうとして、いろいろ考えた末に出た言葉が・・・これだ。我ながら国語能力の低さに嫌気が差す。これではただ自分が馬鹿だと言っているようなものじゃないか。
私はちらっとシキを盗み見る。すると、彼は案の定笑いを堪えるように、ぷるぷると震えながらそっぽを向いていた。
「今のなしっ、もう一回」
私は、赤面しながらシキに人差し指を突きつけた。このまま引き下がってなるものか、どうにかしてシキをからかってやる。
するとシキは、笑い出すのを深呼吸することで沈め、まるで教卓に立った教師のように真面目くさった顔で話し始めた。
「考えすぎるのは悪いことじゃないよ、何も考えないよりはずっと良い」
私は不満たっぷりの顔を作って、えー、と控えめに呟いた。語りに入りそうな気配がしたからだ。
「いいかい、この世にはね、自分が思っている以上に頭が悪いやつは多い、そして、自分が思っている以上に頭が良い奴も多い」
私はじっとシキの語りに耳を寄せる。彼はよく演説するように語りだすことがある。その内容はよくわからないことが多いけれど、こうして熱弁を振るっているときの声は、とても優しく響いて、安心する。
私は出来るだけ良く聞こえるように、後からその声を思い出すことが出来るように、静かに、音を立てないように注意する。
「頭が良いやつはたった一つの足がかりから、回答を導き出す。でも逆に言えば、いくら頭が良くても、足がかりがなければ回答は導き出せないということ。足がかりなしの理論なんて、妄想に過ぎないからね。だからそういう人に会った時は、与える情報を吟味して、自分が知られたくないことへの足がかりを与えてはいけない、そうすれば、いかに頭が良くても知られたくないことにたどり着くことはない。重要なのは嘘をつくことではなく、ごまかすことでもなく、伝えないことだ。」
シキは自分の考えをまとめるように、少し間を置いて、再び語りだした。
「そのためにも考えることを止めてはいけない。自分の言葉に理由をつけられなくなれば終わりだ。大人だから偉い。先生だから正しい。働いているから社会人。そんな風に盲目的に考えてはいけない。妄信は、物事を見えなくするからね」
シキはふう、と息を吐き、私に問いかけるような目線を向ける。
私は先生に質問をする生徒のように右手を上げて、質問をする。
「はーいシキ先生しつもーん、もしその頭の良い人と出会った場合、具体的にはどうすれば良いの?」
シキはうむ、と偉ぶって頷くと、ゆっくりと優しい声音で、話始めた。
「はい、アキさん良い質問だね。ではそんな人に会ったらどうするか、それはね、簡単に言えばあまり自分のことを話さない、ということかな。例えば魔法のことを何も話さなかったら、相手はまさかアキが魔法を使えるなんて思わないだろう?」
「なるほど」
私は頷き、納得したことを伝えた。つまり、もし魔法使いであることを隠したければ、それに類すること全てを会話に出してはいけない、ということ。そうすればどんなに頭の良い人であっても、私が魔法使いであるとばれることはない。多分、この語りには私への注意も含まれているのだろう。
語り終えて満足したのか、彼は先生のような顔から元の柔和な笑顔に戻った。
そのとき、ブゥーンと、虫の羽音のような音が聞こえた。携帯電話のバイブレーションの音だ。私は慌てて時計を確認する。午後七時、まずいそろそろ塾に行かなければいけない時間だ。
「塾の時間みたい、そろそろ帰るね」
私は持って来ていたバッグの中身を確認する。参考書に筆記用具にノート、よし必要なものは全てある。ここから塾に直行しよう。
私は立ち上がると、急いで階段を降り、玄関へ向かう。シキも後ろから着いて来た、見送ってくれるらしい。
私は玄関に着くと急いで靴を履き、シキに向き直った。
「じゃあねシキ、また明日」
「ああ、また明日」
私は満足して玄関を開けると外に出て、塾への道を歩き出す。すると、後ろから慌ててシキが出てきた。別に外にまで見送りに来なくても良いのに、と思いながらも私は笑顔で彼を見る。やっぱり長く一緒に居たい。
でも、シキの目はあんまり嬉しそうではなかった。というより、今までにないくらい真面目な顔をしていた。なにか、言いたいことがあるのだろうか。
私は不安を感じながらもシキを見つめた。別れ話・・・と言うわけではないだろう。なんというか、言い忘れたことに気がついて慌てて追いかけてきたみたいだからだ。
「あやうく伝え忘れるところだった」
彼は真面目な顔の中に、若干の恐怖を織り交ぜて呟いた。
「研究者には気をつけて」