貴方に会いたい
ある朝目覚めた「私」は、一人暮らしの部屋に不自然に残された二つ目のマグカップを見て、夢の中で交わしたはずの誰かとの約束が破られたことを悟る。顔も思い出せないその「誰か」の面影を探しながら、「私」は現実社会をまるで安全な映画の客席から傍観するようにやり過ごしていた。しかし通勤中、駅のホームで突如として日常のピントが焼き切れ、世界は熱に当てられた古いフィルムのように崩壊していく。
夢から醒めた時、約束は破られた。
「決して真実に目覚めないで」という、いつ交わしたのかもわからない密やかな誓い。掌に残っていた温もりだけが、それが嘘ではなかったことの唯一の証拠だった。
見慣れたはずの部屋は、まるで知らない誰かの抜け殻のように静まり返っている。落ち着こうとため息をつき、前髪をかきあげてキッチンに向かった私の足は、そこでピタリと止まった。
シンクの横には、昨日まではなかったはずのマグカップが二つ並んでいた。一人きりの部屋にはひどく不釣り合いな、二つ目のマグカップ。
底のほうには、まだ湯気が立ち上りそうなほど新しい珈琲の染みが残っている。それはまるで、この狂った世界から早く目を覚ましてくれという、誰かの切実な祈りのようだった。
昨日まではたしかに、確実に私の隣にいたはずなのに、今は霧に包まれたように顔が思い出せない。
声の響きも、名前の最初の文字さえも、スクリーンから剥がれ落ちる古いフィルムのように掠れ、消え去っていた。
私は夢へ戻ろうと決意し、ベッドへ潜り込む。固く閉じた瞼の裏で、夕焼けに染まるマリーゴールドの、むせ返るような青臭い香りに包まれながら、私は深く沈んでいく。
茜色のスクリーンに映し出された丘の向こう、誰かが振り返って優しく微笑みかけていた。
しかし、そこにいるはずなのに、掴めずに手が宙を掻く。差し伸べた手は、映写機が吐き出す埃混じりの光の粒となってほどけ、風の中へと溶けていった。
「……貴方はまだ、そこにはいない」
フィルムのノイズが混じった不鮮明な声。私はまだ、真実が待ち受けるフィルムの継ぎ目へ追いついていない。
その優しくも残酷な宣告とともに、私の身体は再び冷たい現実の客席へと引き戻された。
時計の針がドリップされた珈琲のように黒く溶け落ち、焦げた豆の苦い匂いが真夜中と夕焼けをかき混ぜていく。
あの人は誰だったのか。外見は思い出せないのに、別れ際にふと零れたかすかなため息と、世界中の誰よりも私を知っていたその手の温もりだけが、焼き付いた映像のように明滅する。
ピピピ、と目覚ましが鳴る。
毎夜、「私」は知らないはずの誰かを探して、夢と現実を曖昧に溶かしながら歩き回っている。思考の渦に呑まれながら、私は出勤の準備をした。
現実にはありえないはずの二つ目のマグカップを背にして。
満員電車に揺られながら、夢の外でも私は夢について考える。車内はひどく息苦しく、押し合いへし合いする背広やコートの群れは、まるでモノクロ映画のエキストラのように無機質で、誰の顔もピントが合っていないようにぼやけて見えた。
私は彼らに干渉することも、されることもない。
吊り革に掴まりながら、私はさながら暗闇の客席に深く腰掛ける傍観者だった。流れていく車窓の景色も、ざわめく人々のノイズも、すべては安全なスクリーンの向こう側の出来事。
そうやって、現実という名の退屈で強固な映画館の椅子に逃げ込んでいなければ、たちまちスクリーンの中に渦巻くあの狂気へと引きずり込まれてしまいそうだったからだ。
私は安全な観客だ。客席にいれば、何者かに怯えることも、自己の輪郭を見失うこともない。
しかし、日常のピントが焼き切れる瞬間は、無差別に口を開けて待っている。
聞き慣れたアナウンスが響き、会社に降りる駅のホームへ、顔のないエキストラの波とともに押し出された瞬間だった。
行き交う群衆の隙間に一瞬、あの夢の中で探していた「誰か」の後ろ姿がよぎった。
瞬きの間。ぱっと視界が入れ替わる。
不意に、駅のスピーカーから流れる発車メロディが、古いレコードの針飛びのように歪んで千切れた。
電子音の残響は、いつしかカタカタと一定のリズムを刻む古い映写機の駆動音へとすり替わっていく。
周囲を歩いていたはずの乗客たちの身体は、白熱電球の熱に当てられたフィルムのように端からチリチリと焦げ、灰となって崩れ落ちていく。
誰もいなくなったホームの無機質なコンクリートが、足元でぐにゃりと波打ち、溢れたブラックコーヒーのようにどろりと黒く滲んでいく。
それはゆっくりと私の靴底を浸し、いつの間にか見慣れた自分の部屋のフローリングへと溶け出していった。
空間がねじれる。満員電車の残像が、フィルムの早送りのようにコマ送りで掻き消える。
下が上に、上が下に。
コマとコマの間の暗闇へ。
気がつけば私はスクリーンの内側に立ち、安全な暗闇の客席に座る『貴方』――すなわち、明日には何も知らずに目覚める『私』を、静かに見つめ返していた。
あぁ、あの人に会って話をつけなければ。
私は薄暗い部屋の中、スクリーンの裏側を這いずるように探し回る。
こびりついた珈琲の染みの奥を、映写機の眩しい光の向こう側を。現像液のすっぱい匂いが充満する密室で、狂ったように世界の裏地を引っ掻き回す私の指先が、ついに暗闇の奥で冷たい表面に触れた。
手探りで引きずり出した一枚の鏡。
そこに映っていたのは、探していた何者でもない。私であり、貴方だった。
私は確固たる「誰か」を見つけることで、自分が完全な一つになれると信じてここまで追いかけてきた。
だが、鏡の向こうで私を見つめ返すその顔は、目も、鼻も、輪郭すらも、見知らぬ他人の顔写真から無造作に切り抜かれたツギハギでできていた。
表情を作るたびに繋ぎ目からボロボロと古いフィルムの破片が零れ落ち、その奥には底知れぬ真っ暗な空洞が広がっている。
最初から、ここには誰もいなかった。
その圧倒的な虚無を直視した瞬間、胃の底から熱い泥のような吐き気が込み上げた。喉の奥がカラカラに渇き、呼吸の仕方を忘れたように肺がひくついた。
鏡の縁を握る指先が制御を失って激しく震え、まるで狂ったタイプライターの打鍵音のように、カチャカチャと冷たいガラスを打ち鳴らす。目眩とともに、自分という存在の輪郭が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
これを誰かに見られてしまったら。己の底知れぬ空虚さを、この悍ましいツギハギの顔を自ら認めてしまったら、私という存在の輪郭はあの真っ暗な空洞に完全に呑み込まれてしまう。
別れ際のかすかなため息は、「またこの空っぽの自分をごまかすために、逃げ続けるのか」という絶望だった。
始まりと終わりが円環を描いて繋がる。フィルムは再び最初のリールへと巻き戻されていく。
私は、安全な客席から狂気の中の私を探しに来る『明日の私』のために、誰も飲まない珈琲を二つ目のマグカップに注ぐ。わざとらしく、新しい真っ黒な染みを底に残しながら。
本当は、永遠に見知らぬ誰かを追い求め、この夢の映画館を彷徨い続けてほしいと願いながら。
あぁ、逃げなければ。
初投稿なので色々間違えてると思いますがその都度教えていただけるとありがたいです。




