続・僕と千影と時々オバケ
本作は同作者の短編『僕と千影と時々オバケ』の続編にあたります。
ある日のことです。湯浴みをしようと浴室のドアを開けるとカエルがいました。人間のような骨格に小学生ほどの背丈をしたカエルが、湯船に肩まで浸かっていました。
少年はドアを静かに閉めました。たとえこのドアを荒々しく閉めたところで、事態が好転しないことはわかっていたからです。そんなところに気を回せるくらいの冷静さが、少年には備わっていました。しかし、その冷静さが返って少年自身を苛立たせます。とりあえずひとっ風呂浴びて気分でも入れ換えるかと思い立ちましたが、その肝心の浴槽は見ず知らずのカエルに占拠されているという現実を思い出し、独り頭を抱えました。
ところで、皆様は『蛙の王さま』というグリム童話をご存知でしょうか? ご存知でない方のために要約致しますと、まずお姫様が泉にて一匹の蛙と出会い、ひょんなことからそこで蛙と友だちになるという口約を交わし、内心ではあんな蛙とお友だちになんてなってやるもんですか! ぷりぷり! なんて思っていたお姫様だったのですが、経緯を聞いた王様に「約束はどんなことでも守らなければ駄目だ」と一喝され、蛙と食事を共にするだけならともかく、何故か明らかに友達の一線を越えているであろう「同衾」の申し出までこれまた何故かお姫様ではなく王様が了承! してしまい、もうアンタらとはやってられんわー! と憤慨したお姫様が蛙を壁に叩きつけるとあら不思議、蛙は元の王子様の姿に戻り、物語は二人の結婚で幕を閉じるのでしためでたしめでたし──というお話です。
何故ここで何の前触れもなく『蛙の王さま』のお話が出てきたのでしょう? 場面を風呂ジャックされた全裸の少年へと戻します。
少年はありもしない人の目線を気にし、とりあえずパンツだけは履くと居間に戻りました。独り暮らしであるにもかかわらず、トイレのドアに鍵を掛けてしまう人にはなんとなくわかる心境です。そして、テーブルの上にある携帯電話を手に取ると、恐らくはまだコンビニにいる彼女に電話を掛けました。コール一回で出てくれました。驚異的な反応速度です。
「大変だ千影。風呂にクソでっかいカエルの化けモンがいる」
「あら、またですか。陽さま」
携帯電話越しに聞こえる彼女──千影の声色は平素通り澄ましたものでした。その態度を少年──陽は大変心強く思います。
「えっと、今コンビニだよな? あのウチ出てすぐの坂上ったところにある」
「ええ。……おっしゃっていた物以外で何か欲しいものでも?」
「いやいい。というか、いくら僕でも風呂にカエルの化け物がいるという事実を知らせたいだけで千影に電話したりしない」
それもそうですね、と千影が言います。多分声色には表わさずとも笑っているのだろうな、と陽は苦笑しました。
「しかし蛙──ですか。もしかすると、それは河童ではないのでしょうか」
「河童? 河童ってあの河童か?」
「ええ。陽さまのおっしゃる『あの』がどの河童を指しているのか、私には皆目見当もつきませんが」
「皆目わからないのはこっちだって同じだよ。でも、河童って……その、家ン中に出るもんなのか? 普通川とか沼なんかに出るだろ」
「陽さまは鷹取運松庵のお話をご存知で?」
ご存知ないよと陽はかぶりを振りました。話が長くなりそうな予感がしたので、椅子に腰を落ち着けました。
「要約すると運松庵の妻が厠で河童に尻を撫でられる話です」
落ち着け損でした。千影にしては存外簡潔な要約でした。向こうは公共の場というのもあるかもしれませんが、しかし声量が変わった気配はありませんでした。それで「河童に尻を撫でられる」などと口走っているのですから、陽はその常識の欠如っぷりに一抹の不安を覚える一方で、この話を手早く終わらせなければと心に誓いました。
「あー、でもそれは厠……トイレの話だろ? カエルがいるのは風呂なんだよ」
「トイレには出られないから、水場繋がりでお風呂なのではないでしょうか?」
「……出られない?」
一体どうして──そう訊き返そうとしたところで、陽は言葉に詰まります。先客がいらっしゃいますからね、とどこか悪戯っぽい千影の声が聞こえました。
「しかしあのジジイの守備範囲マジトイレだけなのかよ。使えなさ過ぎだろう」
「トイレの神様ですからね。そういうものです」
両者ともに身もふたもない辛辣な意見でした。
ちなみにジジイの一件は、トイレの上に神棚という新しい「住居」を作り、そちらにジジイを封印もとい強制的に住まわせることで一応の解決を迎えました。ただ、千影がそこで「花を摘む」際には陽が神棚に暗幕を被せるようにしています。信仰心も何もあったもんじゃありません。
「ああ、まあ何だ。とりあえずカエルの詳細を今から教えるよ。まだ正体が河童だって決まったわけじゃないし」
「ええ、よろしくお願いします」
落ち着きはらった声に混じる幽かな喜色。つい陽の眉間に皺が寄ります。
「なんか楽しそうだな……」
「いえ、そういうわけでは──ただ、手馴れてきたな、と」
手馴れてきた──電話をかける前、そして今も妙に冷静な自分の姿に、陽は苦笑します。
「そういう馴れは勘弁だな」
「ただ、やはり陽さまのおっしゃる通り、私は『楽しい』のかもしれません」
携帯電話の向こうで、小さく息を吸う音がしました。
「出てくるうちは──陽さまのお傍にいられますから」
それは──どういう意味なのでしょう?
いえ、自問自答するまでもなく、陽には千影の言いたいことがわかっていました。その言葉に千影が込めた想いを汲みとっていました。しかし、そこで陽はありもしないもしもの話を想像します。もし、妖怪たちや神様──鬼神の類を視る眼が自分になかったとしたら、はたして千影は今も自分の傍にいたのでしょうか? 傍に──いてくれたのでしょうか?
「陽さま……?」
千影の心配そうな声で、陽は我に帰りました。かぶりを振って、これが表情や仕草を把握しづらい電話越しの会話であることを幸運に思いました。
「ゴメン、何でもないんだ。……っていうか千影さん? 今いるのコンビニですよね?」
「ええ、コンビニです」
「そういう言葉は時と場所選んでくれ。そこ結構二人で行くんだからさ」
「では、二人きりのときなら構いませんか?」
「もはや家で二人だけの空間の方が少ないけどな。トイレにはジジイで風呂にはカエルだ」
まるで大家族ですね、と千影がころころ笑います。完全に他人事です。視えぬ人間にはわからぬ苦労です。ただ、千影の場合ならたとえ視えていたところで同じことを言い出しそうだなと陽は思います。そして、奇跡的に話が戻っていることに気が付きました。
「あーそうだそうだカエルだったな。えーっとだな……」
言いながら、陽は再び浴室へと向かいます。案の定カエルはそこにいました。浴槽ふちに両肘を置き、鼻歌めいたもの何ぞを我が物顔で歌っておりました。苦い顔をした陽と眼が合います。カエルは鼻歌をぴたりと止めると、陽から顔を背け、まるで何事もなかったかのように口許まで湯に浸かりました。
──恥ずかしかったのでしょうか。しかし、微塵も愛くるしいなどとは思いませんでした。
青緑色の体色に水かき、頭に皿こそありませんが河童に近い「何か」であることは見て取れます。
と、陽はそのカエルの正体を決定づける重要な特徴を発見し、思わず声を上げました。
「三本だ! 足が三本ある!」
そう、そのカエルにはどういうわけか足が三本生えていたのです。
その時──千影が息を呑む気配がしました。
「足が、三本?」
「ああ、足が三本だ。……ってどうした? やっぱり河童じゃないのか?」
ただならぬ千影の反応に、陽も心なしか不安になってきます。
「まさか──蜮?」
「ヨク?」
このカエルの名前でしょうか? しかし陽には聞き覚えがありません。ただ、その名前が漢字一字でしかも常用漢字でないことはなんとなく察しが付きました。
「いいえ、何でもありません。……陽さま」
「ん? ああ」
「今すぐそちらに参ります」
はぁ? と陽は素っ頓狂な声を上げました。
「いや待て待てどうしたんだよ急に!? そんなにヤバいのかコイツ?」
「とにかく対処法については私が帰ってから検討致しましょう。それゆえ──」
「それゆえ?」
「興味本位などから決して蜮については調べぬよう」
その念押しを最後に通話は切れました。かつてない程に真剣味を帯びた、耳に残る声でした。
陽は通話を切り、その場に立ち尽くします。あれほどに鬼気迫る千影の声を、陽はこれまで耳にしたことがなかったからです。ゆっくりと例のカエルを見ました。
「お前、『ヨク』っていうのか」
幽かに震える声で陽は尋ねます。
カエルは相も変わらずふんぞり返っていましたが、流石にもう鼻歌を歌うのは止めたようでした。陽に顔を向け、重く低いどこか威厳のある声でこう返します。
「いかにも。余が蜮であるぞ父上」
妙でした。本来なら妖怪とは視るモノではなく感じるモノ。つまり視られること、形を定められることを忌避する傾向があります。形あること有限ならば、形なきことそれすなわち無限なり。姿を視られた挙句まして名前まで見抜かれようものならそれなりに自身を警戒してもいいはずって、いやいやそうではなくて。妙なのはそこではなくて。本当の意味でひっかかるべき、問いただすべき箇所は──
「ち、ちちうえ?」
「そうとも父上。どうした? まさか父上は余が『成った』理由を知らぬのか?」
成った──というのは、恐らく生まれたと同義なのでしょう。
「知るわけないだろ。ってか、お前何でそんなに平然としてるんだ。名前っていうのはお前らにとってバレたら結構デカいものなんだろ? 何で動じない?」
「それは赤の他人──見ず知らずのヒトに見破られた際の話よ父上。とどのつまり我らはもう他人ではないのだよ父上」
もはや「父上」が語尾と化していました。語尾でキャラ付けに走る安易な萌えキャラのようです。
意味深な態度に、陽は思わず声を荒げました。
「赤の他人じゃないって……どういうことだよ!?」
「よかろう。教えようではないか父上。余が──蜮という物の怪に成るまでのその経緯を」
陽の脳裏を過ぎるある厭な予感。
もしかするとこのカエルは自分の「視える体質」と何かしら関係が──
「蜮とは男女が水浴し、水中で『戯れた』際、その淫乱の気が変わって『成る』ものなのだ」
男女が水中でする戯れ──その「戯れ」が単なるキャッキャッウフフで済む類のそれでないことは、陽にも瞬時に理解できました。途端、顔が熱くなりました。はいそこ、顔以外のところも熱くなっちゃったんじゃないの、とかそういうオヤジみたいなこと言わない。
心当たりはありました。だってお若い男女がひとつ屋根の下ですもの。猿かよお前らと地べたに唾を吐きたくなるくらいありました。千影がカエルの特徴を聞いて、かつてない程に取り乱していたのも納得がいきました。
ふと、定期的に風呂場でアグレッシブな男のソロ活動に励んでいたら、新しい生命の素が排水溝に溜まりに溜まって、見たこともないような生物風のモノが誕生しちゃったよ、という某巨大掲示板のスレを思い出しました。あのときは確かパイプユニッシュを使っていたはずです。このカエルもパイプユニッシュを使えば、綺麗さっぱり消えて失くなるのでしょうか?
「これでわかったろう父上? 換言すれば──余は汝らにとって、まさに愛のけっ」
「ンなワケねえだろうがあぁぁぁぁぁぁっ!!」
陽は喉が張り裂けんばかりに叫びながら、湯船に跳び込みました。それから自分の体を横に倒しつつ、カエルの右肩に自身の左手を乗せ、二つある内の股下の一つに右手を差し込みました。本来なら、このパワースラムと呼ばれる投げ技には相手の走ってくる勢いが大切なのですが、陽の火事場の馬鹿力にそんなものは不要でした。そのままカエルを前方回転させるように身を捻り、カエルを背中から床に叩き付け、全身を浴びせる──予定でした。ええ、予定でした。あいにく現実の浴槽はそこまで広くなかったのです。
カエルが背中から浴槽へと沈むよりも先に、前方回転の途中でカエルの頭頂部と壁が接触事故を起こしました。ごきんっと地味で厭な音が響きました。除夜の鐘を鳴らす坊主を彷彿とさせる光景でした。ひと足早くやってきた衝撃に、今まさに浮かんとしていた陽の足がもつれました。いざ危機的状況に陥ると人は返って頭が冴えるもので。しかしその冴えが、この場に限っては陽の火事場の何とやらを奪っていく悪魔となりました。そのまま担ぎ上げたカエルの重さに押し潰されて、一人と一匹は仲良く浴槽の底へと沈みました。
千影がアパートに戻ると、陽は居間でテレビを観ていました。すでに寝巻に着替えていることと髪が濡れていることから察するに、入浴はとうに終えた様子でした。
千影は首を傾げます。一体浴槽のカエルはどうしたのでしょう?
「あの陽さま……」
「ああ、お帰り千影。何か訊きたそうな顔してるな。カエルのことだろ?」
振り向いてそう言う陽に、千影は僅かに戸惑いながらも頷きます。
「あれね、三本足は僕の見間違いだったみたい。あいつやっぱり河童だったんだよ。で、ほら前に言ってたろ? 河童は仏飯──仏壇に供えられたご飯を嫌うって。家に仏壇はなかったからトイレのジジイで代用してさ。あのジジイの前でご飯一杯食うのは苦痛だったけど、それでも食べ終えて浴室に入ったら、そのカエル僕を見た途端一目散に逃げていったよ。神様と仏じゃ厳密には違うだろうけど、まあそこは神仏習合? ってことで」
まあいなくなったからいいじゃないか、と陽は話を締め括りました。
いまひとつ納得のいかない千影でしたが、視えぬ体質である以上視える陽がいないというのであれば、もう反論のしようはありません。
千影はレジ袋をテーブルに置き、居間を後にしようとします。その背中に、
「千影」
テレビに視線を止めたままの陽が声をかけました。
千影がなんでしょうか、と言って振り返ります。
「トイレ使うときは暗幕忘れないように」
「……意外と嫉妬深いですね、陽さま」
「かもな。そのスジの奴に僕はとっくに憑かれてるのかも。それと──」
陽は、一端言葉を切りました。そして、頬を掻きながら続けました。
「ごめん。今日はもう疲れたし、ホントのことは明日話すよ」
僅かに遅れて、そうですかという千影の返事。次いでドアの静かに閉じる音が聞こえました。その声に確かに喜色が混じっていることを、やはり陽の耳は聞き洩らしませんでした。
うーんと陽は座ったまま伸びをします。小気味良い背骨の音を聞き、それからテーブルに突っ伏しました。レジ袋の中には自分が頼んでおいたものもあるのですが、今はどうも手を付ける気が起きません。溜息を吐いたあと、頬杖を突き、テレビ横の「空間」を視ました。結果、再びテーブルに突っ伏しました。
「意味が……わからん……」
思わず漏れるのは、呻くような声。
その「空間」には──
「どうした父上。具合でも優れないのか?」
気品のある笑みを湛えたまま、陽にしか視えないアンティークな椅子とテーブルで、陽にしか視えないティーセットで優雅に紅茶を嗜む──メルヒェンの世界から飛び出してきたかのような「王子さま」がいましたとさ。
家族がふえるよ!! やったね陽くん千影ちゃん!