第7話 時効
審議結果は、薄い一枚の羊皮紙で届いた。
蝋で封をされた公文書。王宮の紋章入り。紋章の蝋は深い赤で、指で触れるとまだ僅かに温かい。今朝封をされたものだ。ユリウスが封を切り、私が読む。二人で立ったまま、別邸の玄関先で。コートも脱がずに。
『令嬢互助組合による異議申し立てについて、以下の通り裁定する』
目が文字を追う。一行目、二行目、三行目。
血の気が引いた。
「……時効」
ユリウスが羊皮紙を私の手から取った。
「『王族の裁定に対する異議申し立ては、当該裁定の日から起算して一年以内に行うものとする。王国法第四十二章第七款第三項』——」
一年。
マリアンヌの断罪は三年前。テレーゼは二年前。とっくに時効だ。ニーナは一年半前、時効。カティアは数ヶ月前だが、宰相はさらに付け加えた。「第三者による一括申し立ては、対象全件が時効内でなければ受理しない」。つまり三件の時効切れを盾に、カティアの分もろとも却下された。
「……嘘でしょ」
口から出た言葉が、あの世界の口調だった。敬語が吹き飛んでいる。
「古い条文だ」とユリウスが言った。声が硬い。「王国法の中でもほとんど使われていない条項。法学院でも『実務上は死文化している』と教えていた」
「じゃあなんで、」
「宰相が引っ張り出した。三ヶ月の審議期間は、この条文を探すための時間だった。いや、探す必要すらなかったかもしれない。最初から知っていて、カードを切るタイミングを計っていただけだ」
宰相ゲルハルト。あの老人は最初から知っていたのだ。受理して、三ヶ月待たせて、その間に「合法的に潰す条文」を見つけた。いや、見つけたのではなく、知っていたのかもしれない。三十年間宰相を務めた男だ。王国法の条文は頭に入っている。
時効。
前世の労働法では不正に時効はない。いや、あるのだ。この世界では。この世界の法律は、前世の法律とは違う。私はそれを忘れていた。あちらの知識を信じすぎた。この世界の法体系を舐めていた。
あちらでも法律で負けたのだ。労組を結成しようとして、会社に潰された。弁護士に相談したら「勝てますが、時間とお金がかかります」と言われて、結局諦めた。あの時も書類を机に叩きつけられた。紙が散らばる音を覚えている。
また同じだ。書類で戦って、書類で負ける。
「私の、ミスだ」
足から力が抜けた。椅子に座った。いや、崩れ落ちたと言った方が正確か。膝の裏が冷たい。手袋を外して、テーブルの上に置いた。掌に爪の痕が四つ残っていた。
全部、無駄だったのか? 証言を集めて、証拠を揃えて、法的に正しい手続きを踏んで。それでも、時効の壁は超えられない。法律は万能じゃない。前世でも、そうだった。
◇
丸テーブル。組合員に結果を伝えた。
テレーゼが舌打ちをした。ニーナが唇を噛んだ。カティアは。
黙っている。珍しい。イリスは拳を握りしめていた。
マリアンヌだけが、静かに微笑んだ。
「エルザ、もういいよ」
「え?」
「私はもう慣れたから」
慣れた?
慣れた。慣れた、って。何に慣れた。断罪に? 居場所を奪われることに? 三年間ひとりで結界を直し続けることに?
ふざけるな。ふざけるな。いや違う。ふざけてたのは世界のほうだ。こんな理不尽を「慣れ」で片付けさせる世界のほうがおかしい。
三年前に断罪されて、辺境に追放されて、結界の修理で生計を立てて。王宮には戻れず、社交界にも出られず、友人とも引き離されて。それを「慣れた」と。
何かが弾けた。
慣れた、って。
慣れたって何。何に。理不尽に? 断罪に? 居場所を奪われることに?
「——慣れるな」
声が出ていた。自分の声だと気づくのに一拍かかった。
「慣れるなよ、マリアンヌ」
言葉が止まらない。丁寧語が剥がれている。あの頃の口調だ。
「慣れなきゃいけない世界の方がおかしいんだから。あなたが結界を守ってたんでしょ。あなたが正しいことを報告しただけで追放されて、それで『慣れた』? 三年もかけて『慣れた』? そんなの。そんなのが許される世界を、私は認めない」
テーブルが静かだった。
カティアが目を見開いている。ニーナが泣いている。テレーゼは腕を組んだまま、目を伏せていた。
マリアンヌが。
マリアンヌの目に、初めて涙が滲んでいた。三年間、泣かなかった人の目に。
「……ごめん。取り乱した」
「ううん」
マリアンヌが首を横に振った。
「……ありがとう。怒ってくれて」
その一言で、こっちも目の奥が熱くなった。
駄目だ。泣いている場合じゃない。
◇
ユリウスが口を開いたのは、全員が落ち着いてからだった。
「時効は、過去の断罪に適用される」
全員の目がユリウスに向いた。
「だが、『今後の断罪を防ぐための制度改革の申し立て』には、時効がない」
「……どういうこと?」
「過去を正すのではなく、未来を変える。『王太子の断罪に法的手続きを義務化する条例』の制定を求める。これは時効の対象外だ」
ユリウスが眼鏡を外した。拭かない。まっすぐに私を見ている。
「……俺は、君の怒りが正しいと思う。法律家としてではなく、個人として」
法律用語が消えた。ユリウスの言葉から、初めて「法律」が抜けた。
顧問でも法律家でもなく、ただの人間としてこちらを見ている。その目が、まっすぐすぎて、見ていられなかった。視線を逸らしたのは私のほうだ。
「具体的には?」
「次の断罪イベントを利用する。イリス嬢の断罪を、法的手続きの公開実験の場にする。公の場で『断罪には法的手続きが必要だ』と証明する。そうすれば条例制定の根拠になる」
過去を正すのではなく、未来を変える。
守りから攻めへ。
テーブルの温度が変わり始めている。さっきまで重力に引っ張られるように沈んでいた空気が、どこかに向かって動き出す気配がある。
「それって——断罪の場に、私たちが乗り込むってこと?」とカティア。
「そうだ。断罪が始まった瞬間に法的手続きの中断を申し立てる。公開の場で」
「証拠は揃っている。テレーゼのスケッチ、マリアンヌの報告書、ニーナの成分分析。時効で過去は正せなくても、これらの証拠は『聖女の密告パターン』を証明する」
私の声が戻っていた。いつの間にか前を向いている。
「カティア」
「ん?」
「あなたの歌唱魔法。民衆の注目を集められる?」
「当たり前じゃん。歌い手舐めんな」
「舞踏会の場を法廷に変える。あなたの歌で場を開き、ユリウスの弁論で手続きを止める。テレーゼの証拠で聖女を追い詰める。マリアンヌとニーナの報告書で構造を暴く。イリスが被告として、堂々と立つ」
丸テーブルの五人が私を見ている。六脚目の椅子は、もうすぐイリスで埋まるはずだ。
「あの頃は法律で負けた。会社に。制度に。でも、この世界では制度ごと変える」
怒りだ。正しい怒り。仕組みで動く怒り。
「守りから攻めに変える。次の断罪を、止める。公の場で」




