第12話 お茶会は続く
春告げ草が咲いていた。去年の冬に蒔いた種が、誰も見ていないところで、ちゃんと根を張っていたのだ。
フェルゼン公爵領の別邸。丸テーブルの上に、一枚の羊皮紙が置いてある。
『令嬢互助組合 解散届』
鵞ペンを取った。あちらなら退職届だ。あの時は泣いた。上司に書かされた退職届。名前を書く手が止まった。
今は、止まらない。でも、理由が違う。
署名した。エルザ・フォン・フェルゼン。組合長。最初で最後の組合長。
インクが乾くのを待つ。鉄胆インク。ユリウスに言われてから、ずっとこれを使っている。にじまない。乾いた後は何年経っても読める。この解散届も、百年後に誰かが読めるだろう。『かつてこの国には王太子が令嬢を断罪する慣行があり、それを廃止するために六人の令嬢が組合を結成した』。百年後の誰かにとっては、信じがたい話かもしれない。でも本当にあったことだ。
「令嬢の断罪」は勅令で廃止された。もう組合は要らない。組合が必要ない世界を作るのが目的だった。目的は達成された。
寂しいな。
あちらで退職届を書いた時より、ずっと寂しい。
◇
組合員の「その後」は、春の花が開くように次々と届いた。
マリアンヌは王宮の結界師として復職した。以前より良い待遇。というより、以前が酷すぎたのだ。北方結界の主任に任命され、若い魔法使いたちの指導も任されている。先日、手紙が届いた。『結界が安定しています。あの子——三年前に泣いていた若い魔法使い——が、立派に育ちました。あなたのおかげです』。私のおかげではない。マリアンヌが辺境でも記録を取り続けたおかげだ。
テレーゼは宮廷画家に復帰した。各国の外交記録を任されている。「やっと腕を振るえるわ。辺境の風景画も嫌いじゃなかったけどね」と言っていたが、目が笑っていた。初めて見た、テレーゼの皮肉じゃない笑い方。そういえば、彼女が描いた組合のテーブルの絵が評判になっているらしい。六脚の椅子と、書類の山と、冷めた紅茶。「名画だわ」と本人が言っているが、自画自賛すぎないか。
ニーナは王立薬学院の主任調香師になった。南部の村から感謝状が届いたそうだ。三年越しの。『あの時、本当に助けてくださったのはニーナ様でした』。ニーナは感謝状を読んで、三十分泣いたとカティアが教えてくれた。
カティアは宮廷歌い手として復帰した。復帰初日の公演は満席。歌唱魔法で会場の全員が泣いた。「呪いじゃないよ、感動だよ」と本人がステージ上で言って、会場が笑いに包まれた。その一言がスクショされて社交界中に広まったらしい。カティアらしい。
イリスは護衛獣部隊の隊長に任命された。魔獣たちとの再会は、言葉がなくても通じるものがあったらしい。「獣は嘘をつかないから楽です」と相変わらず人間に塩対応だが、護衛獣たちがイリスの周りを離れないのを見ると、この子が「不忠の令嬢」だなんて誰が思うだろう。
◇
そして私は。どこにも復職しなかった。
組合員の中で、私だけが「奪われた場所」を持っていない。断罪されていないから。私は最初から、戻る場所がある。フェルゼン公爵家の令嬢として、何不自由なく暮らせる。
でも、それは違う。
前世で失ったものがある。「制度を変えられる」という信念。一度潰されて、諦めて、転生して、この世界で取り戻したもの。
だから——
「『フェルゼン&クライスト法律事務所』。看板、出来たわよ」
テレーゼが絵を描いてくれた看板を、別邸の入口に掲げた。金文字。テレーゼの字は画家らしく美しい。
「……名前の順番、譲らないのか」
ユリウスが後ろで腕を組んでいる。
「組合長は私ですから。あ、元組合長か」
「組合は解散しただろう」
「法律事務所は解散しません。……書類にしましょうか?」
ユリウスが小さく笑った。笑うのを見たのは、数えるほどしかない。眼鏡の奥の目が細くなる、控えめな笑い方。
令嬢の権利を守る法律事務所。断罪がなくなっても、理不尽はなくならない。制度は変わったが、制度を運用するのは人間だ。人間がいる限り、法律事務所の仕事はなくならない。
初日の依頼は、商家の娘が貴族に不当な契約を押し付けられた案件だった。ユリウスが契約書を読み、私が交渉戦略を立てた。深夜まで書類を作って、冷めた紅茶を飲んで、翌朝には解決の道筋が見えていた。ふと目が覚めたら、机に突っ伏して寝ていた。肩にはユリウスの上着がかかっている。二回目だ。顧問としての義務、と彼は言うのだろう。でも自分のカップにだけ蜂蜜を入れる人間が「義務」で上着を貸すだろうか。
——組合の時と同じだ。書類を作って、法律で戦って、理不尽を正す。違うのは、今度は二人で始めたこと。
「顧問料の件だが」
「金貨二枚。据え置きでいいです」
「値上げすると言っていなかったか」
「……冗談です」
「冗談か」
ユリウスが鵞ペンを走らせながら言った。目は書類を見ている。でも口元が微かに緩んでいる。
「冗談を言うようになったな」
——そうかもしれない。あの頃は冗談を言う余裕がなかった。この世界に来てからも、組合を作るまでは余裕がなかった。冗談が言えるのは、隣に聞いてくれる人がいるからだ。
あの世界の自分に教えてやりたい。あの夜中のオフィスで一人で泣いていた自分に。お前は負けてない。場所を変えて、もう一回やるんだ。今度は一人じゃないから。
◇
月に一度の「お茶会」。
丸テーブルに六脚の椅子。全部埋まっている。組合ではなく、友達の集まり。書類の代わりにスコーンが積まれている。林檎の焼き菓子の甘い匂いが部屋に広がっている。紅茶はユリウスが淹れた。七人目の椅子が、いつの間にか追加されている。
「ねえエルザ。次は何するの?」とカティア。
「法律事務所の仕事。山ほどある」
「それ以外で」
「……お茶会を続ける」
「いいね。あたし、ここの紅茶好きだよ。ユリウスが淹れるやつ」
「あたしもよ。蜂蜜の量がちょうどいいのよね」とテレーゼ。
「ユリウス殿のお茶は……優しい味がします」とニーナ。
「獣にも飲ませてください。この子たち、ハーブティーが好きなんです」とイリス。足元で護衛獣が丸くなっている。
「お茶を淹れるのは顧問の義務ではないんだが」
ユリウスが眼鏡を押し上げた。無表情を装っているが、耳が赤い。七人分のカップを用意している時点で、義務じゃないことは全員わかっている。
窓の外を見た。春告げ草が風に揺れている。冬薔薇の季節は終わった。もう断罪の冬は来ない。
前世では潰された。でもこの世界では——勝った。いや、違う。勝ったんじゃない。みんなで変えたんだ。
丸テーブルの七つのカップから、湯気が立ち上っている。蜂蜜入りは、一つだけ。
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