第1話 四人目
四人目、だった。
蜜蝋の燭台が百本は並んだクリスタル宮の大広間に、王太子の声が落ちた。よく通る声だ。剣術と弁論を叩き込まれた人間特有の、腹の底から響く声。
「——カティア・フォン・ゾンネ。汝を、不忠の令嬢として断罪する」
ざわめきが波のように広がった。令嬢たちが扇で口元を隠す。壮年の貴族が眉を寄せる。だが、誰も止めない。
去年もそうだった。一昨年も。その前の年も。
大広間の隅で、年老いた侯爵が杯のワインを飲み干した。目を逸らすために。隣の伯爵夫人は扇を閉じて膝の上に置いた。見ないようにしているのではなく、見たくないのだ。全員が知っている。これがおかしいことを。でも誰も、声を上げない。
王太子レクシス・フォン・アストレアは、毎年冬の舞踏会で一人の令嬢を断罪する。理由はいつだって同じだ。「聖女に対する不敬」「王家への不忠」「貴族にあるまじき振る舞い」。
要するに、聖女様のお気に召さなかった令嬢が消される。
いや待てよ。「消される」は言い過ぎか。追放されるだけだ。社交界から。実家から引き離されて。友人との縁を断たれて。ただ、それだけ。
あの会社で見た光景と同じだな、と思った。あの時も「それだけ」だった。退職届を書かされて、荷物をまとめて、「それだけ」。
カティアが大広間を出ていく。歌唱魔法の使い手だった。民の心を癒す歌声を持つ令嬢。その背中に、誰も声をかけない。
足音だけが響いていた。硬い石畳にヒールがぶつかる、乾いた音。速くもなく、遅くもなく。泣いてはいなかった。泣かないのだ、断罪された令嬢は。泣けば「やはり罪人だ」と言われ、泣かなければ「反省がない」と言われる。どちらにしても負けだ。
聖女リリアーナが、王太子の腕にすがって泣いている。
上手い。
あの取引先に「泣いて場を収める」タイプの営業がいたが、あのレベルじゃない。リリアーナの涙は透明で、頬の一番きれいな場所を流れ、顎の先でちょうど光る。計算しないとあの角度では泣けない。
庶民出身だという。貴族の中で生きるために、この技術を磨いたのだろう。涙は武器だ。この宮廷で一番切れ味の良い武器。剣より条文より、聖女の涙が強い。
「殿下、私のせいで……ごめんなさい、ごめんなさい……」
大広間のあちこちで、令嬢たちが目を伏せた。泣いている聖女を見て「可哀想」と思う者と、「また始まった」と思う者。空気が分かれている。でもどちらの側も、声は出さない。
王太子がリリアーナの肩を抱く。正義を行った男の顔だ。
あの社長と同じ目をしている。自分が正しいと信じている人間の、あの、光った目。
私は拳を握った。
爪が掌に食い込む。絹の手袋越しでも痛い。だが、痛みがなければ声を上げていたかもしれない。ここで叫んでも意味がない。感情で動いたら、私もいつか断罪される。あちらで学んだ。怒りで動くな。仕組みで動け。
◇
舞踏会のあと、人気のない控え室。
窓の外は雪だ。王都アストレアの冬は底冷えがする。暖炉の火がぱちん、と爆ぜた。
「マリアンヌ」
椅子に座っていた女性が顔を上げた。マリアンヌ・フォン・ベルク。三年前に断罪された、一人目の追放令嬢。結界師。王宮の防衛結界を一人で維持していた天才。今は辺境で結界の修理業を営んでいる。今日は、たまたま王都に用事があって来ていた。
たまたま、じゃない。私が呼んだのだ。
「見たでしょう。四人目よ」
「……ええ」
マリアンヌは静かに頷いた。穏やかな目をしている。三年前、自分が同じ目に遭ったというのに。
「私、組合を作る」
「……え?」
「令嬢の互助組合。断罪された令嬢と、これから断罪されるかもしれない令嬢を守る組織。法的に。制度的に」
言いかけて、止めた。前世の話は、まだ誰にもしていない。
「……法律の力で、もう誰も理不尽に追放されないようにする。あの王太子を止めるには、感情じゃ駄目なの。書類が要る。条文が要る。前例が要る」
マリアンヌは目を丸くして、それから小さく笑った。
「エルザ、あなたまで巻き込まれるわ」
「巻き込まれる前に巻き込むの。攻撃は最大の防御って、ううん、昔、誰かが言ってた」
マリアンヌは返事をしなかった。ただ、暖炉の火を見ていた。炎の橙色が彼女の横顔を照らしている。三年前と変わらない穏やかな顔だが、目尻に小さな皺が増えた。辺境の冬は厳しい。王宮にいた頃より肌が荒れている。手も。
結界の修理で魔力を酷使する手は、指先が赤く、かさついている。
三年間、こうやって一人で生きてきたのだ。
いい。今すぐ答えは要らない。でも、私は知っている。この人は断られても暖炉の前にいる。帰らなかった。それが答えだ。
外は雪が強くなっていた。窓に白いものが当たって、溶けて、流れる。マリアンヌがそれを見て、小さく「明日は積もるわね」と言った。雑談だった。三年ぶりの、普通の雑談。
◇
帰りの馬車の中で、窓の外の雪を見ながら考えていた。
四人。三年間で四人の令嬢が断罪された。結界師。画家。調香師。歌い手。全員、何かの能力を持っていた令嬢。全員、聖女に目をつけられた令嬢。
一人目のマリアンヌは結界を守っていた。二人目のテレーゼは外交の記録画を描いていた。三人目のニーナは薬香で疫病を鎮めていた。四人目のカティアは民の心を歌で癒していた。全員、この国に必要な人材だった。それを、聖女様の一言で。
そして五人目の婚約者が決まったと聞いた。イリス・フォン・シュヴァルツ。魔獣調教師。王宮の護衛獣を管理する十九歳。
馬車の車輪が石畳の上できしむ。冬の王都は暗い。蜜蝋の街灯が等間隔に並んでいるが、三つに一つは消えている。——予算不足だ。この国の予算はどこに消えているのだろう。断罪された令嬢たちの没収財産が、どこに流れているのだろう。
次の冬までに、間に合わせる。
組合を作る。人を集める。法律を調べる。書類を揃える。
あの頃は潰された。会社に。上司に。「お前一人で何ができる」と言われて、何もできなかった。書類を机に叩きつけられた音。紙が散らばった床。あの日の悔しさは、異世界に来ても消えていない。
でも、今度は一人じゃない。——一人に、しない。
馬車が石畳の段差を越えた。身体が揺れる。窓の外に、五人目の婚約者が住むというシュヴァルツ伯爵領の方角が見えた。北の空は暗い。
間に合わせる。必ず。何があっても。




