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過去への投函



 インクの匂いが染み付いた、古い木造の店舗。

 通りから一本路地に入ったその場所には、時代から取り残されたような静寂が常に漂っていた。

 ガラス張りの引き戸には、かすれた金色の文字で『手紙屋』とだけ書かれている。

 デジタルな連絡手段が世界の隅々まで行き渡り、手書きの文字などとうの昔に非効率の烙印を押されたこの時代に、あえて紙とペンを扱う物好きな店だ。


 トウヤはカウンターの奥に座り、静かに万年筆の手入れをしていた。

 今年で二十五歳になる。祖父からこの店を継いで数年、代筆や、手紙の保管などを細々と請け負いながら生計を立てていた。

 店内に客の姿はない。柱時計がカチカチと単調なリズムを刻む音だけが、薄暗い空間に響いている。


 トウヤの視線が、ふとカウンターの隅に向けられた。

 そこには、木と真鍮で作られたアンティーク調の卓上レターボックスと、鈍く光る銀色のシーリングスタンプが静かに置かれている。

 レターボックスの正面には、一枚のくすんだ真鍮のプレートが打ち付けられていた。


『過去へ想いを届ける箱。

 投函は一人一度きり。

 対価は、その相手に関する最も大切な記憶』


 過去の特定の時間へ想いを届ける。

 この箱のルールに従えば、十五歳の夏に亡くなった幼馴染――ミウに、言葉を届けることができる。

 彼女が廃ビルから転落して亡くなってから、十年。トウヤの時間はあの日から一歩も進んでいない。

 しかし、彼にはどうしてもこの箱を使うことができなかった。『最も大切な記憶』を失う恐怖と、たった一度きりのチャンスを無駄にしてしまうかもしれないという恐れが、彼を縛り付けていた。


 プレートの文字を静かに見つめていると、不意にカラン、と引き戸のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 トウヤが顔を上げると、そこに立っていたのは一人の若い女性だった。

 年齢はトウヤより少し下、二十代前半だろうか。疲労の色が濃く滲んだ顔をしており、その目は泣きはらしたように赤く腫れていた。


「あの……」


 女性は戸惑うように店内を見回し、やがてカウンターの奥にいるトウヤに視線を向けた。


「ここに来れば、過去に手紙を送れるって……そういう噂を聞いたんです」


 トウヤの表情が、わずかに引き締まる。

 都市伝説のように、ごく一部で囁かれている噂だ。


「……ええ。ですが、一人一度だけ。それに、重い代償が伴います」

「代償……。それでも、本当に過去に想いを届けることができるんですね?」


 縋るような、切実な声。

 彼女の視線は、カウンターの隅にあるレターボックスを真っ直ぐに捉えていた。

 それが、止まっていた時間を動かす、最初の客——サキとの出会いだった。


     *


「……つまり、手紙を送っても、父が死んだという事実は変わらないんですね」

「はい」


 カウンター越しに温かい麦茶を差し出しながら、トウヤは静かに頷いた。

 サキと名乗った彼女は、数年前に病死した父親に深い後悔を抱えていた。若くして家を飛び出し、そのまま絶縁状態になってしまったこと。本当は感謝していたのに、最期まで意地を張って一度も顔を見せに行かなかったこと。

 その後悔が、彼女をこの奇妙な店へと導いたらしい。


「この箱のルールは先ほどお伝えした通りです。過去の事実は絶対に変わりません。あなたがお父様に手紙を送ったところで、お父様が生き返ることも、あなたの過去が変わることもない」

「……」

「わかるのは、送った相手がその手紙を読んで、どう感じたか。その瞬間の映像と感情だけです。そして……」


 トウヤは言葉を切り、サキの目をまっすぐに見据えた。


「代償として、あなたは『お父様に関する一番大切な記憶』を、一つ永遠に失うことになります」


 サキの肩がビクッと跳ねた。

 記憶を失う恐怖。

 トウヤは静かに言葉を継ぐ。

「何も失わずに、後悔だけを抱えて生きていくこともできます。投函するかどうかは、あなたが決めてください」


 長い沈黙が店内に降りた。

 サキは湯気の立つ湯呑みを見つめたまま、微かに震えていた。

「……私にとって、父との一番大切な記憶は」

 ポツリと、彼女が口を開いた。

「小さい頃、肩車されて一緒に見た、きれいな夕焼けの記憶です。……あれが消えちゃうのは、すごく怖い。でも」


 やがて、彼女は顔を上げる。その目には、涙の膜の奥に強い決意が宿っていた。


「……書きます。伝えないまま生きていく方が、もっと怖いから」

 サキは絞り出すような声で言った。

「父が亡くなる前日。……あの日の父に、謝りたいんです」


 トウヤは黙って頷き、引き出しから上質な便箋と万年筆を取り出して彼女の前に置いた。


 サキが手紙を書き終えるまで、小一時間ほどかかった。

 彼女がペンを置くと、トウヤは銀色のシーリングスタンプと、深紅のワックスを彼女の前に差し出した。


「これで封をしてください」

 サキは震える手でワックスを溶かし、封筒の口に垂らす。そして、重い銀のスタンプを押し当てた。

 刻印されたのは、時を戻すかのような逆回転の時計の紋章だった。


「これを、あの箱に入れればいいんですね」

 サキの視線が、カウンターの隅にあるレターボックスに向かう。

「はい。投函した瞬間、あなたと私の脳内に、お父様が手紙を読んだ瞬間の光景が流れ込んできます。……準備はいいですか?」


 サキは大きく深呼吸をし、意を決したようにレターボックスの投函口へ手紙を押し込んだ。


 カトン、と。

 手紙が箱の底に落ちる小さな音が響いた。


 次の瞬間だった。

 トウヤとサキの視界が、同時にぐにゃりと歪んだ。


『——!』


 手紙屋の風景が暗転し、まるで鮮明な白昼夢のように、別の場所の光景が脳内に直接投影される。

 そこは、無機質な白い天井と、薬品の匂いが漂う病室だった。

 ベッドの上には、点滴の管に繋がれた、やせ細った初老の男性が横たわっている。サキの父親だ。彼は苦しそうに目を閉じていたが、ふと、その枕元に一枚の便箋がふわりと現れた。深紅の封蝋が押された手紙だ。


 誰の目にも見えない、時空を超えた手紙。

 しかし父親だけはそれに気づき、震える手を伸ばして便箋を開いた。

 サキの文字が目に飛び込んでくる。


 父親の瞳が見開かれた。

 驚き、そして次の瞬間、しわくちゃの目尻からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。


『……サキ……』


 掠れた声が病室に響く。

 と同時に、父親の胸に渦巻いていた感情が、トウヤとサキの心の中に濁流のように流れ込んできた。

 怒りではない。恨みでもない。

 それは、純粋な安堵と、深い深い愛情だった。

『あいつが、元気に生きているなら……それで、いいんだ……』


 手紙を胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくる父親の姿。

 その温かい感情の奔流に包まれながら、映像はふっと途切れた。


「お父さん……っ、お父さん……!」


 視界が手紙屋に戻った瞬間、サキはその場に崩れ落ち、床に両手をついて嗚咽を漏らした。

 父親が最期に抱いていた自分への深い愛情。怒っても、恨んでもいなかったという事実が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。

「よかった……私、ずっと、嫌われてるって……」


 わあわあと声を上げて泣きじゃくるサキ。

 その顔には、長年の深い後悔から解放された救いがありありと浮かんでいた。


 トウヤは彼女を見下ろし、静かな声で尋ねた。

「……お父様と見た、夕焼けの記憶は?」


 サキは泣き顔のまま顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべた。

「……夕焼け? 何の話ですか?」

「……」

「小さい頃の父との思い出なんて、厳しく怒られたことくらいしか……。でも、お父さん、私のこと愛してくれてたんですね……っ」


 彼女は再び顔を覆い、温かい涙を流し続けた。

 喪失感は微塵もない。彼女は『自分が何を失ったのか』すら、完全に忘却してしまったのだ。

 最も大切な記憶が消え去った空白にすら気づかないその姿は、救済であると同時に、ひどく残酷なものにも見えた。


 トウヤは何も言わず、ただ静かに彼女の背中を見つめていた。


     *


「……ありがとうございました」


 ひとしきり泣き晴らしたサキは、深く頭を下げて手紙屋を後にした。

 失った記憶の穴を抱えながらも、その足取りは来た時よりもずっと軽そうに見えた。


 サキの背中が見えなくなってから、トウヤはゆっくりと店の扉を閉め、鍵をかけた。

 カウンターの奥の椅子に、深く息を吐いて座り込む。


 過去へ想いを届ける箱。その力は本物だった。

 サキは最も大切な記憶を失い、代わりに過去の真実と救済を手に入れた。

 もし自分が、あの箱にミウへの手紙を投函したら、一体どうなるのだろうか。


『投函は一人一度きり』


 たった一度のチャンス。そして、ミウとの大切な記憶を失う恐怖。

 今のトウヤには、まだその覚悟を決めることができなかった。自分が手紙を送るべき「正確な日時と場所」もわからないまま、闇雲に権利を消費するわけにはいかない。

 だからこそ、彼はもう少しだけこの箱を店に置き、迷い込んでくる客たちの選択を見守ることにした。自分が手紙を送る覚悟が決まる、その時まで。


 トウヤは疲れたように目を閉じた。

 脳裏に、先ほどの映像――病室で泣きじゃくるサキの父親の姿がフラッシュバックする。

 父親の姿に釘付けになっていたサキはもちろん、その温かい感情の奔流に呑み込まれていたトウヤ自身も、全く気がついていなかった。


 病室の、半開きになったドアの隙間。

 その向こう側の薄暗い病院の廊下を、一人の少女が歩き去っていく姿に。

 夏の制服。少し日に焼けた細い腕。見慣れた彼女の横顔。

 ひどく思い詰めたような顔をして、誰かから逃げるように、何度も後ろを振り返りながら足早に歩き去っていった、トウヤの幼馴染のミウの姿に。


 トウヤは何も知らないまま、暗い店内で一人静かに目を開けた。

 カチ、カチ、カチ……。

 古い柱時計が、静まり返った店内に時を刻む音を響かせる。

 十年間、一歩も進むことなく止まり続けていたトウヤの時間が、今、誰にも気づかれないまま静かに動き出そうとしていた。

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