万年筆の沈黙と、騎士の指先
放課後の廊下。キャロラインは、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。
(どうしましょう……。インクが出ないわ。おばあさまの大切なペンなのに)
先ほど、図書室で勉強を続けようとした矢先、愛用の万年筆が沈黙してしまったのだ。何度も振り、紙に試し書きをしても、かすれた跡が残るだけ。
「……何をしている。廊下で立ち止まると邪魔だぞ」
低く、厳格な声。ビクリとして振り返ると、そこには王太子の側近にして騎士団の期待の星、ヴィクター・マルグリットが立っていた。ベアトリスの兄であり、学園内でも「氷の騎士」と恐れられる最上級生だ。
「あっ、も、申し訳ありません……っ! すぐに退きます!」
慌てて荷物をまとめようとするが、焦るあまりペンを床に落としそうになる。それを、ヴィクターの大きな手が空中で鮮やかに掴み取った。
「っ、ありがとうございます……。あの、返していただけますか?」
「…………」
ヴィクターは返そうとせず、その鋭い眼光で、キャロラインの古ぼけた万年筆をじっと見つめた。
「安物ではないな。……だが、手入れがなっていない。ペン先が固まっている。」
「そうなのです。おばあさまの形見で、大切に使っていたのですが……」
キャロラインが消え入りそうな声で言うと、ヴィクターは無言のまま、制服のポケットから清潔な布を取り出した。そして、迷いのない手つきで万年筆を分解し始める。
「え、マルグリッド様!? 何を……」
「……騒ぐな。道具は、使う者の意志を映す鏡だ。」
ヴィクターは大きな指先を器用に動かし、インクの詰まりを丁寧に拭い取っていく。その動作には、騎士が剣を研ぐ時のような、厳格で誠実な空気が流れていた。
そして、まとめきれず近くの台に置いてあったキャロラインのノートを引き寄せると、詰まりを解消したペン先でさらさらと端の方に試し書きをした。
その瞬間、彼の動きが止まる。
試し書きの横に並んでいたのは、びっしりと書き込まれた博物学の講義録だった。
「このノート……平民でありながら、これほど執念深く学びを刻む者は、貴族の中にもそうはいない」
彼は組み立て直したペンを、キャロラインに突き出した。
「ありがとうございます……!マルグリッド様!」
「礼には及ばん。私は、努力を惜しまぬ者に相応の道具が伴わないのが、我慢ならないだけだ。」
ヴィクターは一度も微笑むことなく、冷徹なまでに平坦な声で言い捨てた。
「その万年筆を、二度と泣かせるな。……失礼する」
マントを翻して去っていく背中を見送りながら、キャロラインはぽかんと立ち尽くしていた。
ベアトリスの兄、ヴィクター。
冷たい人だと思っていたけれど、その指先は驚くほど確かで、誇り高い温かさを持っていた。




