夕暮れの図書室と、ベルガモットの予感
午後の講義が終わり、ケイティは重い足取りで広大な図書室へと向かった。
Aクラスの授業は想像以上にレベルが高く、家庭教師に習ってきた貴族の子たちとの差を痛感して、少し自信を失いかけていたのだ。
(もっと勉強しなきゃ……おばあさまの万年筆に、恥じないように)
図書室は天井まで届く本棚が並び、古書特有の落ち着く香りに満ちていた。
ケイティは一番奥の窓際に面した静かな席を見つけた。そこは西日が差し込み、まるで別世界のような静寂に包まれている。
「……ふぅ」
一息ついて、ケイティはカバンから小さな紙包みを取り出した。
中に入っているのは、今朝焼いてきた自分用のバタークッキー。形は不揃いだけど、バターをたっぷり使った、家族と自分だけが知る特別な味だ。
(一口だけ……食べて、頑張ろう)
サクッ、と小さな音を立ててクッキーを頬張る。その時だった。
「……いい匂いだな」
低い、けれど鈴の音のように心地よい声が、すぐ近くで響いた。
驚いて顔を上げると、そこには昼間のランチルームで見かけた少年——エリオット・ヴァン・グランツが立っていた。
「あ……っ!」
驚いて飲み込もうとし、ケイティは盛大にむせてしまう。
「っ、げほっ、ごめんなさい、わ、私……!」
エリオットは驚いたように目を丸くしたが、すぐにふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「驚かせてすまない。あまりにいい匂いがしたから、つい声をかけてしまったんだ」
彼は迷いなくケイティの隣に座ると、長い指先で自分の首元を緩めた。その瞬間、昼間に感じたあのベルガモットの香りが、ふわりとケイティを包み込む。
「……それは、何? 市販のものじゃないみたいだけど」
「あ、あの、これは……売り物ではなくて、わたしが自分用に焼いたバタークッキーで……」
「自分用? 贅沢だね。その香ばしさは、最高の材料と腕がないと出せないはずだ」
エリオットは少し疲れたように目を細め、ケイティの紙包みをじっと見つめた。
「……少し、分けてくれないか? 生徒会の仕事で頭を使いすぎて、甘いものに飢えているんだ」
「えっ! 次期公爵様が、こんな端っこのクッキーを……?」
驚く彼女に、エリオットは面白そうに片眉を上げた。
「僕を知ってる? ……エリオットでいいよ。今はただの、お腹を空かせた生徒だ」
彼はそう言うと、ケイティが差し出したクッキーを一口食べた。
「………………!」
一瞬、彼の動きが止まる。
「どう、でしょうか……?」
「……驚いたな。今まで食べたどんな高級菓子よりも、ずっと心が解ける味がする」
エリオットは満足そうに微笑むと、今度はケイティの顔をじっと覗き込んだ。
「君、名前は?」
「キャ、キャロラインです!……あ、でも、ケイティって……あわわ!」
緊張のあまり、またしても愛称が口をついて出てしまった。耳まで真っ赤にするケイティを見て、エリオットの瞳にいたずらっぽい光が宿る。
「ケイティ、か。可愛い名前だね。……じゃあ、ケイティ。このクッキーのことは、僕と君だけの秘密にしよう」
彼はそう言って、少しだけケイティの方へ身を寄せた。ベルガモットの香りと、クッキーの甘い匂いが混ざり合う。ケイティは、自分の心臓の音が図書室中に響いているのではないかと、生きた心地がしなかった。




