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6話

 魔導院の昼。

 食堂はいつものざわめきに満ちていたが、今日は妙な空気が漂っていた。

 

 「聞いた? 一年の子が、一人いなくなったって」

 

 「昨日の放課後、姿見たのが最後らしいよ」

 

 「魔導院の敷地から出た形跡はないらしい」

 

 小声で交わされる不穏な噂。

 フィルはスプーンを止め、そっと耳を傾けた。

 

 行方不明? この魔導院の中で?


 気にならないはずがなかった。

 ただの噂話だと笑い飛ばす空気はある。

 けれど胸の奥の引っかかりは消えない。


 食事を終えると、フィルは自然と足を図書棟の方向へ向けていた。


 図書棟の前は静かだ。

 昼休みでも、奥の資料室や古書庫は人気がない。

 フィルは、ひとつひとつ足を運んだ。

 

 ……最後に姿を見たのはここって話だけど、痕跡なんて残ってるわけないよな。

 

 半ば諦めながらも、視線はあちこちへ。

 壁の模様、床の傷、微かな魔力の流れ。

 普段気づかないものを丁寧に追い続けていく。

 すると、裏階段に続く廊下あたりで、

 皮膚がひどくざわつくような感覚があった。

 

「……なんだろ」


 魔力が、どこかに吸われていくような……そんな不自然な気配。

 壁に手を触れ、魔力を少しだけ流し込む。

 それは、どこかへ吸われていくような感じがする。

 集中していたフィルの背後で、低い声が落ちてきた。

 

「無闇に触るな、フィル=ステラ」


 驚いて振り向くと、そこにはルイがいた。

 長い影のように、音もなく。


「こんな場所で、何をしている」

 

 問いは鋭いが、責めているわけではない。

 ただ状況を確認したいだけの声。

 フィルは息を整えながら答える。

 

「行方不明の子の噂を聞いて……最後に目撃された場所がここだって」


「俺も同じだ。気にかかって調べていた」

 

 ルイは壁をじっと見つめ、指先を当てる。

 

「この壁、魔力が中に吸われている。普通じゃない」


 その言葉の直後。

 

 ゴゴ……ッ。

 

 壁がわずかに震え、古い魔法式が淡く浮かび上がる。

 

「隠し通路……?」

 

 そう口にするより早く、

 石壁が横へと動き、階段が口を開いた。


「こんな場所、魔導院の図面に載ってないはず……」

 

「当然だろう。行方不明者が落ちたのがここだとしたら、辻褄は合う」


  石壁の向こうからは、ひんやりとした空気が流れ出していた。

 昼の光に馴染んだ肌が、思わず粟立つほどの冷たさ。

 階段は下へ深く深く続いている。

 灯りはないはずなのに、どこか青白い光がぼんやりと壁を照らしていた。

 

「……入るのか」

 

 ルイが短く問いかける。

 フィルは喉を鳴らし、階段の先を見つめた。

 怖くないわけじゃない。

 けれど、あの一年生がまだ中にいるのだとしたら。

 

「はい……放っておけない」

 

 ルイはわずかに目を細め、頷いた。

 

「気を抜くな。ここは誰も知らない場所だ。何があるか分からない」

 

 二人は肩を並べ、ゆっくりと階段を降りていく。


 階段は異様なほど長かった。

 一段降りるごとに、空気が重くなる。

 まるで深海へ沈んでいくような圧迫感。

 しばらくして、足元に柔らかい土の感触が戻ってきた。

 階段が終わり、広い空間に出たのだ。


 洞窟のような、しかし人工的な構造物。

 天井から吊るされた古い魔石灯がかすかに光り、暗闇を薄く照らしている。

 

「こんな場所、本当に魔導院の地下なのか?」

 

 フィルが呟くと、ルイが周囲を見渡しながら答えた。

 

「昔、魔導院が使っていた実験区画か……あるいは、もっと古い時代の遺構が残っていたのかもしれない」


 ルイの声には、普段よりわずかに警戒の色が混ざっていた。

 フィルは思わず周囲を見渡す。

 石壁はところどころ黒ずみ、刻まれた紋様は風化して読み取れない。

 だが、意図的に配置された柱やアーチの形から、この場所がただの洞窟ではないことは明らかだった。


「ここ、誰も気づかなかったのかな……?」

 

 思わず漏らした問いに、ルイが短く答える。

 

「気づけなかった、が正しい。魔力を吸い込む壁……隠蔽の仕掛けが働いていたと考えるべきだ」

 

 その言葉に、フィルは背筋が冷えるのを感じた。

 そんな場所に、人が迷い込んだのだとしたら。


 乾いた地面には、かすかな靴跡が残っている。

 それは迷いながらも、確かに奥へ向かって続いていた。

 

「これって……?」

 

 ルイがしゃがみ込み、指で跡をなぞった。

 

「新しい。間違いなく、この先に進んでいる」


 二人は慎重に奥へ進んだ。

 通路は曲がりくねり、時折、古い扉や崩れかけた部屋を横目に通り過ぎていく。

 そのたびに、空気はひどく静かで、息を潜めているようだった。


 しばらくして、靴跡はひときわ広い空間の前で止まっていた。

 

「広間……?」

 

 天井は高く、中央には壊れた魔法陣。

 そのそばに、落ちている紺色のローブが目に入る。

 フィルは駆け寄りそうになり、ルイに腕を掴まれた。


「待て。何かいる」

 

 その瞬間。

 広間の奥の闇が、ふっと揺れた。

 足音ではない。

 呼吸に近い、気配の揺らぎ。

 

 ルイがわずかに姿勢を低くする。

 フィルも息を呑んだ。

 すると、闇の奥から、甲高い擦過音が響いた。

 

「キイ……ッ」

 

 石を爪でひっかくような、不快な音。

 フィルの心臓が跳ねる。

 

「魔物?」

 

「断定はまだできない。だが、生徒ではないな」


 闇の奥で蠢く何かは、輪郭を見せないまま揺れ続けていた。

 魔物特有の殺気は感じない。

 かといって、生徒の気配でもない。

 ただ、その場に異質な圧だけが漂っている。

 フィルは喉を鳴らした。

 

「なんだよ、あれ……」

 

 ルイは一歩前に出て、手のひらに小さな光球をつくった。

 まばゆい光が広間に広がり、闇がわずかに後退する。

 だが、それでも影の姿は完全には見えない。

 光に照らされきらない何か。

 まるで影そのものが拒絶しているかのように、輪郭がぼやけていた。

 

「下がっていろ、フィル」

 

 短い声が響く。

 フィルは頷き、ローブの近くまで下がった。

 影がわずかに動いた。

 いや、動いたように見えただけかもしれない。

 床の石がかすかに揺れ、気配が一歩ぶん近づいてくる。

 

「やっぱり、生き物……?」

 

「生き物かどうかも怪しい。普通ではない」

 

 ルイの言葉に、フィルの背中が冷たくなる。

 

「…………ぁ……」

 

 フィルは息を呑む。

 

「い、今の……人の声、だよな?」

 

 ルイは一瞬だけ目を細めた。

 

「そう聞こえたが……油断するな。声を真似る魔物もいる」

 

 影はまた揺れた。

 光球とは反対方向フィルの方へ。

 フィルが一歩引いた瞬間、

 ルイがすっと前へ立ち、腕を広げて遮る。

 

「これ以上近づくな」

 

 影は、そこで止まった。

 長い沈黙が落ちる。


 影がフィルの方へじり……と揺れる。

 その一瞬、ルイの指先がわずかに動いた。

 

「ルクス・アイ」

 

 短い呟きとともに、光球が鋭い針のように散り、

 闇へ向けて一筋の光線が走った。

 その光は、暗闇を裂くように突き進み、 影を照らし出す。


「来るぞ」

 

 その瞬間、影は形を保てず、 ぎしり、と異様な音を立てながら姿を現した。


 魔力が肉体となった異形。

 

「魔喰い(マギ・イーター)だ」

 

 低い声が響く。

 ルイが静かに現れ、

 魔物を射抜くように見つめていた。

 

「姿を保てているのは珍しい。魔力が濃すぎる」

 

 魔物は床に触れた。

 ドン。

 床の魔力を吸い込み、鱗がより濃く、より硬くなる。

 

「吸収して強化してる……!」

 

 フィルが後ずさる。


「こんなのに勝てるのか……?」


 その言葉に応えるように、ルイは静かに鞘へ手を伸ばした。


「助けるのだろう? なら、やらねばならん」


 低く淡々とした声。

 しかしその背筋は真っ直ぐで、気配は鋼のように硬い。


 長剣が鞘から抜かれる。

 光を反射し、鋭く閃く。


 ルイは剣を構え、魔力を刃へ流し込む。


「光よ……刃へ集え――『ホーリー・フォース』」


 剣が白光を帯びた。

 光は刃の上で揺れ、まるで息づくように強く脈打つ。


 ルイの足が床を蹴ると、空気が裂けたように音が走った。

 光をまとった剣が、一直線に魔喰いへ向けて伸びる。


 魔喰いは悲鳴を上げるように喉を震わせ、砕けた鱗が飛び散り、すぐに別の鱗が再生される。


「強化されている……しかし、完全ではない」


 ルイは剣を振り払いながら、冷静に評した。

 刃は光をまとったまま、まだ揺らめき続けている。


 魔喰いはその隙を逃すように、

 吸収した魔力を一気に体へ流し込み、

 鱗はさらに濃く、さらに硬く変化した。


 ドォン!


 床に叩きつけられるように突進してくる。


「——っ!」


 ルイは一歩後退し、剣を横に構えた。

 光の刃が衝撃を受け止め、轟音が響く。


 光をまとった剣と異形の衝突は、広間に何度も衝撃波を撒き散らしていた。

 ルイは一歩一歩、確実に間合いを詰めながらも、魔喰いの再生速度を冷静に測っている。


 しかし、魔喰いは、吸収した魔力をさらに加速させた。

 鱗は鋼よりも硬く、光にすら反射せず陰影だけをまとったような状態となる。

 

 ドォォン!

 

 衝撃がルイの剣を押し返し、光が一瞬揺らいだ。

 

「くっ……!」

 

 ルイは踏み込みながらも後退し、その背後で、ガラガラと崩れる音。

 崩れた石の向こうに、うつ伏せになった人物が見えた。


「あれは……!」

 

 フィルが叫ぶ。

 一年生の少年。ローブは破れ、顔には埃と血。

 しかし、胸はかすかに上下している。

 

「生きてる!」

 

 フィルは反射的に走り出そうとした。

 

「待て!」

 

 ルイの声が飛ぶ。

 しかし、フィルは止まらない。

 魔喰いが咆哮し、影のような体を揺らしてフィルへ向き直る。

 間に合わない。

 そう思った瞬間。

 ルイが飛び出した。

 剣が光を増し、影を切り裂くように一閃。

 

「後ろに下がれ!」

 

 光線が魔喰いの側面を掠め、異形は悲鳴のような音を上げて後方へ吹き飛ばされた。

 その一瞬の隙。

 フィルは少年の元へたどり着き、体を抱き起こす。

 

「しっかりしろ……!」

 

「……っ……」

 

 少年は弱々しく目を開けた。

 視線が揺れながらもフィルを捉える。

 

「……ここ……危ない……」

 

 掠れた声。

 

「分かってる……だから、今助ける……!」

 

 フィルは少年を抱えて立ち上がろうとする。

 その時。

 地面が、重く鳴った。

 魔喰いが立ち上がる。

 鱗は完全に黒化し、光すら拒絶するほど濃く硬くなっていた。

 

「完全強化。光も、斬れないか」

 

 ルイの声にわずかな焦りが混じる。

 魔喰いは低くうなり、再び突進。

 光の剣は、先ほどよりも深く押し返される。


 ズゥゥン!


 ルイは押し倒され、剣が床に転がった。

 

「ルイ先輩!」

 

 フィルが叫ぶ。

 魔喰いは咆哮し、光を吸い込みながらフィルたちへ向かってくる。

 フィルはアレンを抱えて後退。

 しかし、後ろには崩れた壁。

 逃げ場はない。

 魔喰いは影を揺らし、巨大な顎を開く。

 終わりだ。

 そう思った瞬間。

 

「そこまでだ!」

 

 光が走った。

 圧倒的な気配が、広間を切り裂くように降り注ぐ。

 魔喰いが悲鳴のような音を上げ、強制的に止まる。

 光は魔喰いの周囲をぐるりと回り込み、複雑な魔法陣が、床に描かれる。

 

 封印陣。

 異形は暴れようとするが、光の枷に縛られ、影は形を保てなくなる。

 

「遅くなった……」

 

 低く落ち着いた声。

 光の中から、人影が現れる。

 白銀のローブに鋭い目。

 ウィルム先生。

 

 魔喰いは光に押し潰されるように、影がしぼみ、形が崩れ、そして光に吸い込まれるように消えていった。


 光が完全に消えた時、広間は静まり返り、冷たい空気だけがゆっくりと流れていた。

 魔喰いの気配は跡形もない。

 ただ、焦げた石と崩れた壁だけが、そこにあった異形の記憶を留めている。

 フィルはようやく息を整え、ひざをついたまま少年の顔を覗き込んだ。

 

「しっかりしろ……」

 

 弱々しく揺れるまぶた。

 しかし確かな鼓動が、指先に伝わってくる。

 

「生きてる……」

 

 その言葉は安堵より、信じられないという感覚に近かった。

 ルイは剣を鞘に収めながら、光の残滓を消えていく封印陣を静かに見つめていた。

 

「完全強化状態で暴走すれば、院内に甚大な被害が出ていた。封印が間に合ったのは運が良かった」


 ウィルムは陣を一望しながら、低くそう呟く。


「だが――この魔喰いは、本来ここに存在してはいけないものだ」

 フィルは顔を上げた。

 

「……どういうこと?」

 

 ウィルムは少年の額に手をかざす。


「古い時代、院ではある研究が行われていた。だが危険性が高すぎて、中止され……実験体は封印されたはずだ」

 

 ルイが壁の焦げ跡に視線を落とす。

 

「封印が、破れた?」

 

 ウィルムは首を振る。

 

「破れたのではない。外側から刺激が加わった可能性が高い」

 空気が一瞬だけ重くなる。

 ルイも、その言葉に眉をひそめた。

 

「外側……?」

 

 ウィルムはゆっくりとフィルへ視線を向ける。


「この区域は長い間、人の手が入っていない。だが、魔力は人が触れると反応する。封印された物ほど、触れれば触れるほど不安定になる」


 フィルは思わず壁へ触れた時の感覚を思い出す。

 吸われるような感覚。

 胸がざわりとした。

 

「俺……触った……」

 

 声は小さかった。

 ルイはすぐに首を振った。

 

 「いや。触れた程度で封印が崩れるほど甘くはない。もっと強い刺激……それが必要だ」

 

 ウィルムは少年を抱え上げ、慎重に起こす。

 

「封印陣は維持されている。このまま問題はないだろう」

 

 フィルは喉の奥がひりつくように痛む。

 

「じゃあ、ここは……?」

 

「封鎖する。学院として、調査を行う必要がある」

 

 ウィルムはそう言い、天井へ目をやる。

 

 「だが、生徒に知らせるべきではない。混乱を招く」


 ウィルムは少年をしっかり抱え、ゆっくりと立ち上がった。

 少年の体は軽く、しかし温もりは確かに残っている。


 フィルは壁に手をつき、深く息を吐いた。

 

「終わった……」

 

 胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。

 足に力が抜けて、思わず膝が折れそうになる。

 ルイはそんなフィルをちらりと見て、ほんの僅かに目を細めた。

 

「立てるか?」

 

「はい。大丈夫……たぶん」

 

 フィルは無理やり笑った。

 それは少し歪んでいたが、確かに笑顔だった。

 ウィルムは階段の方へ向かいながら振り返る。

 

「この件は、学院の内部調査扱いだ。生徒は何も知らないままでいい」

 

 ルイはその言葉に軽く頷き、フィルへ目を向けた。

 

「帰るぞ、フィル・ステラ」

 

 フィルは一度だけ、広間を振り返った。

 崩れた壁、焦げ跡、すべてが静かに眠りに戻ったように見える。


 フィルはそのままルイの背中を追い、階段へ向かった。

 二人は静かに歩き出し、魔導院の喧騒へと再び足を踏み入れていった。

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