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番外編

 薄曇りの午後。

 アルフェルト家の庭園には、風もなく、静かな緊張だけが漂っていた。

 幼いルイは、汗を滲ませながら、父親の指示に従い木剣を振るう。

 

 「ルイ、もっと力を込めろ!剣は心だ。心を込めない者に、技術など身につくはずがない!」

 

 父の声は厳しく、冷たく、そしてどこか寂しさを帯びていた。

 ルイはその言葉に必死で応えようとする。だが、剣が父の速度に追いつかず、地面に弾かれるたび、胸の奥が痛んだ。

 

 まだ、俺は……まだ足りない……。

 

 彼の横では、兄のロイが軽々と剣を操る。

 幼いルイは、その背中を見て、嫉妬と焦燥を同時に感じた。


 ロイの剣筋は、一本の淀みない水の流れのようだった。

 父から指摘を受けることもなく、風を切る音さえ静謐に響く。

 ルイは知っている。兄は父の厳しさを、もう何年も前に乗り越えたのだ。

 父がルイに向ける厳しい眼差しは、兄には期待という名の信頼として向けられている。

 

「なぜだ……」

 

 ルイは喘ぎながら木剣を振り上げた。柄を握る手に滲んだ汗が、滑る。彼は力を込めるあまり、歯を食いしばり、庭の湿った土の匂いさえ感じなくなっていた。

 父は、ルイが剣を振り下ろす寸前に、無言で木剣の先端を叩き上げた。

 

「甘い!」


 甲高い音がルイの鼓膜を打ち、同時に彼の体勢が崩れる。地面に膝を突き、息を切らしたルイに、父は視線を合わせようともしない。

 

「ロイ。お前が手本を見せろ」

 

 ロイは一言「はい」と答えると、その場から動くことなく、緩やかに木剣を構えた。その一連の動作には、ルイの荒い呼吸とは対照的な静けさがあった。ロイが木剣を振り抜く。ただ一度、まっすぐに、迷いなく。


 その日は、いつもより長く感じられた。

 ルイは、体中の筋肉が鉛のように重くなるのを感じながら、木剣を納屋に戻し、父に一礼した。父は無言で頷くと、庭園の奥、書斎へと続く扉の向こうに消えていった。

 静寂が戻った庭園に、残されたのはルイとロイだけだった。

 

「お疲れ、ルイ」


 ロイの声は穏やかで、ルイの耳にはそれが慰めではなく、圧倒的な差から来る余裕のように聞こえた。

 

「……別に」

 

 ルイはぶっきらぼうに答えた。血が滲んだ手のひらに、服の袖で拭っても落ちない土の汚れ。すべてが自分の不甲斐なさを象徴しているように思えた。


 ロイは、そんな弟の態度を咎めることなく、ただ静かに傍らに立った。そして、ふと、空を見上げた。

 

「薄曇りなのに、今日は蒸すな」

 

 ルイは、兄の何もかもをわかっているような無関心さが嫌だった。

 

「兄さんは、どうして父様に怒られないんだ」

 

 思わず口から出た言葉は、自分でも驚くほど苛立ちに満ちていた。

 ロイは、ゆっくりとルイに視線を戻した。その瞳は、庭園の木々の影のように深く、何を考えているのか読み取れない。

 

「ルイ」

 

 兄は一瞬だけ、その穏やかな声色を少しだけ硬くした。

 

「父さんは、お前が誰よりも剣を好きだと知っているから、あれほど厳しくするんだ」


 その言葉は、ルイの心に深く突き刺さった。それは賞賛だったのか、それとも期待という名の重荷だったのか。ルイには判断できなかった。

 

「さあ、汗を流してこい。夕食に遅れるぞ」


 ロイはそう言って、先に歩き出した。その背中はやはり、遠く、大きかった。

 ルイは、兄の言葉の意味を測りかねながら、ただ一つ確信した。

 兄さんは、俺とは違う場所で闘っている。

 

 彼は、庭の片隅に咲く一輪の白い花を見つめた。薄曇りの光の下でも、その花は折れることなく、まっすぐに上を向いていた。

 ルイは、兄の言葉を振り払うように頭を振った。父の期待など、今の自分には重すぎる。

 彼は、着替える気力もなく、庭園の隅にある通用門へと向かった。

 重厚なアルフェルト家の門とは違い、この通用門は町の裏道に直結している。

 外の空気が吸いたかった。父や兄の視線が届かない、どこか遠くへ行きたかった。

 

 古い木製の門を押し開けると、湿った土と植物の匂いが濃い庭園の空気とは違い、焼き菓子の微かな甘い匂いと、街のにぎわいの遠いざわめきが流れ込んできた。

 

 ルイはふらふらと門を抜け、町の裏道に足を踏み出した。その途端、前から軽やかな足音が近づいてくるのに気づいた。

 

「あれ……? ごめんなさい、道、塞いじゃった?」

 

 鈴のような声に、ルイは体が固まった。

 顔を上げると、そこに立っていたのは、見たことがない少女だった。

 

 彼女は、白のワンピースに身を包み、編み込まれた金色の髪が、薄曇りの光の中でわずかに輝いている。

 アルフェルト家の厳格な世界とは無縁の、太陽のような笑顔を彼は初めて見た。

 彼女の手には、街の菓子屋の包装紙に包まれた小さな包みがある。きっと家族への土産なのだろう。

 ルイは、血と汗と土にまみれた自分の姿を、庭園の外で、しかもまったくの外部の人間に見られたことに一瞬で顔が熱くなった。

 

「なんだ、お前は……」

 

 彼はぶっきらぼうに答えた。剣の稽古のせいで、他人への応対を忘れていた。

 少女は、ルイの荒れた姿と、その硬い表情に驚いたようだったが、すぐに表情を緩めた。


「私? 私はエリシアよ。近所の薬草師の娘。すごい稽古ね、剣士さん。顔が真っ赤よ」


 彼女は、ルイを剣士さんと呼び、その厳しい世界を、まるで楽しそうな遊びのように捉えている。

 その屈託のない笑顔が、ルイの胸の奥で渦巻く焦燥と苛立ちを、無防備に晒すように思えた。


 彼は反射的に、剣を持つ者の厳しさを装った。


「お前には関係ないだろ。別に、普通だ」

 

「そんなことないわ。何かあったの? 元気がないみたい。これ、よかったらどうぞ」


 エリシアはそう言って、持っていた焼菓子の包みを差し出した。

 それはルイが初めて知る、外界からの、純粋な善意だった。

 

「……別に、いらない」

 

 彼は強い口調で突き放した。優しさに甘えることは、今、自分が背負うべき剣の重さを否定することのように思えた。

 エリシアは目を丸くした。そして、何も言わずに差し出していた手を引っ込めた。

 

「じゃあ、もういい。せっかく美味しそうなのに」


 彼女はそう言って、来た時と同じようにくるりと身を翻し、去って行った。その足取りは、来た時よりもずっと重く、鈴のような声は、もう聞こえなかった。

 ルイは、自分の手のひらだけを見ていた。そして、立ち去ったエリシアの背中に向かって、強く言い聞かせるように呟いた。

 

「俺は……アルフェルト家のルイだ」


 ルイは、閉まりきらない通用門を背に、しばらくその場に立ち尽くした。

 焼菓子の甘い匂いはまだ微かに残っているが、エリシアの足音はもう遠い。

 手のひらに残る木剣の感触と、土の乾いた匂いが、アルフェルト家の世界を強引に引き戻す。

 彼は、自分がエリシアにした仕打ちを理解していた。

 初めて向けられた純粋な善意。

 それを、兄や父に立ち向かうための、まるで重りのように感じて撥ねつけた。

 優しさに甘えれば、自分の中の炎が弱まるような気がしたのだ。


「俺は……アルフェルト家のルイだ」

 

 再びその言葉を反芻する。それは、ただの家名ではない。

 剣の道を極める者としての呪いであり、証明だ。

 だが、その言葉を口にしたところで、エリシアが去っていった後に残る、胸の奥の冷たい空虚さは埋まらなかった。


 その夜、夕食の席も、庭園と同じように静かな緊張に満ちていた。

 父は相変わらず無言で、食卓の端に座るルイには視線すら送らない。

 兄のロイは、穏やかな表情で皿の上のものを口に運ぶが、その落ち着きが、ルイにはまた別の種類の重圧に感じられた。

 

「ロイ。明日の朝は、お前と模擬戦を行う」

 

 父が静かに告げた。

 

「はい、承知いたしました」

 

 ロイは即座に答える。その声には、一切の動揺がない。


 ルイは思わず顔を上げた。

 父は、ロイとの稽古を模擬戦と呼び、自分との稽古を指導と呼ぶ。その言葉1つで、二人の間の隔たりが明確になる。

 自分はまだ、兄が乗り越えたラインにすら立てていないのだ。

 父は、ルイの方を一瞥もせず続けた。

 

「ルイ。お前は、今日と同じく基本の素振りだ。心に迷いがあるうちは、進歩など望めん」


 心に迷い。

 

 ルイの心臓がどくりと鳴る。父は全て見抜いているのだろうか。

 ルイは、自分の皿の上の料理をほとんど口にしないまま席を立った。

 

「ごちそうさまでした」

 

 廊下に出ると、背後からロイの声が聞こえた。

 

「ルイ、待て」


 ロイは、追いつくなり弟の肩にそっと手を置いた。

 

「今日の父さんの言葉、気にするな。父さんは、お前のことを誰よりも――」

 

「わかってる」

 

 ルイは、兄の言葉を遮った。


「俺が剣を好きだと知っているから、厳しくする。そう言いたいんだろ。でも兄さんは違うだろ。兄さんは、もうその先に行ったんだ。信頼だ。俺に今向いているのは、まだ期待だ。そして、その期待が、今の俺には重い」


 ルイは、吐き出すようにそう言うと、兄の手を振り払った。

 

「俺は、兄さんみたいにうまくやれない。父さんの言う通り、心に迷いがある」

 

 彼はそう告白したが、ロイは不思議なほど穏やかな瞳で弟を見つめ返した。


 自室に戻ったルイは、ベッドに腰掛けたまま、稽古着を見下ろした。窓の外は、もう完全に闇に包まれ、アルフェルト家の庭園の木々の影が、ゆらゆらと揺れている。


 彼は立ち上がり、自室の隅に置いてある、昨日手入れしたばかりの木剣を握った。いつもは重く感じる柄が、今は自分の心と繋がっているように軽い。

 

 彼は、もう一度、通用門の外の情景を思い浮かべた。

 明るい空色のワンピース。編み込まれた金色の髪。そして、焼き菓子の甘い匂い。


 ルイは、自分のぶっきらぼうな態度が、彼女の笑顔を曇らせたことを思い出す。

 

 「俺は……アルフェルト家のルイだ」

 

 彼は、もう一度呟いた。しかし、今度は、強がりの呪いではなく、己を縛り付ける鎖を認識するかのように。

 彼は、その鎖を断ち切るために、何をするべきかを知っていた。

 ルイは、木剣をそっと床に戻すと、音を立てないように部屋を出た。


 彼は、夜の闇に紛れて庭園を横切り、父の書斎へと続く裏口へと向かった。

 書斎のドアの下には、まだ微かな光が漏れている。

 父は、おそらくまだ書斎で仕事をしている。

 ルイは、静かに裏口のドアをノックした。

 

「入れ」

 

 父の低く、静かな声が響く。


 ルイはドアを開け、一歩踏み入れた。

 室内は重厚な家具と、古い紙とインクの匂いに満たされている。

 父は大きな机の前に座り、手に持つ書類からルイに視線を移した。


「何の用だ。ルイ」

 

 ルイは、背筋を伸ばし、一度も目を逸らさずに父を見つめた。

 

「父上。明日から、兄上と同じ稽古をつけてください」


 彼の声は、剣の稽古で喘いだ時のような荒さはなく、静かで、迷いがない。

 父は、書類を机に置き、初めて真正面からルイの瞳を見た。

 

「何を言う。お前とロイとでは、今、立っている場所が違う。お前には、基礎を固め直す必要がある」


「存じております」

 

 ルイは、一歩前に踏み出した。


「ですが、兄上と同じ場所を目指さなければ、俺はいつまで経っても、自分の中の迷いを断ち切ることはできません」

 

 それは、兄の言葉を借りた、ルイなりの決意だった。

 迷いがあるなら、それを力に変える。

 そして、その力で、自分を縛る『アルフェルト家のルイ』という重圧を、自らの誇りへと変えてみせる。


 父は、しばしの沈黙の後、小さく鼻を鳴らした。

 

「ふっ。生意気を言うようになったな」

 

 父の表情は変わらない。だが、その瞳の奥に、ほんの一瞬、剣士としての鋭い光が宿ったのを、ルイは見逃さなかった。

 

「よかろう。明日から、ロイと同じ内容で稽古をつけよう。だが、一度でも甘えを見せたら、その時は二度とお前に剣を持たせることはないと思え」


 ルイは深く一礼した。

 

「ありがとうございます、父上」

 

 彼は書斎を出ると、全身の血が熱くなっているのを感じた。

 父の言葉は、これまでのどの叱責よりも重い。

 

 ルイは、もう一度、庭の片隅に咲く白い花を思い出した。

 あれは、折れない花ではない。折れないために、まっすぐ上を向くことを選んだ花だ。

 彼は、服の袖で手のひらの乾いた土の跡を拭うと、翌朝の稽古に向けて、力強く歩き出した。


 

 ルイは、夜の書斎で父に決意を告げたことで、重い鎖を断ち切ったように感じていた。

 翌朝からの稽古は、想像を絶するものになるだろう。しかし、彼はもう、父や兄の期待から逃げるのではなく、自らその重圧を背負うことを選んだ。

 だが、心の奥底には、通用門の裏道で撥ねつけた焼菓子の甘い匂いが、静かな後悔として残り続けていた。

 その日の午前中、父の指示通り、ルイはロイと共に庭園の奥の稽古場に向かった。

 ロイとの模擬戦は、技術や力の差だけでなく、剣に対する心の姿勢の決定的な違いを見せつけた。

 ロイの剣は、昨日のルイの想像通り、静謐で淀みがなかった。水が石を避けて流れるように、ルイの隙を突き、力強い打撃をよける。


「ルイ。焦るな。父さんの前では力を込めることばかり考えていただろうが、剣は力を抜く場所を知ることの方が重要だ」


 ロイはそう言って、軽やかにルイの木剣を弾いた。ルイは、地面に膝をつき、荒い息を吐いた。身体は鉛のように重いが、心は妙に冷静だった。


 兄さんは……俺が、まだ父さんの前で格好つけようとしていたことまで見抜いている。

 

 父は、庭園の縁で腕を組み、二人の様子を黙って見ていた。

 父の視線は、もはや厳しい指導ではなく、ただ見届けるという信頼の重さを持っていた。その重さに、ルイは感謝すら覚えていた。

 

 昼食後、ルイは、父に命じられた通り、稽古で傷んだ木剣の手入れをするために納屋へ向かった。

 納屋の窓からは、通用門へと続く裏道が微かに見える。

 彼は、誰にも告げずにその通用門へ向かった。

 門の古びた木戸を開け、昨日と同じように裏道の湿った土に足を踏み出す。

 ルイは、町のざわめきと、昨日と同じように漂ってくる微かな焼き菓子の甘い匂いを嗅いだ。


「あの菓子屋は、ここからすぐそこにあるのか……」

 

 彼は、エリシアが向かったであろう方向へと、ふらふらと歩き出した。

 剣士としての威厳も、アルフェルト家の家名も、ここでは無意味だ。ただ、謝罪をしたい、という純粋な気持ちが彼を突き動かしていた。


 裏道を数メートル進んだところで、彼の足は止まった。

 道の突き当たりにある、小さな家の前。

 そこには、背の高い薬草と、干されたハーブの束が吊るされており、微かな薬草の匂いが漂っていた。

 そして、その家の前で、一人の少女が、熱心に地面に座り込んで何かをいじっていた。


 エリシアだった。


 彼女は昨日と同じ空色のワンピースを着て、編み込まれた金色の髪を揺らしながら、小さなスコップで土を掘っている。

 ルイは、思わず身を隠そうとした。昨日、優しさを突き放した自分が、何の顔をして彼女に話しかけられるだろうか。


 だが、隠れる間もなく、エリシアが顔を上げた。

 

「あら、剣士さん! また会ったわね」

 

 彼女の笑顔は、昨日とは違い、どこか警戒の色を帯びていた。それは、ルイが拒絶したことへの、当然の反応だった。

 

「お前……」

 

 ルイは言葉に詰まった。

 

「私、昨日のことで怒ってるのよ」

 

 エリシアは、スコップを置き、ムスッとした顔で言った。


「せっかく美味しそうなのを選んであげたのに、あんなにぶっきらぼうな言い方しなくてもいいじゃない。私は、ただ、あなたが辛そうだったから」


「すまない……」

 

 ルイは、生まれて初めて、他人に頭を下げた。

 アルフェルト家の人間として、謝罪は許されない行為だと思っていたが、それは何よりも自分自身の心を解放するために必要な行為だった。


「俺は、昨日は……その、稽古で頭に血が上っていて、上手く応対できなかった」

 

 エリシアは、その言葉に少しだけ表情を緩めた。

 

「ふうん。まあいいわ。それで、今日は何の用なの? また、いらないって言うんでしょ?」

 

「いや……そうじゃなくて。お前が、なんで俺なんかに優しさをくれたのか、知りたかった」


 エリシアは、ぽかんとした顔でルイを見つめた。


「なんでって……別に理由なんてないわよ。ただ、辛そうな人にはちょっとでも元気になってもらいたいでしょ? 困っている人がいたら助けるのは当然よ」


 その言葉は、ルイの心を貫いた。剣の道のように、厳しく冷たい論理ではなく、ただ純粋な人としての情。

 彼の世界にはなかった、シンプルな倫理だった。


 ルイは、エリシアが座り込んでいた場所を見た。彼女は、地面に小さな穴を掘り、何かを植えようとしている。


「それは、何を植えているんだ?」

 

「これ? 薬草の種よ。もう少し日当たりがいいところがいいんだけど、裏道は猫が来ないからここで育てようと思って」

 

 エリシアは、スコップを手に取り、再び土を掘り始めた。


「うちの庭園と違って、ここは土が固いな」

 

 ルイは、思わずそう呟いた。

 

「そうよ。だから大変なの。アルフェルト家の庭園って、あそこの門の向こうでしょ? あそこはいつも綺麗で、羨ましいわ」

 

 エリシアは、ルイがアルフェルト家の人間だと知っていたのだ。それでも、彼女は優しさを差し出した。


 ルイは、ふと、納屋で木剣の手入れに使う手入れ道具を思い出した。それには、庭師が使うような、土を柔らかくするための道具も含まれていたはずだ。

 

「少し待っていろ」


 ルイはそう言うと、踵を返し、通用門へと駆け戻った。彼の心には、兄との比較や、父の視線は一切なかった。

 ただ、一人の少年として、目の前の少女の助けになりたいという、シンプルな動機だけがあった。

 数分後、ルイは、土壌を耕すための小さな3つ又の鍬を手に戻ってきた。

 

「これを使え」

 

 彼は、それをエリシアの前に置いた。

 エリシアは、目を丸くしてそれを見つめた。

 

「もしかして、持ってきてくれたの?」

 

「ああ。納屋にあった。これを使えば、土は簡単に柔らかくなる。うちの庭園は、いつもこれで手入れしている」


 エリシアの顔に、昨日見た太陽のような笑顔が戻った。

 

「わあ! ありがとう、剣士さん! これならすぐ終わるわ!」

 

「剣士さんじゃなくて、ルイだ」

 

「ルイ……」

 

 エリシアは、その名を口の中で転がし、そして微笑んだ。

 

「じゃあ、ルイ。手伝ってくれる? 土の手入れの達人さん」


 ルイは、エリシアの屈託のない笑顔と、泥だらけの土を見つめた。

 彼は、剣を握るために生まれた厳格なアルフェルト家の人間だ。だが、剣も家名も関係ない、温かい別の世界があった。

 

「……ああ、わかった」

 

 ルイは、エリシアの隣に座り込み、鍬を握った。

 

 兄さんは、俺とは違う場所で闘っている。

 そして俺も、もう1つの場所を見つけたのかもしれない。


 エリシアと並んで土を掘りながら、ふと気づいた。

 今の自分にとって、彼女の指先から漂う薬草の清々しい香りが、乾いた心に深く、穏やかに染み渡っていることに。

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